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検索対象: 現代世界ノンフィクション全集18
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1. 現代世界ノンフィクション全集18

西省に残留している紅色ゲリラ隊の指揮をとるように葉挺将軍を傷つけようとするそのような風説を、カン カンになって怒っているということだった。それにも 命じられた。 かかわらず、毒は依然として洩れつづけていた。 項英はいま年のころおよそ四十歳ぐらい、中背で、 かっしりした体つきをしている。社会革命運動にきた この盾には、もうひとつの半面もあった。新四軍を、 えられた彼は、きびしい強情な人間 目的を達する敵の後方における最も有力な、知的にも最もすぐれた ためにはどんな方法も辞さない人間になった。彼を悪軍隊にしたてあげた組織と訓練の生みの親のなかには、 く言うひとたちは、彼の本質は陰謀と狡猾だと言って項英がいたということである。 私たちが到着した晩に、私たち四人は項英といっ 私はいまでも忘れられないが、ある外国人の記者がしょに、タルキから床までとどくような総司令部の軍 項英とインターヴューをしたことがある。それからし事地図のまえに立っていた。日本軍の守備隊を示す赤 ばらくして、その外人記者の夫人が葉挺を攻撃する新丸が、新四軍の作戦地域内に密集していて、地図はま るで疱瘡をやったあとの顔のような感じだった。新四 聞記事を書き、新四軍長葉挺将軍は、一九二七年に、 香港のあるプルジョワ婦人と結婚したのち、共産党を軍と日本軍は、おたがいに相手の膝のなかで戦いあっ 脱退したのだと発表した。当時、ひろがっていたうているようなものだった。 この作戦区域は、揚子江下流の南岸に沿って走って びとつの風説は、葉挺将軍は「敵の後方で戦うのがこ わいものだから」新四軍をやめたというのであった。 いる幅八十キロから百十キロの細ながい帯状の土地 じっさい、葉挺将軍の名声は、陰ロの闇討にあって、 だった。日本軍の警戒している揚子江が、それを北で めちゃくちゃになっていた。私がたまたま知ったとこ区切っていた。日本軍が「封鎖地帯」とか作戦基地と ろでは、延安や重慶にいる共産党の最高幹部たちは、称しているこの地域をつらぬいて、自動車道路、河、 ノ 22

2. 現代世界ノンフィクション全集18

きながらえたかに関する話だったが、かれは何もかも 閥も外から侵入してくる蛮族たちもいつもこの山岳を 共産党の魔法のせいにするような話し方はしなかった。支配しようとしたもので、それから平原を支配したの われわれが打ちくつろいだ時、かれはこう話したー です。この山脈はつづいてチベットまで中国を横切っ 「この地区の地の利がわれわれにとって有利であるて三千キロものびています。『関を出れば関あり、 のがおわかりでしよう。この辺区は華北の真中の二百を出れば門あり、外に山あり、内に山あり』と昔の言 平方キロの地域にわたっています。地図をご覧になれ葉に言うとおりです。」 ば戦略上に好都合なまとまりをもっていることがおわ ここでちょいと失敬して薄の話を中途で邪魔しても かりでしよう。四つの面をもっ箱のような形をしてい よければ、これらの山々について二、三の言葉を言い ます。底は黄河です、上辺は正太鉄路と石家荘ーーー徳そえておきたい。これらの山々の重要性は、共産党を 州公路、左辺が同蒲鉄路で、右辺が津浦鉄路です。 やつつけるためには蒋介石に十億ドル送ってやりさえ 「いろいろな統治上の必要から、われわれはこの地域すればいいと考えたアメリカ人の干渉論者には、わか を五つの軍区および行政区に分け、この五つの区の下ったことがない。薄とわたしが今すわっているところ に二十四の分区があって、それそれ軍事および行政の のまわりの山々は、インド国境から中国全土を横切っ こんろん 組織をもち、その下に百二十六 ( この数はたえず変化て日本列島にまでのび、そこで消えている大崑崙山系 している ) の県政府と自衛隊があります。 の一部である。この山脈の軍事上の重要性は、びつく 「全地域の半分は中国最大の平野すなわち華北平原で、りするほど大きい。考えてみれば、ソ連の国境近くで 黄河平原ともよばれています、他の半分は全部山嶽地この山脈に入った旅行者は、山路を峰つづきに数省を 帯、太行山脈と太岳山脈です。 通りぬけ黄河と長江をわたり、世界の屋根チベットを 「この山岳地帯はきわめて重要です、昔から土着の軍通りすぎ、五万キロにわたりほとんど平地に下ること

