砂漠 - みる会図書館


検索対象: 現代世界ノンフィクション全集1
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1. 現代世界ノンフィクション全集1

ふさ ちにおかれた羽毛あるいは逆になった総のような一つ局ただ一回の疾風の力は幾世紀間つもり重なった巨大 な力の前にははたしてどれだけの効果を有したであろ 一つの砂丘の形状がすこぶる明瞭になる。そしてまた 一瞬間微細な砂粒が砂丘の風上に狂気の舞踊のごとく この朝、一行は夕刻以前に砂丘の低い砂漠の地に達 風のまにまに舞い、次の瞬間にはあたかも優れた型に 従って熟練した技工が織りなす細かい皺のようになっし、そこで水とそしておそらくは駱駝の飼料と焚火の て静かに風下に落ち着くのが見られるのであった。し材料とを見出し得るであろうとの希望のもとに出発し かしながら一度面を上げて砂丘の頂上を吹く砂漠の暴たのであった。しかしそのような期待はまったく裏切 風を見るならば、その光景はまったく言語を絶するもられた。砂丘は高さを増す一方である。そして一行は のであった。われわれは眼を閉ざし口を結び、耳に轟砂漠中の未知の恐怖のなかに歩一歩と踏み入るばかり 轟と響く強烈な疾風に向かって頭を下げていなければであった。ただこの日一回だけ砂丘が低くなった場所 ならなかった。しばらくして旋風は止んだ。一行は立へ行きついた。そこでは砂丘の高さは十四、五メート ちどまり文字どおり数百グラムの重さにつもった塵をルあった。その荒涼たる場所で一部分粘土であり、一 衣服から払い落とした。私はさいわい黒い針金で細か部分結晶した少しばかりの平坦な土地を見出した。 に編んだ雪眼鏡を数個用意していた。微細な砂粒は編私の最初の考えはマサール・タ】グ山系がふたたび 目を透して幾分は浸入してきたが、それでもこれらのタクラ・マカン砂漠中に現われるまでの距離を知るた 雪眼鏡の効用はこの際すこぶる大きなものであった。 めに南東に向かって進むことであった。ところがわれ この西疾風は、しかし一つの便宜をもたらしてくれわれはなんら山らしいものの姿を見ることができなか た。この疾風は砂丘の険阻な方の面をなだらかにし、 ったので、コ 1 タン河への近路をとって次第に進路を それを東側に移動させてくれたのであった。しかし結正東に修正することにした。今やイスラム・べイがわ 8

2. 現代世界ノンフィクション全集1

の呼吸のみであった。二、 三の迷った蛾がテントの中疾風にもかかわらず空は清澄であったが、しばらく ともしび の燈をめぐって飛びまわっていた。この蛾はおそらくして風は西から吹き始めた。砂塵を吹き上げるのは常 われわれのカラヴァンにとまってついて来たものであに東風なのである。大気は風のためにいくらか涼しか ったろう。 ったが、この日はかなり暑さが増した。やがて砂の雲 四月二十四日。私は明け方三時半の時刻に西から吹と砂の柱が砂漠に立ちの・ほり、あらゆるものはたちま いてきた突風に眠りを破られた。砂塵はテントの中にちに砂塵の中にのみこまれてしまった。しかし砂塵の まではいり込み、暴風はテントの綱にあたって音を発高さは常に三 ・六メートルを越すことはなくその上に し、いっテントが裂けて飛ぶかわからぬほどであった。 は常に清澄な青空がひろがっていた。そして太陽の光 われわれのキャンプは砂丘によって周囲を取り囲まれ線は相変らず猛烈にわれわれを直射しているのであっ た往地にあったので風は四方からテントにあたった。 た。地平線は涯なく黄赤色の靄に包まれていた。徴細 口に、鼻に、耳に 大きな砂丘がここに一つ、東に一つ、西に一つそびえ、な砂塵はあらゆるところに このうち西の砂丘は一度ほど南に偏していた。砂丘の浸みこみ、そして衣服にさえも浸透し、われわれの皮 表面は皺でおおわれ、この皺は北から南に走っていた。膚は砂だらけになった。しかしこれにさえもわれわれ 南には第四番目の砂丘が横たわり、それは第三の砂丘はすぐ慣れてしまった。地平線上の砂塵の靄には少な 記 にほぼ平行に位置し北に十度だけ偏していた。砂丘のからす悩まされた。この砂塵のためわれわれはしばし 探険しい方の側面はここでは南および北に向かい、なた ば行進の方向を決定するに困難を感したのであった。 ア ジらかな方の斜面は東および北に向いていた。そしてわこの反対の現象ーーすなわち頂上が曇り地平線が晴れ 央れわれにとってはこのような砂丘の形態ははなはだ都ている状態ーーの方がはるかによかったにちがいない。 7 5 合のわるい状態であった。 しかし砂丘の上から眺めると風の方向に面しているふ

