といいあったのであった。 ″の海岸で私 一週間後、私は、″ィージ 1 が撮ったのが、上陸作戦についてのもっともすぐれた 翌朝、船はウェイマス港にはいった。上陸作戦に参写真だったということを知った。しかし、残念ながら、 加の許可がとれなかった新聞記者が群れをなして海峡暗室の助手は興奮のあまり、ネガを乾かすさい、過熱 の対岸に達し、しかも帰ってこれた人間の最初の体験のためにフィルムのエマルジョン ( 乳剤 ) を溶かして、 談を記事にしようと、われわれを埠頭に待ちかまえてロンドン事務所の連中の目の前ですべてを台なしにし てしまった。 百六枚うっした私の写真のうちで救われたのはたっ 私は″オマハ″海岸への報道写真家として選抜され た八枚きりだった。 たうちの一人だけは、二時間前にすでに帰還してたが、 熱気で・ほけた写真には″キャパの手はふるえてい その男はすごい特種をもってロンドンへと急ぐ途中で あるという話をきいた。しかし、彼はけっして母船か た″と説明してあった。 ら離れず、戦闘の海岸へ行こうともしなかったという のだ。 私はすっかり英雄扱いにされた。そして、ロンドン けで私の体験を放送するために、飛行機の提供の申し込 ズみを受けた。しかし、私は昨夜のことを忘れきれなか とったので、その申し出を拒絶した。私は数本の新しい よフィルムをバッグにつめ、服を改めて、数時間後に波 止場へとって返し、次の船便でフランスへ発った。 ・レッド 173
私は心からそう思っている、と答えた。 1 の玄関で、私たちはクリスに会った。ビンキイは別 0 「そうかもしれないわね。 : : : あなたは落下傘を背にれのキッスをすると、回転ドアーのむこうに消えてい して飛行機からとびおりる勇気を持っているのに、 自動車のなかで、クリスに二人の夜のことを話した。 方では、つまらないホテル付きの刑事にびくびくした いのちをかけての恋をすることをこわがった彼はできるだけ早いうちに。ヒンキイをパリにつれてい くことを約東した。 りなさるのね。・ : : ・私、 ハリにいってもいいわ」 彼は、ふたたび司令官口頭命令の威力をかりて衛兵 そういって、彼女は顔の化粧をなおし、お茶をつい でスプーンでかきまわした。彼女はみちがえるようなの監視を切り抜け、私を郵便飛行機に乗せた。飛行機 ビンキイになった。。、 , リではアルペ 1 ジの香水が買が飛びたつ前に、彼は 00 ( 司令官口頭命令 ) は、 えるかどうか、イヴニング・ドレスを着る機会があるほんとうは "Very 0 「 dina 「 Y Capa G0ing" ″しごく つまらないキャパのお通り″の意味なんたといった。 かどうか、戦時記者の制服でいくときタイ。フライター そして、「。ノ 、リにはホテルづきの刑事がいないこと 、リではどんなところ を持ったほうがいいかどうか、。ノ にいっしょに住めるのか、などを知りたがった。私は、をのそむよ」とつけ加えた。 「あまりいうと怒る・せ」と、彼にやり返した。 ハリにはなんでもあること、ホテル・ランカスターの 居心地のいいことを彼女に話した。 お茶もトーストも冷たくなってしまったが、朝食は ひじように明るく楽しかった。 午前七時やっと目をさましたホテル・ド 1 チェスタ っこ 0