3. 現代世界ノンフィクション全集18

どの連絡溝を掘り、攻撃しようとする地域の周囲に道き払い、みな殺しにしはじめた。「みな殺せ、みな焼 これが日本軍の合い言葉だった。 路や畑を横切って土の壁を築いた。この壁は、距離もけ、みな奪え」 ある地域に掃蕩戦で入った日本軍は、すべての若い 長く数も多かった。薄の推定では、つなぎ合せたら地 球を一巻半ほども取り巻いただろう、ということだっ男を殺し、あらゆる家畜を殺したり盗んだりし、一切 の農民の道具や穀物をこわしたり掠奪した。かれらの た。これを誇張だと思われる人には、わたしは、この 自分の眼で見た証言を提出できる。わたしは実に数多目的は、何ものも生きていられない無人地域をつくり くのトーチカや溝や土壁を、平原を横切って進みなが出すことにあった。同時にかれらは、経済封鎖を強化 ら目撃した。こんなものの真中に中国軍が存在できたし、一切の塩と布が遊撃地区に入るのをおさえ、住民 が抵抗したのでは餓死しなければならなくなるように とは、とても考えられないくらいだった。日本軍は、 ひとたび土壁が築かれると、つぎには鉄道線路に沿う仕向けた。 て道路をつくり、すべての道路に沿うて砦をもうけた。 では、中国人は、このような戦術とどうやって闘う それからかれらはしだいにその監獄を隅から隅まで豆 ことができたのか ? 日本軍が遊撃戦の新しい方法を 腐のように切り刻み、最後には中国軍が行動できるよ考え出さなければならなかったと同様に、中国軍もま うな十五キロ以上の地域がどこにもなくなってしまう た日本軍のみな殺し戦術と闘う新しい方法を考え出さ ようにしたのだった。 なければならなかった。 それでもなお日本軍は、かれらに反抗する兵力を全中国人の抵抗の第一線は、牒者と地下工作員とで形 減させることに成功しなかった。そのためかれらは一成された。日本軍が掃蕩戦を開始するときには、中国 九四一年の冬から一九四二年の春になって、行き当り軍はいつでも事前に、その情報をうけとっていた。そ ばったり見つけしだいに、一切の物と一切の間を焼してその兵力はすぐさま危険のせまっている地域から 3 ノ 4

4. 現代世界ノンフィクション全集18

車と徒歩で、一カ月かかって旅行する間には、日本軍なく、一種の連合戦線政府が維持された。しかし、国 に握られた三大都市を迂回するために、三時間半のま民党の統治機関の消減とともに、華北のこの地区では、 わり道をするだけでよかった。華北の鉄道は、北からもっと統一した中心的な政府を形成する必要が感じら 南へ走る三本と東から西へ走る二本とあり、これが一れた。一九四一年、四省から選挙された代表五百名が、 種の十文字を形成し、日本軍は鉄道沿線にしばりつけ日本軍の前線をこえ、何週間もの旅をかさねて太行山 られていたから、共産党は当時、日本軍は十字架に釘脈の山中に集り、独自の法律と通貨と徴税制度をもち 付けにされていると言っていた。日本軍は農村地域に百以上の県にまたがる組織をもっ辺区政府をつくった。 まで作戦しようとせず、後方地区に残されていた国民この政府の形成は、基地の拡大の最高時と時期を同じ くしていた。 党軍もやはり日本軍にたいする行動に出ようとはしな かった。したがって、国民党軍は当時、黄河以南に退 以上にざっと述べた出来事はたしかになみなみなら 却するかカイライ軍になるか、どちらかを選ぶしかなぬどえらいことであった。劉伯承軍のような一小団の きゅうてき っこ 0 人数で民族の仇敵の手に渡されていた地区に入ったこ 軍事組織の発展と並んで、新しい政府の発展が華北 と、郷村をおびやかしていた土匪をとらえてこれをな にみられた。多くの軍事団体と同しく、これらの政府 くしたこと、何もないところに政府をうちたてたこと、 は、人民自身によって普通選挙によって組織されたも かれらが自分自身の生存のために闘うのでなく、十倍 のが多かった。それらはしばらくの間は蒋介石の国民から十五倍にも兵力を増大させたこと、都市をのそき 政府の一部となっていたが、それ自身の特別な税制と郷村地域をほとんど掌握してその全努力に実をむすば 員政制度とを保持していた。この期間には、小作料はせたこと、 しかもこれが、凋落期にあるやくざ軍 引き下けられたが、地主は土地から追い出されること閥を相手にしたのではなく、ほとんど全中国の他の部

