いたが、ヒトラ 1 は連隊長のレベルまで一切の命令を 事態は結局、悪い結果の他には何も生み出すことがで みずから下して、さらに現地の大隊長に一任されるべ きなかった。 き戦術的決定までもみずから行なっていた。 ハルダー参謀総長は、はっきりした決断を求めた。 ヒトラーは、ソ連軍の作戦上の戦略を正しく評価す ヒトラーはそれを避けた。ハルダー大将は一九四二年 の夏季攻勢行ターリングラードに「 ) に反対していた。ヒることに完全に失敗して、ソ連軍はもはやカが尽きて 崩潰の寸前にあるという先入観をますます固めるばか トラーはこれをあくまで主張していた。 ハルダー大将は兵力を集結して、戦略的守勢を提唱りであった。 「ソ連軍はもうくたばっている。四週間の時がたてば したが、ヒトラーは石油とヴォルガ河が欲しかった。 ハルダ 1 大将は、ヒトラーの戦略計画を遂行するため潰減するであろう ! 」 これこそ、全ドイツ国防軍最高司令官たるヒトラー には使用できる兵力がいかに弱少であるかを、指摘し た。しかしヒトラーはこの助言を払いのけた。ハルダ が本作戦を実施した時の前提条件であった。だが、参 ー大将は、ソ連の軍事力についてヒトラーに警告した。謀総長たる ( ルダー大将が軍事諜報と航空偵察より引 ヒトラーは、このような宣伝を信用するのは間抜け者出した敵軍兵力に関する重要報告を提出した時にも、 記 ヒトラーの先入観は少しも影響されなかった。 だけだと放言した。 ハルダー大将が、ソ連軍の新鋭師団が戦線に絶えず「このようなくだらぬたわ言はごめんこうむるよ ! 」 グ到着しつつあるという諜報をヒトラーに示した時、ヒ と彼はにくにくしそうに一一一口った。 ン トラーはそれはまさに「スタ 1 リン一派の不器用な威しかしハルダー大将の示した報告のなかにはつぎの タ嚇」にすぎないと言い張った。 ( ルダー大将は、野戦ような重大事実が詳細に記されてあった。 「ソ連軍はすでにサラトフ方面に百万の大軍を集中し 部隊の指揮官に通常の決断の自由を許すように欲して 6 3
決は、世界平和のために重要な寄与となっているのである。 ところで、運動・体制としてナチスを独裁者ヒトラーの個人的思想や資質のみに帰着させて把えることは一面 的であるが、それでもヒトラーの一種の神秘的・悪魔的な個性とニヒリズム、また彼の非合理的な独断が、ナチ ズムに独特の色彩を与え、第二次世界大戦の様相を、それこそ「史上最大の」残虐なものとしたことは明らかな ところである。 大戦史を一見して不思議に思われるのは、プロイセン軍国主義の伝統を持っ誇り高い軍人たちがどうしてあれ ほど唯々諾々とヒトラーの狂気しみた独裁に従ったのかということである。もちろん、唯々諾々ではなかった将 軍もいるし、またかの恐るべき秘密警察やナチ党の私兵による恐怖の支配があったことも十分考慮しなけれ ばならない。しかし、そのような条件下の面従腹背ではなくて、内心からヒトラーに従ったのではないか、と思 てわせる事実も多いのである。一九四四年七月二十日事件として知られるヒトラ 1 暗殺未遂事件にしても、軍上層 6 の大部分が面従腹背の人物であったならば、成功する可能性も考えられるのてある。スターリングラード戦のド ィッ軍第六軍司令官パウルス元帥は、最後の土壇場になって、結局ヒトラーの命令にそむいて降伏するのである 三が、その瞬間まで彼はヒトラーの命令に忠実なのであった。もともと、一方で対英戦に行き詰「ていながら、さ 一一らにソ連と戦うのは軍事的に無理な話であった。ナチス・イデオロギーを持たない軍事専門家の軍人たちが、対 の ソ開戦に有効な反対もできなかった内幕は、興味ある研究対象となっている。 そのヒトラーは、敗戦が決定的となった段階になって、側近にあれこれ弁解している。対ソ開戦をもっと早く 三すればよかったとか、日本もソ連を攻撃してくれればよかったとか、アメリカと戦うべきではなかったとか、イ % 第 タリアと手を組むべきではなかったとか。『歴史への証言』はいわばそのような愚痴の記録なのである。しかし
