が私の家族の持ちものです。私はクッフレルというも 私は、通行人たちの視線を無視して、反対の方向に 0 のです」 歩みつづけた。おそらくふた目とみられぬ醜いかっこ 男は一歩近よった。その両眼が怒りにキラッと光っ うをしていたことだろう。類は血と泥にまみれ、二、 こ 0 三の打たれた跡があざとなって、さらに一段とむごた 「貴様の家たって、貴様の家だって。わしは今この家らしさを増していた。 が誰のものか見せてやろう。汚らわしいユダヤの売女 ( 奴らに私を見せてやりたい。奴らに思うとおりに考 ドイツ め。どうして、貴様は悪運強くいまだに生きているの えさせてやろう。多くの他のユダヤ人たちが、 だ。その上、この家を自分のものだなどと抜かしてい軍の火葬場の煙の中に消え失せたのに、なぜこのいま る。ほら、くれてやるそ」 いましいユダヤ女がいまなお生きているのかしらと奴 男は、私のロに拳骨の一撃をくれ、さらに頭をなぐらに思わせてやりたい ) った。それから両腕をつかんで、玄関の扉から押し出駅に戻った私は、まもなく汽車が来るのを知ってほ し、階段の下に投げつけた。おそらく階段の下に着く っとした。私は自分がどこに行くのかこれからなにを までに三回ぐらいはもんどり打ったことだろう。血がしようとしているのかわからなかったが、今すぐこの さかんに口から流れ出し、全身が痛んだ。私はゆっくヴィエリーチカを立り去りたかった。さもなければ気 りと立ち上がって、家へ最後の視線を投げかけた。 が狂ってしまうだろう。 突然、私の家が自分にとって無関係なものとなった。 ( 汚い野獣め、いやらしい豚野郎 ) もはや必要なものはなんにもなかった。私の家族はも 。フラットフォームにぼつんとおかれたべンチに腰を はやそこにいない。私の街のユダヤ人たちももういなおろすと、頭を垂れたまま、涙を抑えることができず 。それならその家は誰に役立っことがあろうか。 私は泣いていた。
はまったく字を知りません。現在、あなた方がここに警官がザトッカ親子を捕えるため現われた。 イレナと子供たちと私に、家を出ていくようにとの 2 いる以上、あなた方の意志はこの地方に暗黒の時代を 終わらせることにあると信じます。学校はあなた方が、命令が下された。村の中にある住居と指定されたあば それらの人びとの安寧にはらっている関心を示すことらやにうつった。実際私たちは、その小さな建物の屋 根裏部屋を与えられただけだった。その窓はずっと以 になりましよう」 前からふさがれていて、私たちはそれを開けることも 私の申し出は大成功だった。学校をつくるために、 一つの家を利用する許可が下りた。私はすっかり喜ん許されていなかった。粗末なストーヴはあったが、煙 だ。ここ数年来はじめて私はほんとうに重要な何かを突はなく、したがって料理をするとその煙にむせる始 末だった。イレナとガガが一つの小さなべッドをもち、 することができたのだった。 クリシャと私がもう一つのべッドを占め、マリンカと ザトッカ家の略奪に加らない珍しい百姓の一人で、 おもや イレナもよく知っていたウイスニャックという人が テオドールは床の上に寝た。その家の母屋には七人家 がもよう ある日こっそりやって来て、急いでここを立ちのくよ族が住み、加えて、雌鳥や鵞鳥、その他あらゆる種類 う一家に警告してくれと頼んた。「わしは地主たちがの家禽が同居していた。 みんな牢屋に入れられることを知ったのです。」私は夜は屋根裏部屋の換気不足のため、死ぬ思いだった すぐイレナに話した。翌日の晩、ポールと母親は枕カ昼間は飢えのために死にそうだった。事実、もしウィ 1 の中に二、三の品をかくしてオルホヴェクの家とスニャックがいなかったらば、最初の数週間のうちに、 村を去った。私もその出発を見送った。二人の顔は暗私たちは死んでいたろうと思う。ウイスニャックはた くさんのキャベツをくれた。しまいにはキャベツのス く、いろいろな心配に心をゆすられていた。まるで盗 ープに飽きあきしてきたけれど、しかし食べるものが んだ品物を運ぶ泥棒のようにおもえた。はたして翌朝、
