いちばん大切にしていたフランス人形を乗せたのです。お人形の洋服に火がついて、メ ラメラと燃えたのを忘れることができません。私は悔しくて悔しくて、猛然と勉強をし て、級長になりました。そのあと、三年生で疎開をして、そこでも級長をしていました。 これに味をしめた父は、弟が勉強ができないときに、弟にも同じようなことをしまし そしたら、弟は「お父さん、ここにもあるよ」と、 た。おもちやを全部庭に出して : おもちやを持ってきたのです。まるで、笑い話のようですが、弟はそういう性格でした。 父はガックリきて、二度と同じ手は使いませんでした。 また、弟は高校のときに、ラグビー部に入部したものの、練習がきついと言って、五 日ぐらいでやめたことがありました。先輩部員たちは、根性のない弟を呼びつけて、 「やつつけようぜーと盛り上がっていたそうです。ところが、誰かが「あいつ、丹羽の 弟だって」と言った途端、計画は中止。みんな、私を怒らせるとこわいと思っていたの 娘です。同じ姉弟でも、性格がこんなに違っていたのです。 父 父は私たち姉弟の違いをこんなふうに綴っています。 母 A 」 ・「同じひとつのはらから生れながら、どうしてこうも二人の子の性格がちがう 父 んですか。信じられません [ 1 1 5
まかせているのですが、ご飯ができると誰かが呼びに行って一緒に食事をしていました。 来ないときは、弟の分をわざわざ届けさせていたほどです。弟がいないときでも、でき たおかずが弟の好物だったりすると、「これは直樹の好物だから」と、他の人の分も全 部持たせてしまうのです。自分たちの食べる分まで、とられてしまうのですから、母の この行為は、お手伝いさんからはとても嫌がられていました。 「でも」と、ミセス清水は言います。 「奥さまは先生が具合が悪くなられてから、直樹さんに賭けていらっしやったのよ 悲しいまでの母の気持ち。息苦しいほどです。 今、弟はごくふつうの生活をしていますが、ときどき調子が悪くなり、ゴルフに行っ ても、真剣にプレーしなくなったり、スコアも気にしなくなりました。弟の人生を思う とき、複雑な思いにとらわれます。結局は親の犠牲になったのではないか、などと考え て、夜眠れなくなることもたびたびでした。 弟という長男がいながら、なぜ嫁に出た私が、主人への迷惑も省みず、無理を承知で 両親の面倒を見なくてはならなかったのか。それには、こんな深い訳があったのです。 リ 8
おかげで、私は自立せざるを得なかった。大人にならざるを得なかった。そのうち、子 どもも生まれ、私にとって、ほんとうの意味での「家」ができていきました。 もし、あのままずっと日本にいたら、鼻持ちならない奥さんになっていたことでしょ みくだりはん 。いかに寛大な主人といえども、三行半をつきつけていたに違いありません。こうし て私はやっと母離れ、親離れができたわけですが、何でも支配したがる母にとってみれ ば、自立してしまった娘に用はありません。ちょうど、弟が結婚することもあって、母 はだんだんと弟のほうにのめり込んでいきました。 弟は小さい頃から、やさし過ぎるほど、やさしい子でした。だから、学校では私が保 護者となり、家庭では母が強力な保護者となってをハーしていました。父の存在も、弟 にとっては乗り越えることのできない大きなプレッシャーだったかもしれません。専制 子 君主制のごとく、父の言うことには、すべて「はい」の家風でしたから。 自 母唯一、弟が父に反発できたのは「結婚」のとぎでした。私たちがアメリカで暮らして 娘 といるときに、弟が留学。ウチにも、よく遊びに来ていたのですが、同じア。ハートに、母 母 国東ドイツを逃れて、アメリカに渡った母と娘二人がいました。この姉妹の姉のほう、 1 ろ 1
