この年の夏、母は病院から止められているにもかかわらず、いつものように父と軽井 沢に出かけて行きました。軽井沢では、自分で思ったようにからだが動かず、母はずつ と寝たきりのような生活を続けていました。軽井沢でも病院にかかったりしながら、よ うよう、東京に帰ってきた母は、九月、今度は東村山の多摩老人医療センターへ入院と いう事態になります。このとき、私はまたもやアメリカに行っておりました。主人の仕 事の関係で、この時期、アメリカと日本を行ったり来たりの落ち着かない生活を送って いたのです。肝心なときに日本にいない。そんなことが続きました。このため、清水さ んご夫妻には、ほんとうにご迷惑をかけていました。 母が入院したこの九月から、清水夫妻やお手伝いさんたち、そして私たちの、ほんと うの戦い ( ? ) が始まりました。というのも、からだの具合が悪くなっていくと同時に、 母の発病地獄の始まり
二度目は日本にいたときだったのですが、私自身、実家にあまり近寄りたくないとき に起こりました。その理由については、少々長いお話になりますが : 母の「まだらポケーの病状は、何も知らない他人には、まったく理解できなかったと 思います。話の内容がほんとうかどうかは別として、母の話にはおかしな点はなく、十 五分や二十分話したくらいでは、誰もポケているとは思えないからなのです。 たとえば、こんな話をするのです。 「三月三日の。ハ ーティで、直樹がとっても上手にス。ヒーチをしたのよ。とってもい ーテイだったわー ーテイもなければ、弟はス。ヒーチもしていない。 もちろん、母も出席はしていない。 々ないない尽くしなのですが、知らない人は本気にします。よくよく聞いてみれば、あり 羅得ないことでも、ほんとうつ。ほい話なので信じてしまうのです。きっと、悪気があって 修 言っているわけではないでしよう。でも、母の心の歪みが感じられるような話が多かっ 0 たように思います。 父 母は小説家の妻として、私たちのよき母として、懸命に務めてきました。いつも、き
あり方は、私たち夫婦にとっても、子どもたちにとっても、決して人ごとではないので す。娘は父母のポケ方の差を評して、「おじいちゃんはエンジェル、おばあちゃんはデ ビルーと、たとえます。母はそれを聞いて、「やーね。千晶ったら」と言いますが、ほ んとうの意味はわかっていないようです。 私たちが老後に、エンジェルとなるのもデビルとなるのも、また、仏となるのも修羅 となるのも、「ふだんのー暮らし方、心のあり方次第だと思うのです。それまで生きて きた心の軌跡や生きる姿勢というものがいかに大切かを、二人の対照的なポケ老人は私 たちに教えてくれました。ポケてしまえば、それまで自分を抑制していた理性のタガが 外れ、感情のコントロールもままならなくなってしまう。生まれつばなしのような裸の 自分が出てくるのです。つまり、本性が、自分の根底にある「ほんとうの自分」が頭を もたげてきます。これは考えてみれば、おそろしいことだと思いませんか。「ほんとう の自分」が素直でやさしく温かい人柄ならよいのですが、ねたみ、そねみ、ひがみだら 今けだったりしたら、それが包み隠さず出てきてしまうのですから大変です。もしも、み 母 A 」 っともないポケ老人になりたくないと願うなら、老人になるまでのこれからの人生を、 父 いかに心美しく暮らすかが大切なポイント。今のうちに「ほんとうの自分ーを見直し、 い 9
かりは、そばについて壇上に上がるわけに はいきません。私は父が何かへンなことで るも言おうものなら、ヘンなしぐさでもしょ 機うものなら、すぐさま飛び出していこうと、 で 食いいるように父の顔を見つめていました。 手 ところが、案じてカんでいた私が、とん 台 舞 と だ間抜けに見えるほど、父のス。ヒーチは見 る事なものでした。ほんとうによかった、有 : 。私は大役 拶終の美を飾ることができて : でを果たしたような気分で、胸をなでおろし へ ました。ただ、病気のことを公表していな の 龍 いために、何ごともなかったかのようにふ 第、 八るまわなくてはならなかったせいで、かな 静 第 り神経をすり減らしたものです。 退 このあと、ほんとうに微々たるものです
は間違いだったんたという「確信」が、だんだんと心の中に芽生えてきました。そして、 勝手に安堵していました。知らないうちに、父の病気のことを心の中から排除しようと していたのです。そんな四月のある日のこと、父が電話ロで、 「今日は東京は雪が降っているよ」 と言うのです。四月も半ば過ぎ。この時期、雪が降ることなど、あるわけがないのに やつばり、父はおかしくなっているのかもしれない。不安が胸をよぎりました。 ところが、これはほんとうの話だったのです。異常気象のために東京に雪が降っていた ことがわかって、とんだ思い違いにみんなで大笑いしたこともありました。 その年の七月、私たち一家は約一年のアメリカ生活を終えて待望の帰国。 日本に着くやいなや、父のもとに飛んで行きました。出迎えてくれた父はいつもの父 々です。何ひとっ変わったところはありません。健康そのもの。 ホケてなんかいないじゃない 「ほら、ごらんなさい。ちっともおかしくないじゃない。 : し 々の。父はそんなに簡単にポケたりしないわ」 病心の中でブップッとつぶやいていました。それまで、心の片隅にひっかかっていた心 発 ーツと消し飛び、弾むような気持ちでいつばいになりました。ほんとうに、 配の雲はパ
