それから、毎日、毎晩、各工兵大隊は決死的攻撃をイツ軍は市内の中心に到達していた。廃墟を死守して 繰り返したが、ソ連軍の抵抗はますます強まり、死傷いたソ連軍は次の通り厳命を受けていた。それは決し 率はいまや四十パーセントに達した。ソ連軍はもとのて誤解する余地のないものであった。 各拠点の小部分しか手中に収めてはいなかったが、そ「諸君はもはやヴォルガ河を渡って退却することはで れは相変らず毎日、人員と物資の補充と増援を受けてきない。ただ一つの道があるのみだ。その道こそ前方 いた。各陣地を死守するソ連守備隊は、ヴォルガ河中へ進む道である。スターリングラードは諸君の手で救 の島々と対岸に据付けられた重砲陣の正確な砲撃によわれるであろう。さもなければ、諸君ともろともに跡 形もなく抹消されるであろう ! って支援されていた。 ソ連軍がこの意図を遂行すべき鉄の如き決意を知る またソ連軍の塹壕はトンネルによって連結されてい たので、地雷の爆破によってのみようやく攻めとるこものは、この言葉の重大性に一点の疑念も持っていな とができた。連日の攻撃で各工兵大隊は疲労し切ってかった。 しまった。十一月十五日に砲兵工廠地区の戦闘行動は、 甚大な死傷者を出したために中止された。 ソ連軍、拠点を死守 記 かくてヒトラーの広言していた突撃隊の挺身攻撃戦 一術は、失敗に終った。「ロシアは、もしも敵がヴォル 十一月十七日、ドイツのラジオ放送の軍事解説者は グガ河を渡った時にだけ征服されることがあり得る」と次のように声明した。 ことわざ ン いうロシアの古い格一言が、不吉にもドイツ軍兵士たち「スタ 1 リングラードでは、市街そのものが二つの地 区と一つの小さい拠点を除いて、まったくドイツ軍の タの話題になったのである。 3 スターリングラードはヴォルガ河の河畔に在り、ド 手中に帰した。」
いたが、ヒトラ 1 は連隊長のレベルまで一切の命令を 事態は結局、悪い結果の他には何も生み出すことがで みずから下して、さらに現地の大隊長に一任されるべ きなかった。 き戦術的決定までもみずから行なっていた。 ハルダー参謀総長は、はっきりした決断を求めた。 ヒトラーは、ソ連軍の作戦上の戦略を正しく評価す ヒトラーはそれを避けた。ハルダー大将は一九四二年 の夏季攻勢行ターリングラードに「 ) に反対していた。ヒることに完全に失敗して、ソ連軍はもはやカが尽きて 崩潰の寸前にあるという先入観をますます固めるばか トラーはこれをあくまで主張していた。 ハルダー大将は兵力を集結して、戦略的守勢を提唱りであった。 「ソ連軍はもうくたばっている。四週間の時がたてば したが、ヒトラーは石油とヴォルガ河が欲しかった。 ハルダ 1 大将は、ヒトラーの戦略計画を遂行するため潰減するであろう ! 」 これこそ、全ドイツ国防軍最高司令官たるヒトラー には使用できる兵力がいかに弱少であるかを、指摘し た。しかしヒトラーはこの助言を払いのけた。ハルダ が本作戦を実施した時の前提条件であった。だが、参 ー大将は、ソ連の軍事力についてヒトラーに警告した。謀総長たる ( ルダー大将が軍事諜報と航空偵察より引 ヒトラーは、このような宣伝を信用するのは間抜け者出した敵軍兵力に関する重要報告を提出した時にも、 記 ヒトラーの先入観は少しも影響されなかった。 だけだと放言した。 ハルダー大将が、ソ連軍の新鋭師団が戦線に絶えず「このようなくだらぬたわ言はごめんこうむるよ ! 」 グ到着しつつあるという諜報をヒトラーに示した時、ヒ と彼はにくにくしそうに一一一口った。 ン トラーはそれはまさに「スタ 1 リン一派の不器用な威しかしハルダー大将の示した報告のなかにはつぎの タ嚇」にすぎないと言い張った。 ( ルダー大将は、野戦ような重大事実が詳細に記されてあった。 「ソ連軍はすでにサラトフ方面に百万の大軍を集中し 部隊の指揮官に通常の決断の自由を許すように欲して 6 3
