を切り開いて北西方よりスターリングラード市内へ突 すませた大兵力 ( 機甲兵団多数を含む ) を集結してい るものと推定せねばならぬ。 入し、これを占領するために派遣されるべし したがって、わが軍はスターリングラードをめざし 麾下各軍団の作戦 ) 。 〔訳注〕パウルス中将 ( 当時 ) 麾下のドイツ第六軍 てドン河を渡り前進するにあたり、正面の敵軍の抵抗 と、わが前進部隊の北側面に対する猛烈な反撃とを考の兵力編成は次の通り、精鋭部隊を包含して必勝を 慮に入れねばならぬ。ただし過去数週間にわたって打期していた。第二四機甲軍団、第五一歩兵軍団、第 一四機甲軍団、第八歩兵軍団、第一一歩兵軍団、第 ち込まれたわが軍の殲減的痛打は、敵軍があくまで防 一七歩兵軍団 ( 約二十五個師団 ) 衛戦闘を戦い抜く手段をすでに破壊しているであろう。 二第六軍はカラチースターリングラード間の鉄道 四日並びに時 ( 攻撃開始日時 ) は特別命令を 線の北方でドン、ヴォルガ両河の間の地峡を占拠し、 もって後達すべし。 その北方並びに東方の前線を防護すべし。 五各軍団の作戦境界線は付属地図に明示してある この意図をもって、わが軍はベスコヴァトカ及びオ ストロヴスキーの中間でドン河を渡るべし。軍主力の通り。 戦目標点はヴェルティアチの両側とす。わが軍の北側面六第八航空軍団は、わが軍の攻撃に航空支援を与 えるであろう。その主力目標点は、まず最初は第五一 に沿って与えられる掩護兵力の下に、機甲部隊並びに 乃自動化歩兵部隊はロソシ = カ河とカレナイア河の水源歩兵軍団の作戦地区とし、その後で第一四機甲軍団の ン の中間の高地を突破、前進して直接、スターリングラ前進線へ転移すべし。 ドの北方地区に進出し、さらにヴォルガ河岸に到達七八月二十一日払暁現在の軍司令部所在地はオシ ス すべし。これと同時に、わが軍部隊は戦闘しつつ進路ノヴスコイ工とす。
第六軍の死減の日は急速に迫って来た。混乱した各ゲを生やして、ソ連軍の補助部隊から援助を求めるこ とであった。その補助部隊の中には、ドイツ軍からい 部隊では、兵士個人がそれそれ自分の決心をきめて、 踏み留まって捕虜になるか、逃亡を企てるか、それとろいろな資格で雇われて働いていたロシア人の女が、 も戦い抜いて玉砕するか、あるいは自殺するか、つい 大勢含まれていた。 第五一軍団の司令部員は、命令なく集団脱出してし に最後の覚悟を固める時が到来した。 数百名の兵士は逃亡を企てる決心をした。彼らが成まって、軍団司令官ただ一人が取り残された。また第 功するかも知れないチャンスは確かにあった。しかし四軍団の幕僚も同様に集団逃亡していたし、第六軍司 その成功の見込みは一対百で乏しかった。そこからド令部でも諜報部の将校連中が同じような企図をひそか ィッ軍主力の主要前線までの距離は、二百キロから二に考えていた。さらに第八軍団でも、一月二十六日に 百八十キロの間と推定されていたが、その当時までに同じ事件が起り、青年将校のシュテンベル中尉は戦友 たちを連れて、第七一歩兵師団の地雷源を突破して、 は実際の距離は三百二十キロ以上になっていた。 彼らの大半は、まず西方に向うことに決めた。それ凍結したヴォルガ河をめざして逃亡した。要するに逃 はこれが逃亡する最短コースであったからだ。しかし亡するのも、また脱出するのも、彼らのたた考え一つ 彼らの約三分の一は、南方めざして脱出することを選であった。そしていたるところに絶望の感情がみなぎ んだ。さらに少数の兵士は、凍結したヴォルガ河を渡っていた。 また他方では、捕虜になる方がましであると選んだ って東方へ逃亡する計画を立てた。それは最後にドイ 兵士たちもあった。 ツ軍の第一七軍か、第一機甲軍の許にたどり着くこ 「なぜロシア人はわれわれに向って彼らの烈しい怒り とを念願していたのだ。だがもっと手の込んだ巧妙な 脱出計画を作った兵士もあった。それは彼らがアゴヒをぶちまけて、恨みを晴らさなければならないのか ?
