リングラード並びにそこのドイツ軍を待ち受けていたもルーマニア第三軍の右翼が押しもどされるのを阻止 不吉な運命について暗示を与えたはずである。だが、すべき命令を受けていた : : : 百台以上の戦車が配属さ 彼がその先入観にとりつかれた意見を少しでも訂正しれていた中でわずか三十台余りが指定の集結地区に到 着していたのみであった。私は、かかる時に、かかる たような形跡はなに一つ起らなかった。 ハルダー参謀総長がいくら警告をこころみても無駄状況の下で、もしも指揮官がその部隊の戦闘力を可能 であったし、その後任のツアイツラー大将もまた同様な最高度へ到達させるために最大の努力を行なうこと であった。そしていまや、『疲れ切った敵』が再び立を怠るならば、それこそ将校の義務のもっとも重大な ち上って、六個軍団の兵力をもってドイツ軍の戦線を怠慢とみとめるものである。」 かくして、ハイム中将はただちに無線電話でヒトラ 突破してしまったのだ。しかも、その突破地点こそ、 これまでにヒトラーに向って何百回となく指摘されて ー総統大本営に召喚されたが、これについて独ソ戦線 いた弱体個所であった。 で奮戦中の直属上官の軍集団司令官ワイクス大将も、 果然、この失態の責任をとるべき身代りの犠牲を見また陸軍最高司令部のツアイツラー参謀総長一切知 らなかった。両将軍ともヒトラーの激怒は承知してい 出すことが必要であった。それは適当に見つかった。 ハイム中 すなわちヒトラーは毎日、上級将校全体に通報する総たが、それはなにか誤解によるものであり、 統命令日報の中で、全責任を第四八機甲軍団司令官将を叱責する理由はまったくないと信じていた。 ところが総統大本営に恐る恐る出頭したハイム機甲 ブハイム中将に負わせようと企てた。同軍団はルーマニ ン 軍団司令官は幕僚長カイテル元帥から陸軍より解任、 ア軍と協力して同じ前線に配備されていたのだ。 タ「ーー敵の攻撃または突破の場合には、この機甲軍団追放、勲章剥奪の上、モアビットの陸軍監獄へ拘禁す はただちに反撃を行ない、かついかなる犠牲を払ってる旨を言渡された。そして即日、軍用機で監獄へ護送
計画についてはもちろんーーー空挺作戦の規模についてレンヌのクリークス・シュビールに出かけた指揮官を つかまえるのが最初の間題だった。大部分はじきに連 明確な概念を得ることはむずかしかった。上陸なの か ? ノルマンデイへ来るのか ? そうした疑惑をい絡がついたが、コタンタン半島にいた師団のカルル・ だいたのは第七軍だけだった。しかしパラシュ 1 ト部フォン・シュリーベンとヴィルヘルム・ファレイは見 つからなかった。フォン・シュリーベンはレンヌのホ 隊は、実際の上陸作戦ーーだれもが上陸地点だと考え ているドーヴァー海峡付近の第一五軍の占領地域に対テルで眠っており、ファレイはまだ途中にいたのであ る。 するーーーから注意をそらすための牽制かもしれなかっ 西部海軍司令官のクランケ提督は、ポルドーへ視察 た。第五軍の参謀総長ルドルフ・ホフマン少将は、上 に出かけていた。彼の参謀総長はホテルにいる提督を 陸は自分の地区に行なわれると確信していたので、ペ ムゼルを電話で呼び出してタ食をおごる賭をしたほど起こして、いった。 だった。「この賭は君の負けだね」とペムゼルはやり「カン付近にパラシュート兵が降下しました。 O ・ 返した。しかし、このときには軍団にも O ・・・は、これは牽制攻撃でほんとうの上陸で はないといっていますが、海軍は敵の船舶を探知して にも、はっきりした結論を出すだけの資料はな います。われわれはこれはほんとうの上陸たと思いま かった。彼らは英仏海峡の沿岸地帯に警報を発し、 ラシュート攻撃に対する処置を指令すると、あとはたす」クランケは直ちに指揮下の二、三の部隊に待機態 だ新たな情報を待っていた。ほかにしようがなかった勢をとらせ、自分は急いでパリの司令部へ向かった。 のだ。 ル・アーヴルでクランケの命令を受けとったハイン だが、間もなくノルマンディの各司令部には、つぎリヒ・ホフマンは、ドイツ海軍の中でも伝説的な存在 だった。彼は快速哨戒艇の艇長として勇名をとどろか つぎと情報が到着しはじめた。い くつかの師団では、 ノ 4 ひ
