の上陸企図は失敗に帰し、自分は軍の後退を命じた。 上陸作戦の日時、および地点の決定は入手しうるかぎ幻 りの多くの情報にもとづいたものである。部下将兵、 五歓喜と不安 空軍および海軍は驚くべき義務感と勇敢さとを明らか なんびと にした。もし過誤が犯されたとすれば、また何人かそ イギリスでは、午前九時一一一十分であった。一晩じゅ の過ちの責を負うべきであるとすれば、それは自分で う、アイゼンハワー将軍は、最初の報告を待ちながらある。自分ひとりである」 軍用車の中を大股で歩きまわっていた。いつものよう だが、それから以後上陸予定の海岸に、その麾下部 に西部小説を読んて心を鎮めようとしてみたが、うま隊が歩をしるしたことが確実となったので、アイゼン くいかなかった。そのとき、やっと最初の報告が届い ハワーは全然別のコミュニケの発表を許可していた。 た。それは、脈絡のない断片的なものだったが、大体九時三十三分、将軍付き新聞係官、アーネスト・デ = において悪い報せではなかった。 ピュイ大佐は、全世界に向けて、次のニュースを発表 麾下の空軍および海軍司令官は、攻撃の進展に大いした。 に満足していた。部隊は、五つの海岸に上陸したのだ。「アイゼン ( ワ 1 将軍の最高指揮下に、強力な空軍に 橋頭堡は、まだ確保されたとはいえなかったが、二十よって掩護された連合国海軍は、けさ、北部フランス 四時間前に静かに起草したコミュニケを発表する必要海岸に連合国陸軍の揚陸を開始した」 はあるまいと思われた。上陸攻撃失敗の場合のために、 これこそ、自由世界が待ちにまった瞬間であった。 アイゼンハワーは、こうしるしておいたのだ。 そして戦闘開始の日の到来したいま、人々は奇妙な安 「シェル・フールル・ア ] ヴル地域における連合国軍堵の思いと、熱狂と、不安の入りましった気持ちで、
いたが、ヒトラ 1 は連隊長のレベルまで一切の命令を 事態は結局、悪い結果の他には何も生み出すことがで みずから下して、さらに現地の大隊長に一任されるべ きなかった。 き戦術的決定までもみずから行なっていた。 ハルダー参謀総長は、はっきりした決断を求めた。 ヒトラーは、ソ連軍の作戦上の戦略を正しく評価す ヒトラーはそれを避けた。ハルダー大将は一九四二年 の夏季攻勢行ターリングラードに「 ) に反対していた。ヒることに完全に失敗して、ソ連軍はもはやカが尽きて 崩潰の寸前にあるという先入観をますます固めるばか トラーはこれをあくまで主張していた。 ハルダー大将は兵力を集結して、戦略的守勢を提唱りであった。 「ソ連軍はもうくたばっている。四週間の時がたてば したが、ヒトラーは石油とヴォルガ河が欲しかった。 ハルダ 1 大将は、ヒトラーの戦略計画を遂行するため潰減するであろう ! 」 これこそ、全ドイツ国防軍最高司令官たるヒトラー には使用できる兵力がいかに弱少であるかを、指摘し た。しかしヒトラーはこの助言を払いのけた。ハルダ が本作戦を実施した時の前提条件であった。だが、参 ー大将は、ソ連の軍事力についてヒトラーに警告した。謀総長たる ( ルダー大将が軍事諜報と航空偵察より引 ヒトラーは、このような宣伝を信用するのは間抜け者出した敵軍兵力に関する重要報告を提出した時にも、 記 ヒトラーの先入観は少しも影響されなかった。 だけだと放言した。 ハルダー大将が、ソ連軍の新鋭師団が戦線に絶えず「このようなくだらぬたわ言はごめんこうむるよ ! 」 グ到着しつつあるという諜報をヒトラーに示した時、ヒ と彼はにくにくしそうに一一一口った。 ン トラーはそれはまさに「スタ 1 リン一派の不器用な威しかしハルダー大将の示した報告のなかにはつぎの タ嚇」にすぎないと言い張った。 ( ルダー大将は、野戦ような重大事実が詳細に記されてあった。 「ソ連軍はすでにサラトフ方面に百万の大軍を集中し 部隊の指揮官に通常の決断の自由を許すように欲して 6 3
