天路歴程は、目指す目標の故に意義あるものとされるったのかはわかりません。ただ、私はポストンで何人 のだと思います。しかし時々曲がり角で出くわす楽しかのギリシア人と知り合いになり、その人たちが自分 い思いがけないものはあっても、この旅は果てしがなの国の物語を熱烈に愛しているのに心打たれたことが いように見えるのでした。 ありましたが、ユダヤ人やエジ。フト人には全然会った 聖書は意味がわかるずっと前から読みはじめましことがなく、そのために、彼らは野蛮人も同然で話は た。いまではその素晴らしい音楽に対して私の心がっ皆作り話なのだろう、そういう仮説を立ててこそ、話 ん・ほだった時があったのが不思議に思えますが、よくの中の繰返しゃ奇妙な名前が説明出来るのだと思いこ 覚えているのは、ある雨の降る日曜日、他に何もするこんでいました。不思議なことに、ギリシア人の姓も とが無いので、従姉に聖書から何かお話を読んで欲し「奇妙」だと言うことは思いっきもしませんでした。 いと頼んだことがありました。従姉は、私にはわから しかしその後になって見出だした聖書の壮観な美を どうお話したらよいでしようか。もう何年もの間、私 ないと思いながらも、ヨセフとその兄弟たちの話 ( 世 下参 ) を手につづってくれました。それは何故か面白は聖書を読む度に、ますます大きな霊感を感じとって くありませんでした。一風変った言葉遣いと繰返しがおり、他のどんな本とも違った意味で愛読しています。 多いためか、お話は遠いカナンのことで現実離れしてしかし相変らす聖書の中には人間としての私の本能が いるように思われ、眠くなってしまって、ヨセフの兄反撥するものが多くあります。そのために始めから終 み ゅ弟たちがたくさんの色に染めた衣を持ってヤコ・フの天 りまで読み通さねばならなかったことをうらめしいと の幕に戻り恐ろしい嘘を言う前に、眠りの国にさまよい さえ思います。聖書の歴史や起源について得た知識も、 蹟出てしまったのでした。ギリシアの物語はあれほど魅どうしても心に留めざるを得ない、細かい不愉快な事 力に富んでいたのに、聖書の話はどうして面白くなか実の償いになったとは思いません。私としては、 (
たくしが人々から学ぶことができるとすれば、それは 意味を失ってしまうようなことばで表現することは間 ここにいる人たち ( そのころかれがいっしょに暮らし 違っていると思われた」からだという。このあとには、 自分の歌が死んでしまってうれしいという意味のにがていたヴォルプスヴェーデの芸術家サークルのこと ) いことばがつづいているのだが、この文章にかくされだ。かれらは身近にいてもわたくしを驚かさないほど : それにかれらは、ここで、わた た苦悩は、次のようなきびしい自虐のことばにおいて風景に似ている。 頂点に達している。「わたくしは数えきれないほどのくしをなんと愛してくれることか」。そう、かれはル 1 の愛が失われてゆくことを感じていたのである。 詩を葬り去った。わたくしはまるまるひと春をつぶし リルケがルーといっしょにイズ・ハで暮らした三日間 てしまった。いまほんとうに夏がやってこなくても怪 しむにあたらない。わたくしの未来は完全にとざされに、ルーの愛が変わりつつあるという危惧がはっきり ている。いまドアを開けても、道は長く、誰もいない」したにちがいない。もしまだ彼女がヴォルフラーツ ( かってリルケはルーを自分の未来と呼んでいた。かウゼンでのようにかれを愛していたなら、なぜ彼女は、 れを恐怖で沈黙させ、かれがこんなに苦々しく嘆いて夜のために藁ぶとんを用意してくれた農婦に、もう一 いる二度目のロシア旅行の「日々の損失ー・ーー書けなっ用意してほしいと言ったのか ? ルーは、農婦もそ かった詩・ー・・・・を生じさせたのは、かれに対する彼女のの意味がわからなかったと書いている。また、イズ 態度の変化たったのだろうか、それともなにか別のこで一夜明かしたあとのルーの日記に「わたしの指の爪 と かれに自分の感じたことを表現する手段が欠けと神経にトゲがささった」と意味ありげに書かれてい ていたからだろうか ? ロシアから帰って以後、かれるのは、どう解釈すべきだろうか。彼女がリルケに、 もはや自分はかれの妻になれないこと、かれは去らね はこれらの「損失」を自分の未熟な目のせいにしてい るが、意味ありげにこうつけ加えている。・ーー「もしわばならないことを告げたのはこの夜ではないのか ? わら J72
