屋があった。その店へはいって、もちろん闇の値段で、 でなおもス 1 。フを求めつづけていた。 0 そこで私はすぐに食べるものを持って戻って来ると四つの大きな。 ( ンを買った。なぜならば十分な割当て 告げ、室の外に飛び出すと、大急ぎで階段をかけ下り切符を持っていなかったからである。それから狂人の ような勢いで自分のアパートに走りこみ、そのパンを た。それから台所の窓口に近よった。すでにその前に いく片かに切りたした。食糧貯蔵庫にも手をつけて、 は、十人ばかりの男女が、からつばの椀を手に持ち、 パンの断片に、手当り次第に見つかったあらゆるもの、 めいめい余分の割当て食糧をねだっていた。台所に働 ー、ジャム、ヘットなどを塗りはじめた。さらに、 く三人の雇人たちは食卓のまわりに腰を下して、食事 をとっていた。私はそこにいる十人ばかりの気の毒なすぐさま食べられるあらゆるもの、ビスケット、塩カ らい小さな菓子、ポンポンなどを包みにして、トラン 人びとと一緒になって食糧をねだってみたが、しまい クの中に突っ込んだ。室を出る前に、タオルと石鹸を には雇人たちの注意をひくことも諦めなければならな 持って行くことを思いついた。そしてふたたびデルガ かった。こうなっては私にできることは唯一つだ。 私はデルガ街に出て、自分の家へと走った。生まれ街に向かった。大粒の汗がボタボタと垂れた。 しかしながら、いつばいにつまったトランクも私に てからこんなに早く走ったことはけっしてなかった。 いやおそらく、ゲシタボの本部へ連れて行かれる途は軽く思えた。おそらく、帰る途中ずうっと、食べも 中、護衛をまいたあの夜は別たったろう。今から数カのをねだる子供たちの叫び声が聞こえつづけていたか 月前、私はクラクフの街々を老婆のようにのんびりとらであろう。 した歩調で歩き回った。しかし、今は、自分で驚い いちばん年かさの娘の中の二人が、かわいそうなく ているのだが、若い娘のように文字通り飛ぶように走 ハンらい小さなサンドウィッチをくばる手伝いをしてくれ っていた。自分の家をちょっと離れたところに、
シャリ 1 医師が私たちを迎え、隣り村から雇ってき いに体をしつかりとよせ合ったまま、子供たちは眠っ ていた。覆いの小さな隙間を通して、まもなく私はタた数人の労働者たちを紹介した。門番のクリメックは、 トラ山脈の雪をいただいた頂きを遠くに見た。運転手子供たちに自分の犬を愛撫させていた。その犬は見掛 は速度を変え、ザコパーネに向かって山道をの・ほりはけは怖しかったが、実際はたいへんおとなしい大だっ じめた。シュムニー氏は、運転台の運転手の傍にいて、 案内役をつとめていた。 料理女の・フロニヤはたいへんなご馳走を用意してい トラックはまもなく寮につくだろう。私は、 ( 私のた。私たちが顔や手を洗い終えるやいなや、私は食事 とぎばなし 寮、子供たちの寮、私の子供たちの寮 ) と考えていた。の鐘を鳴らした。子供たちは本当にお伽噺の中の一員 になったような気がしたろうと思った。私だって同し 私は周囲を見回した。 ( 子供たちを眠らせ、休ませ、 そして体力をつけさそう。そして、私には、子供たちょうな印象を感じていた。 を十分よく世話する勇気と力とが欲しい。 ) その他の食卓は、しみ一つない食卓布でおおわれ、食堂には ことはどうなっても構うまい。 日光がいつばいにはいりこんでいた。給仕女たちは、 つぎつぎと食物を運んだ。お代りしたいものは、そう たのめばよかった。どの子供も、これまでに、こんな 正午をすぎて数分、トラックが止まって、私たちは 飛びおりた。眼前に、樹々と芝生にかこまれて、すばに逞しい食欲で、こんなに狂喜してものを食べたこと しらしいと同時に気持のよさそうな大ぎな建物がたってはなかった。ボタ 1 ジュを待ちながら、私は、自分た いいた。遠く地平線には、大空を背景にくつきりと、舞ちが飢えのために半分死にかかって、デルガ街のとじ こめられた室の中で大声で食べるものを求めていた、 人台の背景の上のように、タトラの巨峰、壮大なジェ あのかわいそうな孤児たちのおもかげからはるかに遠 ウオント山が横顔を見せていた。 こ 0 28 /