キャパの名前を知らなくても、彼がとった写真を目にしたことのあるひとはずいぶん多いのではないかと思 う。早い話が、あの一九三六年のスペインの市民戦争のさなかでとった一枚ーー・塹壕からとびだした兵士が敵の 弾丸に当って、両手を大きくひろげながら倒れる瞬間をとらえた作品は当時「ライフ」誌に掲載され、無名の キャパを一躍世界的な写真家にする機縁をつくった日くつきのもので、いまでもスペイン市民戦争関係の本には かならずといっていい位、この写真が使われているほどだ。 キャパは一九一三年ハンガリ 1 のユダヤ系の貧しい家庭に生れたが、年少の頃政府の反ユダヤ政策によって故 国を追われ、ベルリンへ逃れたが、ここでも、まもなくナチスのユダヤ人追放に会って、今度は。ハリへゆく。こ のベルリン、パリ時代にキャパは写真家としての修業をつんだのである。そして、ス。ヘインに市民戦争がはじま ると、当時の前衛的な若い芸術家の多くにならい、人民戦線側に身を投じ、そこで現代戦のおそるべき局面を見 事に写しとった新鋭写真家として名を成したのである。ついで第二次世界大戦、そして、ついに彼の死を招いた 一九五四年のインドシナ戦争とキャパは現代の戦争をとりつづけ、戦争写真家として不抜の地位と業績を築きな に趣きを異にして、カストロの革命はめずらしく成功したものであり、現に彼の政権は健 ~ 上であり、カストリズ ムとよばれる、あたらしい革命方式をつくりだし、現在に至ったのである。 こうした経緯を思いうかべてみれば、この手記はキューバ革命のほんの序のロを物語ったにすぎないといえる かもしれないが、カストロの革命がともかく今日においても、なおかっ成功とよべるだけの達成を生みだした根 源的なエネルギーのありかがここにうかがわれることだけはたしかであろう。
だろう。しかしこの計画を成功させるためには政府の 秘書のエルナに話しかけた。 2 「食糧補給局長が二トンの砂糖を与えてくれた。自分態度が変わ 0 て、共同配分委員会の手を通じてアメリ 力のユダヤ人たちから資金が受けとれるようになるこ で見てみなさい。数字と文字で書かれている。二トン とが肝要だった。そしてさらに私たちは、自分たちの って、ほんとうに一財産だ。その一部分を売って、 要求にうまく合い、その家主が合理的な家賃で私たち 麦粉と食用油と、靴や衣服までも買えるそ」 戦前、コロミャ市長だったシタインマンという名の組織に喜んで貸してくれるような家を見つけなけれ 前の弁護士が委員会の会計係だったが、エルナや委員ばならなかった。 べラは、数週間前に私たちの仲間にはいった十九歳 会のもう一人マリンスキーと同じように、信じられな ノ力は、ナチの収容 いような目付きで私を見つめていた。そのとき会長が、の若い娘 ( ンカに代えられた。 ( 、 私の両肩を抱きながら、そこにいるみんなに向かって所から出て来たばかりで、家に戻ったが、家族は誰一 人見つからなかったと物語った。両親と八人の兄弟姉 言った。 妹がみんな殺されていたのである。 「どうだ、私には人を選ぶ眠があるだろう」 「わたし、ここで大いに働きたいと思いますわ」とハ かくて、私は、子供たちの家をつくり、組織化するンカは私に率直に言った。「わたしは子供たちの役に 仕事を主要な任務として、委員会の一員となった。ポ立つでしようし、子供たちも私の役に立つでしよう」 ノ力がいるた ハンカはすばらしい働き手だった。ハ、 1 ランドのいちばん美しく、いちばん健康的な地方の 一つであるザコパーネ地方には人の住んでいない大きめに、クラクフの役所に助力を求めにいったり、委員 な憩いの家がたくさんあることが知られていた。それ会のはてしない論議に加わったりして子供たちを長い らの家は子供たちにとってすばらしい寄宿学校になる間捨てておいても、前ほど心配ではなくなった。