シャのことも。グリーシャがわたしとはもう友だちでひじようにちがってはいるが、どこか、おなじところ はないと、ことさら見せつけるような態度をとるのが、のある人間たと考えている。 きのうは、うれしい贈り物をもらった。キャン。フで わたしには悲しい。わたしとは、くだらない話しかし ようとしないし、露骨にわたしを避けている。レーナの、わたしのお気にいりの女の子ーーエッラが手紙を くれたのだ。でも彼女の字のへたくそなのには、さす も、彼の「あそび」が鼻についてきたという。このご ろ彼女はタマーラに感化されているらしい。このまえがに開いたロがふさがらなかった。 は二人して学校に来なかった。遅刻したので、一日中 タマーラのところでさ・ほっていたのだ。レーナのお母 九月ニ十六日 さんが学校へ来たので、みんなにばれてしまい、大事わたしって、なんてばかな女なんだろう。グリー 件になった。レーナはタチャーナ先生からもひどく叱シャに二度も電話するなんて、自分で自分を軽蔑した られた。どうして彼女はあんなに意志がよわいのだろくなる。たしかに家にいるのに、「出かけています」 う。タマーラなんて、空虚で、イージーで、うわべだ という返事なのだ。たぶん、「うるさくつきまとって けはなやかな人生を理想のように思っている人なのに、きやがる」と思っているにちがいない。 どうしてあんな人にすぐ感化されてしまうのかしら。 ところがきようになって、だしぬけに彼から手紙を わたしはレーナがとても好きだ。ほかの人にとはちが渡された。わたしがポーイ・フレンドに「不自由して 記った意味で、心からの好意をもっている。口にはしな いる」らしいから、よかったら友だちになってもいし のいけれど、生涯のお友だちでいたいとさえ、心の底でと書いてある。最初わたしはあやうく泣きだしそうに 一思っている。以前は、彼女とわたしは、まったくちが なったが、それから癪にさわってきて、ひどく乱暴な、 3- った種類の人間だと考えていたが、いまは、おたがい強い調子の返事を出してしまった。
めていた。かれは悲観し、片時もルーから離れまいとのだ。かれは彼女をとおして世界を見たいと言ってい した。五月の末、ふたりは孤独と山の空気をもとめてるが、その理由は「そうすればわたくしは世界を見る 2 のではなく、ただあなた、あなた、あなただけを見る 上スイ一ルンの小さな村ヴォルフラーツ ( ウゼン ()( よよ怖れていた ことになる」からだという。三日後には詩のなかで彼 をく ) で二日い 0 しょに過ごした。いい 別離の日がやってくると、リルケは心が痛んだ。さい女を「皇后」と呼んでいる。彼女はかれを豊かにし、 わい、徴兵局は検査終了後、結局かれを必要としない かれはその富を隠そうとしていたが、誰が見てもかれ と決定した。リルケは。フラハからこの朗報を喜びにみの幸福感がその目に輝いていた。かれは「遊離した自 ちた電報でルーに伝え、数日後にはミュンヘンの彼女分を失って、彼女のなかに完全に溶解」したいという。 のもとに帰ってきた。爾来ふたりは別れられない仲と「わたくしはあなたになりたい。わたくしはあなたを なったのである。 知らないような夢など見たくありませんし、あなたが リルケの手紙や詩の燃えるような熱烈さは、かれの同意なさらないようなことは望みません。あなたを称 愛がいかに速く充足を見いたしたかを示している。六賛するのでなければ何もしたくないのです。 : : : わた 月六日、聖霊降臨節の日、かれはルーに挨拶状を送り、 くしはあなたになりたい。そしてわたくしの心は美し この春はかれにとって特別な意味をもっと語り、彼女いあなたの前で、マリア像の前の永遠のラン。フのよう の「快い奴隷」に甘んじたいと言っている。その二日に燃えるのです」 こういう熱狂的に感情を吐露した手紙に対するルー 後、かれは、自分がいかに彼女を愛しているかを彼女 いんめつ が理解するまでには、長い年月が必要であると誓った。の返事は、ふたりとも愛の記録をすべて湮減する約束 渇して死にそうな男に対して山の泉が意味するところ だったので、残念ながら失われてしまった。彼女が回 は、彼女の愛がかれにとって意味するところと同しな想録で語っているように、かれらの生活 ( 彼女の結婚
