墓碑にはこんなふうに書かれています。 日本に生まれ、日本の文学に貢献せる人々の霊を祀る この文学碑の建設にあたり 日本文藝家協会会員の醵金を 基にして左の各社の好意に 依るものであることを記して 永く日本文壇史にとどめる 一九八六年一一月六日 そして、そのあとに、 日本文藝家協会 会長丹羽文雄 このお墓をつくるにあたって力を貸してくださった十二社の出 122
日本に帰ってきていました。私たち夫婦には、子どもが二人いるのですが、二人とも、 在外生活中に生まれたため、アメリカで、あるいはスイスで教育を受けさせました。息 子のほうは、すでに結婚。一女を授かっています。娘のほうは長男とは九つ離れている ため、まだのびのびと学生生活を送っていたのです。 せつかく、日本にいるのだから日本の秋を満契しましよう、とリフレッシュも兼ねて、 ちあき 娘の千晶を京都旅行に誘いました。京都に行ったときには、いつも瀬戸内さんの寂庵に 伺うようにしています。瀬戸内さんが、まだ晴美と名のっていらした頃、父のところに ちよくちよく顔を出してくださっていて、よく存じ上げているのです。 紅葉の美しい寂庵で、久々に寂聴さんとゆっくりとお話をいたしました。寂聴さんに してみれば、父の近況がいちばんお聞きになりたいところだったでしよう。私は包みか くさず、ありのままをお話ししました。そして、以前よく母の手料理も召し上がってく ださいましたので、母のこともすべてお話しました。寂聴さんは、父母の病気のことを 聞かれて、大変驚いていらっしゃいましたが、私があまりにケラケラと笑いながら、明 るく介護のようすを話すので、 「桂子さん、そんなに楽しそうに老人介護している人なんていませんよ。ぜひ、手記を
父がアルッハイマーを発病したのは、今から十一年前の一九八六年のこと。ちょうど 八十一歳のときでした。 私たち一家は、主人の仕事の関係で、何度目かのアメリカでの生活を送っていました。 ちょうど、主人が所用で日本に一時帰国しているときのことです。ある日、主人が日 本から電話をかけてきました。 「お父さんが普通じゃないから、君、日本に帰ってきてショックを受けないように」 一瞬、何のことかと思いました。 「おかしいって、どういうこと。何がどうおかしいの」 私はそう言いながら、主人の言葉を「うそーとしか受けとめられませんでした。父が おかしいだなんて : 。すぐにでも、飛んで行ってようすを見たい。でも、それも叶わ 発病悶々とした日々
この年の夏、母は病院から止められているにもかかわらず、いつものように父と軽井 沢に出かけて行きました。軽井沢では、自分で思ったようにからだが動かず、母はずつ と寝たきりのような生活を続けていました。軽井沢でも病院にかかったりしながら、よ うよう、東京に帰ってきた母は、九月、今度は東村山の多摩老人医療センターへ入院と いう事態になります。このとき、私はまたもやアメリカに行っておりました。主人の仕 事の関係で、この時期、アメリカと日本を行ったり来たりの落ち着かない生活を送って いたのです。肝心なときに日本にいない。そんなことが続きました。このため、清水さ んご夫妻には、ほんとうにご迷惑をかけていました。 母が入院したこの九月から、清水夫妻やお手伝いさんたち、そして私たちの、ほんと うの戦い ( ? ) が始まりました。というのも、からだの具合が悪くなっていくと同時に、 母の発病地獄の始まり
私が代読しました。悲しいかな、父はもう文章が書けないため、この謝辞は清水さんが 書いてくださったもの。四日市の名誉市民に次いで、武蔵野市からも名誉市民の栄誉を いただいたことに、私は感謝で胸がいつばいでした。 本年二月、その四日市では、「丹羽文雄生誕地」の碑を建ててくださいました。記念 館のお話も進んでいます。もし、父の意識が突然正常に戻って、このことを知ったら、 目を丸くするのではないでしようか。 父が九十歳のとき、日本芸術院からこんなお話をいただきました。 「会員の記録をビデオフィルムに残し、永久保存することになりました。ついては、ご 高齢の方から順に撮影を開始したいと思っております。丹羽文雄先生は、会員の中で最 高齢ではありませんが、日本芸術院にとっては大功労者。ぜひ撮影をお願いできないで しようか」 ありがたいお話ですし、父が健康であれば一も二もなく、お受けするのですが : 父は肉体的にはとても健康ですし、しゃべらなければ、おかしなことはありません。し かし、自分が作家であることも忘れるほどのポケ具合ですから、ずいぶん躊躇しました。 148
べアテと弟が仲良くなり、結婚したいと日本の両親に話したら、もちろん大反対。父は 「勘当だ」とまで言う騒ぎになりました。国際結婚というのはむずかしいものだという のが、通説でしたから。 しかし、結局、押し切って結婚。日本に連れて帰ってきました。絶対反対だった母も、 子どものときに余儀なく国を離れ、生き延びてきたべアテの心情にいたく同情したよう で、彼女の思いどおりの生活をさせてあげたいと、できるだけのことをしていました。 での買物をッケで支払えるように手配 なかでも、母の最大の「心尽くしーは、デパート したことです。父の全盛の頃でもありましたから、母は驚くほど太っ腹でした。そして、 弟たちには、愛情もお金も惜しみなく注ぎ続けました。 しかし、いまから考えると、母は子どもの世話をしているとか、面倒を見ているとい うことでしか、自分が生きているという実感をもてなかったのではないでしようか。私 たち夫婦が経済的な援助をいっさい必要としなくなったとき、母は、安心するというよ り、むしろ辛くあたってきたようにさえ思います。愛情という名のもとに、子どもにも のを与え、支配するという関係を、自分ではさほど悪いこととは思わなかったのでしょ 。経済的援助を通して、成人した弟を、幼いときと同じように支配しようとしたので 1 ろ 2
