いことである。なぜなら、学校や新道路やその他の現 あった。わたしの振舞を好意的に迎えるささやき声が 2 一座の間に伝わった。老人たちは、くわえていた。 ( イ代生活の全般に広まった進歩などをとってみても、こ銘 。フを口からはずして、わたしに挨拶を送った。技師が こにおける政府の仕事は賞讃に価するばかりか、歴史 明らかに賛同していない、わたしのはくしたこの人気上、かって安全を知らなかった地域にそれをもたらし たということは、なまやさしいことではないからであ が後にわたしに面倒をもたらしたのだろうかと、しば しばいぶかしく思うことがある。技師の考えるところる。たった四十年前でさえ、部族民との特別の友好関 ては、ソマの「ヤイラ」は野蛮な離れ小島に等しく、 係がなくては、この地域を旅して通ることは不可能で 彼と市長と、わたしたちに加わって丘を下った警官のあったろう。二十年前にわたしもこれをしようとして 三人だけが、そのとき居あわせた文明の住人であり、 果たさなかった。ちょうど折も折、ヘルキ族がエルビ 細い眼の、日焼けした長い顔のクルド人たちは、彼らルの小丘陵地帯からウルミアー湖近辺の夏の牧草地へ 自身は気づいていないようであったが、より劣った人と移動しているときであったから。ところが、今は、 間たちであった。つぎはぎだらけで、たいぶ・ほろの薄一頭すつの馬とらばをつれた男がこの地域の中心をわ ぎたない白い布をまとって、髪の毛やまっげにキャン たしをつれて行くのであるが、危険は全然ないのであ プのほこりをかぶり、彼らクルド人たちは楽しげに群る。「わたしたちはクルド人たちのことは全部知って がり、見たこともない新しい種類の女が見られる喜びおります」と、わたしは長官に繰返していい続けてい にひたっている。そのあからさまな様子が技師をほと た。「イラクでは夏ごとにわたしたちは彼らと小ぜり あいをしたものです。」 んど耐えられない程にまでいらだたせていた。 わたしはそういう確信を持っていたのである。わた キアリでのエチケットは、こういうクルド人た ちの存在を決して口にしないことである。これは悲ししとすれば、嘘いつわりのない誠実なものであった。
わたしたちも、イラクでは長年の間、クルド人たち 野生の動物が自分たちの周囲にいるかのように感じて いるが、それでも、そのような場所に駐在する決心はを扱わねばならなかったし、それも、トルコ人たちが 固く、いや、必要となれば、それ以上国家につくすのするようには、きちんと出来なかった。しかし、わた をいとわない。そのヒロイックな精神は大したものだ。したちは、その違いゆえに、彼らを好いていたので、 そういう若い官吏を、英帝国花やかなりし時代に辺び多くの混乱を通過せねばならなかったが、彼らが自己 な地に送られた若い英国青年にもたとえられよう。た依存と自尊を維持するのをわたしたちは手助けしたの だ、根本的な相違は、英国政府の官吏は、ほとんど常である。 に、自分の監督下のより野蛮な人民を好いていたこと今日の官吏は、山岳地帯でこういう結果をとても得 られそうにない。しかし、あと十年もすると、クルド である。 昼食後、テントの張られた空地の彼方に太陽の光を人の若い世代がトルコの生活方式や言語の訓練をうけ 一ばいに浴びて連なる岩の壁を眺めながら、横になりて、これを達成するであろう。官吏たちが自分の村に 一休みしているとき、右のようなことを考えていたの帰っていくとき、彼らがその背景に充分なる理解をも である。このことが、恐らく、長官の発した質問「野ってやってくるであろう。そして、彼らが監督する人 蛮人とはいったい何だろう」への答であろう。野蛮人たちは、そこで認められ、知られている生活に彼らが とは自分以外の生活方式を認めないことではないのか。精通しているゆえに、彼らを賞讃することであろう。 エフェソディ 文明の本質は生活の多様性を尊重することである。ししかし、現在のところは、これら旦那方しを かるに、そうしている人はいかに少ないか。この寛容隔てる溝はあまりにも大きい。 わたしがこんなことを思いめぐらしていたのは、技 の基礎ともいうべきものを、国粋主義的学校教育の無 師が市長と一緒に旅に出かけていった後で、羊の群も 知から、若き官吏はいまだに学んでいないのである。