しさ、とかあの響きとかいうのはどういうことなんでこちらには、シ・ ( の神や象の神をかざ 0 た、もの珍ら すか。波がなぎさに押寄せるさまも見えす、音も聞こしい市があって、本で読んだインドが現実になり、あ えないあなたにとって、そんなものが何の意味を持っちらには回教寺院とらくだの長い行列の続くカイロ、 ているのですか」とお尋ねになります。どなたにもおむこうにはヴ = = スの潟があって、そこでは毎タ町や 解り頂けると思いますが、それはありとあらゆる意味泉に照明がつくころ舟に乗りました。その小舟からほ を持っているのです。その意味を測り知り、説明を下ど遠くない所にあ 0 た海賊船にも乗 0 てみました。私 すことの出来ないのは愛や宗教や善を測 0 たり、説明は前にポストンで軍艦に乗ったことがありましたが、 出来ないのと同しことです。 この海賊船では、むかしは船乗りがいかに重大な存在 一八九三年の夏には、サリヴァン先生と私はアレグであったかーーっまり今日の水兵さんのように無知な ザンダー・グレアム・ベル博士と一緒に万国博覧会を機械の背後に隠れてしまっているのではなくて、いか 見に行きました。幾百もの子供の空想が現実になったに帆を使い、嵐もなぎも同じ恐れを知らぬ心で迎え、 その時のことを、私はまじり気のない喜びとともに想「われ等は海の者」と叫ぶ声に答えを返す者は誰でも い起こします。毎日、空想の上で私は世界一周旅行を追跡し、頭と腕を使い、独立独行、自信を持って戦っ し、地の隅々からきた驚異の数々、驚嘆すべき発明やたかを見るのが興味をそそったのです。これはいつの ら、工業と技術の成果、人間生活のあらゆる営みが現世にも同じこと、 「人間たけが人間にとって興味 実に私の指先の下に繰り拡げられたのでした。 のあるもの」なのです。 私は博覧会の中央の遊歩道に行くのが好きでした。 この船からまた少し離れた所に、サンタ・マリア号 コロンプスがアメリカ発見 そこはまるでアラビアン・ナイトのようでたくさんの ( ) の模形があってそれも良く見ま の際に用いた一番大きな船 珍らしいもの、面白いものがぎっしり並んでいました。した。船長がコロンブスの船室と砂時計が載っている
くしの言葉に力強さと豊富な影像とを与える新しく偉はいるがそれほど重視しているわけではない子供であ めいせき ることを、かれに感しさせた。かれはがっかりして憤 大な明晰さが、生まれて来たのだから」。昻奮してか れは叫ぶ , ーー「愛する人よ、わたくしがこんなに明るりをお・ほえ、突然の怒りにかられて、彼女が大嫌いだ くなってあなたのもとに戻ることができるように、そと言った。かれは過去をもう一度生きるためにやって れはわたくしがあなたにもたらしうる最良の捧げものきたのではなかった。 「わたくしはあなたの中にベルリンの冬の日の追憶を である」 ところカノ / 。、、くレト海に臨な保養地ゾポットでやっと見いだしたくなかった。いかなる時にもまして、あな たはわたくしの未来でなければならなかった」。しか ルーに会ってみると、かれの不安がまた頭をもたげた。 かれは新たに見いだした自信で、彼女を驚かしてやろし、彼女の前にいると、かれには自分が卑小で無意味 うと思っていた。今度こそかれは自分が主君に、主人な、乞食のように無価値なものに感しられた。「わた になりたいと思っていた。かれは自分の男性らしさのくしは、本当に惨めで哀れなものに自分を感じ、わた くしの富の最後の残りを失ったり、投げ棄てたりした。 独立を宣言するつもりであり、かれの歌に少女のよう に昻奮してうち震えながら、かれの胸の中にとびこんそして絶望の中に、自分を卑しくするこの善意の圏外 涯 に迸がれなければならないということを漠然と感して でくるルーを夢みていた。哀れなリルケ ! かれはも 生 いた」 愛っとよくルーを知っていたと思ったのに。彼女はどの しかし、かれの怒りは長くはつづかなかった。かれ 男の腕にでもとびこんでくる女ではない。昻奮すれば サ熱烈になるが、彼女の意志は、情熱についてそんな甘は彼女から身を引き離すことができなかった。かれが 一い考えは持たなかった。彼女はかれを十分やさしく迎まだそうした穏やかでない感情にとらわれているとき、 ルーは落ちついて、どうする計画かとかれにたずねた。 えたが、かれがまだ子供であることを、彼女が愛して