第二次世界大戦の二、三の問題について 本書に収められた三つの記録は、第二次世界大戦のうちヨーロッパの戦争に関するものである。ライアンの 『いちばん長い日』 ( 映画の訳名によって『史上最大の作戦』の名で我が国でも馴染みになっている ) は、オー ヴァーロード作戦の実態について精査した叙述であり、次の『歴史への証言』はもともと『ヒトラーの政治的遺 言』と題して編纂されたヒトラー末期の談話集であり、最後のシュレ 1 ターの『スターリングラード決戦記』は ドイツ軍の文書に基づくスターリングラード戦の記録である。『史上最大の作戦』や『スタ 1 リングラード』は迫 真力を持った精彩ある叙述であり、一気に読み通すことのできる戦記である。『歴史への証言』はその記録者の 名によって『ポルマン文書』とも呼ばれているが、他の多くの演説と違って公衆や外国の反応に対する政治的顧 慮なしに側近に語られたものであり、しかも彼の敗北が決定的となった段階でその内容を吐露したものとして、 。、ーは、ヒトラーを論ずる場合、ヒ 興味ある、また重要な、史料である。イギリスの歴史家・トレヴァ日ロウ / トラーに直接由来する史料だけを重視すべきであると説き、ヒトラーの内心をうかがうための「窓」として、・『我 が闘争』とラウシ = ニングの『ヒトラーとの対話』および『ヒトラー食卓談話集一九四一ー四二年』とこの『遺 言』を挙げている。 とのような戦争であっ ところで、これらの記録を遺した第二次世界大戦が、一体どのようにして始められた、。 斉藤孝 42Z
・レールー・ - ・ーを直ちに動員することを前提とす 。ハリの司令部で、フォン・ルントシュテット元帥も 8 同様の結論に達していた。しかし彼は、まだ、ノルマる。この二師団が即刻出発するならば、今日のうちに ンデイへの攻撃は「牽制攻撃」にすぎず、本当の上陸海岸での戦闘に参加することができよう。このような 作戦ではないと考えていた。しかし、ルントシュテッ事態において、 O ・・は、予備軍を動員す トは行動を起こした。彼はすでに、パリ近郊にいる二る許可を O ・・に求めるものである」 : : : しかし、 それは、記録に残すためだけの、形式的な通信だった。 つの装甲師団ーー第一二親衛師団とパンツアー レ に、集結して沿岸へ急行するように命令を発し南バヴァリアののどかな山の中にあるヒトラ 1 の総 ていた。この二師団は戦術上 O ・・に属していて、司令部、ベルヒテスガーデンでは、通信は作戦部長ア フューラー ルフレッド・ヨードル将軍の部屋に届けられた。ヨー 総統の特別命令がなければ動かせないことになってい ドルは睡眠中だった。彼の参謀は、ヨードルを起こす たが、フォン・ルントシュテットは自分の権限を踏み ほど情勢は重大とは考えなかった。 越えて勝負に出たのだった。ヒトラ 1 が反対するとは、 彼には思えなかった。連合軍が「牽制攻撃」の目標と そこから五キロ離れた山荘では、ヒトラーと情人の してノルマンディを選ぶことは確実と思えたので、彼エヴァ・ブラウンとが、これもぐっすりと眠っていた。 は O ・・に二つの予備軍の動員許可を求める公式ヒトラーが床についたのは、いつものとおり朝の四時 だった。専属の医者のモレル博士が、催眠剤を処方し の通信を送った。 「 O ・・は、もしこれがほんとうに敵の大ていた。ヒトラーは、それがなければ眠れないのだっ 規模な攻撃ならば、それを撃退するには緊急の処置をた。五時半ごろ、ヒトラーの海軍副官カルル・イエス コ・フォン・。フトカーメル提督は、ヨードルの司令部 とる以外にないと確信する。その処置とは、すべての からの電話で起こされた。電話の相手は、ーープトカー 作戦上の予備軍ーー。すなわち第一二親衛師団とパン