3. 現代世界ノンフィクション全集1

( カ ) とは太陽にさえ影 たーーー砂塵とテレスマート れた。モハメット・シャーはわれわれがテレスマート すなわち魔力にとらわれてしま 0 ているので、ふたた響する力を持 0 ているくらいだからそんな器械などは 7 び決して砂漠から脱することはできないのだと断言し何にもならない。 四月二十八日。われわれは北北東から吹いてきた突 た。またイスラム・べイは恐るべきほどの冷静さをも 風によって目をさまされた。この突風のためわれわれ って、駱駝はことごとく倒れてしまうことであろう、 そしてその次はわれわれの番であるといった。それは のテントはもうもうたる砂塵につつまれた。砂丘の上 単に不可避の順序だ。私はわれわれがけっして砂漠中には砂竜巻が起こり、風下へ向かってつぎつぎに狂気 のような乱舞をなしつつ行き過ぎるのであった。私は で死なぬと確信していると答えた。ヨルチは私のコン ( スー・・ー私のケ・フレー・ナメー ( 聖地メッカへの方向紙片をちぎって風に曝し、それが砂丘の風のあたらぬ を示す器具の意 ) を嘲笑し、われわれが流砂中でぐる側に落ち、そのままそこにとまるのを見つめた。大気 ぐるめぐりをしているのはこのコンパスがわれわれをは塵と砂とによって完全に塞がり、視界は最も近い所 迷わせているからだと罵り、何日歩いても結果は同じにある砂丘の頂にさえ達しなかった。したがってこの ことだといいはなった。このさいわれわれのなし得る日は太陽の位置によってわれわれのコースを定めるこ とさえ不可能であった。空には太陽の位置を示すごく 最善の手段は不必要に体力を浪費しないことであった。 われわれは数日後には渇きのために死ぬであろう。私些少の光線だになかった。この日の嵐はわれわれが砂 はヨルチにコンパスは絶対に信頼すべき器具であるこ漠の旅行中で今までに経験した最悪のもので、日中を とを説明してやった。そして彼にこの事実を納得させ夜のごとくまっくらにするいわゆるカラ・。フランすな るためには、日の出と日没の例をとって説明してやるわち「黒い嵐」であった。 われわれは前夜野天の下に眠った。夜気は冷やかで ことが必要であった。しかし彼の答は次のようであっ さら

4. 現代世界ノンフィクション全集1

ルから二十メートルに達した。かかる砂丘を越すには ラヴァンは何と小さいものかと思われるほどであった。 恐るべき努力を要した。駱駝は険しい傾斜面を巧みに上り下りを避けるためにわれわれはできるかぎり、曲 滑り降りた。ただ水槽を積んだ二頭の中の一頭が転ん折した頂上の線をたどって行進した。その結果として だのみであった。しかし一行の過ぎた路は非常に曲りくねったものになった。 転んだ駱駝から荷物をおなるべくなだらかな頂上を一つの砂丘から次へとたど ろし再び積み上げるにはることにしていたが、それでもしばしば頂上を行き得 ほうちゃく 手数を要した。あるときないで急峻な斜面を降らなければならぬ場合に逢着し こうま、 画 は行路が険阻な勾配に阻た。駱駝がしばらく躊躇したのちに脚下の締りのない 、イまれ、行進を一時停止し砂地を滑り降りはじめる時には一同はことごとく緊張 〈なければならなくなったして見まもるのであった。なぜならば砂は駱駝の滑り ン ため、駱駝のために地な下る後から急流のごとく流れ落ち、膝まで埋めてしま 第ヴらしをし、道を踏み固めうことがあるからであ「た。 、等カてやらなければならない 砂漠中の旅行の最初の数日の間にはよく見かけた固 進 こともあった。砂丘の高 て い粘土地はもはや見あたらなくなった。今や一行はま 越さはついに二十五メート ったく砂の中にとざされてしまった。砂漠における死 海ルから三十メートルに達減に最後まで挑戦していた蘆の叢もすでに姿を消した。 砂した。その下に立って縁ここでは葉の一片さえも見あたらない。すべてが砂ま 7 を攀じ上って行くカラ た砂ーー黄色の微細な砂ーーである。双限鏡をもって ヴァンを見るときにはカ望む視界の限り、涯なく砂の原が、丘が続く。大空に の くさむら 5

