立 んとしても知らしていた。一九四五年の二月ワルシャワをふたたび見 なければならな た人は、自分の眼を信することができなかったろう。 いのだ。自分の所どころに、まだ壁が立っていて、昔窓のあった場所 聟 ) 過去と自分をたに大きな穴があいていた。建物を分ける街路の場所を ち切っている霧見分けることもできなかった。すべては残骸たけにな を突き破らなけっていた。漆喰と煉瓦から上るもうもうたる埃。都会 - 街ればならないのをつつむ死の息吹き、私のように廃墟をさぐるために 市 着いたばかりの人びとを除いては、人間の姿は一人も ついに、自分見られなかった。すべての人びとがその場に埋められ のツのように戻ってたり、恐慌におそわれて逃げだしたりしていたのだっ は来た何百人とい う人びとと一緒私はすばらしい都会だったあのワルシャワの残骸の に、私はヴィス中をよろめきながら、歩いていた。爆撃された街々の トウラⅡ - こ ごたごたした中を先きに進もうと努めた。フミエルナ る古い橋を渡っ街は爆撃を免れ、ルドウィッヒもまだそこにいるかも て、ワルシャワ 知れない。私は、数百メートル、イレナのアパートの を市内にはいった。方角に進むことができた。そして、そこに突然広々と ワルシャワは解放された土地を発見した。破壊された家々もなけれ ば、とりこわされた壁もない。戦争の恐しさを無言の 完全に廃墟と化 こ 0 217
系の会社で働いていると主張することと、実際にそこ で働いていることとはまったくの別問題であった。 もう一つの広告は次のようにしるされていた。コ一 三家庭教師 人の容姿よき売り子を求む」一九四三年のワルシャワ で、「容姿よき」というのは、ただア 1 リア人という 意味だった。一つの考えが私の心をよぎった。すなわ 数日後、。ヒルサと子供たちがまだ眠っていた間に、 私は朝早く起きて、家を出た。自分の計画を話したなちこの世でいちばん美しいユダヤ娘も、もし一九四三 らば、。ヒルサが行かないでいてくれと言うことはわか年のワルシャワに暮らしていたならば、心から喜んで っていた。しかしとどまっておれば、すべての人びとその美貌を、血の気のうすい顔色、そりかえった小さ に害を与える危険のあることも私は知っていた。新しな鼻、とびだした頬骨、大きなロ、あまりちちれてい い身分証明書も持っていたし、そろそろ仕事を手に入ない金髪などととりかえることを承知しただろう。 れる時であった。 私は二つの新聞の就職欄をすみからすみまでよんだ。 そして最後の三枚目の新聞を調べていたとき、次の二、 私は、朝のワルシャワ行の始発電車にのりこんだ。 ワルシャワにはいるや、新聞売場で二、三枚の新聞を三行の文字に注意をひかれた。「ワルシャワを去る一一 買い、公園に空いたべンチを見つけると、就職欄を調人の子供を世話する若い女性を求な。りつばな教育と しべることに取りかかりはじめた。 道徳上の推薦状必要、ポーランド人の家庭。午後四時 まず、こういう広告をよんだ。「著名なドイツ人会以後お出で乞う」私の心臓は強く鼓動しはじめた。私 人社、秘書を求む。ドイツ語およびポーランド語の完全はおそらく自由への自分の護照を得たと思った。私は な知識必須」私は見すごした。ゲシュタボに、ドイツ電車に飛びのって、ビルサの家に戻った。そして、私