プレヤ・スターク篠田一士訳 ヂグリス騎馬行 「読者へ ハッキアリ地域 二ディャルべクルからヴァンへ 三ヴァン 四グレート・ ザブの谷 五かってのジュラメルク、今の ハッキアリについて 六長官のベジーク 七高地道路 八ソマの「ヤイラ」 九クルド人の庭での一夜 十デイラヒニまで 333 328 3 幻引 6 309 298 287 282 278 270 269 267
「あなたは政府の手で苦しめられたことがあります これはつい五十年たらずの昔のことである。わたし か ? 」とわたしはガイドにたずねた。 はいまこの山岳地方の中心部を、護衛もつけずに安全 に旅してきたわけだが、最後の二日間の護衛は、どう 「わしらはクルド人に苦しめられますんで」と彼は 答えた。「それに、神さま以外にはわしらを守ってやらクルド人よりもわたしを監視するつもりだったの エフェンデイ人アガワト くださる方もありません。ご主人さま、代官が : ではないかと考えざるをえなかった。確かにこうした かんたい はるばるやってきてわしらに款待しろと、こう申し情勢は政府が誇っていい成果であり、イギリス人が、 ます。わしらはみな貧しい者でして ハサナじゅ特にこの時点においては、うらやんでも然るべきもの うで〔わたしたちは畑の向こうのそっちのほうを見ではないだろうか ? それではなぜみんなそのことに ていた〕飢えを知らない者とてありません。、つこ しナついて沈黙しているのだろう ? それはおそらく、わ アイフト いわしらに代官や馬や家来たちの食べものを出せるたしがハッキアリで最初から考えていたように、山岳 ものでしようか ? また、彼らがライフル銃を持っ地方のある宗派ないし種族に対する関心をもってやっ ていれば、なげに断るわけにもいかないじゃありまてきた十九世紀の作家たちが 、トルコ政府の威権も地 せんか ? 」 に墜ちたことを知り、政府の存在を無きに等しいもの 「ご主人さま」とカス・マッタイがいった、「去年、としてその著書から抹殺してしまったところに原因が ある。このことは、活気ある無秩序をまのあたりにし やつらはわしのペッドを取りあげ、掠奪に値しない 馬ものは壊して燃してしまったんですよ。でも、わして喜びを感じるわたしたちの性情とあいまって、わた スらが抵抗しようものなら、やつらは村を焼いちまうしたちが楽しみのためにこの土地を旅してなんら身の グ ことでしよう。」 危険を感じなかった場合ふと襲われる深い疑念を、 3 じゅうぶん説明してくれる。
ろう。しかし、山峡のほうへ紆曲して続いているここ からは見えないその二つの道には、ここが山間の重要 な十字路となっていることを示すのはなにもない。 二つの斜面の間にはさまれた狭い土地の上にあるこ の村は、本来なら魅力的であっていいはずだろう。ハ ッキアリよりも暖かだし、段丘にはとうもろこしが植 べイテシエバブには泥づくりのバラックや官吏用の 白壁を塗った小屋のほかに家らしいものはなさそうだえてある。あたり一帯には、くるみの木や、ぶどう、 った。こんなところにもカイマカムが置かれ、守備隊さやえんどう、黄色いか。ほちゃの花などがいつ。し った。もしこういう地形のところにイタリアの山村が が常時駐屯しているのは、人口が多いからというより も、ここが戦略上の要衝にあたっているからである。 