た。もちろん、コーカサス地方をめざした進撃も期待少ない事実はこの説明に矛盾した。 0 されたが、その作戦計画は当時まだ詳細には立案され 三 ) ソ連軍の南方戦線は防備が手薄であり、その てはいなかった。この山岳地帯に対する実際の攻撃は、主力はモスクワ地区の防衛のために集中されていた。 一九四三年の春まで延期されねばなるまいとさえ、一それでソ連軍は、ドイツ軍の大攻勢に対して、モスク 部では考えられていた。これは戦局のまったく現実的ワより大軍を南方へ急派することが当分、できなかっ な判断であった。 た。その理由はドン河以西の鉄道線をもはや支配して ドイツ軍の大攻勢は成功したようにみえた。ソ連軍 いなかったからだ。 の戦線を突破後、最初の三週間の中は、ドイツ軍の前 ( 三 ) ソ連軍は、その南方地区の兵力がどれほどあ 進速度はあらゆる計算をくつがえすほど急速なものでったにせよ、ヴォロネジ前面の防衛戦闘に破れた後は、 あった。これは驚くべきことであったが、・ トイツ軍のドン河及びヴォルガ河の後方へ用意周到に大規模な撤 進撃速度があまりに早いために敵軍の位置を判断する収作戦を遂行する計画を立てていた。 ことをきわめて困難にさせた。そしてドイツ軍の高級しかし、ヒトラーはまたしても敵軍の位置に関して、 参謀の間に、重大な意見の相違を起した。 とくに第六軍の直面する敵軍について、完全に誤算を ソ連軍の一斉退却と、それに伴う激烈な局部的の後していた。そして彼はドイツの前途に開けた運命の可 衛戦闘は一体、なにを意味したものであろうか ? そ能性について、重大な誤算をして、みずからその犠牲 れは次の通りいくつも相異なる説明ができた。 になったのだ。 ( 一 ) ソ連軍はすでに潰走して徹底的に撃破された。彼の抱いたスターリングラード並びにコーカサス同 但しこれはヴォロネジ地区だけには明白であるが、全時攻撃の決断は、実にこの期間、すなわち七月末から 般的にみると捕虜と鹵獲武器、軍需品の数量が比較的始ったものである。かくして、第六軍は「スターリン
月に、少将に進級して第一四機甲師団長となり、さもしないで放棄された。 6 らに同年秋の大決戦には第四八第甲軍団司令官に任 こうして、第六軍は比較的容易に、ロストフ日ロソ 命されて奮戦した。また南軍集団は、軍集団と軍ックを結ぶ線以東のドン河の大きな屈曲部地域を占拠 集団に分割、再編成された。 することができた。そしてカラチ北西方の包囲戦闘で、 かくて六月二十八日、ドイツ軍の大攻勢が開始され第六軍はソ連の第六二シベリア軍の大半と同様に、第 た。最初の攻撃はクルスク市 @璉の欧州中央部、。イム河 一機甲軍の大兵力をも四分五裂に撃破することができ 一九四一年独軍に占領されて前線の陣地化された ) の付近で行 が、一九四三年一月八日にソ連軍の手に奪回された なわれたが、それから八日後には早くも ( ルコフ市実に一千台以上のソ連軍の粉砕された e 型戦車の モスクワ南方六百四十キロのウクライナ地方の古都でドネッ盆地の中 心、人口八十五万、ソ連第四の大都会で鉄道、産業、石炭、鉄鉱の大中残骸が、ドン街道に散乱していた 0 心地、一九四二年一月より六月にわたり独ソ激戦の焦点となっ ) の東 このようなドイツ軍の快速の進撃が、南方において たが、一九四三年八月二十三日にソ連軍によって奪回された 方まで、めざましくも進撃した。さらにそれから十日も軍集団の作戦地域においても、いすれも局部的戦 後に、軍集団が大攻勢の火蓋を切った。 闘の休むいとまなき連続の中に達成されたものであっ この夏の間、軍集団は第一七軍及び第一機甲軍た点は、注目されねばならぬ。すなわち、ものすごく の協力を得て、西部コーカサスと中央コーカサス地方長い強行軍と欠乏と戦病とが、 ドイツ軍の夏季作戦の の峠まで到達した。ソ連軍統帥部は賢明にもドイツ軍全貌を描き示すものであった。 の大軍をほとんど果てしのない空間へ、その思うがま ところが、このような戦闘経過の間に、ヒトラーは まに引っ張り込んでしまったのだ。ソ連軍はただヴォ ますます熱心に、スターリングラードを攻略せねばな ロネジで、猛烈な激戦を行なっただけであった。ヴォらぬと言い張り出したのであった。 ロシロフグラード周辺の広大な地域もまた烈しい抵抗 ヒトラーの下した一九四二年七月二日付の総統命令 こ 0