なたに差しむけましよう。第一、あなた方の医者はな土地を要求するようになりはしないかと心配していた。 んの役にもたちません。そのため、あなた方は病気に不幸にもその心配は根拠のあるものだった。百姓たち R なるのです。ロシアの医者は三日で一気に健康を回復はだれももう夫人の畑で働くことを承知しなくなった。 させるでしよう 真夜中に、すべての農器具、すべての納屋に入れてあ 私は子供たちを自分の近くから離さないように心をつた穀物、すべての果樹園の果物から、家畜小屋の扉 配りながら、所有地の中を数日間、さまよい歩いた。 にいたるまで荷馬車で運び去られた。略奪する暴徒や 最悪の事態をどうしたら防げるかと考えたが、なんの人殺しの群の噂ばかりが聞こえてきた。恐怖におのの 考えも浮かばなかった。私は恐怖のなかで暮らしてい いた私たちはみんな家の中で身を寄せあい、襲撃がい たのだった。 つくるかと待っていた。 しかし、その週の終わらぬうちに戦争がその困難を イレナは、いわゆる村の昔の友達や隣人とふたたび 解決してくれた。朝早く、私たちはたくさんの飛行機接触を得ようとっとめた。何度も「わたしたちには友 の爆音をきいた。数時間のうちにオルホヴェクにある達が必要だわーと私に言った。イレナの夫やテオド 1 ロシアの全空軍基地は撤去された。私はそれつきりセ ルおよびマリンカの両親などがあいかわらず止めてお ルゲイにも中佐にも会わないですむことになった。 かれたワルシャワからのいろいろのニュースが、し そう私たちの恐怖をかきたてた。何千というワルシャ ソヴェト当局が私たちの地方に秩序をとりもどさせワ市民が殺され、町は大きな墓場にすぎなくなったと る前は、つぎつぎと略奪、暴行をうけなければならな いわれていた。ザトッカ夫人は怒ったように室の中を かった。もっとも金持の地主の一人とみられていたザぐるぐる回っていた。ポールはひどく落胆してときど トッカ夫人は、赤軍の約東に刺激された百姓たちが、 き自殺せんばかりにみえた。イレナの位置もますます
た。私はあまり快適ではないべッドを脱け出し、外套街で死んだすべての人びとのことを思い浮かべながら を肩に羽織って、外に出た。深くヴロヒーの気持よい 泣いた。 空気の香を吸いこみ、眼をワルシャワのほうに向けた、 その途端に心臓が鼓動をあやうく止める思いだった ( なぜだろうか、神様。なぜだろうか ) 空に巨大な赤い光りがたちのぼり、ワルシャワに大火 がおこっていることを示していた。燃えているのがど こかを知る手段は少しもなかったけれども、本能的に、 私はそれがユダヤ人街たと知った。何千というユダヤ 人が炎の虜となっているのだ。身動き一つせず、私は その怖しい光景を見つめていた。そして一夜中、寒さ にふるえ、涙をはらはらとこ・ほしながら、扉の縁枠に すがりついていた。 太陽が現われたとき、子供たちをおこさないように 注意しながら、悲しい気持で、寝に戻った。マットレ スの上に横になりながら、むせびなきの声を押し殺す ようにつとめた。それから泣き声を立てずに、両親の こと、妹たちのこと、弟たちのこと、可愛いい子供の こと、ポドウアン神父に托した子供のこと、今までに 死んだすべての人びとのこと、ワルシャワのユダヤ人 172
百人のいとし児 す。そして私はいつも、ポーランドの敵はドイツ人で あって、ユダヤ人ではないと信じています」 その瞬間、イレナがコーヒ 1 を注ぎはじめた。話題 はっきた。ルドウィッヒが、ウォッカのコップをさし 上げて、乾杯した。 「死ななかったすべての人びと万歳」 私たちはコップを飲み乾した。 すこしずつ、私の心臓の鼓動が静まっていった。 一九四四年の冬にはいると、ワルシャワの生活はま すます苦しくなった。ワルシャワにますます多くなる 騒乱を鎮圧するために、ドイツ軍は明らかに人びとを 恐怖せしめるほどの大きなトラックを街上に走らせた。 行き当りばったり、なんの警告も説明もなく、それら のトラックを賑やかな四つ辻や静かな街上に止めると、 二の男を捉 武装した兵士たちが地上に飛び下り、一、 え、無理矢理に車にのせると、また他の犠牲者を求め て遠くへ走り出した。 もうユダヤ人だろうが、非ユダヤ人だろうが、。ノノ テイザンだろうカリ / ノ ' : ド。、レテイザンだろうが、身分証 明書を持っている人間だろうが、持っていない人間だ ろうが、問題にはならなかった。ワルシャワの街上に % 危険を冒して出た人間はすべて、つねに同じ運命に出 五ソヴェト軍の進駐