れたこの元帥が、アレクサンドル・デュマ街のある中 シュテーべはそれから、サン・ジェルマン・アン・ 学校の裏手の、質素な別荘に住んでいることを知って レ 1 のヴィクトル・ユゴー街二十番地にあるフォン・ いる者はさらに少なかった。別荘は壁と格子で囲まれ、 ルントシュテットの司令部 6 ・・ (-ne) へ電 話した。それは長さ百メートル、奥行き二十メートル格子はいつもしま 0 ていた。はいるには、中学校に通 もある四階だての巨大な・フロック・ ( ウスで、とあるじている特別の地下壕か、アレクサンドル・デ = 「街 女学校のかたわらに、丘の中腹に食い入るような形でに面した私用の門を通らねばならなか 0 た。 フォン・ルントシュテットは、いつものとおり朝寝 建てられていた。電話に出た気象部将校のヘルマン・ ミ = 】ラーは、報告をていねいにノ 1 トし、それをルをしていた。 ( 老元帥はもう、十時半より早く起きる ことはまったくなかった。 ) 彼が一階の事務室へおり ントシュテットの参謀総長プルーメントリット将軍に 伝えた。 O ・・では気象報告をひじようにてきたときには、もう正午に近か「た。この事務室で、 重視しており、・フルーメントリ , トは、きようの報告彼は、参謀総長と、その日のうちに O ・・ ( 司令部 を待ちかねていた。彼は司令官が計画した視察旅行のへ送るべき、「推測される連合側の意図」についての 最終段階にとりかかろうとしていた。報告は彼を安心報告を検討した。この報告もまた、特徴的ともいうべ き判断の誤りをおかしていた。 させた。視察は予定の日に行なえるだろう。フォン・ 〈空からの爆撃が組織的に強化されたことは、敵の準 ルントシ = テットは、中尉である若い息子といっしょ に、六月六日、ノルマンディ沿岸の防御陣地を視察す備が完了の段階に達していることを示している。進攻 地点はオランダのレスコーとノルマンディのあいだと るつもりでいたのである。 ・ ( ウスの存在推測される : : : ・フルターニ = の北岸が攻撃を受けるこ サンジェルマンでは、この・フロック を知っている人はほとんどいなかったが、全権を託さともありえないわけではない。しかしまだ、敵がこの
一日ごと、一週ごとにこちらは強力になる。私えた上、作戦総合報告の中にまざってヒトラ 1 の総司 は自信をもって戦いを待ち望んでいる。五月十五日、令部 O ・・ (Oberkommando der Wehrmacht) あるいは五月の終わりごろか : : : 」 へ送られるのだ。 五月十五日、「近ごろでは重要な視察旅行もできな この報告のなかに、ロンメルは、連合軍は「きわめ くなった、いっ侵入があるかだれにもわからないからて高度の準備」を終えており、「フランスのレジスタ だ。おそらく数週間もたたぬうちに、この西部戦線でンス組織へあてた通信の明らかな増加」が認められる 事が始まるにちがいない」 が、「これまでの私の経験によれば、それは上陸作戦 五月十九日、「休瑕を少し早めることができればとが直ちに行なわれることを示すとは思われない」と書 一思っている : ・ ( しかし ) 六月中に何日かさくことがきつけていた。 このときばかりは、ロンメルも誤算をしていたのだ。 できるかどうかわからない。差し当たりそれは問題に ならないだろう」 しかし、六月の休瑕はやはり実現したのだった。休 に出かける決心がついたのは、何よりも連合軍の意 図について、ある見通しをつけたからだった。彼の前 にはいま、軍団の週間報告があった。詳細にしたた められたこの報告は、正午に、フォン・ルントシュ テットの総司令部へ、すなわち軍隊用語でいう O ・ ・ (Oberbefehlshaber West) へ送られる はすだった。そしてそこでいくつかの追補と文飾を加