んあまり顔を出しませんから、認識することができないのです。父にとっては、ただの 見慣れない男としか思えない。しかも、二人とも父の大嫌いな眼鏡をかけている。父に とっては、最悪です。弟も甥もあまりしゃべらないし、父も無ロです。だから、三人で、 お雑煮を前にして、黙ってにらみ合ってしまったのでした。このあと、父は五時間ぐら 、ずっと不機嫌だったそうです。 今は、そんな話も落ち着いて聞けるだけの余裕ができました。 母も最近のようすを見ていると、ずいぶんとやさしくなりました。これはポケが進ん でいるのではないかと思います。 先日、主人は弟の子どもたち ( 私の甥と姪 ) をよんで、父と母の「もしものときーの け打ち合わせをしました。弟のところが丹羽の直系になるわけですから、本来は弟とする 向 べき話なのですが、何分、弟が病気のため、子どもたちに話をしておくことにしたので 焉 る いっその日がきてもおかしく ここまで、父の場合は十年以上、母にしても十年近く 静 ないような状況を抱えて暮らしてきました。この長い年月の間に、フアザコン娘の私に 179
すから、弟もかなり息苦しく感じていたようです。私たちは仲のよい姉弟でしたから、 弟はときどき、私のところに来て、不満をもらしていました。 生活費のすべてを実家からもらっていて、何不自由のない暮らし。家のローンも親が かり。別荘も買ってくれてローンは親がかり。ゴルフ場の会員権は三つも母が与えてく れて、車は毎年、母が買い替えてくれる。子どもたちも丹羽の両親が一生懸命かわいが ってくれて、学費もすべて父が負担。親子ともども親がかり。そして、それがいつの間 にか、あたりまえのことになっている。この一家の生活のリズムの中のどこに弟の存在 が必要なのでしようか。自分はいなくても、十分にやっていけるのです。このあたりか ら、弟の歯車が少しずつ噛み合わなくなってきます。もはや、逃げ場がなくなってきた 弟は、お酒に逃げるようになっていきました。 父が年をとり、だんだんと書けなくなってきた頃に、それまで何十年か続けてきた、 子 べアテのデパ トでの買物をやめてもらうことにしました。父の収入は下降線をたどっ 息 母ていく一方でしたから、丹羽家の収入と支出のバランスがくずれてきたのです。今まで、 と二軒分の生活費を父の収入で賄っていたのですが、父の収入が減ることによって、バラ 母 ンスがくずれてしまったのです。決断は私が下しました。母もべアテも、一生こんなこ 1 ろろ
今年のお正月、私たちは山中湖に行って いたのですが、その間に、弟と甥が年頭の 子挨拶に来たのだそうです。昼の担当の猪岡 自 さんが正月休みで不在。慣れていないお手 子 伝いさんがいてくれたのですが、山荘に電 由 話がかかってきました。 る妻 の「奥さま、先生が大変です。どうしましょ 自 人 お手伝いさんが言うには、父と弟と甥が 主 ら 三人でにらみ合っているとのこと。これに 左 は、笑ってしまいました。夜の担当の中山 む 囲さんが早く出てきてくれたので、問題は起 母こりませんでしたが、今の父にとっては、 近 弟も甥も見知らぬ男であるわけです。この 最 ことをいくら説明しても、弟も甥も、ふだ 178
た。誰一人、気づかないうちに : 原因がお酒の飲み過ぎかどうかははっきりしませんが、弟はガンにおかされてしまっ たのです。結局、胃の四分の三を摘出するほどの手術を受けることになりました。その ことを、医者は、まず私に知らせてきました。 「もしかすると、後、六カ月の命です」 , ンマーで後頭部を殴られたようなショックでした。 こう言われたときは、、 医者は、妻のべアテに告げると、本人に話してしまうのではないかと危惧し、それで 姉の私に電話したのです。当時の日本ではガンは告知しないのが普通でしたから、アメ と気を遣ったのでしよう。私は、甥と リカ育ちのべアテより、私に話したほうが : 矢りません。 姪を呼んで事情を説明しました。彼らが母親に真実を伝えたかどうかは、ロ ただ、弟には病名を知らせないようにしていました。入院の前、励ましの挨拶をすると 後、六カ月だなんて、どうしても信じた き、私は思わず弟に抱きついてしまいました。 / くありませんでした。 しいほどの大成功。余命六カ月といった心配は、杞憂に 幸い、手術は完全といっても、 終わりました。しかしながら、弟の気力、体力は、めつきり衰えてしまいました。もち 1 ろ 6