り、いらいらして来た。二月、私は生徒たちに二週間 確信はなかった。イレナの心配は、私にとっても自分 の家族たちがどうなったか捜しにゆく時が来たのだとの休暇を与え、学校を休むことにきめた。そしてワル いうことを思い出させた。私は、自分の内心では、罪シャワにフェラをさがしに行こう。もしフェラが生き 深い人間だと感じていた。私はここで、比較的安全にていれば、かならずワルシャワにいるに違いないと私 暮らしてきた。戦争によってめちゃくちゃにされた多は考えていた。たとえフェラに会えなくとも、すくな くのポーランド人と比べれば、私には不平を言うこと くともヴロヒーまで足をのばして、。ヒルサに会い、お さえなかった。しかしそのために、私は、オルホヴェそらくいろいろなニュースを手に入れることができょ クで、すべてから遠くはなれて暮らし、自分の過去とう。 の橋をたち切らなければならなかった。 百キロも旅行しなければならず、その間いかなる交 くらか去 フェラや私の家族の他の一員が、いまも生きていて、通機関も当てにすることはできなかった。い 私を必要としているのではなかろうか、戦争は私をこ運だったら、おそらく道中の一部を偶然出会った荷馬 んな利己主義者にしてしまったのだろうか。 車にのって旅ができるだろう。私はリュックサックに 私は眠ることができなかった。いろいろな思いや後二、三の身のまわりの品々をつめ、数枚の貨幣を別に 悔の念が絶えず私の心をむしばんでいた。ときどき、 して、自分の持っていたすべてのお金をイレナに残し 私の心臓があまりにもはげしく動悸しはじめたので、 た。出発の朝、生徒たちの母親の一人が、家へ現われ い村全体の人びとが目を覚ますのじゃないかと思うほどて、裏にも皮のついた一足の長靴を贈ってくれた。 いだった。また時には、突然しやくりあげて、枕を涙で「先生へですよ、レリッチさん」と、その母親が言っ の 人ぐっしよりにして夜をすごすこともあった。 た。「長靴がないと、先生はワルシャワまでは、行け 数週間が経った。イレナと私はますます神経質になねえでしよう」 どうき
てしまいます。あの豚野郎奴、そのうえ今は、男たち ( カジャ ! あの人なら助けてくれるだろう ) 私はひどく危険だったけれども、自分の家のほうへ をドイツの工場へ働きに連れて行きだしました」 向かった。というわけは、カジャは、数時間前に、ピ 「都会でも、同じようなものです」と私が言った。 「毎日、奴らは男を捉え、男を汽車に詰めこみ、男を ストルを背中につきつけられて、私がゲシュタポ本部 連れ去って行きます」 に連れていかれたノヴォグロズカ街に程遠くないとこ 「悪魔です」と老女は答えた。「わたしたちの罪を罰ろに住んでいたからである。 するためにやって来た悪魔ですよ」 往来はすでに仕事に行く人びとでいつばいになって 私は黙って、いろいろと考えに沈んだ。ワルシャワ いた。カジャは朝早くエ場に出て行くことを知ってい 冫。しったら、どこへ行こうか。自分のアパートに帚 たので、私は歩を早めた。階段をのぼるとき、玄関番 ることは間題外だ。ドイツ人に関してはあまり心配し がドイツ人のスパイをしているのではないかとひどく てはいなかった。