り、生み出す作品に重みやふくらみや柔らかさや強さ、やさしさや深遠さや機徴などを 自然にプラスしていくことができる。そして、それができてこそ、作家の作家たる所以 なのである : : : だからこそ、健康で書き続けることが大事なのである。父はそう考えて いたのではないでしようか。先立って逝った友人たちが生きていたら、どんな作品を書 いていたか、きっと読みたかったのだと思います。 不健康のために自らの生命を縮めるようなことがあっては、作家の才能が消失するば かりか、年を経るごとに積まれていくはずの人生が投影された、これからの作品は生ま れてはこないのです。これはひいては、日本の文壇、画壇の大損失になる。大変なこと です。父はヒシヒシと健康の必要性を感じ、作家のための健康保険組合の確立に力を注 いだのだと思います。こうして、文芸美術国民健康保険組合の初代理事長となり、その 役職を平成四年までの四十年以上も全うしてきたのでした。 娘ですから、父の健康保険番号は輝ける「 1 番。をいたたいています。 父また、父は文学者のためのお墓をつくるためにも貢献しています。昨年、訪ねて行っ とてみたのですが、かなり広いスペースの立派なお墓。静岡の富士霊園というところにあ 父 りました。このお墓は、有名無名を問わず、文学者のためのお墓として建立されたもの。 121
呂に入り、大喧嘩をして顔を真っ赤にして出てくるので、血圧の高い母のことを心配し たこともありました。私は個人的にはあまりべったりとした付き合いの仕方は好きでは ありませんが、この母娘の間柄だけは羨ましいと思いました。母も、自分のわがままを ありったけぶつけられる娘がいて幸せだと思います。 義母は、賢夫人と言われた人です。作家・丹羽文雄の妻として、二人の子供の母とし て、見事にその役割を果たしてきました。義母は、夫の作品を決して批評しなかった。 これは、たいへん立派なことだったと私は思います。また決して社交的ではなかった義 父のもとにたくさんの人たちが集まってくださったのは、義母の存在が大きいでしよう。 丹羽文雄の作家としての業績は、義母の貢献を抜きには語れないと思います。体調を崩 し、ポケが始まっているにもかかわらず、四日市から人がたずねてきた時などは、実に しつかりと務めていました。自分を律して、姿勢を正して : 。そんな義母の生き方は、 素晴らしいと思います。 この本には、義母の、普通は知られていない半面も出てきますが、老人の介護の問題 を理解していただくために、妻は敢えて書いたのでしよう。あるいは、すべてをありの ままに書いた作家の父親の血を受けついだのかもしれません。ある意味で妻の両親のこ 192
版社名が記されています。 さて、作家としての父は締切を守るので有名な人でした。よく、書くために湯河原の 温泉に行ったりはしていましたが、あまり缶詰にもならずに済んでいました。それが、 ある年、結婚してアメリカ生活を送っていた私が、初めての子ども路晴を抱いて日本に 帰ってきたときのこと。父にとっては初孫。もう、かわいくてかわいくて、小説を書く 気がしなくなるほど、メロメロになってしまったのです。一緒にいると書けない、 うことで、ホテルに缶詰になったことがありました。父はほんとうに溺愛してしまう人 なのです。 私の二人目の子ども、娘の千晶は、孫四人の中でも、上三人とは年が離れて、いちば ん下ということもあり、父にもっとも愛された孫になりました。千晶のことを父は「私 の小さな奥さんーと呼んではばかりませんでしたし、私たちは「おじいさんの恋人ーと ーテ 呼んでいました。生まれた時から、千晶をおふろに入れるのが父の日課となり、 イなどに出ていても、おふろの時間には、そそくさと帰ってくるようになっていました。 リに住むことになりました。このとき、空 千晶が六歳になったとき、私たち一家はパ 0 、 124
話。健康あってこそのことです。 病気で亡くなったわけではありませんが、太宰治さんについて、こんなふうに書いて います。 ・ : 太宰治は若くして死んだ。いま生きていたら、私に近い年齢である。私に近い 年齢の太宰治が果たしてどんな小説を書いていたであろうか。そう考えることには、 興味がある。 私もそう思います。また、こんなことも書いています。 : 昭和十年代作家というジャンルがある。そのころに前後して文壇に出た作家の ことをいうのだが、今日ではその大半が死亡している。亀井勝一郎、高見順、伊藤 整、舟橋聖一、中山義秀等である。スポーツはやらず、酒ばかりくらっていた。舟 橋君は飲まなかったが。私もスポーツはやらず、お酒をのむより他にしようのない 生活を送っていたならば、かれらの仲間入りをしていたであろう。 ( 『ゴルフ・丹羽 式上達法』講談社 ) 健康は自分の手でまもるしかない。それを作家も自覚すべきである。 作家にしろ画家にしろ、創作者という人種は、年齢を重ねることによって境涯が深ま 120