義」を共通の旗幟として掲げて共同の戦線に立った ( なお、この場合、・・カ 1 の指摘によれば、「民主主 6 義」の擁護というイデオロギー的戦争目的はソ連の側から提起されたのであり、第一次世界大戦におけるウイル ソンの役割が第二次世界大戦ではスターリンに移ったという ) 。しかし、共通の敵ナチス・ドイツと戦いながら アメリカ・イギリス・ソ連の関係の実情は徴妙であった。ロシア革命後の対ソ干渉戦争以来、ソ連の政治指導者 の米英支配層に対する不信の念は深いものがあった。ヒトラーは反ソ反共のスローガンを掲げて米英・ソを分裂 させようとしてきたし、もちろん米英の指導者には共産主義に対する敵意・反感が強かった。ソ連の側も、アメ リカ・イギリスの側もそれそれ相手がドイツと単独講和を結びはしないかという疑念を抱いていたのであった。 このような呉越同舟の米英ソ関係について「奇怪な同盟」。 ( 「 ange alliance という表現が用いられるのも根拠の無 ヒトラーが望んだような米ソの公然たる衝突は大戦中には起こらなかったけれども、この「奇 いことではない。 怪さ」は戦後処理をめぐって「冷戦」として公然化するのである。 スターリンが米英側に求めたのは、独ソ戦線におけるソ連の負担を軽減するために、・ヨーロッパ大陸に第二戦 線を設定して、ィッ軍の背後を衝くことであった。一九四二年に入って、ルーズヴェルトは一九四二年中にこ れを実現させると約東したが、同年中には実行されなかった。同年末のスタ 1 リングラード戦ではドイツ占領下 の野政権の兵力も含めて枢軸軍の大部分は独ソ戦線に配置されていたのであ 0 た。第二次大戦におけるソ連の 人的被害は二千万人以上に達する、それこそ「史上最大」のものとなった。数次の連合国戦争指導会議は第二戦 線問題を取り上げたが、、チャーチルの執拗な反対に遭って一向にはかどらなかった。チャーチルはナチスのヨー ロッパ要塞という鰐の「柔かい下腹」を衝くことを主張し、一九四三年夏にはイタリアのシチリア島上陸が行な われ、イタリアのムッソリ 1 ニ政権はこれを機に没落した。第二戦線の実施が決定されたのは、スターリングラ
へきとう 境方面の赤軍は地上兵力と航空兵力とも開戦劈頭の電年二月、第二十回ソ連共産党大会でフルシチ , フ第一 ! くろ 撃戦で潰減的損害を蒙った。 書記翕 ) によ「てはじめて、映露、非難され、スタ 1 リン格下げの主理由の一つとなった一方、ト ( チェス それに加えて、スターリンは赤軍の生みの親といわ キー元帥はじめスタ 1 リンの手で不当な赤軍粛清の犠 れた陸軍参謀総長トハチェフスキー元帥を、スターリ ン暗殺陰謀の中心人物として一九三七年六月十二日、牲にな「た元帥、将軍たちは名誉回復が行われた。 逮捕銃殺して以来、三年間にわたり赤軍幹部の大粛清 を実行して、将軍クラスの九十パーセント ( 司官十三 名、軍団司令官五十七名、師団 独ソ戦争 ( 一ー ) 主要経過表 ) と大佐クラスの八十。 ( ーセン 長百十名、旅団長二百二十名 ト龕跚万 ) をすでに追放、処刑したので、赤軍の統帥 マ一九四一年六月一一十二日ードイツ軍、ソ連へ大挙、進攻 部ははなはだ弱体化して、高級将校の指揮力が落ち、 す。独ソ戦争開始。 軍隊の士気も沮喪して、数十万の将兵の降伏、捕虜が ▽七月三日ースターリン、ソ連国民の決起をラジオ放送で 続出したものであった。 訴う。 かくてスターリソの油断と赤軍の大粛清のため、独 ▽七月末ードイツ軍機甲部隊、キエフ攻撃のために転進す。 ソ戦争はソ連敗北の寸前に追込まれたが、ヒトラーの マ九月十七日ーキエフ攻略戦で、ドイツ軍はソ連軍の大兵 力を包囲、撃減す。 作戦指導の誤りと、酷烈な『冬将軍』が平年より一カ 十月二日ードイツ軍、モスクワ進撃を再開す。 月以上も早く到来したお蔭で、スターリンは奇蹟的に ▽十二月二日ードイツ軍、モスクワに対する最後の攻撃に 第一年を持ち越して赤軍建て直しのチャンスをつかん 失敗す。 だわけである。 マ十一一月五日ージューコフ元帥指揮のソ連軍反撃を開始す。 ▽十一一月七日ー ( 日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争開 このスターリンの責任問題は、彼の死後の一九五六 414
