物理的にも精神的にも大変なことでした。書き進むうちに、追体験をしているようで、 心穏やかではいられなくなったこともありました。頭の中が混乱して、何をどう書いて しいのやら、わからなくなったこともありました。そんな私を励ましながら指導してく ださった渡辺紀子さんに、むよりお礼申し上げます。ありがとうございました。 このお話をいちばん初めに持ってぎてくださった『婦人公論』編集部の西角ますみさ ん、本書の出版にあたり、お世話になった書籍編集局の小野地英忠さんにも心より感謝 申し上げます。 また、私が父母の介護にこのように前向きに取り組んでこられたのは、ひとえに主人 と息子、娘のおかげです。特に主人は、本文末にも「付記」として一文を寄せてくれま したが、、 とんな時にも協力を惜します私を支えてくれました。家族の理解や応援は、介 護する者にとって何よりの力。言葉に尽くせないほどの感謝の気持ちでいつばいです。 未だに、両親のことは、そっとしておいたほうがよかったかしら、と思うこともあり ます。しかし、かって親の介護をなさった方、また、今なさっている数人の友だちが、 『婦人公論』のあの記事を読んで涙が出た、と言ってくたさったことが励みになりまし た。やはり、書いてよかったんだと思っています。 みちこ 196
さった : : : 。僕のイメージの中には、そんな先生しかないんですよ。だから、ただただ そう思うと辛かった。桂子ちゃんは小さいときから知っ 驚きでした。あの先生が : ているものだから、『桂子ちゃん』なんて言ってますけど、あの頃、先生の病気につい て話したり相談できたのは、桂子ちゃんしかいませんでした。極秘事項だったんですか ら。『婦人公論』に桂子ちゃんが発表するまでは、友達にも話しませんでした。ですか ら『婦人公論』が出たとき、記事を読んだ会社の人から『大変だったな』と言われたり もしました そうなんです。人に隠していることの苦しさったら、ありませんでした。この頃は、 清水さんと二人で、周りに障壁をはりめぐらし、決して父の病気のことがもれないよう、 必死でくい止めているような時期でした。 私は父がどこに行くのにも、くつついて行きました。外では片時も目を離さずに、父 のことを見まもりました。一見ごく正常。でも、ときどきへンなところが出てくる。そ れがいつ出てくるかわからないのですから、厄介きわまりない。私から見ると「おや つじつま と思うことがときどきあるのですが、他の方はまったく気がっかれない。辻褄が合わな いようなことがあってはと、私はハラハラのしどおしでした。人がどう見ているかなど、
フ。ロローグ 人はある日突然、神さまから思いもかけない機会を与えられることがあるものです。 くら小説 「習わぬ経」など、まったくよむことのできなかった「門前の小僧ーの私。い 家の娘だからといっても、今まで文章など書いたことは一度もありませんでした。その 私が、アルツ ( イマーになった父・丹羽文雄の介護経験を、『婦人公論』 ( 一九九六年九 月号 ) に発表する、という機会をいただいてしまったのです。日頃、何かを書こうと思 って介護にあたっているわけではありませんから、記憶もいい加減。強烈な体験は覚え ているのですが、日時などはあやふやなことばかり。父のお弟子さんの一人、清水邦行 さんがとってくださっていたメモを頼りに悪戦苦闘の末、なんとかまとめたものでした。 この手記を書くようにすすめてくださったのが、瀬戸内寂聴さんでした。 一昨年の秋だったでしようか。ニ = ーヨークの大学で勉強している娘が、久しぶりに プロローグ
1 = ロ 妻が昨年、『婦人公論』九月号に「仏様に似てきた歳の父・丹羽文雄ーという手記 を発表して以来、私たち同年代、即ち還暦を過ぎた者同士が集まると、親の介護の問題 がよく話されるようになりました。その中でいちばん羨ましがられるのが、皮肉なこと に若い時に親を亡くされた方だったりします。「それがいちばんの子孝行だよーの言葉 が実感として迫ってくるほど、多くの方々が親の世話、面倒を見ることで精神的にも、 肉体的にも、また経済的にも、圧迫を受けておられることがわかります。 数年前 "Care さ、、 e というアメリカで発行された小冊子を読んだことがあ ります。 caretaker は世話をする人・介護者のことです。介護者のためのケアの大切 さを訴えた本でした。老人介護についての本は多数出版されていますが、介護する側の 付記 189