5. 現代世界ノンフィクション全集1

さざなみ ようであった。それはあきらめの様子、何事にも無関び、その表面の漣状の皺は消えていた。 心の状態であった。食物にたいするいっさいの欲望も 二つの砂丘の間でわれわれは予期しない不思議な発 消え果てて。彼らの呼吸は重苦しくゆるやかで、いつ見をした。すなわち驢馬の骸骨の破片を見出したので もよりはいっそう不快であった。駱駝の数は六頭に減あった。私の従者たちはそれは野生の驢馬の骨だと主 チョーク じ、イスラム・べイとカシムとに引かれていた。他の張した。この骨は白墨のように白くそして少しでも触 二人よくく 冫 / ノイとチョン・カラとともに後に残っていた。れる時にはあたかも灰のごとく砕け散る脚部の一片に この日のはじめからチョン・カラはすでに進むことがすぎなかった。蹄の部分は比較的よく保存されていた できなかった。イスラムは「彼らはできるだけ急いでが、それは驢馬の蹄にしてはあまりに大きすぎ、とい キャン。フにくるはずだ」と私に告げた。 って人間に飼養されている普通の馬の蹄にしてはあま この日、われわれは砂漠の有するある性質を知った。 りに小さすぎた。砂漠のなかのこの獣ははたして何で われわれは砂丘の中間に存在する想像を絶するようなあったろうか。この骨はいつのころからここに曝され 徴細な砂の平坦な地表にたびたび行きあたり、あたかていたのだろうか。これらの疑問にたいして砂漠は黙 して答えなかった。私自身としてはなぜこれらの骨が も泥濘のなかを行くように膝までそのなかに没した。 その後われわれはこの困難な地表の歩行をできるかぎ幾千年間驢馬が住んでいる場所に見出されないで、こ り避けるように用心した。またある場所では砂の表面の砂漠中で見出されるのだろうかという疑問を抱いた。 ひうちいし は鋭い縁を有する微細な燧石の層で覆われていた。こしかし他の種々の例から私は乾燥しきった徴細な砂漠 の燧石の細片層の砂丘に及・ほす影響はあたかも油が水の砂は有機体を非常に永い間保存する性質を有してい に及ぼす結果と同一のものであった。すなわち燧石のるということを確かめ得たのであった。おそらくこの 細片層に覆われている砂丘はだいたい平坦で円味を帯骸骨は数世紀のあいだ砂中に埋もれていたのが風のた さら 8

6. 現代世界ノンフィクション全集1

と称した。ここでわれわれはときどき奇妙な砂丘の形丘が連続し、徴細な黄砂の涯ない砂漠の大洋がはるか 成状態を見出した。すなわち砂の波が二本ぶつかる時東方に拡がっているこの光景に見人ったとき、なぜ私 5 には、一本は他の上に重なり、結局一一倍の高さになっ は恐怖で青ざめなかったのであろうか。それは恐らく ているのである。同様に巨大な砂の波が幾重にも積みは常に私の頭上に輝いていた幸運の星が今消え果てて かさなる時には、そこには他の波から群を抜いて高 いしまうとは考えられなかったからであろうと思う。否、 ビラミッド形の砂丘ができ上がる。同様の現象はまたむしろ反対に私の眼にはこの荒涼たる砂漠の海は一つ こわく 絶えまなく方向の変る風によって二つの砂丘が交叉すの蠱惑的な美でさえあった。その深い沈黙、その妨ぐ るときにも生ずる。 るものなき静寂に私は魅せられてしまった。それは巨 デジュリアム・インコグニチ 北北東から南南西に向かうわれわれの通路に直角に、大な荘厳な眺めであった。未知の熱望が支配する ひら われわれの視界の範囲内のあらゆるものを超える高さ魅力は、過去幾世紀の啓示を発くために砂漠の王の城 の巨大な砂丘の嶺が横たわっていた。これらの巨大な に入り、そして古代世界の伝説や物語にある埋もれた こわく 砂丘の群れは恐らく隆起のある地面上に形成されたも宝を発見する、という抵抗し得ざる蠱惑を私に投げか のであろう。駱駝がこの険しい傾斜をいささかの不安けていたのであった。私の信条は「勝っか負けるか」 なしに、たしかな足どりで上るのは驚くべきものであであった。私は躊躇することを知らず、また恐れを知 とうはん った。かかる坂をわれわれが登攀するには大努力を要らなかった。「進め、進め」と砂漠の風が囁いた。「進 し、一歩踏み出すごとに一歩うしろに滑らざるを得なめ、進め」と駱駝の鈴が響いていた。目的地に達する いであろう。砂丘の嶺は一帯の砂面よりほとんど見えためには千度も千歩を行く、しかし後退は一歩でも呪 ないほど少しずつ高くなっていて、常に相当に広い視いあれ。 界を保つことができた。行方に何キロとなく巨大な砂 砂丘は急速に高さを増し、最大のものは十八メート はてし

