ムトウへ河ーーー恐ろしい野獣ーー三発の射撃ーー・逃走 とり残され ヒグマ。ーー土に埋められた戦利品 た渡り鳥ーーーアシカの群集地ーーー銃砲の濫用ーーー野営 ルー一アワ 地はどこだーーー煙と朝寒ーーー湖 翌日 ( 九月七日 ) 、われわれはアオホべ河にそい、ずっとその左側をつ たって、旅をつづけた。 正午すぎに、われわれは道に迷い、けものみちにはまりこんだ。それは われわれを遠く、あらぬ方へつれていった。石原でおおわれ、ほとんど植 物のない山の支脈をこえて、偶然にもある河のところへ出たが、それはム トウへという支流だった。その河床は方々で、倒木にふさがれていた。こ の水中の倒木群によって洪水の大きさを判断することができる。ムトウへ 十一熊狩り 450
シベリアの密林を行く イマン河の航行ーー浅瀬ーーー流氷・ーーポート難破 アルムウ河・・・・・ーーシナンツア河ーーー空腹・・ークマの食べ のこしーーー皮革製のソウメンーー疲労 ウデへ人たちの興奮ーーワーグンべの仮小屋 シャーマンの歌 十一月一日、われわれはシーダートウンを出立して、イマン河を舟でく だっていった。 土着民の小舟で山間の渓流を航行するには子供の時から慣れている必要 がある。前方を遠くまで見て、どこでポートをおさえるべきか、どこでヘ サキを水流にさからって向けるべきか、また、その反対に、どこで全速カ で危険個所を通りぬけるべきかを知っている必要がある。以上のすべてを 十六困難な状態
シベリアの密林を行く ・ヤンの タドウシュという河の名まえの起源 小屋ーー満州人老爺の物語ーーー・移民ーーーたそがれと悪 天候ーー・見知らぬ人の野営ーーー出会い 夜ばなしー ルーデワ小屋・ー・ーヴェニュ コフ峠 日の出をわれわれは路上で迎えた。 ウラジーミル湾とタドウシュ河の河谷は細い歩行路でむすばれているが、 この小道は荷馬車にも利用できる。小道はフールーアイ河からはじまり、 ミズナラ、シラカバ、シナノキ、ヤマナラシの立派な林を通り、山をこえ ていく。山の小川をそれは水源のところで迂回して、タボウザ河の河谷を よこぎっていく。 森林の中でたくさんのウスリーシカの足あとに出会ったが、やがてこの 3 五デルスウ・ウザ 1 ラ
シベリアの密林を行く 1 翌朝 ( 十一月八日 ) 、われわれは出発し、旅をつづけた。 ウデへ人たちがみんな、われわれを見送ってついてきた。色さまざまな、 きらびやかな服装をして、顔は日にやけ、帽子にリスの尾を立てた、これ らの人々の群集は奇異な印象を与えた。そのあらゆる動作には、なにか野 生的な素朴なものがあった。 一われわれを中央にして、それと並んで老人たちが歩いてい 0 たが、若い〃 5 連中はカワウソ、キツネ、ウサギの足あとにひきつけられて、方々走りま 十七最後の道のり 見送り 宿泊お断わりーーー匂いで方位測定 オリンーーー荒れ狂う主人ーーーコテリノエ村ーーゴゴレ デルス フカ村における歓待ーーー同行者のサービス ウとの別れーーーイマン駅 ハ・ハロフスクへ帰る
ウスリー の密林ーーー道に迷うーーー・フュ 翌日 ( 五月三十一日 ) 午前十時、天気がよくなったので、われわれはパ ナーチェフを先頭に、ワンゴウ河にそって、その上流への・ほっていった。 ダウビへ河とウラへ河をわけている山背をこえて、名前のない河にそい、 フージンの河口へ出るーーこれがわれわれの前途に横たわる道のりだった。 旧信徒の村を出るとすぐに道路は細い小道に変わった。それはわれわれ をパナ 1 チェフの養蜂場へつれていった。 レビャ 「わしといっしょにこないかね、兵士諸君。」旧信徒がコサックたちに向 かって言った。 それから彼は棚をのりこえて、小さな桶 ( 巣箱 ) をひらき、蜂房の中の 蜜をとりだして彼らに与えた。ハチが彼の周囲をとびまわり、肩にとまっ 三山越え 364
シベリアの密林を行く 、 = いすを、いら、 5 し・ : : ぎ チョウセンニンジンーーー・岩山峠ーー大旋風ーーーゴル・フ シ アカシカ ドングリをとるクマ ーシャ河 9 力を狩るトラ たいまっーーー野営地への帰来 翌日は八月三十日、われわれは前進をつづけた。朝鮮人の小屋から三キ ロ、岩と岩にはさまれた狭い谷間を通りすぎると、河谷は北西へ曲ってい た。流れにそって左側に低いが広い河成段丘がつづいている。ここにはむ かし、大きな森林があった。あいつぐ三度の山火事がそれをすっかり全減 させてしまった。のこっているのは、まばらな焼けこげた幹ばかりだった。 この焼けた森林が四方にひろがっている。このような森の焼跡は悲しい物 さびしい眺めである。 正午にわれわれは密林の中へ入って、そこでしばし休息した。 十アカシカの叫び 439