飛行隊は沿岸にいるべきです。移動の途中で敵が攻撃めにはげんでいた。この冷静さと無関心な外観も彼ら してきたら、いったいどうなるというのです。資材やの役目の一部をなしていた。それはフランス・レジス 補給物資は明日か明後日でなければ新しい基地に着きタンスの指導者たちであった。 彼らの大部分はパリにいて、そこから複雑な組織に ませんよ。みんなどうかしているんだ ! 」 「聞きたまえ、プリーレル」と指揮官は答えた、「上命令を下していた。この組織は一つの軍隊のようなも ので、司令部と数えきれぬほどの専門機関をもち、そ 陸は問題にならないよ、天気が悪すぎる」 。フリーレルは乱暴に受話器をかけると飛行場に出た。の末端はスパイや暗殺にいたるまであらゆる仕事を引 飛行機は二機残っているだけだった。プリーレルのとき受けていた。まず各地区の指導者があり、次に各部 門の長があり、その下に数千の男女の隊員がいた。紙 ハインツ・ヴォダルジック軍曹のとだ。 の上で見るこの組織はあまりに多くの部門にわか 「これで何ができるというんだ」とプリーレルはヴォ ダルジックにいった。「しかし、もしやつらが上陸しれているので、無用に錯雑しているように思われたか もしれない。だがこの複雑さは計画的なもので、そこ てきたら、おれとおまえと二人で攻撃を撃退しろとい う命令が出るかもしれないそ。まずはたらふく食ってにレジスタンスの力がひそんでいた。組織の網が複雑 なために、それそれの行動の成功が保証されるのだっ おくことだな ! 」 た。組織全体の骨格はまったく秘密にされていたので、 作フランス全土で、眠らずに待ち続け祈り続けている各系統の指導者たちは他の指導者を変名で知っている 大数百万の人々のうちで、上陸がさし迫っていることをだけだった。あるグループは、隣のグル 1 。フが何をし 上知っている者はほんのひと握りしかいなかった。そのているのかをけっして知らなかった。レジスタンスが 数は全部で十人あまりだった。彼らは冷静に毎日の勤生きのびるためには、こうするより仕方がなかった。
ン・ライへナウ元帥に向ってもう一度、前進するよう の線に後退を余儀なくされたのであった。 に説得しようとこころみ、彼の得意のあらゆる弁舌を さらに南軍集団の右翼もまたソ連軍の強大な圧迫に よって大きなクサビを打ち込まれて、タガンローグのふるって努力した。しかし元帥は、ドイツ軍の南北両 戦線て起りつつある戦況の重大化を指摘しながら、こ 附近で激烈な防禦戦闘を続行中であった。 フォれを拒否した。 ヒトラーは、当時の第六軍司令官ワルター・ 「総統 ! わが軍はその陣地を保持し、敵のいかなる の中将突破、攻撃をも粉砕するものであります。」 議ルス だがヒトラーは頑として自説を主張してきかなかっ 会テル 戦ュウ た。それでライへナウ元帥はとうとうこう答えざるを 作シバ , を二とン官得なくなってしまった。 一デ令 ラ一司 「総統 ! もし貴下がそのように命令されるならば、 トゾ軍 でン第六軍は進軍するでしよう。しかしそれは私の指揮下 ヴフ で行動するものではありませんよ。」 ス ヒトラ 1 はびつくりして、元帥の顔を睨みつけるよ ポ左 イ うに見詰めた。そして会議用のテープルを廻って元帥 一日部ヴ の方へ歩み寄った。 月首 ン 5 軍 「貴官の率いる第六軍のような軍勢をもってすれば、 フ 天国をも猛襲できるものですそ ! 私は貴官の恐怖心 3 を理解できないし、また同感するものてもない ! 」