準備していた。近代戦史の中に、これ以上強力でおそンでドイツへの、自分の家への長い旅行の用意を整え るべき防御陣地はあるまい。しかもロンメルは、それながら、ロンメルはヒトラーを説き伏せてこの勝負に でも満足していなかった。彼はさらに地下壕を、海中勝っという一世一代の大決心をしているのだった。 障害物を、地雷を、大砲を、人員を要求した。なかで も彼は、比較的内陸部にいる機械化部隊を海岸へ近づ けることを要求していた。彼はアフリカの砂漠で、装 甲師団を率いて輝かしい勝利を獲得したことがあった のだ。だが、この重要なときにあたって、彼もフォ ン・ルントシュテットも戦車部隊を移動させる権限を もっていなかった。ヒトラ 1 の命令が必要だった。総 統はそれを自分だけの権限の下に置くことに固執して いた。ロンメルは連合軍の攻撃を最初の数時間のうち に逆襲するために、少なくとも五師団の装甲部隊を沿 岸に待機させる必要を感していた。それを得る道は一 ヒトラーに会うことだ。ロンメルは何 っしかない 作度もランクにいったものだった 大「彼と最後に話をした者がいつも正しいということに 上なる。ヒトラーとは、そういう男だよ」 六月のこの重苦しい朝方、ラ・ロッシュ・ギュイヨ ビルポックス 7 2
」ドイツ参謀 評しているのも、このような見方によるものである。 ろより出発する」と豪語して、わずか十週ロ ( 、尸本部では三 「ナチ・ドイツは、独ソ戦争の大失敗によ 0 て第二次でソ連軍を撃減した上、モスクワを占領してクレ ムリン宮で城下の誓いをする意気込みであった。 大戦に敗北した。ヒトラーの企てた対ソ作戦の失敗の 「対英戦を終る前に、ソ連を短期決戦で粉砕せよ ! 」 代価は、ほとんど評価できないくらい甚大なものだっ と呼号したヒトラーの重大決断は、すでに一九四〇年 た。しかしソ連もまた少くとも二千万以上 ( 結一。 竏の生命を失 0 た」と、独ソ戦争研究の第一人者十二月十八日にひそかに下されていたのだ。彼はこの アレキサンダ 1 大作戦を、かって欧州全土を支配した神聖ロ 1 マ帝国 ・ワース ( 戦戦後を通じて 0 、一ドンの『サンデ ・タイムズ』モ , クワ特 ) は、彼の大著『戦うロシア、一九の皇帝フリードリ ' ヒ一世 ( ← U 年 ) の通称『赤ヒゲ』 ちな ( バルバ ) に因んで、「 ( ルバローサ』作戦と呼んだ。 四一年ー一九四五年』僉厂」 99 中で解説してい しかし彼の狂信的な雄図は、まず独ソ戦争の第一年 る。そして彼はスターリングラ 1 ド決戦に深入りしす 目に早くもロシアの恐るべき『冬将軍』のために阻止 ぎたヒトラーの心理を、次のように描いている。 「スターリングラードの魅力は、ヒトラーをうっとりされた。そして彼の得意の電撃戦が、ロシアの大雪と ドロの海にのみ込まれて、華々しい空軍力と戦車戦法 と誘惑した。その名こそ、彼の心を大いに引き付けた 記 がマヒした時に、もっとも苦手の大消耗戦に引きずり 戦のだ。しかもこの都市はソ連の大産業中心地であり、 また彼がめざすコーカサス地方巴に対する主力進込まれて大誤算をばくろしたのだ。それはもはや取り 乃撃を防護する重大な防衛側面にある強力な要点でもあ返えしがっかなかった。 ン った。」 独裁者もやはり人間であった。ヒトラーは一九三九 ヒトラーは自から軍事的天才をもって任じ、独ソ戦年九月一日、ポ ] ランド進撃以来、連戦連勝の幸運に ス 争の開始にあたり、「私はナポレオンの失敗したとこ とりつかれた如く、。、 ホ 1 ランドを二十六日間、ノルウ