私はクラクフに戻ったが、それ以来どんなことにもにもないところから再出発するのにたいへん苦労した。 0 ドイツ軍は記録や研究書類をみんな破り捨ててしまっ 無関心になった。フラニヤは私にたいして十分親切を つくしてくれ、昔、大好きな先生の一人だったステたからだった。あなたもちょうど同じことをしなけれ ばならないのだ。それは私たちがみんなやったことな ファン・シュ ーマン教授に会いに、かって学んだこと のだ。それに、他にどんなことをすべきだろうか。知 のある大学へ行ってみるようすすめてくれた。 「先生はダハウに流刑されていたけど、今は元の仕事識階級の連中ーー・私たちのようなーーが進むべき路を に戻って生徒たちに教えているわ。会いに行っていら世の中に示さないならば、誰がその仕事をするだろう か」 っしゃい。きっとあなたを慰めてくれるわ。あなたは 働かなければならないのよ、レナ。することはたくさ教授はかがみこむと、私の腕をとった。 「レナ、あなたが自分の身に起こったことを忘れるこ んあるわー とができようとは私も考えていない。しかし、ただこ ーマン教授はすぐに私ということがわかった。 そして数瞬間自分の仕事を忘れて、私を迎え、まるでう言っておきたい。仕事をはじめなさい。そうすれば きっとあなたにとって多くのことが変わってくるだろ 父親のように抱きしめてくれた。 私も自分の冒険物語を語った。話し終えると、教授う」 は続けてふかしていたパイプを口からはすして言った。私は教授の忠告を心にとめて、心理学の専門用語の 「よく聞きなさい、レナ。ドイツ軍はこの大学の百七研究について協力しようと決心した。ますます多くの 人の教授と学部長たちを連れ出して、ダハウに幽閉し時間をその仕事に捧げた。シューマンの言ったことは、 た。そのみんなは戻ってきていない。戻ってきたとき、すくなくとも、それまでは正しかった。私は前よりず 私は自分の仕事を再開して、昔の研究室を開き、なんっとよく眠り、自分のこともあまり考えなくなった。
JOint Distribution ( 会長は自分の気持を抑えるためかのように、髪の中ん。それに政府は、共同配分委員会 ( committee. ユダヤ に片手を突 0 込んだ。 ) どうしろというのですか。毎人援助のた功の ) に、当地の = ダヤ人に援助をおくること 日、ここの庭や階段に新しく子供たちが見つかるのでを許可していません。私たちはまだ一文も受けとって す。政府の孤児院はその子供たちがユダヤ人だと気が いません。その上、毎日、アウシュヴィッツから出て つくと、すぐにここへ送ってくるのです。それでこの ハンガリーやチェコへ行く途中のユダヤ人たちがやっ 有様です。政府の人びとはユダヤ人の子供を欲しくなて来ます。そのすべてが援助を必要としているのです。 いのです。自分たちの国の子供たちを世話しなければその人たちになんにもしてやれませんので、どなった ならないと言うのです。。ホーランドの子供たちは、食 り、悪口をぶちまけたりします。ーーーここで、目の前 べるものを手に入れ、着るものを持っています。しかで死ぬ人たちもいます。私たちの持っているものはみ しユダヤ人の子供たちはご覧のとおりただ送ってよこんなこの家の中にあるのです。子供たちのための養護 すだけです。飢えに泣き、裸足で、なんにも持たない所、老人たちの収容所、病院、屍体公示所、事務所、 まんまです。こんな状態で、私たちはどうすればいし 台所、すべてです。政府は、私たちの団体が持ってい のでしようか」 た家屋も、昔のユダヤ人病院も、私たちの学校も返し 私は自分の言った言葉を後悔した。しかし優しい青てくれません。したがって、すべてがここにあるので い眼の会長にとっては、自分の心の中をからっぽにすす。子供たちの取扱いが十分でないと考えるのですか。 いる必要があった。会長は、はげしい思いに捉えられて、大人たちがどんなエ合に暮らしているかごらんになり い私たちに向かってというよりも、むしろ自分自身に向たくはありませんか。さあ、お見せしましよう。この 人 かってしゃべりながら、室の中を行ったり来たりした。家はすべて、アウシュヴィッツの延長にすぎません」 2 会長はふたたび静かな声に戻って、ゆっくりと室の 「私たちは、食糧も、衣服も、なんにも持っていませ
