灰を取材せよ、といった。焼津へとおむいたキャパは、降 るⅲの港につながれた福竜丸を然と見つめていた。 一九三九年の秋、ポーランドを席捲したドイツ軍は、マジ ノの向う側で不気味に沈黙したまま、西欧を威嚇していた。 一方、インドシナをめぐる情勢は緊迫し、ディエンビエン 戦争中の。ハリの、火の気も人の気もなくなった町角の居酒 屋で、キャパと私は、別離の乾杯をコーヒーに代えて、この フーをめぐる死闘は、悽惨な最終的段階に突入しつつあった。 明日をも知らぬ日に、互いの幸多きことを祈りあった。そし 「ライフ』は、キャパに、インドシナに急行するよう、突然 に電報してきた。 て、刊〔は日・本に、キャパはアメリカに しかし、止まることを知らぬ世界の激しい動きは、やがて、 この旅行に絶対に反対する私にーーー生と死が五分五分なら、 おれはまたパラシュートで降りて写真を撮るよ、と彼は言っ 戦乱を太平洋に波及せしめて、私とキャパを互いに争うべき 敵として、容赦なく対決せしめた。 二人は人生に同し一つのものを求めつつ、同じように感じ、 出発前、キャパは自分の手で頭をたたいて、ーーおれはバカ 考え、行動していながらも、今や東と西の矛盾に鋭く分裂し だ、どうしてインドシナへゆくといったんたろう、といいオ て戦うという、あの第二次世界大戦の運命の星の下に支配さ がら、でも、きっとすぐ帰ってくる、と私にすべての荷物を 託した。 れたのだった。 空港の・ハ 1 でウイスキーをくみ交し、私は "Bon voyage" 大戦がへだてた、十年近くの歳月ののち、一九五四年の春、と握手の手をだしたが、しかし、なぜか彼は、この短い旅に かかわらず、私を固く抱擁した。 キャパは、私の紹介により、毎日新聞の社賓として、日本に 飛んできた。彼は空港に降りたっと、いち早く私を見つけて、 帽子をふりながら , ーーおい、お前のパリを昨日見てきたよ ! それは全く予期せざる旅ーーそして永遠の別れであった。 と人波を越えてよびかけてきた。そして、二人は固く抱き合 インドシナ平原にかくされた地雷が、キャパの生命を一瞬 っこ 0 に奪った丁度同じ日、南米のベル 1 でやはり『マグナム』の、 私は彼に、ヒロシマに行けーーー混血児を撮せーーービキニの 親しかった友、ウアーナ 1 ・ビショッ。フの急死が世界に打電 こ 0 384
キャパの名前を知らなくても、彼がとった写真を目にしたことのあるひとはずいぶん多いのではないかと思 う。早い話が、あの一九三六年のスペインの市民戦争のさなかでとった一枚ーー・塹壕からとびだした兵士が敵の 弾丸に当って、両手を大きくひろげながら倒れる瞬間をとらえた作品は当時「ライフ」誌に掲載され、無名の キャパを一躍世界的な写真家にする機縁をつくった日くつきのもので、いまでもスペイン市民戦争関係の本には かならずといっていい位、この写真が使われているほどだ。 キャパは一九一三年ハンガリ 1 のユダヤ系の貧しい家庭に生れたが、年少の頃政府の反ユダヤ政策によって故 国を追われ、ベルリンへ逃れたが、ここでも、まもなくナチスのユダヤ人追放に会って、今度は。ハリへゆく。こ のベルリン、パリ時代にキャパは写真家としての修業をつんだのである。そして、ス。ヘインに市民戦争がはじま ると、当時の前衛的な若い芸術家の多くにならい、人民戦線側に身を投じ、そこで現代戦のおそるべき局面を見 事に写しとった新鋭写真家として名を成したのである。ついで第二次世界大戦、そして、ついに彼の死を招いた 一九五四年のインドシナ戦争とキャパは現代の戦争をとりつづけ、戦争写真家として不抜の地位と業績を築きな に趣きを異にして、カストロの革命はめずらしく成功したものであり、現に彼の政権は健 ~ 上であり、カストリズ ムとよばれる、あたらしい革命方式をつくりだし、現在に至ったのである。 こうした経緯を思いうかべてみれば、この手記はキューバ革命のほんの序のロを物語ったにすぎないといえる かもしれないが、カストロの革命がともかく今日においても、なおかっ成功とよべるだけの達成を生みだした根 源的なエネルギーのありかがここにうかがわれることだけはたしかであろう。