ラ・ロッシ・ギ、イヨンのロンメルの部下の将校たはいなかったのだ。 二つの総司令部では、将校たちが、地図の上に突然 ちにとって、それは奇妙な、常規を逸した時間だった。 情報はありあまるほどはいったが、不正確で、ときに出現した赤いマークの評価に懸命だった。軍団の将 は意味がとれず、どれも互いに矛盾していた。 校たちは O ・・に電話して情勢を検討した が、引き出した結論は、実情を知っていたら信しられ パリにある空軍司令部は「五、六十機の双発機がコ タンタン半島上空にあり、パラシュート部隊がカンのないほど楽観的なものだった。たとえば 0 ・・ 付近に降下した」と報告してきた。いつぼうテオド の情報将校デルテイハッ ( は、連絡のために軍 ル・クランケ提督の司令部は、英軍パラシュート部隊団を呼び出したとき、「参謀総長はきわめて平静に事 の降下を報じ、敵は海軍の指揮下にある沿岸砲台の一態に直面している」「マークされたパラシュ 1 トはお つの近くに着陸したと、いくらか神経質につけ加えたそらく撃墜された爆撃機の乗員た」と聞いたのをお・ほ うえ、「パラシュ 1 ト兵の一部はわら人形である」とえている。 述べていた。どちらの報告も、コタンタン半島のアメ 第七軍ではそうは考えなかった。午前三時には、ペ リカ軍については一言も触れていなかった。ところがムゼルは敵の主力はノルマンディに向けられていると 同じころ、ユタ海岸を見おろすサン・マルクフの海軍 いう確信に達していた。地図の上には、コタンタン半 砲台は、十人あまりのアメリカ兵が捕虜になったと島とオルヌ川の東岸にわたって多くのパラシュート部 シェル・フールの司令部に報告していた。最初の報告か隊がマ 1 クされ、シェル・フールにある海軍部隊からは レ 1 ダーがセ 1 ヌ河口に接近しつつある多くの船舶を ら数分後、空軍司令部は電話で第二の報告を送り、 ラシュ 1 ト部隊がべイユー付近に降下したと報じたが、キャッチしたという情報がはいっていた。 上陸作戦が開始されたことを、。ヘムゼルはもはや疑 じつはこの地域には一人のパラシュート兵も降下して Z38
へ飛行させる命令が下された。 一八三〇時までに、八機がこの偵察任務から帰還し て、次の通り報告した。 「四機は、ドイツ軍前線があったと推定された地区で いかなる活動をもまったく観測しなかった。また二機 をいかなる確実性をもって報告することができなかっ よ ま た。ただし残る二機は、なにか動くものを見かけたよ うに思ったので、その積載物資を投下した。」 内 それでミルヒ空軍元帥は、さらに六機を派遣するよ うに命令した。その偵察結果は一三〇〇時に受信され、 ン次のような無遠慮な言葉で報告された。 「敵の対空防衛は、はなはだ強力である。ドイツ軍部 ス隊が守り抜いていた、いかなるポケット地帯も見きわ 墟めることはもはや不可能であるし、またそここよ、 なる砲火のしるしもない。敵の馬の牽く部隊と自動車 、融′輛化部隊が、あらゆる方向をめざして廃墟の町を経て 移動中であり、またいろんな色彩の曳光弾がなんの明 瞭な意味や目的もなしにさかんに発射されつつある。」 4 それ以来、ユンカース型輸送機はもはやまっ 1