を迎えた年の央挙。ほんとうにうれしかったことでしよう。 しかし、ゴルフが急速に普及されていくのを喜びつつも、ゴルファーとして嘆くべき ことも起こるようになりました。同じく、田中さんの本に引用されている父の文。宇部 と下関に講演に出かけた父が、飛行機の上からゴルフ場を眺めた感想を書いています。 : あるゴルフ場は一つの山を頂上から削りとって、ゴルフ場をつくっていた。ゴ ルフ場は自然を破壊するといわれているが、これ以上ゴルフ場がひろがっては、ゴ ルファーの一人としても憂慮すべきであるという感想を抱いた。 ゴルフを愛するがゆえの憂慮。これは一九七四年に書かれたものだそうですが、父の この憂慮が今や各地で現実になっています。ほんとうに憂うべき事態が来ているのです。 ゴルファーなら、きっとどなたも心配していらっしやることでしよう。 「丹羽学校」は閉校したけれど、こんなにまでゴルフを愛した父ですから、ゴルフから 完全引退させるのはしのびない。できない。ずっとそう思ってきました。これこそ、な 今 かなか覚悟が決まりませんでしたが、昨年、長年会員でありました「軽井沢ゴルフクラ の とブ」もリタイアさせました。私自身、熟慮の上、心底納得してから脱退届を提出したの 父 ですが、どうしても悲しく、寂しく感じずにはいられませんでした。 157
うと、靴を全部自分の部屋に持っていって並べてみたり : 夜中に、びつくりするようなことをしでかす父にも、中山さんは平然としています。 疲れた頃を見計らって、一緒にお茶を飲んだり、おしゃべりしたりして、つき合ってく れるのです。そうすると、父もゆったりした気分になって落ち着いてきます。 「先生はとっても用心深い方で、手すりをちゃんと持って、ゆっくりと歩かれます。お ふろもトイレもすべてひとりでなさいますし、食事のとり方も以前とまったく変わりあ りません。スー。フの飲み方にしても、マナーにのっとって、それこそ、とってもお上品 でいらっしゃいます。桂子さんが介護リ 1 ダーのような存在で、しつかりといてくたさ 、私たちに適確な指示をくださるので、私たちも安心してお世話ができるのだと思い ますー この二人が来てくださるようになってから、父の態度が一変しました。いつも穏やか な表情で、ゆったりと生活ができるようになったのです。突然逆上して乱暴になる、な んてことも一度もありません。二人がいつも父に尊敬の念をもち、愛情と勇気をもって 喜んで介護してくださる姿を見て、私も今はほんとうに心から安心しておまかせしてい ます。父も私も、ほんとうにラッキーだったと思っています。もし、この二人に出会え
と私は理解していました。 しかし、母がホームに入ってくれてほんとうによかった。ホッとしました。勝気な性 格の母のこと。自分から言い出さない限り、人がすすめたからといってホームに入るよ うな人ではないからです。 このようにすったもんだの揚け句、老カップルそれそれが、おさまるべきところにお さまり、専門の先生方におまかせすることができて、これからの介護に一応の目鼻がっ いたのです。
今、父は、ほんとうに素直に何にでも感謝して暮らしています。「感謝教ーの教祖さ あだな まと、みんなで渾名するくらい、何に対しても感謝、感謝なのです。 お夕飯を出せば、「こんなごちそう、初めて食べた。おいしいねえ」と喜びますし、 作ってくれた人に対しては、「こんなおいしいもの、よく作ってくれた。ありがとう」 と感激しているのです。 「お茶をいれますと、『あー、おいしい』とおっしやる。それが、とっても丁寧で心の こもった言い方なんです。おひげをあたって差しあげると、『ありがとう。気持ちよか ったよ。床屋さんより上手だ』とほめてくださるんです」 と、猪岡さん。 「先生は逆に、 いつも私たちのことをとっても気遣ってくださるんですよ。『あんた、 常楽仏さまのようになった父 10 2
安寧穏やかな介護の日々 を考えると、ほんとうにかわいそうだった と思います。 軽井沢の父の書斎は、以前のままにして あるのですが、先日娘が見たいというので、 と久しぶりに部屋に入ってみました。長年使 るっている座り机。それと並んで、年とって くると足が痛くなるからと用意したテーブ をルと椅子。そして、机には書きかけの原稿 荘の束がクリップで止めて置いてありました。 の娘が父の原稿が欲しいというので、その原 井稿を外そうと思ったら、クリップが錆びて いたのです。原稿用紙の端についている、 クリップの錆の跡。それを見たときには思 わず胸が詰まりました。ああ、もう何年も、 この書斎は使われていなかったのだと思う