私を見ても、誰もユダヤ人と見破る疑っているというカジャの言葉を思い出したので、私 は壁にすれすれに歩くように注意しながら、ゆっくり ダヤ教徒から見 ) ものはいないだろう。自分をゴーイム ( て他宗教のもの と考えているユダヤ人を告発するのを誇りとしていると階段をの・ほった。六階につくと息をつくためにちょ 人びとについては、遠くから見つけ出して、避ける術っと立ち止まって、一瞬壁に身をもたせかけ、踊り場 を覚えこんでいた。しかし私には他人の助力が必要との静かさと薄暗さを喜んだ。 ちょっと経ってから、私は、かねて打ち合わせてあ いなろう。もうワルシャワの町にはいっていた。しかし い私は、あらゆる考えに心をかき乱しながらも、頭を垂ったように、二度、一度、二度というエ合に、カジャ 人れて、まるで正確に自分の行くところを知っていたかの室の扉を軽くたたいた。鍵が錠の中でまわされる音邱 がきこえ、扉が開いた。 のように、一定の歩調で歩みつづけた。
私の最初の反応は、女の首に飛びついてキッスするまは私の本当の生い立ちをわかりはじめ、すくなくと 6 ことだったが、我慢した。そんな感謝の現わし方は、 も察しはじめているに違いないと思った。 ( 結構だわ ) 幻 粗野で、容易に感情を現わさないこの女にとってはま と私は考えた。 ( イレナにはもう私がユダヤ女だとい ったく理解のできぬものだったろう。 うことがわかったろう。もしイレナが訊ねたら、私も イレナと子供たちに別れるということは、私にとっ本当のことを打ち明けるだろう。イレナは、理解して て容易なことではなかった。みんな涙にかきくれた。 くれるだろう。イレナは、単に、「もちろんわたしを しかし私にとって一番つらいことは、ガガと別れるこ救ってくれた人レナは「一ダヤ女なのだ」と考えるだろ とだった。私はその小さな顔とかわいい両手にキッスう。あたり前のことだ ) の雨を降らし、まもなく、すくなくとも二週間以内に 私は、交互に雪と泥の中を這いずりまわるようにし は戻ってくると約東した。 て、三日間、歩きつづけた。親切なお百姓さんたちが、 リ = ックサックを背負い、新しい長靴をはいた私は、何度も、短い道程の間、荷馬車にのせてくれた。一度 村はずれまで生徒の一団と多くの大人たちに見送られなどは、二十人以上の人たちと一緒にトラックの後部 て出発した。 にのって、数キロも走った。それらの人びとの顔は限 前の晩、私はイレナに、ワルシャワに自分の夫と妹りのない悲しみを反映していた。何時間もの間ずっと を見つけに行くのだと打ち明けておいた。イレナはび飢えていたこともあった。しばしば凍るような寒さに つくりした。要するに私がこの世にたったひとり打ち体が感覚をなくした。しかし倒れるどころか、新しい 捨てられたオールド・ミ スの先生ではないことを突然障害物が現われるごとに、それが一つの刺激となり、 に知って、すこしばかりショックをうけたらしかった。私はどんな犠牲を払ってもワルシャワに着いて、すべ ォルホヴェクをはなれるに従って、私は、イレナがいてを知るために、ますます元気に歩みをつづけた。な
会うかもしれなかった。 役目をはたすことになった。 ときどきドイツ軍は犠牲者たちを牢獄に連れてゆく私は、カジャとスタシェックの昔のアパートにふた四 トラックの覆いをはずした。すべての人びとが、犠牲たび接触しようと試たが、二人はいなくなっていた。 者たちの、起立したまま猿ぐっわをはめられ、両手を偽名をつかって、他の地方にでも移ったにちがいなか 縛られ、ぎっしりと積みこまれて、物も言えず恐怖に った。一度私はポドウアン神父の経営する子供たちの おののいている姿を見ることができた。