あると想像してみるならば、家々に階段や、美しく彩 彼らは、冬になれば電話が通じず、また一人の医者も色された柱廊玄関があったりして、風景をいっそうひ いないというような孤絶した生活を送り、この街道だきたたせもすることであろう。 けにいちるの望みをかけながら暮している。切りたっ ところがここにはそのようなものは何もなく、トル た山々が周囲に押しせまるさまは、さながら一大群衆コ風の美しい張出し窓も、のちにわたしがクルド人の にとりかこまれたようである。もし、いくえにも重なあいだで見かけたような城郭のような家もなかった。 メムル : 、、ツキアリでと同じように った山脈をへだててその位置を遠望することができるしかし、小人数の官吏カ , ならば、ここがほぼ東西、南北に走る二つの地溝の中誠意をもって鄭重にわたしを迎え、遠く人界を離れた キアリからジズレ、ヴァンからザー この殺風景な事務所に陽気で親しげな態度をみせて車 心に位置し、ハッ ホ 1 へと至る道筋の要衝となっていることがわかるだ座にすわり、古銭をもってきて見せてくれたり、ヴァ 九クルド人の庭での一夜 328
だから。アッシリア人の間題もそうした過ちのひとっ ・軍の大部隊を徴兵したとき : : : クルド 3 人の間にライフル銃がゆきわたって、むかしの対等である。彼らはわたしたちの同盟者であ「たから、わ たしたちは、彼らがあとにしてその当時ほとんど無人 な関係はまったく失われてしまった。」 の村になっていたハッキアリに、彼らが復帰できるよ ウイグラムがこれを書いたのは一九一四年のことでうに計らってやった。しかしながら、せつかくこうし ある。それから、戦後数年たって、いまも山岳地方にて復帰しても男子を徴兵でとられてしまい、さらぬだ に弱体だった村々は外敵に対して持ちこたえることが ・残っているアッシリア人の村落も、イラクの「アッシ リア人総動員」のために徴兵されて、比較的強かったできなくな 0 てしまった。イラク駐在の英国の官吏た こ強調したとかい ちがこうした態を本国政府に熱心冫 勢力をさらに弱められてしまった。わたしの友人で、 この任務のために彼らの村々を訪れて歩いた英国将校うことは、一九二九年にわたしがはじめてそこへ行っ は、青年たちが徴兵にとられていったあとの村々の無たとき聞いて知っている。しかし英国政府がなにかと 力さ悲惨な結果とにす 0 かり同情し、国全体の過ち忙殺されているあいだ、この問題は棚上げされ、政府 に対する一個人の償いとして、自分の年俸を族長に渡がやっとこの問題をとりあげたときにはすでに再定住 の機会は失くなっていた。すなわちアッシリア人は三 してきたという。 近代における英国の中東進出をめぐってそうした個十五年もまえの国境論争の最中にさんざん苦しめられ 、まではクルド人がザ たあげく追い出されてしまい、し 人的感情が見られたのはそう珍しいことではないが、 やはりそういう感情をいだいたひとがあったというこ・フ川北方のこの無人の土地を譲りうけてそこに・ほっぱ とを思いだせば心がやすまる。いずれにしても国家のつ住みついていたのである。この事態を現状のままに ちというものが多くあることは認めざるをえないのしておくほうが、も「ばらトルコの利益にかなうこと
