、うにみえるということは、敵陣営にも、時代遅れの外 交官がまたいるという事実を物語っている。実のとこ ろイギリスとフランスは、仲間なのである。両方とも、 かなり無愛想に自国の利益だけを図り、友好の訴えな どにはなんら反応を示さないけれども、共通の危険に たいしては、再び団結するのだ。フランス人のドイツ 人にたいする根深い憎しみは、もっと強烈で、英仏間 会の張り合いとはまた別種のものである。この辺に、将 来われわれの熟慮すべき教訓があるのだ。 フランスには、二つの進路が開かれていた。まずフ 年ランスは、イギリスとの同盟関係を捨て去ることがで きただろう。その場合われわれは、フランスにたいし て、将来有望な同盟国としての興味など抱かなかった ことだろう。というのは、機会さえあれば、フランス が、われわれをも同様に見捨てるだろうことくらい、 先刻承知だからだ。つぎにフランスは、同盟国を変え るかのように見せかけることができただろう。その場 合われわれは、フランスにたいして、一層の疑念を抱 いたことだろう。わが陣営の内部で、一部の者がフラ
で、ナポレオンの人気が落ちたかどうか、今のところ つまびらかではない。しかし彼の無能な甥が、メキシ ルイジアナとメキシコ コと一戦交えることで、他の失策を償おうとしたとき には、未曽有の憤激がまき起こったのであった。 一九四五年二月十五日 一九四〇年にすぐさまフランスの労働者階級を解放 しなかったことによって、われわれは、自己の義務を フランス人 果たしえなかったばかりか、利益をもなおざりにした のである。このことは、フランスの労働者階級と同様、 一九四五年二月十五日 海外のフランス植民者にもあてはまることだ。 私は、フランスもフランス人も好きになったことが 植民地支配という重荷をかれらの肩から下ろしてやなかったし、またそのことを、たえず口にしてきた。 ったとしても、われわれは、かれらに恨まれることなしかしかれらの間に立派な人物がいることは、私も認 どまずなかっただろう。このような点自称エリートためる。最近数年間、非常に多数のフランス人が、完全 ちよりも庶民の方が、はるかにすぐれた良識を示してな誠実さと偉大な勇気をもって、ヨーロッパ本位の構 きたし、また国家の現実的な利害を本能的に、そして想を支持したことは疑いない。同じフランスの同胞た ちが、かれらの明晰な洞察力に報いたあの野蛮な仕打 ずっと正確に評価しているのだ。ルイ十五世 ( ←七一 0 四。カナダとインドをめぐってイ ちは、とりもなおさず、かれらの誠実さを実証するも ) の下でも、またジ、ール・ 言ギリス相手に七年戦争を起こした 一八三二ー一八九三。フランスの政治家。首相として、 のフェリ のである。 テ = ニスの合併・西アフリカの踏査・インドネシアの征服 史など、植民地 ) の下でも、民衆は、植民地をめぐる愚劣な 歴拡大に努めた 冐険に反抗していた。ルイジアナを叩き売りしたこと 9 2
である。イギリスは、周知の通り、依然として帝国主われわれは一再ならず、フランスの行動を軽視してき 義的権力をふるっていたけれども、もはや帝国の保持た。多分フランス人は、今後もますます弱化し続ける認 だろうが、そうなっても、フランスにたいするわれわ に必要な道徳的素質をもっていなかった。かれらは、 世界を支配しているかにみえた。しかし実際はかれられの不信を和らげる理由など全くないだろう。フラン 自身が、ユダヤ人に支配されていたのである。イタリスの軍事力など、今では単なる思い出にすぎないし、 アは、古代ローマにひけをとるまいと努めていた。イ軍事面でフランスが、われわれに一瞬たりとも危惧の タリアは、ローマ的野心のすべてをそなえていたが、念を抱かせることなどまずあるまい。今次大戦は、そ 毅然たる精神そして物質的力量という二つの重要な付の結果の如何にかかわらず、少くともフランスを、そ 属物に欠けていた。イタリアのもっていた唯一の切りれ相応の地位、つまり五流国の地位につけてしまった。 札は、ロ 1 マの名に恥じぬ一人物の指導力であった。 