最大の狼狽をもって迎えられたが、それはたしかにかきない。彼はみずから生命を惜しむか、それとも不減 2 に生きるか、この二つの間の選択の自由を持っていた ねて予期されないことではなかった。 ヒトラ 1 総統は、外見上は、第六軍のギョッとするのだ。どうして彼は、永遠に生きる不減の戸口に立ち ながら、のめのめと捕虜になって生き残ることを選ふ ような最期にも無感動のままであった。なぜこのよう なことが起らねばならなかったかに関して、彼が主張ことができたのであろうか ? 私は、どうして元帥た した理由は、彼がすでに四週間前に言明し、さらに十るものが、このような馬鹿な選択をすることができた か、わからない。しかしドイツ第六軍は決して死減し 一月末にも繰り返していた通りであった。 「第六軍の犠牲は、新らしい戦線をもっと西方に立ててはいないよ、ツアイツラー君 ! その麾下の各師団 をただちに再編成するように取り計らい給え。」 直すことをできるようにさせるために必要であった。 この同じ日の一五〇〇時に、偵察機の操縦士の報告 天候と、氷雪の恐ろしい苛酷な冬が予期したよりも早 巾ゲーリング国家元帥の後任とし ) の司令 く到来した事実とが、空輸補給の失敗の責任を負うべが、 ミルヒ空軍元 ( 自てドイツ空軍総司令官となる きものである。運命の穰は神の力によって、ドイツに部列車の机上に提出された。 不利に傾いたのだ。万能の神の行動は測り知れないも「報告第一七一一号、一四〇六時、スターリングラー ドにはいかなる戦闘の形跡もなし。」 のである。」 ミルヒ空軍元帥はこの報告に満足せず、スターリン 二月二日午後、ツアイツラー参謀総長はヒトラーに、 スターリングラードの北方ポケット地区の最後の抵抗グラードの戦闘地域についてさらに偵察を行なうよう もついに終ったことを報告した。ヒトラ 1 はその電文に命令した。また同地域で、はたしていかなるドイツ 軍部隊がまだ最後まで戦い抜いているかどうかを確認 を読んでから言った。 「私はパウルスが捕虜になったことを信ずることがでするために、補給用輸送機十機をスターリングラード
夛一「第六軍は弾薬、燃料、武器その他の装備品の全面的 「敵軍の包囲を突破する攻撃の開始以来、第一一歩兵 2 不足を報告す、食糧状態は別電にて報告す、それに伴 軍団はその重火器の五十パーセントを喪失せり。」 「第一高射砲大隊のコンドル部隊は、地上部隊としてう要求も後電す。」 ドン作戦で戦闘用意をするであろう。」 「ハッサジノの滑走路は弾薬、燃料の輸送を受取るた 「第一四甲師団は粉砕されたり。残存部隊は西方めあけてある。」 「カラチの主軍用弾薬庫は命令通り爆破したり。」 へ撤退中。」 「第四八甲軍団へーー総統の命令により ( イム中「第二四甲師団はあと七日分の燃料を有するのみ なり。」 将は即刻、大本営へ出頭するため飛来すべし。」 「悲劇的失策によりカラチのドン河渡河点はいまソ連「ミコシ = で将校団は南へ脱出するため戦闘中。」 「第四四歩兵師団は全補給部隊と予備貯蔵物資を喪失 軍の手中に帰す、カラチは防戦中なり。」 「第六三七宣伝中隊へ ドイツ軍宣伝局は報告を要せり。」 求す、戦闘苦難を強調せよ、包囲されたことに言及す 血戦死闘のあけくの果て るな、総統は大反撃を計画中なり、この目的のため準 備が進行中なることを留意すべし。」 「総統はマンシタイン元帥麾下の第一一軍の司令部十一月二十二日夕刻、一八〇〇時に第六軍司令官パ 全員をただちにノヴォチ = ルカスクに急行するよう命ウルス大将翕 ) は、無電で次の通り報告した。 令せり。」 「わが軍は包囲されたり。英雄的抵抗にもかかわらず、 「アダム大佐は至急、ポケット地帯内の第六軍司令部ツアリツア全河域、ソヴィエッキよりカラチに至る鉄 へ出頭すべし。」 道、カラチのドン河鉄橋、ゴルビンスカイヤに及ぶ西