へきとう 境方面の赤軍は地上兵力と航空兵力とも開戦劈頭の電年二月、第二十回ソ連共産党大会でフルシチ , フ第一 ! くろ 撃戦で潰減的損害を蒙った。 書記翕 ) によ「てはじめて、映露、非難され、スタ 1 リン格下げの主理由の一つとなった一方、ト ( チェス それに加えて、スターリンは赤軍の生みの親といわ キー元帥はじめスタ 1 リンの手で不当な赤軍粛清の犠 れた陸軍参謀総長トハチェフスキー元帥を、スターリ ン暗殺陰謀の中心人物として一九三七年六月十二日、牲にな「た元帥、将軍たちは名誉回復が行われた。 逮捕銃殺して以来、三年間にわたり赤軍幹部の大粛清 を実行して、将軍クラスの九十パーセント ( 司官十三 名、軍団司令官五十七名、師団 独ソ戦争 ( 一ー ) 主要経過表 ) と大佐クラスの八十。 ( ーセン 長百十名、旅団長二百二十名 ト龕跚万 ) をすでに追放、処刑したので、赤軍の統帥 マ一九四一年六月一一十二日ードイツ軍、ソ連へ大挙、進攻 部ははなはだ弱体化して、高級将校の指揮力が落ち、 す。独ソ戦争開始。 軍隊の士気も沮喪して、数十万の将兵の降伏、捕虜が ▽七月三日ースターリン、ソ連国民の決起をラジオ放送で 続出したものであった。 訴う。 かくてスターリソの油断と赤軍の大粛清のため、独 ▽七月末ードイツ軍機甲部隊、キエフ攻撃のために転進す。 ソ戦争はソ連敗北の寸前に追込まれたが、ヒトラーの マ九月十七日ーキエフ攻略戦で、ドイツ軍はソ連軍の大兵 力を包囲、撃減す。 作戦指導の誤りと、酷烈な『冬将軍』が平年より一カ 十月二日ードイツ軍、モスクワ進撃を再開す。 月以上も早く到来したお蔭で、スターリンは奇蹟的に ▽十二月二日ードイツ軍、モスクワに対する最後の攻撃に 第一年を持ち越して赤軍建て直しのチャンスをつかん 失敗す。 だわけである。 マ十一一月五日ージューコフ元帥指揮のソ連軍反撃を開始す。 ▽十一一月七日ー ( 日本軍の真珠湾攻撃により太平洋戦争開 このスターリンの責任問題は、彼の死後の一九五六 414
「総統の命令により、『スターリングラード要塞』の そ」と迫まった。 北方戦線は第五一軍団司令官サイドリツツ中将の指揮 しかしパウルス軍司令官は、両手をテー・フルの上に 下に置かれ、また南方戦線は第六軍司令官パウルス大 拡げた地図の上につきながらキッパリと言い放った。 将の直接指揮下に置かれる。。ハウルス大将はまた全般 「軍人の本分は服従である ! 」 かくてスターリングラードの悲劇は、またパウルス的に、『スターリングラード要塞』にも総指揮権を行 使するものである。」 第六軍司令官の悲劇でもあった。 この総統命令によって、行動の自由を狙っていたサ 「われわれは服従せねばならぬ」と軍参謀長が見解を 述べると、パウルス軍司令官は重ねて、「私は総統命イドリツツ将軍は、敵軍の包囲を単独でも突破強行せ んとする企図がきわめて困難になった。 令に服従する」と言明した。 いまや悲劇の第二幕が始まったのである。 しかしサイドリツツ将軍は強硬に、この決定に不満 であると声明して譲らなかった。 そむ 絶望の地獄の戦い 「私はたとえヒトラーの命令に背くとも、ドイツ国家 記に対する軍事的責任を完遂すべきであるという見解を 支持する。故意に、われわれがいまいるところに踏み最後の土壇場で、ヒトラーは第六軍の救援のために クリミャ攻略戦で輝しい勇名を轟かせた名将マンシュ 一留まることは、軍事的見地からみて犯罪であるのみな らず、ドイツ国家に対するわれわれの責任に関してもタイン元帥を起用し、新らたにドン方面軍集団を編成 ン して、同元帥をその総司令官に任命した。この軍集団 犯罪行為である ! 」 タそれから数時間後に、またもヒトラー総統大本営かの兵力は、第四機甲軍と第六軍とルーマ = ア第三、 ら第六軍司令部へ次の無電が届いた。 第四軍より編成されていた。しかし時すでに遅く、ま 3