しかしあの限りない堕落の力や類いなく巧妙な脅迫術 あの男にとっても、またあの国にとっても、何というをもつ以上、フランスは依然として、われわれに危険 悲劇だったことか。一国民にせよ、一個人にせよ、野をもたらしうるのだ。従ってわれわれの合言葉は、 トイツ国民は、 心をもちながら、それを果たすのに必要な手段も、ま「不信と警戒」でなければならない。 ' たその手段をうる希望さえも全くないということは、 この妖婦の声に惑わされないよう、くれぐれも用心す 悲劇的である。 ることだ。 まだフランスが残っている。私は、自分のフランス そのようなわけで、外国に関する限り、厳正な定則 観を二十年前に書いている。フランスは、ドイツ国民を固守することは不可能だし、政策を変転きわまりな にとって不供戴天の敵だったし、今もそうである。そい情勢に適応させる常日頃の心がけも必要だ。しかし、 の間断なき堕落と頻繁なヒステリー発作にかんがみ、 ドイツがいつも、ユダヤ的汚染を積極的に防止してい
人員を最大限に活用しなければならなかった。その結ていたのだろうが、実のところ情勢の後塵を拝してい 果は明白である。構想とその実現がこのように喰い違たのである。彼は、われわれの取引相手が、ナポレオ ってしまったため、第三帝国のような革命的国家の戦ン時代のフランス、つまり寛容のもつ重要性や甚大な 争政策が、どうしようもなく、プチブル反動主義者ど効果を評価できる国であるとでも思ったらしい。彼は、 もの政策になってしまった。われわれの将軍や外交官フランスが最近一世紀の間に全く変ってしまったとい は、ごくまれな少数を除けば、一昔前の人間なのだ。 う明白な事実をつかめなかったのだ。フランスは、売 そして戦争や外交政策を遂行するかれらの方法も、や春婦になり下がってしまった。今やフラソスは、脂粉 はり過去のものである。このことは、誠実に奉仕するをこらした老娼婦みたいなもので、たえすわれわれを 人々にも、またそうでない人々にも、同様にあてはま欺き、惑わしながらも、勘定だけはかならすわれわれ る。前者は、才能と情熱の欠如ゆえに、また後者は、 に払わせるのだ。 意識的に、故意にわれわれを困らせるのだ。 われわれは明らかに、フランスの労働階級を解放し、 われわれが犯した最大の政治的失策は、フランスのかれらが自身の革命を達成できるように支援すべきだ 扱い方であった。われわれは、フランスと提携すべきった。われわれは、腑抜けで愛国心などもち合わせて ではなかったのだ。その政策は、かれらにはたいへん いない時代遅れのプルジョワジーを、手荒く無慈悲に 有益だっただろうが、われわれには無益だった。ア 1 払いのけるべきであった。ヴィルヘルムシュトラーセ 務 ) の秀才たちが、フランスでわれわれのため ( 一九四〇年から四四年までリ駐在大使がこの政策を ( 省の一」と の唱え、その遂行をわれわれにすすめたとき、彼自身とにみつけてくれた支持者の類を、まあ一目みてみよ。 史しては、たいへん冴えているつもりだったのだろう。 取るに足りない、計算ずくのけちな奸商ばかりで、わ 彼は、自分が情勢を二手も三手も見通していると思っれわれがフランスを占領しているのは、かれらの銀行
預金を保護するためとでも考えたのか、早速われわれけでなく、テュニス、アルジェリア、モロッコでも、 に求愛してきた。しかしかれらは、好機到来とみるや、フランスの権力を強化する仕事にとりかかったのだ。 まず危険のないことを確めた上で、 いの一番にわれわ明らかにわが外交官の「紳士」諸君は、毛なくじゃら れを裏切ろうと固く決めている連中なのだ。 の革命家たちよりもフランスの名士と、またわれわれ フランスの植民地に関しても、われわれは同様に愚の忠実な仲間となったであろうアラブ人よりもわれわ 鈍であった。これもまた、ヴィルヘルムシュトラーセれをたぶらかすことしか考えない喜歌劇合唱団員と親 のおえら方がしでかしたことである。時代遅れの古典交を保ちたかったのだ。