私の声は、ひどく聞こえにくいように思えた。 を捧げることになった。 「長いお話よ、今はそれをあなたにおしゃべりしてい 大戦より数年前に共産主義者となり、戦中も戦後も る暇はないわ。ここはわたしの家よ、レンカ。そのこ 公然と表明していたその決心や信念に恥じるようなこ とはあなたの家にいるということよ」 とはしなかった。ポーランドの警察はフラニヤの家の フラニヤはべッド の端に腰を下した。私は自分の片人びとを捉えて投獄し、一度釈放したが、後ふたたび 手をフラニヤの腕にのせた。フラニヤは本当に元気い捕えた。父は病気となり、母も病床につき、まもなく つばいのような風たった。 死んだ。しかしフラニヤはあくまで自分の信念を変え フラニヤが自分から話し出した。その声と態度はカなかった。一九三七年、ポーランド当局に今度はフラ と自信を現わしていた。フラニヤは新政府の官吏だっ ニヤが捕えられ、共産主義的活動のために最初のポ 1 しんし た。横になったまま、フラニヤの真摯な態度を見つめランドの政治犯収容所ペレザ・カルトウズカに監禁さ て、ポーランドの将来の必要事について語るその言葉れた。 に半分しか注意を払わないでいた間、私は、その突然「わたしは、収容所とこのクラクフのいたるところで の転向の前と後に、フラニヤがどんな風であったかをあなたをさがしたわ。しかしあなたの姿は見つからな かったの」とフラニヤが言いつづけた。「どこにかく 思い出していた。 フラニヤは、母の兄、つまり私の伯父の娘たった。 れていたの」 十五歳になるまで、ユダヤ教の伝統に従って育てられ そこで私はオルホヴェクのことと、百姓の子供たち ていたが、ついでなぜだかわからぬ中に、完全な変化のためにつくった学校のことを話した。 をとげて、自分の家族と信仰の習慣と原則に背を向け、「あなたにはかわいい娘さんがあったときいていたわ、 新しい宗教、すなわち無神論と共産主義の福音書に身レナ。今どこにいるの」
ンドのために戦うか見せてやる」 私はビルサの子供たちと遊ぶのが大好きだった。そ 。ヒルサの顔は変わっていた。たしかにその瞬間は、 ドイツ軍を襲撃する武装パルテイザンの一隊を指揮すして子供たちの可愛いい小さな姿とその無邪気な大笑 いとがどんなに自分に欠けていたかがわかった。しか る自分を想像していたのだ。。ヒルサがつづけた。 「あなたも知っているように、ドイツ軍は、ソコロフしここに長くとどまっていることのできないこともわ かっていた。まず十分の場所がなかった。子供たちは 地方の街道を巡回するのを怖れているのよ。多くのド ィッ兵士が、真昼間、頭に弾をくらって、殺されたの。床すれすれにおかれた薄いマットレスに寝ていたし、 おお、あの鷲、あの人は真のパルテイザンの首領だわ。持っているものをすべて売ってしまって以来、食糧も 戦争のやり方を知っているわ。そしてその婚約者を誰乏しくなっていた。その上ヴロヒーは私にとってワル だと思う。フェラよ、わたしたちのフェラなのよ」 シャワよりも危険な場所だった。そこは、ひどく人び との密集した小都会だったので、おそかれ早かれ、誰 私たちは、夜遅くまで、妹のことを話し合っていた。 かがいろんな質問をしはじめる怖れがあった。それな はじめは形式的に抗弁していたが、ついに数日間。ヒル サの家に過ごすことを承知した。私には本当にすこしらどうしたらよいだろうか。 ばかり休息して、自分の運命に再出発する前に体力を 私に必要なものは仕事だった。それもできれば、ゲ 回復する必要があった。私は、。ヒルサがフェラと「鷲」シュタポや密告者、すなわちポーランド全土とヨーロ ツ。 ( の最大部分に襲いかかった悪夢から遠くはなれた いについて言ったことにすっかり喜んでいたが、また心 配にもなってきた。パルテイザンの仲間としての生活人里はなれた一隅にある家が望ましかった。 ある夜眠ることも、なんの安らぎも得られぬときが 人をおくっていれば、どんな危険な目に会うかわかるま あった。一九四三年四月のこと。おだやかなタベだっ