と思うくらいでし ろんお酒は飲まなくなりましたが、元気で飲んでくれたほうがよい、 た。やはり自分の病のことをいろいろと考え、思い悩んだのでしようか、精神的にも痛 手を受けている様子が、痛々しいほどでした。そんな弟をなんとかしようと思い、私は 父母がお世話になって懇意にしている多摩老人医療センターへ、弟を連れていきました。 老人センターですから、六十五歳以上でないと診てくれないところを、無理やり頼みこ んで、診察していただいたのです。 この時期、べアテはアメリカの母親の看病で不在でしたので、父と母の診療日に弟を 連れて、私は老人医療センターに行きました。 / 待合室で三人が並んで待っているのを見 ていると、涙が出てきてしまいました。三人とも正常であれば、「こんなの、おかしいー と思う状況です。親子四人のうち三人までもが、それそれの病気を抱えて診察を待って いる。しかも三人が三人とも、互いにおかしいとも思わないわけです。私は見ていて、 ぼ「どうしてこうなるのか、と、深く大きなため息をつき、やがて、出口の見つからない A 」 母悲しみに落ち込んでいくのでした。 と母は「まだらポケーになってからも、ホームに入るまで、機会あるたびに弟夫婦を食 母 事に呼んでいました。その頃は母も調子がよくありませんから、お手伝いさんに料理を リ 7
妻はよく私にそういっこ。 幼い子供をたしなめるために、妻はときどき押入に入れる方法をとった。娘を抱 えて、はなれの押入に入れようとすると、弟が泣いて母の腰にしがみついて、 「お姉ちゃんを入れないで」と、叫んだ。 が、弟が叱られる時、 「押入に入れますよ」 弟が抱えあげられると、娘ははなれに走っていって、押入を開けて待ちかまえて いた。 ( 「夜のおどろき」 ) 戦時中、疎開していたのは、宇都宮から支線に乗って着いた小さな駅から、歩いて二 時間ぐらい奥の村でした。電気もなければガスもきていない田舎です。父は従軍記者で 「海戦。という作品を書いていましたが、昭和十九年の疎開当時は、収入がゼロでした。 だから、母が持って行った着物は全部、飢えをしのぐための食料に換えたそうです。着 物だけではたりなくて、私たちの小さくなった。 ( ジャマなども放出されていたらしく、 それが寝間着だと知らない村の子どもたちが、洋服だと思って。ハジャマを着て学校に来 ていました。学校は分校で、生徒は全部で一〇〇人ぐらいだったでしようか。その村は、 114
べアテと弟が仲良くなり、結婚したいと日本の両親に話したら、もちろん大反対。父は 「勘当だ」とまで言う騒ぎになりました。国際結婚というのはむずかしいものだという のが、通説でしたから。 しかし、結局、押し切って結婚。日本に連れて帰ってきました。絶対反対だった母も、 子どものときに余儀なく国を離れ、生き延びてきたべアテの心情にいたく同情したよう で、彼女の思いどおりの生活をさせてあげたいと、できるだけのことをしていました。 での買物をッケで支払えるように手配 なかでも、母の最大の「心尽くしーは、デパート したことです。父の全盛の頃でもありましたから、母は驚くほど太っ腹でした。そして、 弟たちには、愛情もお金も惜しみなく注ぎ続けました。 しかし、いまから考えると、母は子どもの世話をしているとか、面倒を見ているとい うことでしか、自分が生きているという実感をもてなかったのではないでしようか。私 たち夫婦が経済的な援助をいっさい必要としなくなったとき、母は、安心するというよ り、むしろ辛くあたってきたようにさえ思います。愛情という名のもとに、子どもにも のを与え、支配するという関係を、自分ではさほど悪いこととは思わなかったのでしょ 。経済的援助を通して、成人した弟を、幼いときと同じように支配しようとしたので 1 ろ 2