かれら権謀術数の専門家がど 的外交官・過去の政権に仕えた軍人・みみっちい郷士んな打算をしているか、私に見抜けないとでもいうの こんな連中が、ヨーロッパ全土を変革しようとすか。かれらは有能だし、それに伝統もある。しかしか るわれわれに、カ添えをするというのだ。現にかれられらが考えていたのは、イギリスに一杯喰わせるため は、十九世紀ならばこうもあろうかと思われるやり方の策略だけだった。なぜならばかれらは、植民地をめ こ、今もな で、われわれに戦争をさせてきたのである。どうあつぐる英仏間の敵対関係といった有名な伝説冫 てもわれわれは、フランスに金をつぎこむことで、フおひっかかっているからである。私のいっていること ランス支配下の諸民族に迷惑をかけるべきではなかっ は、全くの事実であるーーーかれらは、ヴィルヘルム二 た。むしろ、かれらが自由を獲得できるように援助し、世やヴィクトリア女王の治世に生き、ボアンカレ ( ~ 一 5 必要ならば、刺激煽動によっても、そうさせるべきで ー一九 = 一四。フラン = の政治家。 ) やデルカ ' セ ( 一豌二ー一九一一 治家。第一次大 あった。一九四〇年当時、近東と北アフリカでそうい ) といった狡猾な詐欺師たちの世界に生き 戦当時の外相 うジェスチャ 1 に出ることを妨げる理由など、何もなているのだ。実のところその敵対関係は、現在何の意 かった。ところが何と、わが外交官たちは、シリアだ味ももっていない。そんなものがまだ存在するかのよ 290
もちろんイギリスの方も、そのラテン系同盟国から、分の意中を明かすわけには行かなかった。ちょうど私 4 われわれの場合よりも 0 とみごとにだまされたのであがムッソリー = を完全に信頼していたように、彼はチ 一九〇三ー四四。ファシズム時代のイタリアの致治家。ムッソ る。チ = ムパレンは、フランス軍の士気沮喪と非力をアノ ( リーニの長女と結婚、若くして宣伝相・外相の職につく。四三 十分に認識していたら、決して宣戦布告などしなかっ年ム ' ソリー = 追の陰に ) を完全に信頼していた。そし ただろう。なぜならば、疑いもなくイギリスは、フラてもちろん彼は、身辺を蝶々みたいに飛びかう美女た ンスが、大陸の戦闘で十分矢おもてに立てるものと期ちのためなら、何でも洩らしてしまったのだ。われわ 待していたからである。ポーランドのためにちょっとれは、痛い目にあってやっとその事実を知った。敵は、 そら涙を流し、その後はいずれわれわれにその国を分どんな手段によっても、情報を入手しようとする。そ これほどチエムパレンにとっしてかなり多くの秘密が、この経路を通して敵に筒抜 割させてしまうこと けとなった。ムッソリーニにいっさいを語らなかった て容易なことはなかっただろう。 というのも、そういう正当な理由があったからなのだ。 ラテン系諸国には、実質的な弱さにかてて加えて、 途方もないうぬぼれがある。友邦イタリアであれ敵国彼がこの事実を正しく認識せず、私の態度に憤慨し返 フランスであれ、このことに変りはない。両国のその報してきたことは、ただただ遺憾である。 これ ラテン系の諸民族とくんでいいことはない 弱さが、ともにわれわれの命取りとなることだろう。 しすだけはたしかである。それなのに私は、まずモントワ ムッソリーニと私自身との間に生じた不和は、 : レフランス中央部ロワール。、 れも、私がやむにやまれず時折予防策を講じたことに ) てフランスとの提携という / 河の支流にのそむ小邑 起囚している。ムッソリー = 個人には完全な信頼を置無益な政策の実施に励み、つぎにアンデーぞむ小ざ擲 いていたけれども、軽率がわざわいしてわれわれの利 港町で、私西国境の ) では、背信の友たる第三のラテン民族 益をそこなうかも知れない場合など、私は彼にも、自からきざな叙勲をうけなければならなかった。そして