フランス人の情婦といっしょに狩りに出かけていて連 前にレンスへ向け出発されることのなきよう》 しかし、すでに遅かった。何人かの指揮官はすでに絡不能だった。 出発したあとだった。 ( 原注 ) ・の後で、ヒトラーは将校たち こうしたわけで、ロンメルの部下の将官たちは、一 が同時に出発したという暗合に衝撃を受け、イギリ 人また一人と、まさに戦いの前夜にその部署を離れて スの秘密機関がこれに何らかの役割を演じていない 、った。彼らにはそれそれりつばな理由があった。し かを知るため、調査を始めようとさえした。 かし、まるで気まぐれな運命が彼らの出発の日を一致 実際のところ、ヒトラーも、将軍たちと同様、攻 させたかのようだった。ロンメルは軍団作戦部長の フューラー 、冫いた。西部 撃を予測していなかった。総統はベルヒテスガーデ フォン・テンベルホーフとともにドイノこ ンにいた。海軍副官のカルル・イエスコ・プトカー 海軍指揮官のテオドール・クランケ提督は、哨戒艇は メル提督は、ヒトラーがおそく目をさまし、正午に 悪天候のため出港不能だとフォン・ルントシュテット いつもどおりの会議を開き、四時に食事をとったの に連絡した後、ポルド 1 へ向けて出発してしまった。 を覚えている。情人のエヴァ・プラウンのほかに、 コタンタン半島にいる第二四三師団の指揮官ハイン 何人かのナチスの高官とその夫人たちが彼といっ ・ヘルミッヒ中将と七〇九師団のカルル・フォ しょにいた。菜食主義者のヒトラーは、食卓に肉類 ン・ンユリ 1 べン将軍はレンヌに向かって出発してい のないことを婦人たちにわび、最後にお得意の注釈 た。第九一空挺師団長のウィリアム・ファレイ将軍も、 「象は最強の動物である。そして をつけ加えた 大やはり出発しようとしていた。フォン・ルントシュ 象はけっして肉類を食べないのだ。」食後、一同は 上テットの情報将校のヴィルヘルム・メイヤー・デトリ フューラーしな′ 史 庭に散歩に出て、そこに腰を落ちつけた。総統は科 ンク大佐は休暇をとっていた。ある師団の参謀総長は
のだ。 うだと、だれもが期待していたーー・架空の上陸作戦は 「議論でおもしろい夜が過ごせそうだよ ! 」 ノルマンディに行なわれることになっていたからであ サン・ローにある第八四軍団の司令部では、情報将ゑ 校のフリートリヒ・ハイン少佐が別の会合の準備を整しかし、第七軍の参謀総長マックス・。ヘムゼル将軍 えていた。彼は上等のシャ・フリ産ブドウ酒を何本か注は、このクリークス・シュ。ヒールに不安をいだいてい 文していた。真夜中に、将校たちがそろって、ちょうどた。マンスにある自分の総司令部で、彼は午後いつば 六月六日が誕生日にあたる軍団長のエリッヒ・マルク いそのことを考えていた。ノルマンディとコタンタン ス将軍のところへ押しかけようというのだった。この半島方面の指揮官たちがそろって同時に部署を離れる 夜の「押しかけパーティ」を思いついたのは、マルク というだけでも危険である。彼らが司令部を離れて一 スが翌朝早くレンヌへ出発することになっていたから夜を過ごすということになれば、なおさらである。あ だった。マルクスはそこで、ほかのノルマンディ地区る者にとっては、レンヌは駐屯地からかなり離れてい る。彼は、指揮官たちが夜明け前に前線を留守にする の指揮官たちとともに、クリークス・シビール ( る一の戦争遊戯 ) に参加するはずだ 0 た。マルクスは自つもりなのではないかとおそれていた。夜明け前、そ 分の演すべき役割を面白がっていた。彼は「連合軍れがペムゼルは心配だった。ノルマンディに上陸が行 側」をもっことになっていたのだ。このクリークス・ なわれるとすれば、第一波の攻撃が加えられるのはか シュビールはオイゲン・マインドル将軍の計画したもオ よらず明け方であろう。彼はクリークス・シュピール のだったが、将軍がもとパラシュ 1 ト兵だったので、 に参加する者全員に通告を出す決心をした。彼はテレ 海からの上陸に先立っパラシュート部隊の攻撃がゲー タイ。フで命令を発した。 ^ クリークス・シュ。ヒールに ムの呼び物になるはずだった。面白いゲームになりそ参加される将校その他の上級将校は、六月六日未明以 るす