始まっていた士気の崩潰のいかなる兆候もここにはな なし。わずかに六個師団の各部隊と連絡を維持するの っこ 0 、カュ / みなり。南方、北方、西方の各戦線の諸部隊の崩潰は これらの地下室の中では、彼らの五本の指はもはや明白なり。有効なる指揮はもはや不可能なり。東方戦 銃の引金を引くために動かなかった。また彼らは、最線にも変化はほとんどなし。一万八千の負傷兵には繃 後の一弾まで射ちつくして戦い抜いていた一部の兵士帯と薬品の補給まったくなし。」 の如く 、防空壕の中ですすり泣きながら坐っているよ「第四四、第七六、第一〇〇、第三〇五、第三八四各 うなこともなかった。 歩兵師団は撃減されたり。三方面より敵の強力なる突 「たとえいかなる儀牲が、各個人としてのわれわれに破攻撃を受けて、前線は四分五裂す。これ以上の防戦 要求されようとも、それは見当違いである : : : 」とヒ は意味なし。潰減は不可避なり。第六軍は残存する各 トラーは、かって皮肉にも語っていたものである。 部隊の生命を救うために、降伏の即時許可を要請す。 パウルス ( 署名 ) 」 『降伏を禁ず、最後の 一一六時に着電し この無電報告は、総統大本営に一 一弾まで戦うべし ! 』 たと記録されている。これに対して、ヒトラーは次の 通り、パウルス第六軍司令官宛に返電した。 一月二十四日、第六軍の無電送信機は、陸軍最高司「降伏を禁止す。第六軍は最後の一兵まで、最後の一 令部に宛てて、次のような絶望の報告を打電した。 弾まで、その陣地を死守すべし。その英雄的忍耐力は、 「第六軍は、いまなお連絡を保つ麾下各軍団の報告、防衛戦線の確立と西欧世界の救済に忘れることができ または各軍団司令官より入手せる個人的情報に基いた ない寄与をなすであろう。」 戦況判断を次の通り報告すーー各部隊は弾薬も食糧も そして、ヒトラーはパウルス軍司令官を陸軍元帥に
発することになっていた。護衛はなく、ロンメルの車 と、同行する軍団作戦部長のハンス・ゲォルゲ・ フォン・テンベルホ】フ大佐の車の二台だけで、いっ 三朝の報告 もの習慣どおり、通過する先々の軍隊の指揮官たちは、 ロンメルの通過を知らされていなかった。ロンメルは 廊下のはずれにある参謀長室で、ロンメルの副官へそのほうが好きだった。見せかけだけの虚礼や、地区 ルムート・ランク大尉 ( 三十六歳 ) は、毎朝の報告を司令官の馬上の晴れ姿や、街の入り口と出口に整列し た護衛のオ 1 トバイ部隊にかかずらわって、時間を無 したためていた。それはいつも、朝の最初の仕事だっ た。ロンメルは、朝食のときに、参謀とそれを検討で駄にするのが大きらいだったのだ。お忍びの旅行なの きるように、報告を早朝に受けとることを望んでいたで、うまくいけば、三時には十分ウルムに着けるはず 守 - 」っこ 0 のである。だがけさは、特に変わったことはなかった。 ド 1 ヴァー海峡一帯がいつに変わらぬ爆撃を受けたの いつも問題になるのがロンメルの昼食だった。ロン を除けば、大西洋戦線は平静を保っていた。もはや疑メルはタバコも吸わず、酒もまれにしか飲まなかった。 いの余地はなかった ほかの兆候を考慮にいれない食物を気にせぬ性で、ときには食事を忘れているほど でも、この猛烈な爆撃は連合軍が攻撃地点として選ぶ だった。ランクとともに長い旅行のスケジュ 1 ルを検 にのはこの方面であることを十分に示していた。上陸す討しているときなど、予定されたメニューをえんびつ 大るつもりなら、まさしくそこにちがいない。ほとんどで消して、太い文字で黒々と「移動式食堂で食事のこ 上だれもがそう信じていた。 と」と書きこむことがあった。ときには、「カツレッ ランクは時計を見た。六時数分前。彼らは七時に出をつけさせたいのなら、おれに遠慮しなくていいそ」 たち 5