ときどきその収容所に行ってみた。そこで、うれしいことには、 恐怖の戦いを強化するために、ナチたちは広場で死刑「私の」ダヤ人街の可愛いい子供に再会したが、食 の執行をとり行なった。 糧と医薬品の欠乏はすさまじいものがあった。ポドウ その政策は実を結んだ。恐怖が全市をとらえ、全戦アン神父は、私の持っているかもしれない影響力を利 線にわたってドイツが大敗を喫しているのにもかかわ用して、助けに来てくれと私に願った。ドイツ軍は、 らず、ドイツの崩壊を見るという望みも消えはじめた。神父に、牛乳も、小麦粉も、脂肪もすこしも与えなか クリスマスの晩餐の時ちょっとばかり演説を打ってったので、子供たちはひどく栄養失調に悩んでいた。 以来、私の生活はすこしばかりしのぎやすいものとな私は、ときどき。ヒルサの家で、レジスタンス運動の隊 0 た。第一に、毎月の給料がふたたび与えられだした員たちに会っていた。その子供たちの哀れな状態を伝 し、日曜日ごとに自由に休めることになった。私はしえたが、レジスタンスの勇士たちも、同情しながら、 ばしばビルサとその家族に会いに行った。。ヒルサの家ただ両肩をすくめて答えにするだけだった。その人た はいまやレジスタンスの秘密書類を分配する本部となちにもどうすることができたろうか。 っていた。そしてしばしば私は反ナチのパンフレット 二月、私はフェラに会った。フェラは。ヒルサを通し を、ワルシャワの他の分配地点に運ぶための連絡員のてワルシャワで一日を過ごすから会いたいと知らせて
一杯になった私は現在の自分の位置を反省しはじめた。 ワルシャワ街道が数百メートルのところを通ってい この公園で働いている人びとが間もなくやって来るた。街道に出たら、自分と同じ質素な服装をした他の だろう。だから急がなければならない。 ポーランド人の中にまぎれこもう。そうすればもっと 田舎女に見られるようにしよう。自分の体を見まわ安全だろう。私は歩きだした。いばらやとげが裸の脚 して、はじめて私は逃走中につくった腕や脚のかすりをひっかいた。私は小川のふちにちょっと立ち止まっ 傷ゃあらゆる種類のあざや打ち傷に気がついた。髪のて、傷を水につけた。間もなく人の声がきこえて来た。 毛には木の葉や土くれがくつついていた。顔はおそら生け垣ごしにながめると、みじめな格好をした男女が く涙とほこりと汗でよごれているだろう。 ( 美しい姿町の仕事場さして急いでいるのが見えた。あまり眼に をしていなければならない ) と私は考えた。 たたないように用心しながら、人びとの中にまぎれこ しかし私は自分に満足していた。自分は逃走に成功み、ワルシャワの方向に小走りに歩きはじめた。女と したのだった。体の調子もすごくいい。 物置に水道栓 いう女はみんな両腕をふりながら大股に歩いていた。 を見つけた。顔と両腕に水を流した。ひどくいい気持私もその真似をしはじめた。女たちの中のあるものは、 だ。それから寝間着の袖で水を拭いた。できるだけ上籠の中に、市場へ売りにゆく果物と野菜を入れていた。 手に指で髪の毛をきちんと直し、見えないように寝間 年をとった百姓女が私に話しかけた。 着を膝の上まで持ち上げ、外套にボタンをかけ、襟を「神様に栄光がありますように」と女が言った。 立てた。ポ 1 ランドでは、四月の朝はまだ寒い。物置「永久に栄光がありますように」と私は答えた。それ の一隅に古い馬鈴薯の袋を見つけると、まるで市場に から、訊ねた。「田舎はどんな景気ですか。ドイツ軍 出かけるかのように、袋をたたんで腕にかけ、明るい があなた方をひどい目に会わせませんか」 陽の光りの中に出た。 「話にもなにもなりません。奴らはみんな持って行っ えり Z52