一九五四年八月 あなたにいったいどのように書き出したらよいのか、私に はわかりません。 この数カ月のたとえようのない重苦のうちに私は、あなた 冫いだいておりました。そして、だれ のことをたえず、心こ よりも、あなたに、いろいろお話ししたかったのです。 数多くの人たちには、とりあえずの挨拶状を出しながらも、 あなたには心からのお手紙を出したいと、思いながら かえって、そのために、今日までになってしまいました。 あなたは、いつ、アメリカに来られますか、私の本当に書 題きたいことは、じかに話し合えれば、どんなにいいかわか りません。 キャパのニューヨークでの葬儀の模様は、東京でも、もは や、御存知だと思います。 きれーーーなにものかの終りを告げるかのようなその暗い悲報 に、私はキャパの死がもたらした人生の空間を、ただ茫然と 見つめるのみだった。 傷心のいまたぬぐい得ぬその年の夏ーーーキャパの弟のカー ネルから、私に一通の手紙がとどいた。 東京での兄のことについてあなたの親身なお世話に、私た ちはどれほど感謝しているかわかりません。 私たちは遠くはなれているのに、たえずあなたの友情を感 じている喜びだけで十分でした。 私は今もなお、あなたとキャパをむすびつけた不思議な運 命劇に驚嘆しております。 兄は一生でもっとも幸福な。ハリ時代にあなたを知り、また、 近年兄のいちばんうれしい出来事たった日本への旅行であ なたとまた一緒だったのです。 この見えざる糸によって、全きまでに結ばれた人生の環は、 なんと神秘なことでしようー その時に、私たち家族は、あなたも、きっとほめてくださ るにちがいない態度を、もちつづけていたことを、ますお 知らせしたいと思います。 母は、あの恐ろしい試錬をよく耐え通しました。 母の心中は堪えがたいものだったと思いますが、とりみだ した様子を少しも見せずにいてくれました。 私は今度、『ライフ』のスタッフからはなれて、全身的に 『マグナム』に参加しました。 『マグナム』の未来への道はしつかりしており、私たちは ″キャパの建てた家れを発展させていきます。
キャパ ちょっと。ヒンぼけ 川添浩史・井上清壹訳 2 △ ~ 4 イ 、 : - えを 3 まイサ
キャパ 「戦争と市民」と題する本巻には三つのノンフィクション作品がえらばれている。すなわち、ロく の「ちょっと。ヒン・ほけ」、レナ・ージルベルマンの「百人のいとし児」、それに、マリ エレ 1 ヌ・カミュの 「革命下の ( バナ」の三篇である。はじめの二篇は第二次世界大戦、最後のは一九五八年のキ = し ( 革命をそれ ぞれ生き抜いたひとびとの物語で、キャパが高名な写真家、カミ = が新進のジャーナリストであるのに対し、ジ ルベルマンはそうした職業人とちがって、戦争の渦中にあって、これとたたかった勇敢な市民に外ならなかった のである。 ジャ 1 ナリスティックな職業人だから市民でないというつもりはないが、「戦争と市民」という題名に多少と もこだわるならば、やはり、従軍記者、あるいは写真家といったひとたちは、戦争という非常の事態に対して、 市はじめから、いわば身構えた姿勢があり、それゆえに、硝煙弾雨の間を自在に駆りまわって、ひとつの客観物と 争して戦争のありようを冷やかにとらえることもできるわけだが、また、その反面、常なる生活のなかから爆発 し、これを無残に破壊しつくしてしまう戦争の非常性といったものを見失う危険をたえずもっことになるのであ 戦争と市民 篠田一士