7. 現代世界ノンフィクション全集1

図にはこの名まえの湖が記載されているということはを求めた。他に日陰が見あたらないので彼らは白楊樹 注意に価いする。ただしそれは異なった方向すなわちの木陰を見出すごとにそこに駆けつけて、まず砂を掻 第三キャン。フから南の方向に存在するように記されてきのけ夜間の冷気がいくらかで残っている層のなか いる に身を横たえるのであった。 四月十三日。朝までのうちに井戸の中には水が十八 イスラム・べイはわれわれ一行の道案内であるヨル ひき センチたまっていた。この日の行程二〇・六キロの間 チが率いている一番さきの駱駝に乗っているので、イ われわれはただ砂丘の間のみ歩みをつづけた。砂丘はスラムの方が眺望がきく位置にあった。それでしばし すべて三日月型をなし、その外側は東を向き両端は西ばヨルチの誤りを指摘し行進の方向を正した。しかし あるいは南西に向かっていたので、この時期の風は主これは曲った性質を有する「砂漠の人」の怨みを買い として東または北東から吹いてくることが推測された。 ヨルチは数回羈を捨てて砂上に身体を投げ出し、イ この日の旅路には白楊樹をたびたび見かけたが、そスラムに自身でカラヴァンを案内したらよいではない の中のあるものには芽がすでに萌え出ていたので、そ かといって挑戦しかけた。われわれが野営の場所に着 の緑の房を駱駝はむさぼり食べた。多くの場合砂丘は いたとき、この二人の間に激しい喧嘩が持ちあがり、 白楊樹を避けているように見え、みのなかに樹を残ヨルチは私のテントに来て、もしイスラムが干渉する して円をえがいていた。そしてそこには風の陰になっ くらいならば自分は帰ってしまうほうがよいと思うと 記 検て乾燥した枝やしおれ落ちた葉が小さい堆積をなして告げ、またイスラムはパンを出しおしみするとい 0 た。 ア ジし学ー しかし私が彼に対してそれでは帰ってもよいが去る前 ア 央この日は暖かかった。犬はわれわれが砂漠の中に掘に一か月分の賃銀として前わたしした百テンゲー三 った井戸に似たような窪みを見つけ次第駆けよって水十二シリング六ペンス ) を返して行くように、といっ おもがい

8. 現代世界ノンフィクション全集1

もうろう ることはなかった。われわれの「砂漠の人」はまず彼ごく付近以外の視界は天色に朦朧と霞んでいた。 の砂漠に関する知識の一端を披露した。彼は最初に数荷物をおろしテントを張るにはきわめてわずかの時 グリヤ 日間ャルカンド河の右岸に沿って行進し、チャクマッ 間しかかからなかったが、反対に荷物を全部積みこむ クと称する山と、北流する河に連結するある大きな湖には朝食の用意の時間を入れ二時間は十分かかった。 水の処まで至ることをわれわれにすすめた。彼は次の駱駝は荷物をのせられることをいやがったが、その後 ごとく述べた。この場所に達するためには十八日間をの行進の間は穏やかであった。値物は次第に影をひそ 要し、さらにそこから一日の行程でマサール・ターグめ、われわれはその大部分が南北に向かっている高さ すなわちこの地方における最高峰に至る。マサール・ 五メートルから六メートルの不規則な形の砂丘の迷宮 ダリヤ 中に迷いこんでしまった。われわれはできるだけこれ ターグから東の方コータン河に至る道路は遠くない。 チャクマック山の北には黄金探求者たちが常に往来すらの砂丘の裾を縫って進むようにしたが、それでもあ る路が存在し、その路はヤガチ・ニシャン ( 道標 ) にるときは険しい丘陵を越えざるをえなかった。これら 達している。この道標の向こうに横たわる砂漠はキル の丘陵の二、三で水槽を運んでいる駱駝が転んだがさ ク・キシュラックすなわち「四十の町」という名まえ いわいなことには共に前脚をついたのみで事はすんだ。 で知られているが、その理由はこの砂漠中に多数の古それでもなおわれわれは転んだ駱駝の背から荷物をお 代都市跡が流砂に埋もれているからである。 ろしてやりまた再び積む手数をかけなければならなか 四月十一日。静寂なそして爽快な一夜の眠りののち、った。駱駝は後脚を制動機として使用してきわめて巧 われわれは日の出まえに目ざめてこの日の天候はきわみに砂の傾斜面を滑り降りた。ちょうど正午にわれわ めて不快であることを見出した。強い北東風がキャンれは高い砂丘に閉じ籠められ、やむなくこの砂丘の間 プを吹き鳴らし大気は塵をいつばいに含み、テントのを脱するために北方に一時進路を変えた。ヨルチは、 8 3