フィリップス・プルツ っても、ご親切なお言葉に対していつも心から感謝し栄と思っています。・フルックス主教 ( クス、一八三五ー九 = 「 ておりますことを、ここで申し上けたいと存じます。絵知 ) を知 0 ていた人だけが、主教の友情が、 多くの優れた天性を具えた人々を知り、お話する機それを受けた人にとってどんな喜びであったかを理解 会を得たことを、私の人生におけるもっとも嬉しい光出来るでしよう。子供のとき、私は主教の膝に乗って、 、【第鱧一 ) ) 」い第 4 石主教 0 大きな手を一方 0 手「握り、もう一方 0 手 = = . わ - 二一口 教の美しい言葉をつづって頂くのが大好きで、子供ら い驚きと喜びを感じながらお話を聞きました。私の る魂は主教の魂にまで届くことは出来ませんでしたが、 賞人生の喜びの本当の意味を教えられ、大きくなるにつ をれて、いよいよ美しく深い意味を持つようになった尊 い物の見方を頂いて帰らぬことはありませんでした。 ある時、どうしてこんなにたくさんの宗教があるのか し知りたいと言いますと、主教は「ヘレン、普遍的な宗 来教は一つしかないんだよ。それは愛の宗教なんだ。天 《既のお父様を全身、全霊をも 0 て愛しなさい、神様の子 。第を , 《供を皆出来るだけ愛しなさい、そして善のカの方が悪 のカより大きいということを覚えていなさい。そうす れば天国への鍵を持っていることになるんたよ」と言
いわゆる解釈や解説をほどこす必要もないといえる。この文章の意味・意 この記録は、まったく透明であり、 義はあまりにも明らかである。あるいは、ここは「神ーがまだ死んでいない世界であるといえよう。われわれは これを読むとき、たとえ彼女自身が表白するようにキリスト教的な神の存在を実感し認知することができぬとし ても、なおーー・はじめにも私はいったがーーー何らかの「神性」のごときものを世界の奥に感ずる心地を禁し得な いうならば、ここは神のある世界である。 いであろう。 自分の心お・ほえ、というほどの意味で私はここに三つのことを書きとどめておくことにしよう。それはこの女 性の達成の記録から感じられた三つの「教訓」といっていいかもしれない。その一つは、これもすでに触れたこ とであるが、彼女のまわりの人々の協力ということであり、これがなくては、このような「奇蹟的」とよく人々 力いうようなことは成しとげられなかったにちがいない。あまりにも明白なことであるが、それは、人間の世界 で人間が何ごとかを成そうとするに当っての絶対の要件というべきである。これは、終戦直後彼女が日本へきた とき某講堂で彼女を見たときいらい何となく私の心をはなれないことである。ここに出てくるアン・サリヴァン のような人のことはいうまでもない。その他数かぎりないといっていいほどの人々が、彼女をこのような彼女と したのであるーーもちろん、その時代のアメリカは今日のそれとはやや異なった社会だったとしても、やはり弱 マニズムに根ざ 性肉強食の企業競争の世界であり、また人種的差別という悪をもったそれであった。そこにヒュー るすうるわしい相互扶助があったといっても、それは同じ人種同士、あるいは同じ階級同士のあいだのことであっ らたとしなければなるまい。ただ、そのことは頭に充分に入れたうえでなお、一人の人間はまわりのものの助けな ずくしては真に生き得ないという教訓をここに見る。 み とれほどの協力が周囲から与えら そのことは、もちろんへレン・ケラー自身の価値を低くするものではない。。 3