フ。ロローク・ 私も似たような悩みを抱えている、などなど。改めて、丹羽文雄って偉い人だったんだ と思った次第です。 友人の一人は、旅行から帰ってきてすぐに電話をくれました。 「東京駅のキョスクにぶら下がっている『婦人公論』の宣伝文に『丹羽文雄』と赤字で 書いてあったから、最初は亡くなったのかと思ったわよ。そしたら『本田桂子』と横に 書いてあったから、二度ビックリ その友人にも、父の病状について、詳しくは話していませんでした。 そして、今度は「本ーです。父が元気だったら、何て言うでしよう。 一冊にまとめるにあたって、私は正直にすべてを書いてみることにしました。いたす らに隠しごとはしない。ありのままをぶつけてみよう。そう思って、ペンをとりました。 この本の内容はフィクションではありません。そして、これはわが家だけの問題ではな いと思います。今日も、どこかのお宅で、同じようなことが起こっているに違いないと 思いつつ : 作家・丹羽文雄は、娘の私にとって、「父」という、かけがえのない存在であると同
月一度の割合で通うことになりました。多摩老人医療センターは東村山市にあって、父 のいる武蔵野市からは板橋に行くよりすいぶん近くなったのです。 この頃、父はときどき、朝起きてこないことがあったそうです。起こされて不機嫌に なり、珍しく怒りつ。ほくなったりもしたとか。私は主人や子どもたちと共に別に住んで おり、一緒に寝起きしているわけではありませんので、このときは知りませんでしたが、 医療センターで投薬を受け始めています。アルッハイマーの加療の一環でもあったので しようか、不機嫌な精神状態を抑えるための薬でした。すでに鬱の方向に進み始めてい たのかもしれません。 清水さんによると、 「前立腺手術のことを描いた『蘇生の朝』という作品にかかっているときです。仕事中 々ですから、僕は先生が機嫌が悪いのはあたりまえだと思っていました」 父の原稿の清書は清水さんがやってくれていました。多少、文章のダブリが多いかな、 し 々とは感じていたけれど、まだこのときは、父に「異常」はあまり感じてはいなかったと 病清水さんは振り返られています。しかし、徴候はあったのです。 発 八十歳のときから、父は『中央公論文芸特集』に「一向一揆の戦いーを連載していま
本田桂子 父・丹羽文雄 介護の日々 中央公論籵
父・丹羽 介護の日ミ・、 父・丹羽文雄介護の日々丿。本田桂子 本田桂子 9 7 8 41 2 0 0 2 6 9 6 6 IIIIIIII ⅢⅢⅧ刪 II 1 9 2 0 0 9 5 01 2 0 0 1 本田桂子ほんだけいこ 料理研究家。作家・丹羽文雄氏の長女 結婚後、アメリカ各地に年、バリに 5 年の 海外生活を過ごす。現在は、月 1 回自宅で 料理サロンを開き、ユニークな料理を教えている I S B N 4 ー 1 2 ー 0 0 2 6 9 6 ー 5 C 0 0 9 5 \ 1 2 0 0 E 定価ー 中央公論新社
救急車で運ばれるときに、「丹羽さん」と呼ばれすに、「おばあさん」と呼ばれたことに、 本気で腹を立てていたほどです。 しかし、この入院は、気丈な母がさらなる「老い」に向かって前進する大きな一歩に なりました。 この年の春、父のほうは、前年の前立腺手術のときのことを綴った「蘇生の朝」を 『中央公論文芸特集』春季号に発表。しかし、この小品、決してスラスラと書き上けた ものではありませんでした。清水さんに聞いてみると、書き始めたときはまだよかった けれど、途中から大分乱れてきたそうなのです。構想はきちんとできていたようで、途 中までは書けていて、最後の部分も書けているのに、どうしても間がつながらないよう へな状態だったそうです。それを、清水さんが苦労してまとめてくださった賜物だったの 収 る これが、小説家としての父の最後の作品になりました。 静 退このときも、こんなことがありました。 「蘇生の朝」が掲載されている雑誌に、父は一冊ずつサインをして、お弟子さんたちに
ひび ちち にわふみおかいご 父・丹羽文雄介護の日々 一九九七年六月七日初版発行 一九九七年九月三〇日九版発行 ほんだけい 著者本田桂子 発行者笠松巌 印刷三晃印刷 ー・扉印刷大熊整美堂 製本小泉製本 発行所中央公論社 〒東京都中央区京橋二ー八ー七 電話販売部〇三ー三五六三ー一四三一 編集部〇三ー三五六三ー三六六六 振替〇〇一二〇ー四ー三四 ◎一九九七検印廃止 Printed in Japan ISBN4 ー 12 ー 002696 ー 5 C0095 ◇定価は力。ハーに表示してあります。 ◇落丁本・乱丁本はお手数ですが、小社 販売部宛お送り下さい。送料小社負担に てお取り替えいたします。