5. 現代世界ノンフィクション全集18

ガー・スノーが、国民党の封鎖をやぶって赤色地区を 敗をみとめ、荷物をまとめ、「どっちもどっちだ」とい った意味の手きびしい声明をのこして帰国してしまっ訪問した最初の外国人新聞記者となった当時は、共産 主義者たちは、西北の非常に小さい地域に押し込めら マーシャルの声明以後は、もはや千里眼でなくても、れていたから、いわばちょいと指をかけさえすればよ 中国のすでに見渡すかぎりにひろがっている内戦がアかった。だが、今では共産主義者たちはソ連との国境 から黄河にいたる間の大陸を横切って縦横に駆けめぐ ジア大陸の支配をあらそう全面的な衝突になることは はっきりとわかった。ルート がいつなんどき閉じられっており、この広大な農村地域のどこでかれらと接触 るかもしれなかったから、わたしはすぐに解放区に入するかを決定するのはむずかしい問題だった。 ることにきめた。 * 日本との戦争がはじまった当時、共産党は百五 * 解放区とは日本軍から自由な一切の地域を指す 十万の住民のいる西北の荒涼たる地域をもつだけだ ために抗日戦争中に共産党が採用した言葉だが、内 った。戦争がおわったときには、一億四千万の人口 をもっ二百万平方キロ以上の地域を握っていた 戦に入ってもそのまま捨てられずに、蒋介石の軍隊 域は二十倍、人口は百倍近く増大していた。もちろ が支配しない一切の地域を指す通称として使われた。 ん、地域にたいしても、人口にたいしてもかれらの 共産区という言葉はめったに使われなかった。 す 掌握は堅固ではなかった。しかし、この顕著な事実 る ゅ だけからしても、中国における共産党の勝利が、内 を 四アンラとともに 界 戦開始以後の中国赤色分子たちに与えられたロシア 世 国しかし、いったいどこから共産地区に乗り込むの の援助と目されたものとは何の関係もないことが示め 2 唆されている。実際には赤色分子は抗日戦の中でか むしろこれが問題であった。十年前に、エド こ 0

6. 現代世界ノンフィクション全集18

湖、運河の網が走っていた。それらはすべて、敵にた 小さなグルー。フになって散開し、急速に村から村へと いしては有利だが、ゲリラにとっては不利なものばか動きながら、敵の陣地や装備や活動などを調査した。 りだった。南京と鎮江のあたりでは、この地帯は丘も住民たちは彼らを歓迎し、ひそかにかくまってくれた。 シャンハイナンキン 樹木もない平原で、それを河や運河や湖や上海・南京 一カ月以内に、前衛部隊は全員がそれそれの報告をも 鉄道がいくつにも分割していた。飛行機や機械化されって総司令部に帰ってきた。 た装備をもった侵略者にとっては、おあつらえむきの そのつぎは、戦闘部隊がもぐりこんでいった。かっ 地域だった。森でおおわれた丘や山は、総司令部の近ての「封鎖地帯」は、たちまち、ゲリラ隊がいたると くにある蕪湖という揚子江沿岸都市の対岸あたりから、ころで戦っている精神病院と化してしまった。それと ようやくはじまっていた。 同時に、軍の政治工作員たちは村々にしのび込んで、 新四軍がはじめてその作戦地域にはいりこんできた住民を抗日団体に組織しはしめた。敵の鼻っ先に、短 ときは、日本軍は絶対的な支配権をにぎっていた。住期訓練学校がつくられ、住民たちに、組織、教育、ス 民ゲリラ隊の二、三の小さなグルー。フをのそいては、 パイ活動、サポタージュの方法を教えた。 中国人のあらゆる抵抗は粉砕されつくしていたし、あ 八カ月後に私がそこに到着したときには、新四軍は 力いらし らゆる町や村に、傀儡政府や傀儡軍が組織されていた。すでに二百三十一回の戦闘をやり、一千五百三十九挺 日本軍のトラックや戦車が自動車道路を疾走し、日本の小銃、三十二台の軽機関銃、四台の重機関銃、四十 え 軍の艦船が河や運河や湖を走り、上海・南京鉄道は日八台の副機関銃、五万発の弾薬、二万二千七百三十八 歌本軍の管理のもとに運行されていた。 円の日本紙幣、ラジオ、馬、騾馬、旗、地図、その他 の 国 一九三八年四月のある晩、新四軍の前衛部隊はひその戦利品などを手にいれていた。軍はまた、およそ二 % 中 かにこの「封鎖地帯」にしのびこみ、一「三人ずつの百台の敵軍のトラックや鉄道の車輛、二十キロの鉄道、