渡し、司令部に報告するために去った。私は意気消沈私は無罪を表明した。委細をつくし、異常なる熱を もって。しかし、熱すれば熱するほど私のことばは英 してべッドに横になった。新調の戦争記者の服のは いった箱がかたわらに置かれていた。もうこの箱をあ語らしからぬものになった。無罪だと説明している最 中なのに彼らは私の英語をやめさせて、彼ら同士のあ ける必要なんかありやしない。 いだで論議をはじめた。 だが、この確信は間違いだった。 私のほうは彼らの英語はよくわかった。まさにある この午後、アメリカ軍報道部は、「私を軍属として 登録せざるを得ない、すなわち軍属以外の民間人は軍意見の一致を見ようとしかけたとき、扉があいて、わ 法会議の対象にはならざるゆえ」と通告してきた。 がビショップ中尉を従えた報道部の長官がはいってき 私はその箱をあけた。 ビショッ。フは起立し、平然として、彼らに、 翌朝、私は予備尋問に出頭した。それは、報道部員キャパは丁とでた賽の目を半といったわけでもなく、 と諜報局員とで協議する会議に先立っておこなわれる だいたいそんなことをいえる知識もなくーーー・軍用食の あきかん ものである。彼らの仕事は軍法会議でどのように私が空罐とノルデンの爆撃照準器の区別さえっかないのだ。 告発されるべきかを、決定することであった。 今度の事件はすべて不可抗力のセイテンのヘキレキの ごときものである、と証言してのけた。 私が到着して、ます最初に気づいたことは、私の制 本にかじりついているわが陪審員たちは、空飛ぶビ ショッ。フのこのすばやい戦闘態勢に対して、まったく 服と彼らのものと寸分たがわすびったりと一致してい ることであった。私は、これは、かえってャブ蛇にな機先を制せられた形だった。 らねばよいが、と心配した。 かくして私は当局からお叱りを受け、放免されたー こ 0 6 2
クエンティン・レイノルズによって占拠されている いたく サヴォイ・ホテルの中の、大きく贅沢な二間続きの部 二われ君を待っ 屋が、コリャーズ誌のオフィスになっていた。彼は・フ ラック・コ 1 ヒ 1 のコツ。フを手にしながら、いっしょ 1 ト・キャ。、 に飲まないか、と誘った。 ロンドンの海軍省の報道士官は、ロく と印されたファイルから報告書を取り出しながら私を海外電報や新聞が、部屋いつばいに散らかっていた。 迎えた。彼は私を見やり、報告書を一瞥すると、私の新聞は、ドイツ軍の北アフリカ侵入について絶叫して 旅行が有意義であったことを望むといった。同時に新 いた。ニュ 1 ヨーク事務所からの電報は、キャパは、 聞記者がいつもやる、大げさに話をでっちあげないで、ただちに該地に向かって進発すべきであるとわめいて 商船隊について正確に書くだけにとどめてほしい、と いた。レイノルズは淡々として、私がすでに正式に陸 つけ加えた。そしてさりげない調子で、掃海艇や海軍軍軍属になっているかどうか尋ねた。私は、いまだか の情報関係についてのいかなる体験談も、それを公表って軍属に編入どころか、アメリカ陸軍はもちろんの することは検閲官が許さない。それは貴君の本来の仕こと、まったくの話、ただ一つ ( ンガリーを除いては、 事でもないのだから、ということをいい添えた。最後どこの軍隊ともぜん・せん縁はなかったと答えた。そし に私が帰ろうとするとき、彼は、コリヤ 1 ズ誌のオてコリヤ 1 ズ社が、私の ( ンガリー人であることを知 フィスが私の到着について問い合わせてきているが、 らなかったのかと、彼と同様に大いに驚いたふりをし きっと、あなたの連絡を待っているのだと思う、と告 げた。 彼は、私がすぐにも、ふたたびアメリカに帰ること いちべっ こ 0