ソスについて行なった希望的観測は、沙汰の限りでどうあっても両面作戦だけは避けるべきだというのが、 2 私の変わらぬ主張たったし、私が、ナポレオンのロシ幻 あった。実際フランスにたいして用いうる政策は、た だ一つーー厳格な不信政策だけであった。私のフランアにおける体験を気にかけながら、長い間熟慮したこ マイソ・カンプ ス観は、正しかったのだ。私は『わが闘争』のなかで、とは、請け合ってもよい。ではなぜこのような戦争を、 えりにえってあのような時に始めたのか、という疑問 予言者的な先見の明をもって、フランスの姿を正確に 描写している。たびたび抗議をうけたにもかかわらず、が生じてもこよう。 な・せ二十年も前にまとめた意見を全然書き変えようと われわれはすでに、イギリスへの侵攻を成功させて、 しなかったのか、私にはよく合点のいくことである。戦争終結にもちこむという希望を放棄していた。また * ヒトラーは再三、著書『わが闘争』にみえるフランス愚鈍な指導者たちに率いられているイギリスのことゆ 関係の部分を重版の際削除もしくは改変するようにと催促え、第三帝国にたいして根っからの敵意を抱く一大強 されていた。しかし彼は、ミ、ンヘン会談の後ですらも、国がヨーロツ。ハ大陸に厳存する限り、ヨーロッ 終始それを拒んだ。ここで彼が言及しているのは、そのこ 立されていたわれわれの覇権も、認めようとはしなか とである。 ( 編者 ) っただろう。そこで戦争は、どんどん続いただろう し、イギリスの背後で、アメリカがますます積極的な 役割を演ずることになっただろう。合衆国の戦力が重 独ソ戦争について 要であること、敵・味方を問わず兵器が進歩している こと、イギリス海岸が近接していることなど、諸般の 一九四五年二月十五日 今次大戦中に私が下さなければならなかった決定の事情を併せ考えても、長期戦にはまりこむことは、わ うち、ソヴェト攻撃のそれほど重大なものはなかった。れわれにとって著しい愚策であった。なぜならば、
あっと驚くような恩恵をイタリアに施したことだろう。 勝利のあかっきには、そのあらゆる成果、あらゆる栄 イタリアとの関係 光を分かち合ったことだろう。古代ローマの正統を継 ぐイタリア国民は世界に冠たるもの、という歴史的神 一九四五年二月十七日 現情勢を客観的に感情ぬきで判断してみれば、私が話の創造にも、われわれは、誠心誠意で協力したこと だろう。全く、どんな事態が生じたにせよ、戦場でイ イタリアとムッソリ 1 ニに揺ぎなき友情を寄せたこと は、やはりまちがいであったと思われても致し方あるタリアの盟友となるよりは、ましだったことだろう。 イタリアは、一九四〇年六月、倒壊寸前のフランス まい。イタリアとの同盟が、実のところわれわれより も敵に役立ったことは、全く明らかである。イタリア軍に鈍刀をひとたち浴びせたい一心から参戦してきた。 の戦争介入は、それがひき起こした数限りない災難とこのため、せつかくフランス側がスポ 1 ッ精神で受け 比べて、きわめてわずかの利益しかもたらさなかった。容れようとしていたわが方の勝利も、冴えない結果に あらゆる努力にもかかわらず、もしわれわれがこの戦なってしまった。フランスは、ドイツ軍に完敗を喫し 争で勝利を逸するとすれば、イタリアとの同盟が、わたことなら認めたけれども、枢軸国の手にかかって敗 北したことなど受け容れようとしなかったのだ。 れわれを敗北に至らしめた一因となっていよう。 イタリアがわれわれのためになしえたであろう最大イタリアとの同盟ゆえに、われわれはいたるところ の奉仕は、この戦争から離れていることだった。イタで、迷惑をこうむった。たとえば、われわれが北アフ リカで革命的政策を遂行できなかったのは、この同盟 リアを控えさせるためなら、どんな儀牲、どんな贈り 物も高くつきすぎることはなかっただろう。もしイタのためである。当然この地域は、イタリアの領分にな りつつあったし、またムッソリ 1 ニも、そのつもりで リアがしつかりと中立を守っていたら、われわれは、
