ないと気が済まない人でしたが、自他ともに認めるパ ーフェクトな賢婦人でした。強い 母でしたが、娘時代の私とは大親友でしたから、母を批判的に見ることなど、それまで 一度もしたことはありませんでした。結婚した当時、ほんの少しでも主人が母のことを 悪く言おうものなら、「ウチの母に限って、間違いはないっー と、私は怒り狂ったも のです。アメリカでの生活を通し、自分の家庭が確立できて、少しずつ自分の生活に自 信がもてるようになったとき、親離れできない、できない、 と思い込んでいましたが、 親のほうが子離れできていなかったのだと気づいたのです。そのときから、母を冷静に、 客観的に一人の人間として見られるようになりました。もし、私たちがずっと日本にい たら、そして、母の関心が秋に向き続けていたら、いつまでも親離れできず、スポイル されてしまったかもしれません。 急一方、心やさしい弟は、何の疑問ももっことなく、母の愛情のすべてを受け入れてい と 母ました。母の思いどおりに動かされていった弟。母の期待、母の庇護の元に成り立って といるその生活に心底納得し、満足してはいなかったのでしよう。母から注がれる過剰な 愛情と、自分自身の感情の間にギャップが生じるようになったとき、弟は壊れ始めまし い 5
さて、「早く来てーと泣きついたとき、母はすぐに飛んできてくれました。むしろ、 そのひと言を待っていてくれた、という感じでした。それから、月に一度は芦屋に来て くれるようになりました。これがどれだけ心強かったか。 しかし、この親友のように仲のよかった母とも、次第次第に関係がギクシャクしてき ます。それは決して目に見える形ではありませんでしたが、お互いに少しずったまって いたものがあったのだと思います。それは、さしずめワインの澱のようなものかもしれ ません。ふだんは瓶の底にたまっているので、まったく気がっかない。しかし、瓶をふ れば、ひとたび事が起これば、モワモワッと浮かび上がってくる、心の奥深くにたまっ ていた澱の存在に気づく。そんな感じでしようか。 芦屋での生活もそこそこに、主人のアメリカ転勤が決まり、私たちは渡米しました。 お恥ずかしい話ですが、アメリカでの生活がスタートして、私は初めて一人で料理を作 りました。芦屋には、母がお手伝いさんを二人っけてくれていたので、家事はほとんど まかせつきりでした。・ こ飯の支度には下ごしらえが必要で、お食事が終わったら後片づ けをする。そんなことすら知らなかったのです。そうか、汚したら片づけなくちゃいけ ないのだ、と初めて知りました。家事を一人でこなさなくてはならないアメリカ生活の おり 150
すから、弟もかなり息苦しく感じていたようです。私たちは仲のよい姉弟でしたから、 弟はときどき、私のところに来て、不満をもらしていました。 生活費のすべてを実家からもらっていて、何不自由のない暮らし。家のローンも親が かり。別荘も買ってくれてローンは親がかり。ゴルフ場の会員権は三つも母が与えてく れて、車は毎年、母が買い替えてくれる。子どもたちも丹羽の両親が一生懸命かわいが ってくれて、学費もすべて父が負担。親子ともども親がかり。そして、それがいつの間 にか、あたりまえのことになっている。この一家の生活のリズムの中のどこに弟の存在 が必要なのでしようか。自分はいなくても、十分にやっていけるのです。このあたりか ら、弟の歯車が少しずつ噛み合わなくなってきます。もはや、逃げ場がなくなってきた 弟は、お酒に逃げるようになっていきました。 父が年をとり、だんだんと書けなくなってきた頃に、それまで何十年か続けてきた、 子 べアテのデパ トでの買物をやめてもらうことにしました。父の収入は下降線をたどっ 息 母ていく一方でしたから、丹羽家の収入と支出のバランスがくずれてきたのです。今まで、 と二軒分の生活費を父の収入で賄っていたのですが、父の収入が減ることによって、バラ 母 ンスがくずれてしまったのです。決断は私が下しました。母もべアテも、一生こんなこ 1 ろろ
この年の夏、母は病院から止められているにもかかわらず、いつものように父と軽井 沢に出かけて行きました。軽井沢では、自分で思ったようにからだが動かず、母はずつ と寝たきりのような生活を続けていました。軽井沢でも病院にかかったりしながら、よ うよう、東京に帰ってきた母は、九月、今度は東村山の多摩老人医療センターへ入院と いう事態になります。このとき、私はまたもやアメリカに行っておりました。主人の仕 事の関係で、この時期、アメリカと日本を行ったり来たりの落ち着かない生活を送って いたのです。肝心なときに日本にいない。そんなことが続きました。このため、清水さ んご夫妻には、ほんとうにご迷惑をかけていました。 母が入院したこの九月から、清水夫妻やお手伝いさんたち、そして私たちの、ほんと うの戦い ( ? ) が始まりました。というのも、からだの具合が悪くなっていくと同時に、 母の発病地獄の始まり