がら、結局、その戦争に魅入られるように死んでいった。 彼は戦争写真屋とよくいわれるが、決して好戦的な人間ではなかった。この手記のなかでもはっきり書いてい るように「スペイン以来、血と戦いの写真を撮りつづけて来た私だが、七年経った今でも、負傷や流血の現場を ま紹介したキャ。ハの経歴をみても分るように、彼はナチス 見ると、ひどく胸がむかついてくる」のであった。い 的な反ユダヤ政策の迫害に半生をさいなまれ、それだけにファッシズムに対する挑戦の意志なり、姿勢なりが一 貫していて、彼の戦争写真のどれをみても、戦争のメカニズムのなかに暴力的にうばわれてゆく人間的な暖い体 温を回復しようという意欲が切々とせまってくるのである。 ハラシュ 1 ト の降下作戦が見事成功して、連合軍はシチリア島を占領したのち、さらにイタリア本土に上陸を 開始し、ナポリの市に入る。このときの情景をキャパはつぎのような感動的な文章でえがいている。 「私のホテルへゆく狭い道は、ある小学校の前に黙々として、行列する人の群れでふさがれていた。それは食糧 配給のための列ではなかった。その建物から出てくる人は帽子を手にしているだけだったから。私は行列の尻に ついて、学校の中に、はいっていった。そこで私が見たのは、甘い、がしかし、むかむかする香りの花と亡骸で あった。 部屋の中には二十の粗末な柩がおかれて、その亡骸を蔽う花はまばらに、しかし柩は小さすぎて子供たらのよ 市ごれた、かわいい足さえかくしきれていなかったーー・子供とはいうもののドイツ人と戦えるほどの年齢で、そし 争て殺されたのであった。それにしても子供用の寝棺は彼らには小さすぎた。 日、ドイツ丘 ( と この子供たちは鉄砲と弾を盗んできて、われわれがキウンツィ峠に釘づけにされていた十四日門
んでいた。ヘミングウェイという人間のことで何かきりになっているこのロンドンの町をいつまでもうろ つきまわるのは、つくづくいやけがさしてきたし、ビ しゃべり、私に急いで急患室へくるようにとのことだ った。駆けつけると、二百十五ポンドもある親爺が手ンキイはこの状態を私以上にいやになっていた。 ついに、彼女は少なくとも二週間は療養所でおくる 術台の上にいて、頭には大きな傷口がひらき、鬚は血 まみれ、医者たちはちょうど麻酔をかけて、傷を縫うことを条件に、退院を許された。療養所はロンドンか ところであった。ところで親爺は丁重に。ハーティの礼ら二十マイル離れたアスコットにあって、聖マリア会 をいうと、彼を水槽の中に投げ込んだ例のドクターも、の尼僧たちが運営していた。 かなりひどい怪我をしてるはすだから見にいってくれ 。ヒンキイをつれていくのにハイヤーをやとって、私 へいくよう命じた。 と頼んだ。四十八針も縫われて、親爺の頭は見違えるは運転手にアスコット ようにまっさらになった。その急患室では私が彼をパ 、え、ベルグラーヴ・スクエア二十六番地」とビ 。ハと呼んでいたので、ここでは私はキャパ ヘミングンキイが、、だしたので、私は「アスコット へ」とく ウェイということになった。 り返した。 「あなたにそんな命令する権利はありません : : : 私の 五月も終わりだった。イングランドの太陽は暑さをお腹じゃないの」とビンキイは抗弁する。お腹は彼女 け加え、上陸作戦は延期され、病院もいっこう面白くなのものでも、行く先の選択権は彼女のものではないの スかった。私は。ヒンキイを愛してはいたが、もう戦線に ロンドンの郊外を過ぎると、野原は緑におおわれ、 ととって返し、ビンキイが元気で私を駅に迎えられるよ ようなときに帰ってきたかった。 春の真ん中を車はつつばしった。 私には病院通いや、彼女が花や看護婦たちに囲まれ「たった二週間のことだよ」と私はいいきかせた。 : 」 0 なか 9 9