いではないか。 きにやってきた群衆があまり多かったので、ビルのガ 彼がある滝 ( いわゆるライボンの滝 ) を訪れ、そこ夘 ラス窓が何枚か割れたほどであった。そのときスビー から北流する川に沿ってムテサの宮殿の東まで行った クは何と言っただろうか。「ナイルのことはけりがっ とき、一流出口を発見したことはたしかに本当だ。し きました。」 かしこれがナイル河だと断言しうるどんな理由があっ ちょうどこのころ、西アフリカから帰ってきたバー たのか。その河を湖からゴンドコロまで下っただろう トンにしてみれば、それは相も変わらぬ愚劣な考え、 か。とんでもない。彼はゴンドコロまでほとんど陸路 性急な憶測のむしかえしにすぎなかった。いったいス ピ】ク大尉が何をやったというのか。一八五八年のタを進み、途中偶然に川をーーーどの川か知れたものでは ンガニ 1 カ湖遠征でムワンザに向かったとき、彼は茫ないーーー見つけると、軽々しくもそれが前に見た湖か 漠たる湖を望見した。さらに一八六二年、グラントとら流れ出ている川であると結論してしまった。彼が見 たのはひとつの川ではなく幾つかの川であり、ひとっ ムテサ王を訪れたとき、その三百キロあまり北にもう 一つの巨大な内陸海を見た。そこで飛躍してただちにの湖ではなく幾つかの湖の岸であるほうがずっとあり 、川は湖群からではなく この二地点間の広大な地域ーー約九万平方キロの面積、そうなことだ。いずれにせよ ほ・ほイングランドに匹敵する面積をもっーーーがひとっ 高原地帯に発している。スビ 1 クは「。フトレミーの時 の巨大な湖であると結論した。これが湖だと言うのな代には知られていなかった無数の伝説で」ナイル水域 ら、彼は周航してみたのだろうか。否、である。彼はを包んでしまった。彼の『ナイルの水源の発見』と ル 1 マニカのところに滞在中、湖の西岸へ行ってみよ『ナイルの水源を発見に導いたもの』 ( これは大部分・フ ラックウッドの雑誌に寄せた論文の転載だった ) はど うとさえしなかった。何という川が湖に流れ込んでい すさん るのか、あるいは流れ出ているのか、彼は全然知らなちらも「地理学的にひどく杜撰」なものである。
れわれの道案内となったが、彼は一行にかなり先き立しなければならなかった。 はだし って歩み最も楽な路を選び常に手からコンパスを離さ 一行は跣足で全身汗にまみれつつ沈黙し、疲れきり、 たやす ずきわめて信頼するに足る道案内であった。彼の姿は地上を見つめてより容易い路を見出そうと努めながら そして常に失敗しつつーーーうつむいて歩んだ。と 砂丘の彼方に消え、しばしの後また次の砂丘の頂上に 現われ、かくして一行はイスラム・べイに従って流砂きどき立ちどまって水を飲んだ。しかし水そのものも のなかを一歩一歩と進むのであった。われわれの進路すでに暑く摂氏三十度に達していた。水は熱せられた は流砂のなかを曲折する波動状の道であった。われわ鉄の水槽の中で揺られるために暑くなるのであるが、 れは砂丘の頂上をつなぐやや低い嶺をたどって一つの水槽の加熱を防ぐための蘆もすでに駱駝に与えて、な 砂丘から次の砂丘へと進んだ。しかしイスラムが立ちくなってしまった。われわれは発汗を増加するために どまり、ビラミッドの砂丘の頂上に立ち、手を額にか とにかく異常に多量の水を飲んだ。 かたつむり ざしてじっと東を望んだとき、私は非常に不安な気持カラヴァンは蝸牛のごとくのろのろと進むのみであ に駆り立てられた。イスラムの様子は行手がより困難った。われわれは砂丘の頂に登るごとに四方を見わた なものであることを示していた。ときどき彼はうなだすのであったが、いずれの方向を見てただ同様の単 れて帰ってきて「へチ・ヨリ・ヨック」 ( 絶対に進むこ調な悲観すべき眺めーーー相互に入りまじる砂丘ーーー岸 記とができない ) 、「〈ル・タラーフ・ヤーマン・クム」辺なき大波の大洋・徴細な黄砂でおおわれた山脈 のみであった。駱駝は相変らず驚くべき確実な足どり ( どこを見てもにくらしい砂ばかりだ ) といったり、 ジまた単に「クム・ターグ」 ( 砂の山 ) と叫ぶのであつで斜面を登りそして滑り降りていた。しかしわれわれ た。かかる時には一行もやむなく直線の進路を阻んではときどき駱駝のために道を作ってやらなければなら いる険阻な場所を避けるために北または南に大迂回をなかった。ダヴァン・クム ( 砂中の通路 ) と称される 5