でも、形として今も残っているのが、一九五三年、文芸美術国民健康保険組合を設立し たことです。 それまで、作家といえば不健康のかたまりのような生活をしていました。夜は執筆で 徹夜。少し時間があれば、お酒。父はお酒はあまりたしなみませんでしたが、夜のおっ き合いは欠かすことのできない行事のようなものでした。ゴルフを始めるまでは仕事は やはり夜型でしたから、徹夜もしよっちゅうのことでした。ですから、作家の仕事とい うのはそんなものだと家族も了解していました。ほとんどの作家の方が、およそ健康と は縁のない生活をしていたのではないでしようか。書けないで眠れなくなる方もいると 聞きます。そのため、睡眠薬を飲むという人が大勢いると、父も驚いていたことがあり ました。 よく三十代には三十代にしか、四十代には四十代にしか書けない小説があると言いま 娘す。父は、「これにも一理あるが、小説というのはどんな世代の人にも理解されなけれ AJ 父ばならない。したがって、年齢というのはあまり意味がない。要は二十代で書いた自分 との小説を、後年、六十代になった自分が読んでみて恥ずかしくないものを書くことが望 父 ましい」というような考えであったようです。しかし、これも長生きして初めて言える 119
日本に帰ってきていました。私たち夫婦には、子どもが二人いるのですが、二人とも、 在外生活中に生まれたため、アメリカで、あるいはスイスで教育を受けさせました。息 子のほうは、すでに結婚。一女を授かっています。娘のほうは長男とは九つ離れている ため、まだのびのびと学生生活を送っていたのです。 せつかく、日本にいるのだから日本の秋を満契しましよう、とリフレッシュも兼ねて、 ちあき 娘の千晶を京都旅行に誘いました。京都に行ったときには、いつも瀬戸内さんの寂庵に 伺うようにしています。瀬戸内さんが、まだ晴美と名のっていらした頃、父のところに ちよくちよく顔を出してくださっていて、よく存じ上げているのです。 紅葉の美しい寂庵で、久々に寂聴さんとゆっくりとお話をいたしました。寂聴さんに してみれば、父の近況がいちばんお聞きになりたいところだったでしよう。私は包みか くさず、ありのままをお話ししました。そして、以前よく母の手料理も召し上がってく ださいましたので、母のこともすべてお話しました。寂聴さんは、父母の病気のことを 聞かれて、大変驚いていらっしゃいましたが、私があまりにケラケラと笑いながら、明 るく介護のようすを話すので、 「桂子さん、そんなに楽しそうに老人介護している人なんていませんよ。ぜひ、手記を
父がアルッハイマーを発病したのは、今から十一年前の一九八六年のこと。ちょうど 八十一歳のときでした。 私たち一家は、主人の仕事の関係で、何度目かのアメリカでの生活を送っていました。 ちょうど、主人が所用で日本に一時帰国しているときのことです。ある日、主人が日 本から電話をかけてきました。 「お父さんが普通じゃないから、君、日本に帰ってきてショックを受けないように」 一瞬、何のことかと思いました。 「おかしいって、どういうこと。何がどうおかしいの」 私はそう言いながら、主人の言葉を「うそーとしか受けとめられませんでした。父が おかしいだなんて : 。すぐにでも、飛んで行ってようすを見たい。でも、それも叶わ 発病悶々とした日々
父・丹羽 介護の日ミ・、 父・丹羽文雄介護の日々丿。本田桂子 本田桂子 9 7 8 41 2 0 0 2 6 9 6 6 IIIIIIII ⅢⅢⅧ刪 II 1 9 2 0 0 9 5 01 2 0 0 1 本田桂子ほんだけいこ 料理研究家。作家・丹羽文雄氏の長女 結婚後、アメリカ各地に年、バリに 5 年の 海外生活を過ごす。現在は、月 1 回自宅で 料理サロンを開き、ユニークな料理を教えている I S B N 4 ー 1 2 ー 0 0 2 6 9 6 ー 5 C 0 0 9 5 \ 1 2 0 0 E 定価ー 中央公論新社
父と母の今 で。ハーティをしました。最近はあまり動け なくなってきましたので、ホームの近くの ホテルで少人数で会食をしたり、ホームに 大きなお花を持ってお祝いに行ったりする こともあります。母の誕生日やクリスマス など、母の喜ぶようなこと、心が。ハー はお松 ~ 鶯「、 0 : , ら華やぐようなことを企画しては実行してい 左ます。母は着物で通した人ですが、今は洋 て服の生活。洋服を着慣れない母のために、 一 ( 訪アクセサリーもすべて私が「ーディネート しています。海外に行けば、母のために必 一ず洋服を買ってきますが、最近は母も素直 に喜んでくれるので、私もうれしい気持ち になっています。 父も母も寝たきりではないわけですから、 1 5 1
母はホームに入ってから、それまでの自分の好きなものを好きなたけ食べるという食 生活から、規則正しい、栄養バランスのいい食生活を送るようになったせいで、白髪が 減って、黒い髪が増えたように思います。 私はできるだけ週に一度は顔を出すようにしています。父の場合は、自然とからだが 動いてお世話ができるのですが、母に対しては、「エイヤツ」と、かけ声でもかけない 方限り、気が重く、ついついお尻が重くなりがちなのです。それというのも、母はいつも 「世の中、これすべて不満だらけ」というような、ブスッとした顔をして一日中、座っ し 悲ているのです。いつだったか、「丹羽さんの奥さんは笑うことがあるんですかーと言わ それたこともありました。どなたか、お友達が面会に来てくださっても、うれしそうな顔 をしたことがない。元気なときは、ほんとうにおしゃべりだったのに、全然しゃべらな 母その悲しいポケ方 い 9