プエラは、ヴィエリ , ーチカの家から脱出して間もなく ビルサと知り合った。それは私自身が家から脱出した ユダヤ人に対する「弾圧」のはじまっ 後であり、 た後でもあった。しかしそのすべてはすでに遠く去っ た昔のことのように思われた。 私たちは屋根裏に二つの室を持っていた。たった一 つの窓からあかりをとっている狭い長方形の二つの室 の一つの中には、三つのべッドがあったーーー・それは六 人の子供たち、すなわち二人の男の子、二人の娘、そ してさらに二人の男の子をねかせるためのものだった。 私は一番年上だったから、すくなくとも八十五歳にな ると自称していた祖母と同じように、両親の室に仲間 入りする「特権ーを持っていた。二六時中、祖母がペ ッドから離れられなくなってからずいぶん時が経って いた。眼をとざして、昔を思いだそうとっとめると、 今でも祖母の執拗な声が聞こえてくる。 「おまるを持って来て、フェラ。誰か、おまるを」 すぐにそれに答えるのは、フェラばかりだった。母 は、買物や、子供たちゃ父の世話で、いつもすること 二ビルサの家へ 162
ている余裕はない」 れた。大広場付近ではあちこちで小さなポヤが起こっ 0 とダニエルが説明した。 ていた。ダニエルは「モメント」 ( ちょっと待って ) フラド街の上の広場に行こう。放火がはじまったよ といい残してポヤの現場に飛んで行った。 うだから」 私たちは。フラド広場を駆け抜けたが、そこでは家と ダニエルは先ほどすでにこの辺一帯を走り回って掠 いう家が固く門扉をおろしていた。革命家たちは鉄の 奪の模様をフィルムに収めていたのだ。掠奪はだんだ扉を叩きこわし、怒りにまかせて手当たり次第に内部 ん激しくなって、ショー ・ウインドーを叩きこわしてを破壊した。例の簡易賭博器を幾つか舗道に持ちだし 中の品物まで盗りはじめた。マノロは これが運転て叩きこわす者もあった。テー・フルや木の椅子に火が 手の名前だーーダニエルのカメラ取材活動を面白がっ つけられた。テー・フルやソフアを引っかついで逃げ出 て、しばらくついて回っていたが、しまいには自分のすものもいたーーー自家用にするつもりだろう。 タクシーを進んで提供してくれたのであった。 私たちは続いてほかの通りにも車を走らせた。カ 「革命の写真ーーこいつあ素晴らしい。行きましよう、フェーが襲撃され、簡易賭博器をそなえつけた家は残 旦那」 らずやられていた。賭博器は叩きこわされ、掠奪され、 とカみながら : ・ 踏みつけられ、唾をはきかけられていた。貪欲な独裁 「この男ときたら、丸つきり写真狂だ。今日はツいて者が、抵抗する勇気を持たないのを見越して大衆にお るよ」 しつけた搾取の器械に対する、それが復讐であった。 とダニエルがいった。マノロの中に最高の助手を見出大衆のなけなしの金をまきあげて一にぎりの高級官僚 したのだ。 のふところを肥やした器械への復讐であった。残骸を マノロはいわれるまま大広場の方に車を走らせてく片づけるための放火の火があちこちで立ち昇った。