護する運命の星はいつもと同じように私の頭の上に燦 然と輝いている。 十分間のうちに二リットル半から三リットルあまり 十三人間の足あと の水を飲みほした、といってもけっして誇張ではない。 このとき、私は一時にこのように多量の水を飲むこと この時、私の心に溢れた感情を記述しようと試みるが危険である、などということは考えだにしなかった。 ことはおそらくむだな試みであろう。この感情は想像しかしこの多量の水によって何らの害を受けるどころ し得るかもしれない、しかし記述することは不可能でか、反対にそれは私の身体内に新しい精力を注いだよ ある。水を飲むまえに私は脈を計った。このとき、脈うなものであった。あらゆる体内の血管と組織とはあ 搏四十九。ポケットからブリキ製の水のみを取り出し、 たかも海綿が水を吸うごとくこの生命の水を吸収した。 水を充たし、そして飲みほした。この水は何と美味だそして弱りはてていた脈搏は数分の後にはすでに五十 ったことか。何人といえども渇きのために死の苦痛に六をかそえるようになった。乾きのためにとどこおっ 瀕したことのない者にはこの味を想像することは不可ていた血行はまったく回復した。枯木のごとくかさか 能である。私は水のみを唇につけーーー静かに、そろそさになりきっていた手も再び人間の手らしくなり、羊 ろと、そして用心ぶかくーー・何回となく心ゆくまで飲皮紙のようになっていた皮膚は湿気を帯び、伸び縮み 記 探んだ。何という味わい。何に譬うべき愉悦。ぶどうか ができるようになった。そして間もなく額に発汗がは ジら搾り出した最善最美の酒ーーあのギリシャの神々のじまった。つまり私の全身はこの生命の水の注入によ 央美酒ーーーといえどもこの水の半ばの味もなかったにちって新鮮な生命を得たのであった。この時こそまった がいない。私の期待は私を欺かなかったのだ。私を守く厳粛な、そして最も希望に充ちた瞬間であったのた。
大吹雪は彼をおびやかしていなかった。生涯のうちに た。ときどき雪のカーテンをすかして、近くの木々の 彼はたくさんの大吹雪を見てきたので、それは彼にとシルエットがどうやら見えたが、それも一瞬のことだ昭 って目新しいものではなかった。デルスウは私のこの った。新手の突風がおそってきて、幻燈のような光景 考えを知ったように、言った。 は姿を消した。 「薪、たくさんある。テント、じようぶに立てた。だ われわれはテントの中に隠れ、おそろしくて黙りこ いじようぶ ! 」 んでしまった。デルスウは空を眺め、なにやら独りご 一時間ほどして、夜が明けかかった。 とをつぶやいていた。私は一九〇一一年のハンカ湖畔で 大吹雪ーーーこれは雪の ( リケ 1 ンで、気温が零下一一われわれをとらえた大吹雪のことを彼に思い出させた。 十度まで下がるようなハリケーンだ。風は家々から屋「あの時、わし、たいへん心配した。」彼は答えた。 根をむしりとり、木を根こぎにするほど強く吹く。大「薪ないーーーすぐ死ぬ。」 吹雪の中を行くことはまず不可能だ。唯一の救いはー 正午すぎ大吹雪はその全力をあけて突発してきた。 ーその場にじっとしていることだ。たいてい、いかなわれわれは岩山やテントで守られてはいたが、それは る雪の嵐にも人間の遭難はっきものだ。 頼りにならない守りだった。風が面とむかって吹きっ われわれの周囲で、何か信じ難いようなことが行なけると火事のように熱くて煙たくなり、炎が反対側へ われつつあった。風が狂暴にあばれまわって、木々のむかっていくと寒かった。 枝をひきちぎって空中にとばし、軽い綿毛のようだっ われわれはもう水を汲みにいかないで、雪に不足し た。巨大なシベリアマツの老木が前後左右にぐらぐらないのをいいことに、ヤカンに雪をつめた。日暮れと ゆれて、まるでほっそりした若木のようだった。 ともに大吹雪はその最大暴力に達し、暗くなるにつれ 今やもう山も空も土地もーー・なんにも見えなくなって、嵐はだんだん無気味になってきた。