史上最大の作戦 軍事基地の 配置 空挺部隊の基地・ / : ~ 上部隊の発基地、一 : ロンドン 100Km ダンケル . フォン・ザルムート カレー・ 0 第 15 軍 トゥールコアン ( サウスイック : 、 - シェルプール ディエップ ル・アーヴル ロンメルおよびシュバイデル B 軍団 サン・ジェルマン・アン・レー フォン・ルノトシュテット OB WEST 0 マルクス 第軍 ラ・ロッシュ・ギイヨン ノくリ プレスト レンヌ 0 マンス ドルマンおよびペムゼル 第 7 軍 の終わりと独軍占領下での千四百五十一日めの始まり とを意味するのだ。 歩哨の姿がいたるところに見られた。カモフラージ 用の帽子をつけて、二重格子のついた城の番所にも、 村の両端に設けられた柵のところにも、粘土質の崖を 背にした哨舎にも、城を見おろすくずれかけたやぐら の上にも立っていた。このやぐらからは、占領下のフ ランスでも、もっとも占領のきびしいこの村の、あら ゆる出来事が見おろせるのである。 牧歌的なようすはしているものの、ラ・ロッシュ・ ギュイヨンはじつは牢獄だった。村とそれに近接する 地帯の住民一人に対して、三人以上のドイツ兵がいる 勘定だった。これらの軍人の一人が、西部戦線におけ る最強のドイツ軍軍団の総指揮官、陸軍元帥エル ヴィン・ロンメルにほかならなかった。彼はラ・ロッ シュ・ギュイヨンの城館に、その司令部を置いている のだ。 第二次世界大戦の五年めのこのもっとも重要な時に あたって、緊張しきって、ほとんど死にもの狂いにな がけ 9
八本命令の内容は、麾下各部隊長へのみ伝達され第五一歩兵軍団はヴェルティアチとベスコヴァトカ たし。とくに当該部隊による将来の作戦に関連ある部で橋頭堡を確保することになっていた。そうすれば、 ′ / ツアー 分のみを通達すべし。 そこから第一四機甲軍団は第一六機甲師団と第三、 本命令は飛行機によって通達すべからず。本命令の第六〇自動化歩兵師団を伴って進撃し、東方へヴォル 中、麾下部隊長へ伝達すべき部分の機密の性質に厳重ガ河まで押し寄せることができた。ドン河の渡河攻撃 な注意を要す。 は最初、八月十九日と決定していたが、その後に八月 二十一日に変更された。 軍司令官パウルス ( 署名 ) 挺身攻撃部隊は夜の闇にまぎれて、その発進地点に 八月十六日未明、第八歩兵軍団はアカトフの両岸で集結していた。この挺身攻撃を実際に遂行する部隊は、 ドン河を渡河し、橋頭堡を確保した。しかし、これは第七六歩兵師団に属する第一七八、第二〇三両連隊と 独ソ戦争を通じて、もっとも正気の沙汰ではない戦闘第二九五歩兵師団に属する第五一六、第五一七両連隊 行動の一つであった。それから八日後に、この橋頭堡であった。 は放棄を余儀なくされて、ドイツ軍はその東岸に三百突撃の前夜は、よく澄みわたり、星が夜空にまたた の死体を置き去りにして退却した。 いていた。風は南東から吹いて、薄い靄がドン河の水 また八月十九日までに、第四機甲軍は南方より前面上に漂っていた。視界の関係と、敵の機雷源を掃蕩 ゼロアワ 進して、スターリングラードーカラチ間の鉄道の二十する便宜上の理由のため、戦闘行動開始の零時刻は〇 九キ〔以内まで進出していた。ドン河の西岸では、第三一〇時 (æ純」計犯和顰〈て一に鞆しと決定され 六軍の挺身攻撃用の各師団が待機中であった。その任ていた。 務はそれぞれすでに割当てられていた。 なんの準備砲撃も行なわずに、第六軍の挺身攻撃部 もや 4 4 3