ックサックが重くなりだした。人びとが私を見るため いた祖母のコソワ夫人が住んでいた。また老べイルツ シュは、いつも右手の一角に腰をおろして、そのみすに立ち止まった。 私の家は変わらずに立っていた。私は石段を四段ず ぼらしい両脚を日光に暖めていた。私は今でも、父が 手に紙幣の東を持ち、いつでも不幸なものたちのためっ飛ぶようにして上って、扉を開いた。こんなことが に尽す心積りで、急ぎ足でその街を下ってくる姿を思あり得るのだろうか。すべてが同じだった。なんにも いだすことができた。母はその市場の一番の上得意の消え失せておらず、なんにも変わっていなかった。樫 の大きな机が、いつものように台所の真中におかれて 一人だった。自分の背の低さを埋め合わせするハイ・ いた。レギナの特別な付属品である石炭箱とストーヴ ヒールをはいて用心深く歩きながら、母は地主の威厳 を失わないように買物をした。父はいつも母の買物の昔のままだった。私は、懐しい品々の中を、台所か 仕方をからかって、「商人たちがお前を好きなのも当ら食堂へはいった。全世界が破減的な戦争の中にひき り前た。どんな高い値段を請求しても、お前は払うんずりこまれていたが、私たちの家はかすり傷一つ受け だからね。わしだってお前みたいなお客さんが欲しいず、そっくりそのまま残っていた。 「お前はそこでなにをしているのだ」と背後で、男の よ」 しかし、そんなことはみんなずっと前のことだった。声がひびいた。 本当にずっと昔のことになっていた。私は街々で、店振り向くと、逞しい大男が突っ立っていた。小さい とれもこれも見知らぬ人が狼のように鋭い眼が、脅やかすように私をにらんで しや人びとをながめていたが、。 いたちばかりだった。誰も知った人には会えなかった。 私はつばをのみこんで、答えた。 人まるで街を間違えたようだった。 「ここは私の家です。この家のすべて、ここのすべて 私は冷い汗でびっしよりだった。歩を速めた。リュ 219
家の燃えている壁からは、黒い細い煙が夜空にのぼっ 二つに一つしか手がなかった。 最初の発煙弾が村の中央、真正面に落下した。迫撃ていた。ヴェスヴィアスはーー・荷事もなかったように いつもの白い噴煙を吐いていた。 砲と巡洋艦と中型装甲車がその白煙の目標に数百の砲 弾をふらせはじめた。私はやっと三インチばかり地上私は夜陰に乗じてシャスター堡へはいもどった。す から頭をもたげて、写真をとりはじめた。しかし、 いでにそこは、リッジウェイ少将とダービー中佐が進出 つも同じ角度の写真しかとれなかった。私にできるのして来ていた。第八十二空挺部隊はマイオリに進出し、 は、やっと、フィルターをいろいろと取り代えることナポリの最後の攻撃冫 よ翌朝と定められた。 だけである。村から砲煙は空に舞い上がっていった。 私は携帯ペッドをたたんで、シャスター堡に別れを 背景のヴェスヴィアスはその兄貴分といったところだっげた。真夜中、英国機甲旅団に守られたキウンツィ っこ 0 峠を越え、夜明けには麓の平原へ下りていった。ドイ 砲弾は私の頭の真上を飛び、迫撃砲はロ笛のようなツ軍は夜のうちに退却したのである。 あんなに私をこわがらせた、あの村落の小さな家々 音をたて、巡洋艦はほえ、中型装甲車は高いきしるよ はいまはお祝いのイタリア人でいつば、だった。彼ら うな不調和音を加えた。そのとき、ドイツの迫撃砲が それに答えて、ひゅーんと音を立て、私の頭上の、やは果物とぶどう酒をふるまい、彼らがどんなに長いあ いだわれわれを待っていたかを、とめどなく話しつづ け っと百ャードくらいしかない丘の頂上を砲撃した。私 ズは茂みに頭を埋めた。太陽は私のせなかを暖めた。空けた。 とを飛びかいさえずるのが、鳥たけたったならどんなに っ よよいことかと思った。 わが軍は前進の途上なんの抵抗にも会わなかった。 日没にはすべてがふたたび静かになった。村落の家たた前方の道が安全かどうか聞いたり、ぶどう酒を飲