さて、平坦な樫の森を下ると、樹木の一本もない坂 * これが書かれたのはキ。フロス問題がもっとも紛糾して いたころである。クルド人問題は、いまではさいわいイギにシルナフの町が見えてきた。それは劇場をさかさに リスの責任外にあるが、トルコが国境近くでその支配の実 したような、段々になった、楽しくもむさくるしい場 力のほどを誇一小し、いよいよ尖鋭化する徴候を示している。 所で、低い泥壁の上に柴ぶきの屋根を平らに置いた家 コナク こうしてぶらぶらしているうちに朝は過ぎてゆき、家が点々としていた。方形の滑らかな古い官舎が一軒、 十時過ぎにようやくプルド 1 ザーが切り開いている道この地方の石造建築のいいところを見せており、また、 すみやぐら 路にやってきた。この道はいまではシルナフまで開通クルド風の角櫓のある旅宿も、新しい建物がまだ完成 しないうちにもうみす・ほらしく損傷してしまっている し、西方から山岳地帯へ延ばす計画がなされている。 、フルド 1 ザーという機械はじつに楽々と表土をかきまのに、いまなおがっしりと威厳あるたたすまいを見せ わすので、トルコ人は草原地帯につぎつぎと道路を描ていた。わたしが招じ入れられた古い官舎の一室は、 いてゆき、この道路も新たにチグリス川まで開通されすでに傾いていたが、古風なトルコ的優雅さがまだそ たのであった。その道にそって一・六キロばかり進んのあたりに亡霊のようにつきまとっている感じだっ でシルナフに着いたが、途中、泉からその日一日分のた。カイマカムも、イタリアの絵にあるような蒼白い 細面に、らば追いたちのしやがれ声を聞いたあとでは 水を汲んで、小さなシルナフの町へ帰る途中の一団の 女たちといっしょになった。彼女たちは重い皮袋を背ほっとするような低い声をしていて、歴史好きで、ク ルド人にしろアルメニア人にしろ誰にしろ警戒するこ 負い、ヴェ 1 ルをはずした素顔をみせて笑いながら、 アルメ = ア人だといっていた。少女たちは、ふちどりとなくよく話し、わたしの気持を、まるで文明人の社 じゅうたん をしたキリム絨緞のような布の袋に幼い弟たちを入れ会にいるときのように、くつろがせてくれた。 まず何よりも先に、らばのために獣医を呼んでもら て背負っていた。 セライ
次の年、ヴァンから近づく許可を得ようと、わたし それらの大河は、やはりそこからは見えないが、東と 6 西に流れていた。テント間の整然とした道は、まるでは、トルコの友人たち共々、最善を尽したが駄目だっ 山の地形線をたどっているような、気持のいい線を形た。それに季節も過ぎていた。わたしはイスタン・フー づくっていた。アッシリアの召集軍隊のキャン。フが、 ルから空路で・ハグダッドへと長路の帰途につき、チグ 一九二九年か三〇年にここに張られたのであるが、い リス流域越しに、西から、日の出前のハッキアリの山 まだにそのままに残っていた。また、クルド人のテン山を眺めた。山々ははるか下にやっと目覚め、ほぐれ アメジスト トがそのすぐ近く、丘の向う側にあった。召集軍が谷ていくようであった。オレンジ色の縁の下に紫石英色 のヴェ 1 レ : 、 から登るらばの見張りをしていた ( なぜなら、多くの ノ力とっぜんびかりと震えを見せた。まる らばが盗まれていたからである ) 。クルド兵は、青い で光の槍が奥深い所を突き刺したかのように。巻貝の 眼の、身なりのきちんとした英国の青年将校と親しげように重なり、百合の花弁の裂け目のようこ。、 に、しかし、丁重に話しあっていた。アッシリアの当た白い積雲が、東の湾のあたりにただよっていた。そ 番兵が湯の入った水差しを天幕の中に置き、靴がちゃ この空はくつきりと晴れ上っており、遠くに、要塞の んとみがかれているかどうかを調べていた。日暮れど突出部状だが、よじ登れない長方形の雪が浮んでいた。 きに、指揮官とその妻がわたしたちにお茶を御馳走し これらが、ちょうど、オリバ】・ メッスルの舞台装 てくれた。谷の向う側には、トルコの山々の頂きが輝置のようにくずれて動き始める。かき集められたよう いていた。この山々では馬でも楽に役立つだろうと思 な山脈の上を、もやが包み、また消える。そして、こ われたが、交流は認められていなかったし、この山々 の混沌の中から、チグリス川と、ユ 1 フラテス川に注 を南 ( イラク ) から越える許可を得ることはできなか ぐ西部ハ 1 ・フ 1 ル川が太陽に向ってくねった姿を現わ っこ 0 していくのであった。空が白みかける寸前の、あの修 シーズン