ツ軍部隊として、一八三五時にヴォルガに到達せり、 八月二十三日二三一〇時付で、次のような報告が、 パノッア 第一六機甲師団から第一四甲軍団にあてて野戦用第二機甲連隊の一中隊もス。 ( ルタコフカを占領す、敵 電話で送られた。 の抵抗は当初は微弱なりしも、次第に強化されつつあ てきだん り、北方より強大な攻撃が予期さる、第八航空軍団よ 「戦闘部隊たる第七九機甲擲弾連隊は一番乗りのドイ り絶大なる支援を与えられたり。」 すると、半時間後にヒトラー総統大本営からつぎの ような無電通信が同師団へ届いた。 「第一六機甲師団はいかなる状況の下でもその現在位 アドルフ・ヒトラー」 置を確保すべし。 もしも、この当時に、スターリングラードを攻撃す るために北方で作戦に使用できる歩兵二個師団があっ たならば、この兵力はほとんど血を流さずして同市を ざ攻略していたことであろう。 しかしながら、スターリングラード市内では、ドイ ャグ車ツ軍の歩兵部隊がまだ進入できないうちに、ソ連軍の ン戦 リの抗戦は地面より文字通りまるで魔法のごとく出現して タ師いた。まだ作業中であった最後の工場では、最後のク ス甲 へいきしよう リスティ戦車が熔接されていた。兵器廠はカラッポで あり、武器を取ることのできるものは全員が武装して
昇進させた。 いよいよこれが最後の作戦会議のために、各軍団司 令官が第六軍司令部に召集されたが、とくに南部ポ ケット地区の各師団長も司令官に随行して参加した。 まず戦況が討議され、さらに各軍団、師団の状況が いかなる措置を取 説明された。そしていまや問題は、 兵るべきかを決定することであった。各将軍は全体から みて、抗戦を止めることに賛成した。ただハイツ将軍 の と。フフェファ 1 将軍の両人だけが、あくまで抗戦を続 も ( けることを望んだ。その理由は、彼らもその部下の部 づ隊を無意味に犠牲にすることを決して願ってはいない っ を が、すでに受領した命令に服従する覚悟をしている、 攻というわけであった。 中将は、この緊急会議で一一一口 第六軍参謀長シュミット 明した。「降伏は間題にならぬ、われわれは最後の一 弾まで戦うのだ ! 」 そしてパウルス軍司令官もこの言葉を繰り返した上、 「命令はあくまで命令である ! 」と付言した。 かくて最後の局面が幕を開けたのである。 397
ヌの詩の暗号一つだけであった。 八二、八九の各軍団、ベルギーおよび北部フランス の指揮官、軍団、防空第一六師団、英仏海峡方面 海軍軍管区、ベルギーおよび北部フランスの空軍部 ダッチとあだ名されている第八二空挺師団の二等兵 隊へ。すでに通報されしはずなる O 放送の暗号ア 1 サー・・シュルツは、準備を完了していた。飛 行場にいるすべての兵士たちと同じように、彼は降下 は、当方の情報によれば、『六月六日午前零時より 二十四時間以内に上陸作戦が行なわれること』を意用の服装に身をかため、右腕にパラシュートをかけて 味するものなり」 いた。顔には炭を黒くぬり、頭は、この夜のすべての ハラシュート兵と同様、てつべんにほんの少し毛を残 リストの中には第七軍も第八四軍団もないことに 気づかれるであろう。イヤーにはこれらに通報すしてイロクオイ ( 色赤 ) 風に刈りこんでいた。まわり る義務はなかった。これらの戦術単位は軍団の一 には持ってゆく装備があった。用意はまったく整って 部をなしていたのだから、責任はロンメルの司令部 いた。数時間前に稼いだ二千五百ドルのうち、今は二 十ドルしか残っていなかった。 