を書きました。ただし、アメリカで教育を受けたものですから、文章は英語。それを訳 してもらって、父にプレゼントしています。父がまだポケていないときですから、大切 に引き出しにしまっていました。父は、おかしくなるほんの少し前に、娘の千晶に手紙 を書いてくれました。短い手紙ですが、「僕の小さな奥さんーにあてた手紙です。孫を 思いやる気持ちにあふれた文章でした。それが千晶にとっては、なによりの慰めになっ ています。 今から十九年前、七十三歳のときに書いた文章に、こんなのがあります。 ・ : 九十に近い画家が、ますます画境を深めているのを見ると、うらやましいと思 。九十年といえば、まだ私にはあと約二十年近くもある。その二十年間、小説家 はいったいどう仕事をつづけたらよいのかと、絶望を感じる。 ( 『をりふしの風景』 ) けまた、こうも書いています。 向 : 和田芳恵には、書きたいことがまだ残っていた。谷崎潤一郎が生きていたなら 焉 終 ば、まだ書いていたかも知れない。健康上の理由やその他の事情で、小説が書けな る い作家も多いであろうが、肉体的にも困らないひとで、筆を折った作家は何人もい 静 る。総して作家の生命は短いというのが、常識であろうか。そうした作家の中で、 175
でも、形として今も残っているのが、一九五三年、文芸美術国民健康保険組合を設立し たことです。 それまで、作家といえば不健康のかたまりのような生活をしていました。夜は執筆で 徹夜。少し時間があれば、お酒。父はお酒はあまりたしなみませんでしたが、夜のおっ き合いは欠かすことのできない行事のようなものでした。ゴルフを始めるまでは仕事は やはり夜型でしたから、徹夜もしよっちゅうのことでした。ですから、作家の仕事とい うのはそんなものだと家族も了解していました。ほとんどの作家の方が、およそ健康と は縁のない生活をしていたのではないでしようか。書けないで眠れなくなる方もいると 聞きます。そのため、睡眠薬を飲むという人が大勢いると、父も驚いていたことがあり ました。 よく三十代には三十代にしか、四十代には四十代にしか書けない小説があると言いま 娘す。父は、「これにも一理あるが、小説というのはどんな世代の人にも理解されなけれ AJ 父ばならない。したがって、年齢というのはあまり意味がない。要は二十代で書いた自分 との小説を、後年、六十代になった自分が読んでみて恥ずかしくないものを書くことが望 父 ましい」というような考えであったようです。しかし、これも長生きして初めて言える 119
かたまりのようだった」と、書いていたのには驚きましたが : 翌年、母は腸にガンが発見され、摘出手術。 この母の病気をとおし、わが家の「文学的」な行事がガラリと様変わりしました。 それまで、わが家では週に一回、「面会日ーと名づけられた日がありました。毎週月 曜日に、文学を志す人たちの集まりを父が主催していたのです。世間では「丹羽部屋ー などと、呼ばれていたようですが、多いときには二十人ほどの方がみえていました。こ の会には、おしどり作家として名高い吉村昭さんと津村節子さんご夫妻が、学生の頃か らいらしてましたし、出家なさる前の瀬戸内寂聴さんもいらしていました。 この日は夜まで盛り上がるので、母は毎回、いそいそと皆さんのためにタ食のしたく まをしていました。みなさんの喜んでくださる顔が楽しみで、実にうれしそうに腕をふる 獄っていたものです。 地 父が主宰する月刊雑誌『文学者』は、作家志望で、いかほど才能があっても、なかな 病 のか機会に恵まれない後進のために、道を開こうという熱意から生まれたものでした。当 母 初は何人かの作家の方々と持ちまわりの形で進めていくつもりのようでしたが、いつの
引退静かなる収東へ そう、また問題のスビーチです。 この会のゴルフ自体は、作家の故沢野久雄さんや古山高麗雄さんらと一緒に回りまし ついて行きました。父 た。私はもちろん自分はプレーしないで、父の手足となるべく、 は意識はしつかりしていて、いつもとまったく変わりないスイング。お二人には父の病 気のことはまったくわからなかったと見えて、大変楽しそうにプレーをしていらっしゃ いました。 この日、父はス。ヒーチも「さすが」と思わせる出来で、最後はみんなを笑わせて終わ りました。私はこれで、また一つ、肩の荷がおりた気がしました。
父・丹羽 介護の日ミ・、 父・丹羽文雄介護の日々丿。本田桂子 本田桂子 9 7 8 41 2 0 0 2 6 9 6 6 IIIIIIII ⅢⅢⅧ刪 II 1 9 2 0 0 9 5 01 2 0 0 1 本田桂子ほんだけいこ 料理研究家。作家・丹羽文雄氏の長女 結婚後、アメリカ各地に年、バリに 5 年の 海外生活を過ごす。現在は、月 1 回自宅で 料理サロンを開き、ユニークな料理を教えている I S B N 4 ー 1 2 ー 0 0 2 6 9 6 ー 5 C 0 0 9 5 \ 1 2 0 0 E 定価ー 中央公論新社
学校ーは、不健康な文士たちの健康増進に もひと役買っていたのではないかと思いま す。現に、父はゴルフを始めてから徹夜を をしなくなりましたし、作家の方々の中にも、 一健康に関心を持っ方が増えたようです。 以前は文壇ゴルフも盛んで、新聞社主催、 一後雑誌社主催でゴルフ大会が開かれていまし た。講談社も野間省一さんの提案で、年に の二回、一〇〇人もの人を集めてゴルフ大会 が開かれていたのです。父はこの会を一度 のも欠席したことがないほどの常連でした。 了」引そして、この会の最後は、「おこがましく 一を談も」 ( 父が何かにそう書いていました ) 、父 のス。ヒーチでしめくくるのが、ならわしに なっていたのです。