というのも、わたしに親切にしてくれ、むずかしい仕多くの人たちがイギリス人と同じ考え方に従っている 事に一生懸命たずさわり、成功さしてくれた官吏の人という事実は、トルコ人の反応をやわらげるのには何 たちを批判したい気持も、また、その理由もなかったの役にもたたない。アルメニアという言葉は、トルコ からである。それにもかかわらず、一般に少数民族、 が共和国になるずっと前に、地図や教科書、いや、聖 、第、特に、クルド人に対書からもぬぐい取られていた。だから、これら遠隔の 一するわたしの態度は、地域にたまたま人り、言葉が通じないために理解され たやすく疑いの目でないときなど、このロに出すべからざる少数民族たち もって見られてしまは紛れもなく厳然と存在することが思い知らされるわ うのは明らかであっけだが、一方、これらの地域を旅するイギリス人なら、 た。これはわたしの男であれ女であれ、誰でもがこれら少数民族たちの擁 無策のせいではなく、護者であると思われてしまうのである。 先代の人たちの書い 長官や、年かさの、または、経験豊かな官吏たちは、 ・、、亨のた物のせいである。 その人生経験から充分学んだ結果、みな現実家であり、 ソ熱烈なヴィクトリア遊牧の生活は自然な現象であり、新道が次々に出来た ~ 人たちは、常に、い あかっきに、徐々に消減していくものであると考えて っこ、トルコ帝国は いる。しかし、度し難い国粋主義的教育を受けた、熱 誰に分与さるべきも狂的な若い官吏たちは、まだまだ、人間の平等という のなのかと疑問をい ことを学ぶ必要がある。若い官吏はその生涯の初めを、 だいていた。今では酷しい不変の自然条件たる山岳地帯で送り、あたかも、
の与代までは、両派 ( アッシリア人とクルド人 ) はた いたい勢力伯仲していた。そして幾代も相互に掠奪 をくりかえしているうちに互いに理解を深めていた。 : いずれの側も似たりよったりの旧式の銃を使っ ていた。すなわち燧発銃に自家製の火薬と弾丸をこ 山岳民族は山で硫黄をいくらでも入 めていた。・ 手できたから、炭を焼いて独力で火薬を製造したの である。硝石は、羊をいれておく大洞窟に行けばい つでも採集できた。しかしどうしてそうなのかは、 われわれの化学の知識では説明できない。弾丸は簡 単に手に入った。というのは、鉛は渓谷のどこかに 厚い鉱脈となって露出しており、岩から必要なだけ あなたの真実を古来かくも純粋にまもりつづ の塊りを切りとるのは容易だからである。鋳造はど うするかというと、指貫にはまったく思いもよらぬ けた者たちの番 用途があるもので、このへんのひとは誰もそれを裁 第一次大戦前から、アッシリア人の苦しムはすでに縫用具とは知らず、なんとそれを粘土の塊りのなか スその度を加えていた。 へつつこんで、実に丈夫な鋳型をつくっているの 「アブドウル・、 : サル 「しかし近年は事態が悪化してしまった。・ 減していた。こうしたことはまことに不幸なことであ り、またそう昔のことではないのに、激動するアジア においてはもう遠い昔のことのように思われる。谷に ・はいまでも幽霊が出るといわれ、ほとんど人の気配も ないが、いまでは牛舎に改造された小さな崩れた礼拝 が、ここで最古の、あるいはほとんど最古といって もいいキリスト教の礼拝式が、千五百年以上にわたっ て行なわれていたことをしのばせている。その死者た ちの白骨が点々と散らばっているあたりを行くうちに、 わたしのむにはミルトンのソネットの一句がうかんで きた のスルタン。む位一八七ー一九 0 九 ) 3