闘ったのであった。 8 この子供たちの小さな足こそが、私をヨーロッパヘーー・私がそこで生れたヨーロッパへ迎えてくれたのだっ た。それは、途中の路上であった群集の、ヒステリックな声よりも、はるかに真実な私に対する出迎えであっ た。あの群集の大部分は、かってはムッソリーニ万歳の「ドウチュ」を叫んだ同じ大人たちなのだ。 私は脱帽して、カメラを取り出した。私は打ち挫がれた母たちの顔にレンズを向け、この死んだ子供たちの写 真をとったーー・・・最後の柩の一つが運び出されてゆくときまで この飾り気のない小学校の葬式でうっした写真こそ、戦いの勝利の一番の真実を示すものであった。」 キャ。 : 、 , カ生涯かけてとりつづけた、おびただしい数の戦争写真のなかに、彼が終始一貫追いつづけたものは、 結局、ここに感動的な実例によってあざやかに示されている「戦いの一番の真実」に外ならなかった。 このルポルタージ = はキャ。 ( の第二次大戦従軍記の形をとっていて、あの戦争の現場をもっとも苛烈な局面に 、おいて生き抜いた、ひとりの精悍な男の体験記として読むことは、もちろん可能ではあるし、また、そう読ん で、それなりに感銘の深いものではあるが、キャパの写真を多少とも知っているひとには、やはり、あの傑作写 真の余白に書かれた註釈だといった感がつい先立ってしまうのである。だが、そういったからとて、この手記の , 価値をおとしめることにはならないだろうと思う。なぜなら、註釈というのは本文のもつ意味合いを一層深く味 , わうためのもので、本文がすぐれたものであるならば、当然、その註釈も、またすぐれたものでなければならな いからである。そして付け加えるまでもなく、この「ちょっと。ヒン・ほけ」はキャパの写真にふさわしい迫力ある 真実につらぬかれているのである。
の軍隊と過ごした三年間の戦いと、私がファシストを私が大使館に引き返してみると、友人の大使館員は、 憎悪する理由がいかに正当なものかを、彼に語った。私が第一歩はまず成功だったと告げるまではいささか 深刻な様子で心配していた。それから、彼はニューヨ 大使館に帰ると、彼は電話をとりあげて国務省を呼 ークの英国総領事を呼びだした。そして親しいキャパ びだした。彼はだれかと声高に通話し、先方の名を気がイギリスへ向けて発とうとしている、ところで用意 安く呼びすてにしていた。そして、いま自分の事務所万端整ったのだが、ただ旅券だけ不足なのだと告げた。 に辛愛なるキャ。、 : ノカきているんだが、。 せひともイギリ 十分あまり、数回の電話のやりとりがあって、大使 スにゆく必要があるので、十五分間のうちに出入国の館付海軍武官と教授の情報官と私の三人は、し かどで 許可を得たいのだと話した。 に小さい酒場で、私の首途を祈って祝杯をあげた。 彼はガチャンと電話を切ると、名前を書き入れた紙 私が飛行機にのる時間がくると、お別れの前に海軍 片を私によこし、それをもって私は十五分ののちに国武官が引き受けてくれたことは、カメラとフィルムを 務省についた。 携えて、輸送船にのってゆくキャパを、いかなる場合 非のうちどころのない身なりの紳士が迎えてくれて、でもできるかぎり援助し、かっロンドンの海軍省まで 私の名前と職業とを型どおりに記人した紙片に署名す無事に送り届けられたいとイギリスの各港に打電して けると、ニ、ーヨーク港にあるステイトン島内移民局で、やるということであった。 ズ翌朝の九時までに万端の準備は整うでしよう、といっ ーヨークへ引き返す機上で、私は英国人は見あ とた。そして、ドア 1 まで私を送ってきて、そのわずかげた人たちだと結論した。というのは、彼らはふしぎ のあいだに寛いだ調子でポンと私の背中をたたき " 幸なユ 1 モアをもっていて、ことがいよいよ困難の極に ~ ち 運を祈りますよ ! と目くばせした。 達しても、ひじようにうまくその難局を切り抜けるこ くつろ