いつも私は日本にいないのです。 ってくれました。なぜか、こういう肝心なときに、 「九月二日、奥さんと一緒に当時の院長の豊倉康夫先生の診察を受けました。いろいろ と検査をしていただいた結果、『フィジカルな面では問題はありません。ただ、メンタ ルな部分の老化が始まっています。どうもアルツ ( イマーの初期のようであります。こ れを治すお薬はありません。特にお薬は出しませんが、ご家族の方は気をつけて見てあ けてください』、というような話で帰ってきたのです」 日本に帰ってきた私は、この話を清水さんから聞いて、 「そんなこと、あるわけないじゃない。父は大丈夫よ」 と、言いはってしまいました。このときの清水さんの日記には「桂子ちゃん、豊倉先 生の診断に納得せずーと記されているそうです。 々 最近、その日記のことを清水さんが初めて話してくれて、みんなで笑ってしまいまし 日 」たが、当時は、それどころではありませんでした。認めたくないのは、清水さんも同し。 々納得できるはずがない。清水さんは言います。 病「この当時は、『アルツ ( イマー』なんていう病名を、誰も聞いたことがなかったんで 発 すよ。それで、すぐに本屋さんに走って資料を集めようとしたのですが、あまり本も出
ぬ異国の地では、どうすることもできず、もどかしいばかり。なぜだか腹立たしいよう な気持ちで、娘と二人、ただ心配しているばかりの毎日でした。 前年の十二月、そして二月、三月と、主人は一週間ぐらいずつ、短期帰国したのです が、電話があったのは二月の帰国のときでした。挨拶かたがた、丹羽の実家に顔を見せ に寄ってくれて、異変に気づいたのだそうです。 主人が行くといつも、「みんな元気かーとか「会社はどうだ」とか、たわいもない内 容ではありますが、話がはずむところです。それが、その日は、普通に会話ができなか ったそうなのです。いつも問いかけてくるような質問がまったくないはかりか、こちら から話しかけても、あまり反応がない。顔の表情もどこか違う。 主人自身、いったいどうしたんだろう、とかなりショックを受けていたようです。 々 「もしかしたら、老人性の痴呆でも始まったのではないだろうか。もし、こんな状態の ままのお父さんに、桂子が会ったりしたら大変なことになる し 々そう思ってくれたらしく、とりあえず、フアザコン娘の私に報告の電話を入れてくれ 病たのです。主人はこのことを日本では誰にも告げずに、アメリカに帰ってきました。 発 そして、三月に主人がふたたび日本に帰ったときには、父とはあまり話をする時間も
とか「こうするべきじゃないか」と言うのは僭越ではないでしようか。友人 たちの中にも、介護のことだけでも精神的キャ。ハシティが一杯なのに、周りの人の心な い一言で、立ち直れないほどのショックを受けた人が大勢います。「老人介護ーは心身 ともに大変な重労働。介護者の気持ちを、いたずらに悩ませたり翻弄したりすることの ないよう、心がけていぎたいと思っています。 日本ではまだあまり知られていないのかもしれませんが、アメリカでは、介護をする 人のためのケアの研究が進んでいて、大学に「ケア・フォア・ケアティカー」という ″ケアをする人のためのケア〃を学ぶコースまであるそうです。日本はこれだけ困って いても、まだ専門の分野が確立していないのが現状です。 老人ケアは、一カ月、二カ月という短期間で終わることは珍しく、一年、二年、ある いは五年、十年とかかる長期戦です。ケアをする側の精神状態こそ、もっとも大切にな ってきます。介護人の心ひとつで決まると言っても過言ではないのですから、もっとも っと精神的に楽にケアできるよう、研究する余地は十分にあると思います。 幸い、私の場合は明るいことだけがとりえ。お手伝いくださる二人とも、楽しく、そ 166
と参加してくださり、主催者としては感無量でした。しかし、すべてが終わったあと は、ほんとうに寂しい気持ちになりました。 父は文壇ゴルフの先駆者的存在であったばかりでなく、日本の戦後のアマチ = アゴル フ普及にもひと役買っていたようです。父がゴルフを始めたのは一九五五年、五十一歳 のときでした。私たちにも当然のようにゴルフを教えてくれましたし、一時は夏の軽井 沢で、父、母、私、弟の家族四人でプレイしたこともありました。もちろん、文壇ゴル フの草分け、そして「丹羽学校ー校長として、多くの作家の方たちに手ほどきをしてき た父ですが、功労が文壇に留まらないのは、ゴルフに関する著書のおかげです。『ゴル フ・丹羽式上達法』を始め、『ゴルフ談義』などの著書を通し、大勢のアマチュアの 方々に勇気を与え、励まし、奮い立たせてきたのです。 母は途中でゴルフをやめてしまいましたが、私は今も、父に劣らすゴルフが大好きな 主人とともにプレイを楽しんでいます。主人に教えられて、田中義久著『ゴルフと日本 人』 ( 岩波新書 ) を読んで、父のゴルフ界での位置づけを初めて知りました。父は、広 くアマチ = アゴルフの世界でも有名な人物だったのです。田中さんは「戦後のゴルフブ ームには三つのエボックがある。そのうちの第一次が一九五八年から六二年、第二次が 154