準をつけて一発射ち、あるいは斉射をこころみた。 下部隊の全減する間、みずからも最高の勇気を発揮し 第六軍司令官はかねて、彼の麾下師団がどれくらい て健闘した。しかし彼の軍勢は馬で矛く三十七ミリ対 の間、ソ連軍の大逆襲に持ちこたえられるかを問合わ戦車砲と通常の野砲の他には、重兵器も長距離対戦車 せていた。第八歩兵軍団司令官 ( ィッ中将はちょうど砲も、ぜんぜん持っていなかった。彼らは長い間、強 この朝、「鎖はそのもっとも弱い環だけの強さを持っ力な重火器を提供してくれるように、アントネスコ元 ています」と回答したばかりであった。 帥を通じて再三、ヒトラ 1 へ懇請していたが、その希 ドイツ軍の前線を張りめぐらす鎖の中で、もっとも望も約東もついに実現されなかったのだ。 い環はルーマニア軍であった。ソ連軍の数千台の戦 嵐の中のスターリングラード 車と数万の大軍は、その弱体の各部隊を各個撃破して、 突破したのであった。ルーマニア第三軍は文字通り、 まず ちょうつがいー ソ連軍の大反撃も、ルーマニア軍の前線が突破され その大事な蝶番を外してしまった。その東翼は潰走し、 西翼はわすか数時間以内にチール河上流まで撃退されたことも、ドイツ陸軍参謀本部を驚かせなかった。そ れは、ただ来たるべきものがついに到来しただけのこ とであった。参謀本部では前線を強化する手段をまっ なぜルーマニア軍は鎖の中のもっとも弱い環であっ たのか ? 実際、それは四個師団の兵力を持っていて、たく持っていなかったし、またヒトラーは適時に前線 の撤収を許すことを拒否していた。 とくにラスカール中将指揮下の二個師団は最後の一兵 まで戦い抜いた。しかし彼らは強大な戦車の前にはま戦局はきわめて重大化したと認められた。ヒトラー ったく無力であった。 はソ連軍の突破、進撃を知るや、烈火の如く怒った。 ル 1 マニア第三軍司令官デイミトレスク大将は、麾しかしルーマニア第三軍の潰減は彼に対して、スター 8 3
を要請する。」 だが真実は、それとはなにか大分、異っていた。 8 十月中に二個師団を要求することは、きわめて妥当 たしかに第六二シベリア軍は、ただスターリングラ 1 ド市域の中およそ十五平方キロメートルに当る通称であった。しかしその兵力はとても得られなかった。 「テ = ス・ラケット」地区を確保しているにすぎな十一月十九日以降に起った事態は、まさに軍集団の 心配が決して誇張されたものではなかったことを示す かった。そこは鉄道線路によって囲まれたところで、 ドイツ軍の猛烈な砲撃と爆撃を蒙っていたため、とうであろう。 - へケトフカにあるソ連軍の拠点も頑強 さらにまた、・ とうその地面は相重なる砲弾の大穴によって、よく耕 やされた広々とした一木一草もない地域に一変してしであった。それは実にドイツ第四機甲軍の肉体に刺 さった鋭いトゲのようなものだった。この拠点はヴォ まった。しかしソ連軍はまだ依然として、スターリン ルガ河岸に沿って、スターリングラード市の南方へ十 グラード市外に二つの拠点を死守していた。これらの 存在こそ、第六軍司令部にとっては永続的な頭痛の種一キロも延びており、その幅は三キロもあって、クラ であった。このソ連軍の頑強な拠点の一つは、ドン河スノ日アルメイスク日サレ。フタの工業地区を包含して、 遠くべケトフカまでおよんでいた。 の屈曲部にあたるクレメンツカイヤにあった。すでに 早くも十月十八日に、ドイツ軍の軍集団は陸軍最高第四機甲軍は、ドン河の東方へ向けスターリング ラードに進撃すべしという命令に従って、九月前半の 司令部へ次の通り通報していた。 わんきよくふ 間に市内の中央部に到達し、その目的を達成したので ドン河の彎曲部のクレメンツカイヤの戦況によ って重大な硅慮すべき状態がひき起されており、そこあった。その日から、第六軍が同市内の作戦行動の指 のソ連軍の拠点の排除は絶対に必要欠くべからざるも揮を受け継いだので、この両軍の間の境界線は南方へ のとムとめられる。この目的のために二個師団の増派移動した。