ちょっとビンぼけ 私がはじめてアンドレに会ったのは、一九三五年、デュフ イのよく描く、海と空のことさらに碧い地中海の浜、カンヌ の夏の日だった。 アンドレは、眼の勝気な光が印象を与える、若く、美しい 女性と一緒だった。それは愛人のゲルダだった。 輝く陽の自由の空の下では、ゆきすりのひととも兄弟のよ うになる、あの若い日の風の中に、わたしたちも。ハリに帰っ てからは、しじゅう一緒に歩いたり、議論したり、食事した り、そして、いつのまにか、彼は私のアトリエにころがり込 んで、ついに、生活をともにする日が、それから一年余り つづくようになった。 アンドレ・フリードマン ( キャパの本名 ) は、一九一三年、 ハンガリーの・フダベストに生まれ、父はユダヤ人の洋服屋た ったという。十七歳のとき、彼は、独裁者ホルティのユダヤ 日 あお 人追放によって ( ンガリーを追われ、ベルリンに逃がれた。 母国と、そのことばを持たぬユダヤ人のアンドレは、世界 のことばとしての写真芸術に、みずからの生きる道を発見し たのだろうーーー・ヘルリンではエイゼンシュテッドの暗室で働 いていたが、ここもヒトラーのユダヤ人追放によって、ふた たびフランスに逃がれ出て、私と、このように会うことにな ったのだった。 その愛人のゲルダもまたドイツを追われた女性で、アンド レとは、影のようにいつも一緒だった。 一九三六年、スペイン戦争がはじまるや、アンドレは、た フロ / ・十ピュレール だちに人民戦線派の情報部に参加した、ーーゲルダも一緒に。 このスペイン戦線に、彼は自分の人生のすべてを賭けた。 そして、その名をーー・、 ROBERT CAPA とした。第一線の 塹壕の中、また、それをも超えて敵中深く写した彼の作品ー ーとくに、塹壕からとび出した兵士が弾丸に当って倒れる瞬 間の姿を捉えた作品が『ライフ』にのるや、世界の人々は、 キャ。ハとは何者だ、と彼に注目しはじめた。 そして、このスペインでキャパはよく生きぬしたが、 / 、 - 彼の いま一つの生命ーーー愛人のゲルダを進撃するタンクに奪い去 られてしまった。彼が生涯独身だったのも、愛人ゲルダへの 深い愛情の故だったのだろうか。それとも、いっ知らぬ生命 を賭ける彼の人生の故であろうか。
名前は挙げていない、ただライフ誌だけには署名があどうもマラリアにかかったらしい、とつけ足した。病 った。ライフ誌はパレルモ占領についての私の話を、院はまた改めて入院を許可してくれた。 七ページにわたる主題として掲載した。キャパ、と肉運悪くも、私は同じ病棟に送られ、診察に来たのも 太の活字で見出しに印刷されているばかりでなく、私同じ医者であった。 ます こんどは病院から馘になった。 の顔までが小さい桝の中にあった。ライフ専属写真家 という ) 宀十とと , もに 私は看護婦に、パレルモには何かおいしい食事があ るかどうかと尋ねてみた。ホテル・エクセルシオール の中に、かなりよいやみのレストランがありますよ、 と彼女はいった。彼女は私の脈に触れ、まだ熱は続い ているといった。暗くなってから、われわれは地階の 窓からこっそりと抜けだしていった。 われわれはうまいステーキを食べ、 < Z —を飲んだ。われわれはとても楽しかった。病院にも どったときは、すっかり夜もふけて窓には錠がおりて 私はまるで十八世紀の伊達男のように、看護婦をま ず彼女の宿舎に送りこんだ。それから中央の入口へ行 って、自分ははじめての患者であるといった。そして、 イタリア・シャンペ 4 6
革百ち ちょっとピンばけ 命人 よ 下の つ と 百人のいとし旧 , , ーー , のい ハと 革命下のハバナー バし ン ナ児ほ け 解説・篠田一士 ュべ 第 20 回配本定価 650 円 ン 筑摩書房 真実のみが伝える迫力と感動 戦争の巨大な歯車は , 市民生活のささやかな 幸福を , 容赦なく粉砕する。しかし , この悪 夢の中で , 人間性は最も高貴に光りかがやく。 戦争の悲惨をカメラに捉え , 写真史に不滅の 金字塔を樹立したキャパの第二次大戦従軍記。 ファシストの迫害の下に , 身を捨ててユダヤ 人孤児救済にあたるユダヤ女性の感動の手記。 ハネムーン中に革命に遭遇 ! 新婚早々のパ リジャンヌ言己者がつづるキュ ヾ革命の記録。 キヤノヾ 現代世界ノンフィクション全集 監修井上靖・今西錦司・桑原武夫・中野好夫・吉川幸次郎 筑摩書房 ( 分類 ) 0320 ( 製品 ) 23013 ( 出版社 ) 4604 現代世界ノンみクション全集