私たちは、多分にユダヤ人街の生活を思い出させるのみこんでいた。二人にとっては、丸パン一つが、他 暮し方をしていた。もっともそれは楽しく愉快な時ののいかなる食物にも見出されない安全の観念を現わし ユダヤ人街の生活たった。子供たちは、私と同じようていた。ャーコヴは、あるカトリックの女の家の屋根 に、体に目方がっき、もう飢えたような風をしていな裏部屋にかくまわれ、三カ年間、余り物だけを食べて いことに気がついていた。おそらくうすうすは感じて暮らしていたのだった。クラクフへ来たときには、骸 いたかもしれないが、子供たちのわからなかったこと骨のようにやせていた。身をかくしていた間中、その は、外の世界にかこまれた自分たちの特別な小世界に屋根裏部屋の中で、新約聖書しかよむものがなかった。 あって、自分たちがどんなにすべてから切りはなされ新約聖書の文句を暗記していたところから見ると、き ていたかということだった。もちろんクラクフにあるっと何度も何度もよみ直していたのにちがいない。そ デルガ街の委員会事務所とだけは連絡がとれていたが、して、しばしば、大きくなったら、新約聖書の教えを それ以外に、私たちはほとんどなんにも世の中におこびろめるために司祭になるのだと私たちに言っていた。 っていたことも、世の人びとが考えていたことも知ら大きな丸パンへの情熱が長くつづいたダヴィッドは、 なかった。ただ食べることと、ものを覚えることだけャーコヴとは反対に、私たちによって我らのツアディ に夢中になっていた。世の中の心配事に悩むなどとい ック、すなわち私たちの聖者と考えられていた。ハ うことは、将来自分たちの生活が安定してからのことデイム家の出身で、戦前のポ 1 ランドに存在していた いであった。 あのユダヤ教派の経営する多くの教団の一つで育てら 私たち寮生の中でいちばんがつがっしていた二人は、れた。ダヴィッド一家の住んでいた町に着いたドイツ の 人ャーコヴとダヴィッドだった。二人とも、食事ごとに、軍が、ユダヤ人たちに行列をつくって墓地まで行くよ 2 丸パンをまるごとのみこむことができた。ーーー事実、うに命じたとき、みんなは直ちに、儀式にでも出かけ
しかし、私は聞いた、 へ帰ること了承の旨、電報がきた。 私は軍に移動許可を請求し、荷物をまとめはじめた。「その芝居には、まだ私が参加できるだろうか」と。 8 何も知らない私の友人は、すべてを取り計らってい ビル・ラングもまた一隅で荷造りを始めた。。ヒンキイ のためのレースのネグリジェ ( 寝室着 ) を私が手にした。 ているのに、彼は自分の長い冬の下着と新しい軍靴を「お前は遊撃部隊といっしょに行く手配にしてある。 ダービー中佐は、明朝、君が出動するのを待ってい ・ハッグに詰めていた。私が。ヒンキイに、ロンドンでし 1 トを借りておくよう電報したことる」 ちばん豪華なアパ を話したとき、彼は黙って、たこっ・ほをもっと上手に 掘れる新型のシャベルを見せただけだった。私は一瞬私には、どこに、どうして、何を襲いに行こうとい ちゅうちよした。そして。ヒンキイの薄い下着を手からうのか、解くことができなかった。第五軍は戦いに疲 れた二個師団と、小さな奇襲部隊の予備しかなかった。 放して彼に聞いた。 しかし当時なおわれわれは、彼らのしようとする目的 「何が起ころうとしているんだ ? 」 ふとう 彼は私を窓のところへつれていった。ナポリの埠頭のために十分なる兵力が、あるものと信していた。そ は、あの見慣れた上陸用舟艇でいつばいだった。戦時して北アフリカのいろんな港に、われわれと合流すべ く巧みに隠された兵力を積みこんだ船があるものと想 記者にとって一つの侵攻戦をミスすることは、五年間 もシンシン刑務所で刑を終えた後で、ラナ・ターナー像していた。 われわれの戦争では、この点だいたいにおいて戦略 との逢引きを拒絶するようなものであった。私はもと 五カ月間上の失敗はなかった。そこで、何か気がかりな質問を よりターナーよりも。ヒンキイを好んだ。 ものあいだ、戦場で自分の感情を抑えつづけた後ではするものもほとんどなく、まただれもそんな質間に答 8