てあなたを待ってたの」 : : : そしてすばやく涙をふき連合軍の兵士たちは町にあふれて、居酒屋ではウィ とると、いつもの。ヒンキイの調子で「私のおなかの傷スキーにことかいた。この砂漠の唯一のオアシスは、 痕はロレーヌの勲章の十字みたいにかわいいの、そしザ ・リトル・フレンチ・クラブと呼ばれる場所だけだ てじきに薄くなるのですって」 った。そこは、フランスの同情者たちと、一人の英国 やっと口をきく余裕をとりもどした私は、彼女がよのインテリ婦人によって創られたところで、自由フラ くなったらお祝いをすることを約東した。そして医者ンスのひとびとにはいちばん廉価であり、同様に連合 がやって来て私と握手すると、パ ーカーさんと呼んだ。軍の兵士たちの渇もいやしてくれた。とにかく、この 私は自分のあだ名のキャパと呼んでくださいと頼んだ。 リトル・フレンチ・クラ・フの酒はやすかった。そのう 彼は私を廊下へつれたすと、彼女があまり長いこと手え、不思議とスカッチ・ウイスキ 1 がふんだんにあっ 術を遅らせたので、ひじように用心しないといけない ことを話してくれた。私は重い気持ちになった。 アールウイン・ショウとビル・サ、ロヤンの二人は、 医者が去った後で、上品で親切そうな夫人がはいっ米軍に勤務する苦労人のインテリ二等兵だったが、彼 てきて、私のほうへやってくると、 らはフランスをほめたたえて、その婦人を説き伏せ、 ついにクラブのメン。ハ ーにもぐりこんだ。このーー・・自 「私はエレーヌの母です。あなたはいけないかたね」 といった。そして私たちはしばらく病室にいることを由フランス への上陸滲透成功のニュースは、また 許されて、みんなで楽しい家族的会話をとりかわした。 たくまにのどの渇いてるインテリ兵のなかに広がり、 滲透作戦が始まった。そのようなありがたいスコッチ 一九四四年のロンドンは、ドイツの上陸でもちきっ にありつかんものと捜し求めていた私は、このクラブ ていた。 のメンバ ーになるようにすすめられた。しかしアメリ こ 0 6 9
戦については一言もふれられずに、こんご諸君らは各ちょっとあてはずれな顔で、「君も他の新聞記者なみ にロが固くなったね。だが、君にきかせるいいことが 人別個になってもらうとだけ告げられ、一人一人につ ある。シカゴ・トリビューンのサイ・コルマンがここ いて配属師団の指名を受けた。私の番になったとき、 にきてるが、こいっときたら君よりポ 1 カーが下手 中佐は、 「キャパ、本官は貴公を生まれつきの落下傘兵たと思だ」 うが」といった。 そこで私は例のまずいポーカーをやりはじめたが、 「いや、私は生まれながらのハンガリー人です」と抗夜半前にみんなの持ち金をさらってしまった。テープ 議したら、彼は笑って、 ルを離れるとき、クリスは私があんまりついているの 「いや、やはり最初の私の見解をとろう」といった。 をこぼしながら断言した。 、ことをしてい 「これはきっと。ヒンキイがだれかとしし 数時間後、私はケルアンの飛行場に着いた。ここへ は六週間前にもきたことがあり、飛行機やグライダ 1 るにちがいない」 は、そのときとまったく同様整然と並んでいたが、た次の日、クリスはカイロへ飛ぶことになった。私は だ、こんどは O 町の機首に小さな白いパラシュート がポーカーで勝った金を彼に渡して、絹靴下五足と最上 ペンキで描いてあった。敵地区における一降下作戦ご等のフランス香水を一瓶買って来るように頼んだ。彼 とにパラシュート が一つずつふえていたのである。 は、引き受けてはくれたが、そんなことをしてもむた クリスは私を待っていて、到着を迎えてくれた。 だと考えているらしかった。 「おめでとう。君が仕事につき、正式な資格をもらっ 三十六時間後、クリスは品物を整えて帰ってきた。 たことを聞いたよ。。ヒンキイはどうしている ? 」 私は手紙をつけてビンキイに送ってやった。 べつに変わったことはない、と私が答えると、彼は 「この靴下を使い切る前に、私はきっとロンドンに帰 8