当然であろうが、ヒトラーはそのような失策を決定した自分のイデオロギ 1 自体の破産には一向に疑惑を持とう とはしない。対ソ戦争についても、彼は開戦のタイミングを弁解し将軍たちの戦術の拙さを非難するけれども、 敗北に直面してから責任をそのような戦術上の誤算に帰しているのであって、それは彼の宿望としての対ソ戦争 が失敗したことのうらみつらみの言葉なのである。『歴史への証言』は論理の支離減裂とヒステリーめいた感情 的な言辞に満ちているが、東方領土の獲得による帝国の建設や反ユダヤ主義などの彼の政治イデオロギーの骨骼 をうかがわせるものである。この中で、ヒトラーは「革命」とか「反動的」とかいった共産主義者まがいの言葉 を用いているが、彼が共産主義を不倶戴天の敵と見ていたことはいうまでもない。一体にナチスの運動と宣伝の 特徴の一つは、既存のさまざまな運動や理論から、都合のよい部分を拾い上げて、その矛盾におかまいなく自分 の言葉のように使うところにあって、ヒトラーの用語法を今日われわれが社会科学的に理解するものと同しに考 えてはならないのである。 ヒトラーによれば、ソ連を打倒し、「ポリシエヴィズム」を絶減して東方領土を獲得して「ヨーロッパ新秩序」 を作ることが「革命」なのであった。彼の考える革命とは、破壊と殺戮のニヒリズムそのものであり、ほかに何 ら建設的なヴィジョンを持つものではなかった。「ヨーロッパ新秩序」の結果何が生まれるのか。彼は『食卓談 話集一九四一ー四一一年』で語っている。「ドイツ大帝国に征服された諸民族には武器を持たせず、教育も与えな 。命令を理解する程度のドイツ語を教える。出産を制限し、病院への入院を禁じて人口の増加を抑える。反抗 する町や村は爆弾で破壊する。奴隷化されたスラヴ族はヘロット階級として存続させて、特権的な貴族階級とし てのドイツ植民者に奉仕させる』。事実その通りになった。ナチス・ドイツの占領政策が「アウシュヴィッ」は じめいかに残虐な人工地獄を生んだかについてはここに説明する必要もないであろう。ヒトラーの考える「ヨ 1 424
洋の壁」は恐るべき要塞であった。そこには巨大な大に墲した。デンマ 1 クは一日で侵略された。内部か しくらか長く抵抗したが、 2 砲が刺のように並んでいた。しかし、ロンメルの考えら侵蝕されたノルウェーは、、 では、これでは十分でなかった。前年、北アフリカでそれも六週間にすぎなかった。そして、五月と六月に は、何の予告もなしに、ヒトラ 1 の軍隊は正確に二十 ントゴメリーに喫した手ひどい敗北を忘れていない ロンメレこよ、、 ノ冫をカならず来るにちがいない攻撃を食い七日間でオランダ、ベルギー、ルクセンプルク、フラ ンスを席巻し、信じられずにいる全世界の目の前で、 とめるのに、これで十分だとは思われなかったのだ。 彼の批判的な目には、「大西洋の壁」も芝居の中の要英軍をダンケルクの海中へ追い落としたのである。フ ランスは崩壊し、残るのは英国ただ一つ。「壁」を 塞のように見えた。こんなものは、ヒトラーの靄のか 作ったとて、ヒトラーに何の役に立とうか。 かった想像から出た幻想だと、彼は広言した。 その二年前には、この「壁」は、いわばまったく存ヒトラーは英国へ進攻しなかった。将軍たちは進攻 ひざ 在していなかったのである。 をすすめたが、英国は膝を屈して和を乞うてくるにち フューラー 一九四二年まで、総統と尊大なナチスは、勝利を確がいないと考えた彼は、待機することにしたのだった。 信していたので、要塞を建設する必要を少しも感じな時が過ぎ、情勢は急速に変化した。アメリカの援助を カった。ハーケン・クロイツの旗がいたるところにひ得、大ブリテンはゆっくりと、しかし着実に立ち直り るがえっていた。オーストリアとチェコスロヴァキアはじめた。東部戦線で大きな脅威を感じたヒトラ 1 は ーーー彼は一九四一年六月、ソビエト連邦を攻撃してい は戦争が始まる前に併合されていた。すでに一九三九 フランスの海岸は、もはや攻撃のためのスプ 年、ドイツはロシアとのあいだでポーランドを分割した リング・ポードではなく、味方の弱点、自分のよろい ていた。戦いが始まって一年とたたぬうちに、西ヨー ロツ。、 , の国々は熟しすぎたリンゴのように、つぎつぎの裂け目とな「たことを理解した。一九四一年秋、 もや