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たときヨルチは驚いて熱心に一行とともにとどまらせ穴に飛び入ろうとするので、われわれはそれを防ぐた てもらいたいと懇願したので、私は以後イスラムの命めに大をしばりつけざるをえなかった。 に服従することを条件としてそれを許してやった。同四月十四日。復活祭。この日行程一八・五キロのみ。 はね 時に私は砂漠における寂寥と単調な生活の中で再びこある場所の砂丘の片側は鋼のような火色を呈していた。 うんも の二人の間に起こるかもしれない争いに想到して危惧調べてみたところが、これは雲母の殻におおわれてい たためであった。私はまた緑の白楊樹は砂丘の間の地 を抱かざるをえなかった。しかしそれ以上争いは生じ なかった。イスラムに対するヨルチの怨恨は次第に増にのみ生えているという発見をした。砂丘が尽きると していったが、ヨルチはロを開くのを努めて制し常に白楊樹もまた影を潜める。この樹木あるいはこの樹木 一人のみでおり、けっして他の者に言葉をかけず、まの根は砂丘の形成を助けるのであろう。 た眠るときも残りの者から少し離れて横たわり、また次いでわれわれは、あたかも地上に横たわっている イスラムやその仲間が寝るまではキャンプ・ファイヤ丸木の材木のように見える黄色の砂でできた低い砂丘 のそばに行くこともしなかった。彼らが、ヨルチは一がその上を走っている、雑多な褐色を有する固い平坦 行を故意に誤った方向に道案内をしていると私にそれな、そしてまったく荒蕪そのものの帯状の砂漠に達し となく注意したのは正しかったかもしれない。もしそこ。 ナこの平坦地の上には多数の小さい石塊が散在して うであったとしたら彼はその罰を受けたのであった。 いた。この日の行進中にわれわれははじめて野生の駱 かわ 彼は後に砂漠の中で渇き死にをしてしまった。 駝の足跡に行きあたった。ヨルチはそれは野生の駱駝 この日は一メートル十五センチだけ地面から掘り下によって印せられたものだといったが私は半信半疑で げることによって水に達することができた。その温度あった。しかしもう少し進んだところで足跡は多くな っていた。むしろ消極的な推測であるが、人間に飼い は摂氏十度四分。大は非常に渇してわれわれの掘った 2 4

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ろう。しかし一同はとにかく現在のこっている水を極判断するのにかなり困難を感じた。眺望がきかないの 度に節約すべきこと、水を黄金のごとく大切に扱うべでまだかなり遠くにあると思っていた砂丘の底部に突 きことに一致した。私は秘かにイスラム・べイに命じ然行きつくことがあった。 て一刻も二つの水槽から眼を離さないようにさせた。 われわれの前方には涯ない砂丘の岡がつづいていた。 この朝以後駱駝は一滴の水をもあたえられなくなった。砂丘の大部分は北から南に延びていたが、最も高いも 砂の靄のおかげで空気はすがすがしくそして涼しか のは東から西に向かって拡がっていた。少なくともこ った。砂丘の頂上は暗黒の中から幽霊の姿のごとく、 の砂漠の大洋は底のないものではないということを示 また弓状の背を有する黄色の渺豚のごとく、彼らに しているし、かつわれわれに、ついにはこの砂の波か あざわら 戦するわれわれの無謀を嘲笑うかのように浮き出てい ら脱出し得るという希望をつながせてくれる粘土の平 た。濃い大気のためわれわれは距離と先方の見透しを坦地は今やまったく姿を消してしまった。あらゆるも のは完全に砂の下に埋もれてしまった。砂丘はもちろ ん砂である。そして砂丘間の凹地もまたことごとく砂 む になってしまった。われわれは現在砂漠中で最悪の部 す を 分に迷い込んでいることは明らかであった。そして私 自身はわれわれ一行の状態がすこぶる危惧すべき位置 さ にあることを覚り、心を痛めたのであった。 この日、終日私もまた徒歩で行進した。それによっ 墓 て私は一面において私の優れた駱駝ポグアラの労を少 なくし、同時に一行を鼓舞するためであった。しばし 6