おいてでも、 これこそ、ありのままだ、というこ写真家となるよりも、私にはこの戦争にびったりして とができるにちがいない。 いるような気がしてきた。 かわいらしい小さな丘の上の村は荒廃に帰した。こ こを守備していたドイツ軍は、夜のうちに抜け出して この勘当された放蕩の息子はジー。フに乗ってパレル しまって、あとには戦死者や負傷したイタリアの住民モに帰った。ジー。フの上で、テディ大将は詩を朗誦し が残されているばかりであった。すっかり吹き飛ばさた、スティーヴンス中尉はカウポーイの歌を歌った。 れて見る影もない教会の、小さな前庭のそばに、われ私は、変に目まいを感じていた。われわれは食事のた われは何事もいやになるほど疲れ果てて横たわってい めに停まった。けれど私は少しも食欲がなかった。仲 た。戦闘も、写真も、死すらも、いま、私にはほとん間は私の顔色があまりよくないと注意した。私が仕事 ど意味を失っていた。私は考えこんでいた。そのときとマラリアとの二つを、一時に得たことは疑う余地も テディ・ルーズヴェルトがジープを走らしてきた。彼なかった。 はいつも戦闘がはげしくなればなるほどいきいきとし病院の食事はまずかったけれども、看護婦は美人だ ていた。彼はステッキで私を指していった。 「キャパ、連隊本部に通信が来ているが、君はライフ 私は食事が食べられなかった、そこで医者は、私に けの仕事をすることになったらしいよー 食欲をつけるために、毎日スカッチ・ウイスキーを二 ズ長いあいだ、私はこの知らせを望み願っていた。しロだけ与えるようにと看護婦に命じた看護婦はアメ とかし、いざそれが来てみると、私は心底から幸福には リカの新聞の綴込みをもってきてくれた。私は自分が よなれなかった。トロイナに置き去りを食い、仕事から写したシシリヤ攻略の写真が、合衆国内のすべての新 は追いだされた敵国人の境遇のほうが、ライフ専属の聞に使われていることを発見した。どの新聞にも私の っこ 0 3 6
と先刻の写真をとりだしてみた。それらは、ちょっと この会談をしているうちに、クリスは食堂から出て 。ヒン・ほけで、ちょっと露出不足で、構図は何といって いった。そしてちょうど私が二つの新鮮な卵を食べよ も芸術作品とはいえない代物であった。けれどもそれうとしているとぎ、もどってぎて、戸口から私に用あ らは、シシリヤ攻略を扱った限り、唯一の写真であり、 りげなようすをした。卵はおいしそうだったが、クリ 海上部隊の写真班が、海岸からなんとか、発送の手配スが黄色い紙片を私にちらっかせたのだ。 をつけたものよりも幾日か早いにちがいないのである。外へ出ると、クリスはいった、「ねえ、これなんだ 七時半、われわれはチュニスに到着した。検閲官は、 よ」 文句なしに私の写真に検印を押し、電送のラジオに渡彼はその紙片を私に渡した。それは次のような短い した。われわれは通信キャンプの食堂こよ、つこ。 2 冫。しナ通信であった。 ちょうどそのとき、拡声器は公式発表として、シシリ ヤを攻略中であることをアナウンスしていた。ニュー アルジェ軍報道部は、コリャーズ社よりの通告によ スあさりをしていた連中は、このニュースに、待ってり口く ート・キャパは、すでに同社と関係なきにより、 いたとばかりにとびついたので、私はおもむろに、自輸送の都合っきしだい即刻アルジェに帰還するべく命 分はいまそこから帰ってきたばかりなのたと声明した。ず けたたひとつの直輸入の情報源である私は、たちまち興 ズ味の中心となった。私は詳しい話をせがまれたので、 私は打ちのめされた。私は写真を撮った、けれどな 飛行してい「た刻一刻のようすと、また、政撃にでかんの甲斐もなかった。私をコリャーズ社から馘にする っ けた勇士たちの心情や、胃袋が、離陸してから飛び降羽目に至らした軍の写真統制は、私のとった写真を大 ち りるまでのあいだ、どんなであったかを説明した。 大的に掲載しながらーー、私の名前すら入れずにーー・、そ 5 5