しかし他のいくつかの場合と同様その時も、イタリア蔭で、いまやイギリスの偽善者どもは、驚いたことに、 との盟約を忠実に守 0 たお蔭で、われわれは・ ( スに乗シリア、キレナイカ ( る地かで、現はバルカと呼ばれる りおくれたのだ。 トリポリタ = アビア王国北 ) で、解放者然と構えてい したがってこの作戦地域では、フランス支配下の人られるのだ。 人を解放し、イギリス圧政トの国々で反乱の旗印をか 純粋に軍事的な見地からしても、情勢はあまりよく かげさせるというわれわれの奥の手が、イタリアの妨なっていない。イタリアは、参戦するや否や、敵に最 害にあって実現しなかった。もし実現していたら、回初の凱歌をあげさせてしまった。この事実によって、 教圏全体を熱狂させていたことだろう。よきにつけあチャーチルは国民の勇気を蘇えらせることができ、全 しきにつけ、一部に影響を及ぼすものは全体に影響を世界のイギリス支持者たちは希望を抱くことができた。 及ぼすということが、回教世界の特徴なのである。 イタリアは、アビシニアおよびキレナイカの戦略的地 精神面からいって、われわれの対伊協調政策は、悲点さえ守りきれないというのに、厚かましくも、われ 惨な結果を二重にもたらした。一方でわれわれは、全われの忠告を求めることはおろか、事前通告も抜きに く無益にも、フランスの自尊心を傷つけていた。他方して、無意味なギリシア遠征に乗り出したのである。 この政策に忠実たろうとすれば、フランスの植民地支かれらが蒙った恥ずべき敗北ゆえに 、・ハルカン諸国は、 ゴスラヴィアの 配を維持して、独立運動を北アフリカのイタリア領へわれわれを軽侮の眠でながめた。ュー 蔓延させないための配慮も必要であった。現在これら態度が硬化し、一九四一年春の豹変に至った理山は、 の諸地域は、ことごとく英米両軍の占領下にあるのだそれ以外の何物でもない。そのためにわれわれは、 から、私は、われわれのこの政策がわざわいであった いっさいの計画に反してバルカン諸国に介入せざるを と存分に言えるわけだ。さらにこの下らない政策のおえなくなり、これがひいては、対ソ戦開始の時期を破 298
したが、驚いたことに、散発的な小銃射撃を受けただに抱擁して、危険など全然念頭に置いていないようて げであった。彼らの見たものは、煙でくもる海浜、負あった。 ハリー・ノ 1 フィールド丘 ( 長とロナルド・アレン砲 傷者を手当てする衛生兵や軍医、砂浜をおおう黒こげ の戦車や車輛や地雷で吹き飛ばされた、例の「竿つき手は、「すごく豪華な服を着て、キラキラした ( 消防 さつりく 戦車ーなどだった。だが、彼らの予期したような殺戮隊長の ) 真鍮のヘルメットをかぶった男が浜のほうに のあとは何もなかった。すごい犠牲の出ることを見越降りてくる」のを見て、びつくり仰天した。この人物 して緊張していた部隊にとって、浜は気抜けのするよは海岸から二キロはいった小さなコルヴィルの町長で あることがわかった。彼は、侵入軍を公式に歓迎にゆ うなありさまだった。 く決心をして現われたしだいであった。 スウォード海岸のあちこちには、楽しい休暇のよう な雰囲気がみなぎっていた。あちらこちらに、海岸防何人かのドイツ兵も、フランス人と同様に熱烈に部 御線に沿って熱狂したフランス人が小さな群れをなし隊を歓迎しようとしているようだった。工兵のヘンリ ・ジェニングスは、上陸したとたんに「急いで降服 て、兵士たちに大仰な身振りで「イギリス万歳」と叫 んでいた。海兵のレスリー・フォード信号兵は、一人しようとする一団のドイツ兵」にぶつかった。たいて いは、ポ 1 ランドかロシアの志願兵だった。イギリス のフランス人が浜辺に悠然と立っているのに気づいた。 その男は、彼のまわりの民間人の連中に戦闘を解説し砲兵隊のジェラルド・ノ 1 トン大尉がなによりもいち にているようだった。フォードは、あの連中は完全に気ばん驚かされたのは、もうトランクを用意してフラン 大ちがいだと思った。浜や水ぎわには地雷がやたらに埋スを出るいちばん最初の輸送手段を待っている風の、 まっていて、また散発的ではあるが敵砲弾が飛来して四人のドイツ兵に迎えられたことだった。 スウォード、ジュノ、ゴ 1 ルド海岸の混乱を抜けて、 いたからた。だが連中は、兵隊の首に抱きっき、猛烈 2 ノノ