ライへナウ元帥はじっと動かず沈黙していた。彼は方の敗退をも阻止した。かくてライへナウ元帥の進一言 その眼に片限鏡をはめて、右手に葡萄酒の杯を取り上が正しかったことが証明されたのであった。 うやうや げながら、敬々しく目礼して口を開いた。 この年のクリスマスの直前に、ドイツ陸軍総司令官 フォン・プラウヒッチュ元帥がはるばる独ソ戦線の第 「総統 ! 私はそれがただ一時の思いっきにすぎない ように望みます。」 六軍司令部を訪れた。ちょうどその頃に、南軍集団司 この言葉は、天国を猛襲することにも、あるいはま令官フォン・ルンドシュテット元帥は蹙下部隊をミウ た彼の攻撃拒否の決心にも関連することができたもの スの線まで撤退させるように、ヒトラーの承認を求め として、きわめて意味深長であった。 るため、自動電信タイ。フで緊急電報を打電してきてい するとヒトラーは、元帥の顔をまじましと眺めなが た。それには、もしもヒトラーが後退を拒絶するなら ば、誰か他のものを彼の後任に任命されたいと、強硬 ら、「もし貴官が誤りを犯したら、それは大変な悲劇 となるだろう。それはわれわれの将来の関係に重大なな要請が付け加えられてあった。 影響を及ぼすであろう。ライへナウ君 ! 貴官は私に かくて、プラウヒッチュ総司令官が第六軍司令部を 従ってゆくだろうね ? 」 出発した二日後に、ルンドシュテット元帥は解任され ライへナウ元帥は、ヒトラーの言葉が何を意味するて、「休養のため」と称して戦線を離れてフランスへ かをよく了解していた。しかし第六軍が現在の地点に飛び、ライへナウ元帥が新らたに南軍集団司令官に就 あくまで留っていなければならぬ、という彼の決心を任した。しかし軍集団司令官として彼が最初に取った 変史するものは何一つなかったようた。 措置は、彼自身の権限によって、麾下全部隊にミウス 前線の裂け目は塞がれた。また第六軍の側面を固めの線まで撤退を命ずることであった。それから彼は、 ていた有力部隊は北方の破局を未然に防止し、また南ヒトラー総統の大本営に対して、彼の取った処置につ 3 3
の本営の副官、ルドルフ・シ、ムント少将は、総統を十時十五分に、ヘルリンゲンのエルヴィン・ロンメ 起こしにいった。ヒトラーは部屋着のまま寝室から現ル元帥の自宅の電話が鳴った。上陸に関する最初の完 われ、静かに報告を聞き、国防軍総司令官、ヴィルへ全な報告のために参謀長シパイデルがロンメルを呼 ルム・カイテル元帥とヨ 1 ドルとを呼びにやった。両びだしたのだ。ロンメルは唖然として色を失い、こと ばも発せずに、ただ聞いていた。 人が現われたとき、ヒトラーは服を着て待っていた。 それは、「ディエッ。フ型」の急襲ではなかった。ロ 彼は昻奮の極に達していた。 それから行なわれた会議は、プトカ 1 メルの記憶にンメルの生涯を通して役立ってきたあの用心ぶかい本 よれば、「ひじように興奮したもの」だった。情報は能の全体が、とうとう待ちに待った日ーーー「いちばん 不明確であったが、とにかく入手しうるかぎりの情報長い日」になろうと彼がいったことのある日ーーが来 にもとづいて、ヒトラーはノルマンディの戦闘は主力たことを知らせた。彼は、参謀総長シ一バイデルが報 こわね による攻撃ではないと信して、それを繰り返しつづけ告を終えるまで辛抱づよく待ち、それから声色には全 た。ヨードルの記憶では、会議は数分で終わり、しか然感情を表わさないで、静かにつぶやいた。「おれは なんて間抜けなんだ」 も脈絡もなにもないものだった。突然、ヒトラーは、 ヨードルとカイテルに向かって吠えるようこ、 、よじ彼は、受話器をおいて振りむいた。ロンメル夫人の めた、「よろし い。いったい侵攻なのか、そうではな 目には、彼が「この電話てすっかり変わってしまい いのか ? どっちなんだ」。それから、ヒトラーはくおそろしく緊張しているーように映じた。次の四十五 るりと向きを変えて室を出て、会議は終わったのだ。 分間に、ロンメルは、ストラス・フールの近くの自宅に フォン・ルントシュテットに与えられなかった予備装いた副官、ヘルムート・ランク大尉に二度も電話した。 その度に、ラ・ロッシュ・ギュイヨンへ帰還する時刻 甲二個師団の投入の問題は、提起されもしなかった。