後まど、子供たちが飢えの そして、せつかく生き残った私の残りの人生にするがままにしておいた。 , を ために厭わしく、物狂おしくならなくなったとき、 も意義がありますように : あなたは私から子供を奪われた。それから私は母とちゃんとした服を身につけたとき、子供たちのための 真の児童の家を創造することに協力しよう。クラクフ なることを止めました。 今こそ、私を、これらの子供たちの母親にさせ給え。ではなく、どこか、田舎の真中で、太陽と大気とすぐ そして授業とがーー・そし れた食糧と清潔なべッド お願いします、神よ、お助け下さい ) て何よりも第一に多くの愛情と理解とが、子供たちを 私が子供たちと別れて、自分の家に戻ったのは夕方正常で健康な人間につくり直すだろう。 もだいぶ遅くなってからだった。私が子供たちのもと疲れはてて、眠った。そして眼を覚ましたときは、 を去ろうとしたとき、べラが帰ってきて体をすっかりもう正午に近かった。机の上におかれた紙片が、フラ 拭き清められた子供たちを見て、大声でどなりはじめニヤがやって来て、アパートで夜をすごしたが、もう た。こんな仕事は私にはもうできない。散歩に連れて事務所に出て行ったことを教えていた。急いで服をつ いこうと思ったってこんな汚らしい子供たちじや近所けると、フラニヤに会いに行った。 の腕白小僧に石でもぶつけられるだけだ。もし自分が室にはいったとき、フラニヤの傍には、その右腕で いなかったら子供たちはもっと腹を減らせていたに違あり、永遠の相棒であるザレスキ 1 がいた。ザレスキ しいないと言うのだ。私はべラのぶつ演説に半分しか耳ーは、クラクフの駅で私が発見されたときいっしょに を傾けていなかったが、その言葉の中には多くの真実いた人だった。二人ともたいへん愛想よく迎えてくれ 人が含まれているとわかった。私の心の中で、一つの考た。私はただちに問題の急所に飛びついた。 えが生まれはじめた。私はその考えがひとりでに発展「フラニヤ、よく聞いてちょうだい。わたし、デルガ 243
と看護婦が知らせた。 カ人のメイハーの数は定員いつばいだったので、いろ子が生まれましたよ、 二十四時間たって、クリスは、第九空輸部隊の基地 いろやったあげく、自由 ( ンガリー人として入会でき のある中部イングランドから帰ってきた。彼はクライ ン氏の赤ん坊をほめた後で、いっしょにピンキイの病 私はロンドンの休日の第二夜を過ごしたのは、まさ にこのクラ・フであった。午前三時まで飲み明かして、院をまわって : 、 ーカー氏″の″ビンク〃の女の美し リトル・フレンチ・クラ・フへ彼を 上機嫌でベルグラーヴへの家路についた。私の家に、 さをほめた。夕方、 妊娠して客分になっていたモナは起きて待っていた。 つれて行ったら、話し上手な彼は、面白おかしく″パ ーカー氏とクライン氏″の件を物語ったので、私はア あまり長いこと立っていたせいか、彼女は急に産気づ いたらしい。私は、新しく来たらんとする第二の居候ポットとコステロ演するところの、あわれなるジキー の突然の到来に仰天した。これは大変なことになったル博士とハイド氏にされてしまった。しかしこの話の と、大急ぎで産院へ連れこんだ。モナは一目で十分そ効果はてきめんで、本国を追っぽり出されてるアメリ れとわかる状態だったので、すぐ病院に受けつけられ、カ人たちは、モナとビンキイの病室を、花東との 私はまもなく父親となる人たちの待合室へ案内された。 配給品で埋めつくし、見舞い客があふれた。 上陸作戦の噂が広がり、重要人物の英国到着が日ご 当時はまた、米軍の制服を着て赤ん坊を待っ若い父 とにふえてきた。 け親の姿は珍しかったので、気づかわしげに待っていた しらが ひげ ものすごい白毛まじりの茶色の鬚もじゃのア 1 ネス ズ英国の父たちは、自分たちの心配もしばし忘れて、私 ヘミングウェイは、このリトル・フレンチ・クラ とのまわりに集まり、大丈夫うまくゆくよと元気づけて っ よくれた。 ・フへ加わった最後の会員だった。彼は赤くただれたよ / 9 十一時になって、 クラインさん、りつばな男のうな目をして、ひどいようすだったが、彼との再会は こ 0