に失敗したルーは、彼女にとって宿命とも思われた行 為に身をまかせたーー宿命というのは、彼女が二十六 2 歳になってようやく、逆らいがたい恋人に、つまり彼 女がみすからに課した処女性から彼女を解放しようと いう男性に、出会ったという意味でそうなのではなく ルーの愛をかちえようとする竸争者がまた一人、な ( 彼女は、決して突然の肉欲にかられたのではないと ちんにゆう んの予告もなく闖入してきたことは、単にレーばかり主張している ) 、他人の生命、否定することのできな い自然力に、悲¯ でなく ( かれはそのショックからついに立ち直れなか 虜的に巻きこまれたという意味で宿命 った ) 、ベルリンの彼女の友人や賛美者たちすべてに的なのである。その長い生涯の回想記においてさえ、 ショックを与えた。この見知らぬ男の強引な接近には、彼女は、ほとんど脅迫されてアンドレアスの求婚を承 さすがのルーもたじたじであった。こんなことは彼女諾するにいたったいきさつを思い出して身震いしてい の生涯で初めてであったが、ルーは自分をしのぐ決断る。この結婚は自分を友人レーからばかりでなく自分 力をもったこの男の前に出ると、完全に呪縛されたよ自身からも引き離したとりかえしのつかない行為だっ うになってしまい、それに反抗して本能的にレー兄さ た、というのが彼女の実感であった。 んに助言を仰ごうとした。しかし、それはレーの任で ある日、予告もなしに彼女の部屋の呼鈴を鳴らした はなかった。もしかれが、今後もアンドレアスと会っ フリードリヒ・カ ] ル・アンドレアスと名のる男は、 ていいかと彼女に聞かれたとき、ノーと答えていたら、べつに運命の使者としてひと目でルーの心を奪ったわ あるいは彼女との友情を維持し、彼女の愛をかちえるけではない。かれは押しつけがましいというよりはお ことさえできたかも知れない。 レーの助言をえることとなしく、学者的なまじめな態度と修道士のような外 十一アンドレアス
、、。・ほくが過去数年間その人生に意味と色あいをつけるだろう。しかし、もしそ ているものだと誓ってもし 無論、ニーチェの永 なかで生きてきたこの相を見徹してください。そして、ういう希望がなかったら : : : ? 、。・ほくを見る劫回帰ほど絶望的なものはない。にもかかわらずかれ その背後にあるものを見つめてくださし 目をあざむかれないように。〈自由思想家〉が・ほくのはなんとかしてそれに氷河の魅力を、沈黙と白色と脅 理想像たなどと本気で信じることのないよう希望しま威の魅力を与えようとしている。 しかしルーは、ニーチェに夢中になっている自分に、 亠・ -0 ・ほ・ , は : いや失礼」 こういう告白はルーを困惑させた。レーの合理主義はたと当惑することがしばしばあった。彼女の感情は をニーチェがなぜ軽蔑するのか、彼女にはわかりすぎかれの考えによってかきたてられるのに、精神のほう でそれに逆らおうとするのである。かれの言うことに るほどわかっていた。彼女もそれには疑問をもってい レーの言ったとお たのである。たから彼女は、ニーチェが生命におけるは、全然、証拠というものがない。 り、ニーチェは実際には哲学者ではなく、神秘主義者、 非合理的な力に訴えると、魅惑を感じないわけにはい 、なかった。畏布と信仰と神秘を欠いた世界など生きそれもたいぶいかがわしい神秘思想家なのだ。かれの るに値するたろうか ? もったいぶった意見をきくとおかしくなるし、かれの あした 涯「朝に四本足、真昼に二本足、タベに三本足で這いま いわゆる世界を震撼させる思想なるものの講釈をきい 愛わりーーそしてただ死んでゆく以外なんの意味もないていると、それはまさに喜劇だ。そのうちに、レーが 束のまの時間」 ( 『神をめぐる闘い』 かれがニーチェの予言を拝聴す いればなおのこと ルーよ サ理性が信仰を征服するようなことになったら、価値るときは侮蔑の色を露骨に示すのであった 一判断の尺度はどうなるか ? 神秘主義者なら、すくな ニーチェの言葉をまともに受けとることができなくな 9 くとも、神に平和を見出すだろうし、そういう希望が ってきた。タウテンプルクの薄暗い森のなかで聞いた