プログラムは私たちが午前五時に出発と予定してい た。運転手は、ちょっと恥しそうに、「面倒なことが こ。私は、一夜中、最後の準備に忙殺されていた。私 起こるかもしれない」から、「乗っている荷物」が外ナ がいちばん怖れていたことの一つは、ミラもその仲間 から見えないようにしたいのだと言い加えた。 私はフラ = ヤに別れを告げたが、自分がますます気になっているラ・フカに行くことになっている子供たち に入って来たその心地のよいアパートの中に、私の個に別れを告げることだった。私は、はじめミラもザコ パーネにいっしょに連れて行くことを望んでいたが、 人的な品々は大部分残しておいた。一瞬、本や。ヒアノ や絵などに最後の一暼を投げかけたとき、私はヴィエ医師が、ミラには別の地域のもっとおだやかな気候の ほうが好ましいと主張したのだった。 リ 1 チカの私たちの家と、あんなに突然そこを去っ 子供たちは、すばらしい家、うまいご馳走、ふさわ た日のことを思いおこした。またオルホヴェクでイレ しい衣服、授業や遊戯ーー短かく言えば、幸福が見出 ナやその子供たちと一緒にすごしたあばら家をも思い 出した。そして今、私はこのもう一つ別のア。 ( ートとされると約束されていたその田舎に出発するという考 別れ、病気の子供たちの一団をひきつれて、新しい土えにすっかり興奮して、早くから起きていた。子供た ノ力と私は、ザコ。、 地へと出発するのだった。そこはユダヤ人を受け容れちはすばやく着物を着た。 ( 、 のために雇った女たちの協力を得て、いちばん年少の ぬ保養地の中の異常な家だった。 私はパタンと扉をしめて、いつにな 0 たら自分の家子供たちの手助けをし、ついでデルガ街の建物の前に しに落ちつけるのだろうかと思いながら、急いでデルガ整列して、待っていた覆いをかけたトラックのほうへ 街に出た。私たちが心地よい空気の中で、安全たと感進んだ。 の アウシュヴィッツにいた年少の子供たちの一人が先 人じるのははたしていつのことだろうか。 頭に立っていたが、車のほうへ走って行って、。ヒタッ 285
悪化し、二人の子供たち、さらに自分の甥と姪を守ると答えてその申し出を断った。しかしその機会を利用 して、この地方を支配するソヴェトの役人にオルホ 責任に押しつぶされるような気がした。 ザトッカ家にとっては世の中が、ひっくり返ってしヴェクに学校を開く許可を与えてくれと申し出た。 まったし新しいソヴェトはすべての地主を搾取者、す私のイレナにたいする意見は、かならずしも昔と同 べての百姓を犠牲者じではなく、ザトッカ夫人とその息子を好まなかった と考え、百姓たちのけれど、クリシャとガガの苦しみをやわらげるために この一家を自分が助けなければならないという考えに、 古くからの不平はた だちに満足されなけ私はいつもとりつかれていた。やはりザトッカ家は、 ン たとえそれがいっ意識したものでもなく、積極的な ればならないとした。 ポ ロシア人たちは家庭ものでもなかったとしても、必要のときに私を助けて 巡教師である私を召使、くれたと私は考えていた。今日、事情がさかさまにな ナしたがって「搾取さったとき、この一家をこのまま捨てておくことはでき めれた人間」とみたのない。その上、クリシャとガガは本当の母親のように 放で、新しい政府の代私を愛していた。私は荒々しく二人の子供から離れる ことはできなかった。 ワ表者はザトッカ家の ロシア人は学校の話をもち出したとき、深く耳を傾 地所の一部分を手に ワ 入れたくはないかとけてくれた。 たずねた。私は自分「この村には三百年前から学校はありませんでした」 は百姓ではないからと私はロシア人に言った。「ほとんど、すべての住民 207