の地下の大きな下水渠を予備部隊を繰り出すために使弾幕の掩護のもとに突進した。弾幕がとりのそかれた 用していた。それで、ドイツ軍の前線の背後に突然、時には、彼らはたいていの場合にソ連軍のさまざまな 抵抗拠点を撃減して、その攻撃目標に到達することに ソ連兵士が出現することがしばしば起った。いったい、 彼らがどうやってそこへやってきたのか、誰も知らな成功した。しかし突撃隊につづく第二波を編成した歩 かった。後になって、このソ連軍の浸透戦術が発見さ兵部隊はあまりに弱くて、エ兵のかち得た地点を強化 けた よ鉄の桁をマンホールかすることができなかった。 れて、全市の地下の下水施設。 ら突き人れて閉塞された。 第二九四工兵大隊はヴォルガ河に到達して、精油施 設の廃墟を占領した。また第五〇工兵大隊は工場建物 二つとア。 ( ート数個所を占拠したが、診療所と「赤色 市衝戦の恐怖 の家」の前面で猛烈な抵抗に会って立往生した。同大 十一月九日の夜の間に、各工兵大隊はそれそれその隊は、この二つのズバ抜けて頑丈に要塞化された拠点 発進地点についたが、第三三六工兵大隊はたちまち甚を占領することができなかった。 このような戦況の簡潔な描写は、戦況を単純なもの 大な死傷者を続出した。ある中隊は工場の残存建物の ドイツ軍の兵士たちはこの なかに集結していたところが、その建物には敵軍の手にみせるかも知れないが、 一で地雷が敷設されてあった。それで攻撃がまだ開始さ行間の意味をいかに読み取るべきかを知っているだろ う。形勢はきわめて重大で、ドイツ軍とソ連軍とがし グれないうちに、その地霍が炸裂して十八名の兵士が即 ン ばしば同一の建物の内部でたがいに拠点を守るために 死した。 いよいよ攻撃開始の時刻が到来するや、ものすごい奮戦しているのを見出すくらい複雑であった。 ドイツ軍の死傷率は約二十パーセントであった。ヒ 火燼の大旋風がまき起り、ドイツ軍の突撃隊は激烈な 5 5 3
第次世界大戦の一 ード戦の結果、独ソ戦線が峠を越した一九四三年十一月 ~ 十二月の米英ソ会談においてであり、結局軍事技術上 の都合によって一九四四年六月六日に北フランス上陸作戦が実行されたのである。このような第一一戦線設定の遅 延はソ連側を失望させるに十分であった。ライアンの『史上最大の作戦』はその視線を戦闘に参加した将兵やこ れに捲きこまれた市民の人間的な哀歓に注いでおり 1 この作戦の背後にある国際政治上の葛藤にはあまり触れて ーいないが、この上陸作戦の実現に至るまでの米英・ソ間の緊張は大戦史上重要なテーマである。チャーチルが 北フランス上陸作戦に終始反対して、専らヨーロッパの東南部への軍事行動を主張した背後には、ソ連勢力の将 来の進出を阻止しようとする政治的顧慮がはたらいていたのであった。抵抗運動やゲリラ戦の政治的・軍事的役 割については米軍よりもチャーチルの方が高く評価していたといわれる。圧倒的な物量投入を重視する当時の米 軍の軍事思想では、不正規兵力の小規模な行動を今日ほどに深刻に考えてみなかったようである。 て ともかく、戦争末期にはナチス・ドイツから解放された地域において戦後支持すべき勢力について米英とソ連 つの間の見解の相違は次第に大きいものとなって来た。一九四五年四月のルーズヴェルトの急死はアメリカの対ソ 抛政策に転換が始められる合図となったといえるであろう。一方、ヒトラ 1 は、ルーズヴェルトの死を、七年戦争 三の途中でのロシア女帝 = リザベータの死になそらえて狂喜したが、もはやその時にはソ連軍はベルリンに迫り、 一間もなくエルべ河で東西から遭遇した米ソ両軍の間には衝突も起らなかった。 一一本書に収められた記録は、第二次世界大戦の若干の重要な問題点に関連するものであるが、第二次世界大戦が 4 以上の簡単な解説冫 こ尽くし得ない多面的な複雑な性格を持っていることはいうまでもない。