にある。それにしても不可解なのは、なぜ O ・・ 、 ~ いたる大西洋 兵士たちは彼らを飛行機まで連んでいくトラックを が、オランダからスペイノこ 戦線の全ドイツ軍にもれなく警報を発すべきだと考待っていた。ダッチの友人のジェラルド・コランビが、 片隅でまだ続けられていたさいころ賭博を抜け出して えなかったか、という点である。大戦の末期には、 ドイツ軍は・に関する十五以上の暗号を解ダッチのほうへかけ寄ってきた。 と称していた 「二十ドル貸してくれ ! 」 大読したー・・・ーーしかも正しく解読した 上 ことを考えると、不可解さはさらに深くなる。私が 「何にするんだ。おまえは死ぬかもしれないんだ・せ」 史 「よし、じゃあこれをやる」コランビは自分の腕時計 ドイツ軍の文書の中に発見した暗号は、ヴェルレー 9
険をおかそうとはしなかった。ワーリモントは、あと リ郊外の西部軍総司令部では、ヨードルの決定は で「ヨードルの決定はヒトラーの意のあるところを汲たいへんな衝撃を与えた。みな耳を疑い、参謀長ツィ幻 んだ決定であった」と回想している。 ンメルマン中将の記愾では、ルントシュテットは「も ヨードルの態度は、「権威国家における権威の欠如」のすごく怒り、顔面は朱に染まり、腹立ちまぎれに何 の明白な実例のひとつだという感じがした。だが、ヨをいっているのかわからない」ありさまだった。ツィ 1 ドルの決定をあげつらうものは、だれもいなかった。 ンメルマンも、自分の耳を疑っていた点では同じこと 彼はプルーメントリット を電話で呼びだした。ヨー であった。夜中、 O ・・への電話で、ツインメル ドルが軍事的天才と考えているヒトラーという人物の マンは、ヨードルの副官フリーデル中佐に、西部軍総 気まぐれによる以外に、装甲師団の出動を決定させる司令部は装甲二個師団に警戒警報を発した旨通報した。 ものはないのだった。 ツインメルマンが今でも苦々しく思い出すのは、「だ 同しような状況を予期していて、ヒトラーとこの門 れもこの処置に反対したものはなかった」ことだ。い 題を討議したいと思っていた士官が、ベルヒテスガ 1 まもう一度改めて O ・・へ電話をしてみて、フォ ン・・フットラー・ デンから車で二時間たらずのところにいた。 プランデンフェル少将と話したが、 ロンメル元帥はウルム近郊のヘルリンゲンの自宅に彼はヨードルの態度をそのまま真似て烈火のごとく怒 いたが、全般にわたる混乱のうちで、忘れさられてしりたけって、ほえるようにこういったのだ。「装甲師 まったようたった。軍団の丹念に記録された戦闘日団は o ・・の指揮下にあるんだ。われわれの承認 誌や記録には、ロンメルがその時間にノルマンディ上なく警報を発する権限など貴官にはない。すぐ取り消 陸の報に接していたと推定されるような事実は、一語しを命ずる。総統の明白な命令なしでは何もしてはい も記載されていない。 かん ! 」
準をつけて一発射ち、あるいは斉射をこころみた。 下部隊の全減する間、みずからも最高の勇気を発揮し 第六軍司令官はかねて、彼の麾下師団がどれくらい て健闘した。しかし彼の軍勢は馬で矛く三十七ミリ対 の間、ソ連軍の大逆襲に持ちこたえられるかを問合わ戦車砲と通常の野砲の他には、重兵器も長距離対戦車 せていた。第八歩兵軍団司令官 ( ィッ中将はちょうど砲も、ぜんぜん持っていなかった。彼らは長い間、強 この朝、「鎖はそのもっとも弱い環だけの強さを持っ力な重火器を提供してくれるように、アントネスコ元 ています」と回答したばかりであった。 