将軍のように。ハラシュート兵と鼻をつきあわせた人々 にさえもーーーわからなかった。 「何もない」と彼はティーン中尉にいった。しかし、 ライへルトは自分の司令部への攻撃なのだと思いこ 名状しがたい不安を感して、彼はつけ加えた。「おれ み、軍団指揮官への報告にもそう記した。この報告は はここに残る。あれは誤りの警報だったかもしれない やがて第一五軍の総司令部に達したが、簡単に、「細 が、何かが起こるかもしれないからな」 目を欠く」と書きこまれただけで処理されてしまった。 漠然とした、互いに矛盾しあう報告が、ノルマン ディ地方の第七軍の各司令部に集まっていた。将校た今までに何度も誤った警報が出たことがあったので、 人々はひじように用心深かった。各中隊の指揮官は情 ちはそこから何かを引き出そうと懸命になっていた。 情報はいずれも貧弱だったーーおぼろげな人影が見え報を大隊へ伝える前にもう一度考えなおし、確かめる ためにパトロ 1 ルを派遣した。大隊の指揮官が連隊へ たとか、銃声が聞こえたとか、パラシュートが樹木に ひっかかっていたとか。確かに手がかりにはちがいな通報する際にはさらに慎重だった。このような不完全 い。だが何の手がかりなのか ? 降下したのはわずかな情報を基礎にして、まちがいかもしれない警報を発 五百七十名だったが、この数は最悪の混乱をひきおこすることは、だれにとっても気の進むことではなかっ た。こうして、時は刻々と過ぎていった。 すにはちょうどよかったのだ。情報が大ざっぱすぎ、 レンヌのクリ 1 クス・シュ。ヒールに参加するために、 不明瞭でばらばらなので、もっとも経験を積んだ将校 たちも懐疑的になっていた。いったい何人の敵が降下二人の将官がすでにコタンタン半島をあとにしていた。 したのか。二人か、二百人か。撃墜された爆撃機の乗三人めのヴィルヘルム・ファレイ将軍ーー・・空挺第九一 員なのか。フランス・レジスタンスの攻撃なのか。確師団のーーーも、ちょうどこのころ出発しようとしてい かなことは、だれにも , ーー・・第七一一師団のライへルト た。第七軍の総司令部から、将官たちに夜明け前に出 っこ 0 ノ 08
いた。さらに、小さな台所と、電話交換器と、化学薬しかし、その使命の重さと絶対の権力にもかかわら 品による浄化装置のついた便所と、ガラスばりの運転ず、すぐにつこり微笑を浮かべるこの中西部出身の日 台がついていた。しかし最高司令官は、これらの設備焼けした男には、連合軍の最高司令官らしいようすは を十分に利用するほどそこにとどまっていることはけ少しも見られなかった。風変わりな帽子とか派手な勲 っしてなかった。事務室と客間はほとんど使わなかっ章とか、何かの特徴ですぐに人目をひく連合軍の他の た。参謀たちの集会はたいてい大きなテントで行なわ主脳たちとちがって、アイゼン ( ワーは、その控えめ なようすがかえって目につくぐらいだった。階級を示 れた。人の住んでいるように見えるのは、彼の私室だ けだった。客間は彼の性格を反映していた。小寝台のす四つの星章を除けば、彼は、胸のポケットの上に薄 い飾りのリポンと、肩の上に、連合軍派遣部隊の剣の そばには西部小説がひと山積み重ねてあり、妻のマ、、 ーと、ウ「スト・ポイントの制服を着た二十一になるついた楯形の徽章をつけているだけだった。彼の軍用 車には、彼の権威を示す何の特徴もなかった。しかし、 息子の写真が、額ぶちに入れて置かれていた。 この軍用車から、アイゼン ( ワーは、三百万に近い室内の、べッドに近いところには、きわめて重要な用 連合軍を指揮していた。その半分を越える百七十万は途をもった三つの電話器が置かれていた。三つは別々 アメリカの陸海軍だった。英軍およびカナダ軍は約百の色に塗り分けられていた。赤はワシントンとの緊急 万に達し、残りはフランス、ポーランド、チェコスロ連絡用、緑はダウニング街十番地のチャーチルのとこ ヴァキア、ベルギ 1 、ノルウェー、オランダの兵士かろへ直通するもの、そして黒は、彼の有能な参謀総長 ・べデル・スミスをはじめ、その他の連合軍 ら成っていた。アメリカ人が、これほど多くの国籍の、ワルター これほど多くの兵を指揮し、これほど重い責任をにな指揮官との連絡用だった。 上陸作戦に関する誤った「至急報ーが発せられたと ったのは、歴史上かってないことだった。 たて