帥を通じて再三、ヒトラ 1 へ懇請していたが、その希 ドイツ軍の前線を張りめぐらす鎖の中で、もっとも望も約東もついに実現されなかったのだ。 い環はルーマニア軍であった。ソ連軍の数千台の戦 嵐の中のスターリングラード 車と数万の大軍は、その弱体の各部隊を各個撃破して、 突破したのであった。ルーマニア第三軍は文字通り、 まず ちょうつがいー ソ連軍の大反撃も、ルーマニア軍の前線が突破され その大事な蝶番を外してしまった。その東翼は潰走し、 西翼はわすか数時間以内にチール河上流まで撃退されたことも、ドイツ陸軍参謀本部を驚かせなかった。そ れは、ただ来たるべきものがついに到来しただけのこ とであった。参謀本部では前線を強化する手段をまっ なぜルーマニア軍は鎖の中のもっとも弱い環であっ たのか ? 実際、それは四個師団の兵力を持っていて、たく持っていなかったし、またヒトラーは適時に前線 の撤収を許すことを拒否していた。 とくにラスカール中将指揮下の二個師団は最後の一兵 まで戦い抜いた。しかし彼らは強大な戦車の前にはま戦局はきわめて重大化したと認められた。ヒトラー ったく無力であった。 はソ連軍の突破、進撃を知るや、烈火の如く怒った。 ル 1 マニア第三軍司令官デイミトレスク大将は、麾しかしルーマニア第三軍の潰減は彼に対して、スター 8 3
せており、戦争の初期以来、自分の強力な小艦隊をひ進しているのだった。 きいて英仏海峡に出没して、遭遇する船に手あたりし この連中は少なくとも行動に移っていた。しかしこ だいに攻撃を加えていた。ホフマンはまた、ディエッ の夜もっとも手持ち無沙汰だったのは、おそらく、か 。フのときにも勇名をはせ、さらにドイツの装甲艦シャ っては有名なロンメルのアフリカ軍団に所属していた ルンホルスト、グナイゼナウ、。フリンツ・オイゲンが恐るべき第二一機械化部隊の、一万六千二百四十二人 一九四二年劇的な英仏海峡横断を行なったとき、大胆の兵士たちであったろう。カンの南東の村や小部落や にもそれを護衛したのだった。 森に駐屯していたこの部隊は、すぐに出動することの 総司令部の命令が到着したとき、ホフマンは水雷艇できる唯一の装甲師団、実戦の経験のある唯一の装甲 ー四号の上で機雷敷設の用意をしていた。彼は直ち師団だった。 に他の艇長たちを召集した。彼らはみな年若く、ホフ 警報が発せられるとすぐに、士官や兵士たちは戦車 マンが「おそらくは上陸だ」といっても驚かなかった。や装甲車のそばに待機し、エンジンをかけたまま出撃 彼らはそれを予想していたのだ。六隻の水雷艇のうち、命令を待っていた。戦車部隊の指揮官へルマン・フォ 準備ができているのは三隻だけだったが、ホフマンはン・オッペルン当フロニコウスキー大佐は、どうして 他の艇を待ってはいられなかった。数分後、三隻の水こう待たされるのか理解できなかった。二時少し過ぎ、 雷艇がル・アーヴルを出港した。ー号の艦橋では、彼は司令官のエドガール・フォイヒティンガー将軍に に白い水兵帽をいつものとおりあみだにかぶって、三十起こされたのだった。「オッペルン、たいへんなこと 大四歳の艇長がやみの中を見つめていた。背後には他の だ、敵が上陸したんだ ! 」と将軍は息を切らせながら 上二隻の水雷艇が縦列をなして進んでいた。彼らは二十 いった。将軍は状況を説明し、この師団は命令があり 三ノット以上の速力で、史上最大の船団の前面へと突しだい「直ちにカンと海岸のあいだの地域を掃蕩す