7. 現代世界ノンフィクション全集18

は地主が住んでいたが、そのときには、国民党地区か どもからのがれたいばかりにそうしたのだ。しかも、 クワンタイ らのがれてきた光台炭坑の所有者が住んでいた。わた逃げたのは貧乏人だけではなかった。ここで、この村 しとしては、この本に炭坑主などを登場させるつもりで、わたしはいまひとりの資本家と向かいあっている は毛頭なかったのだが、アメリカに帰ってから、いさが、この資本家は孔子の教えをたえず口にする金持ち さか驚いている事実があるのだ。それは、前大使ウィ なのに、それなのに蒋介石から逃げてきたのである。 リアム・ O ・ブリットのあることばが雑誌『タイム』 「わたしが貧乏人だったとお考えでしようね ? 」かれ と『ライフ』でひろめられて、アメリカの国会議員た は悲しそうに笑いながらいった。「わたしの以前にも、 クワンタイ ちもこれを相当信用していることだった。議員たちは、わたしの祖父も父も、光台で炭坑を経営していました ほかに知るすべもないので、・フリットのことばを信用ので、わたしは同地に莫大な財産を持っていました。 し、蒋介石のそでに五億米ドルも投げこむことに不安わたしは金持ちでした。しかし、いまはすっかりなく を持たなかったのである。 してしまいました。蒋介石に貧乏にさせられてしまっ ブリット氏は『ライフ』あての手紙のなかで、避難たのです。 民は共産地区から来たのであって、蒋介石支配下の地「将校どもは、わたしの石炭を五万トンも取って、こ す区からは来なかった、とはっきり述べた。この言明のれをまったく自分らの利益のために売りはらってしま る前半はほんとうだが、後半は明らかにウソである。わ いました。わたしは運べる軽い機械だけはここへ運ん をたしはこの目でたくさんの人びとが共産地区を指してでしまいました。そのままにしておいたら、いわゆる 世のがれるのを見た。これらの人びとが逃げたのはロマ国営にするというやつで、没収されたことでしよう。 ンスや冒険の気持ちからではなく、収税吏や、徴兵請あなたは蒋介石地域におられたことがあるのですから、 けん ~ てく 3 負人や、一家眷族を穴に入れて生き埋めにする無頼漢国営にするというのがどういうことか、ごそんじで

8. 現代世界ノンフィクション全集18

いったのである。 主とごたごたを起こした。愛国地主は他の地主たちか かれはひどいびつこになったのでーーーこんどはほん ら晩餐に招かれ、供応の最中に殺された。愛国地主の たくさん歩かなければならぬ作戦には 友人、縁者、村人たちは、復讐しようと考えた。李は、ものだった まったく出なかった。しかし、かれの部隊はいまでは これらの人びとを組織して訓練する仕事にあたった。 これはむずかしい仕事だった。李は農民にいつも民主訓練がいきとどいていたので、かれがいなくともりつ 主義について教えていたが、みんなはかれのことばをばに行動した。事実、かれはこの部隊を非常に誇りに あまりまじめに受け取りすぎて、命令にしたがわない 思っていたし、かれがこの部隊を民兵よりもずっと重 のだった。戦争をやっている最中に、めいめいが自分く見ていることは明白だった。 の作戦をたてて、それにもとづいて行動するのだった。李は、共産地域では決してめすらしくないタイプの だれも批判を甘受しないので、李はかれらを叱りつけ男で、その典型的な実例のひとつだった。かれは、行 ることができなかった。かれはひとりひとりをわきへ動人と知識人とのすばらしい結合そのものだった。か 呼んで、個々に説得しなければならなかった。絶大なれは、ひとに信頼感を起こさせる落ち着いた静かな物 忍耐力によって、かれは武装工作班をつくり上げた。腰をもっていた。わたしはしばしば考えたのであるが、 しかしそれでもかれは、班の兵士たちに何から何までもしもこういうタイ。フの人びとが共産主義運動の主導 さしずしなければならなかった。というのは、危険に力をにぎったらーー・・そして、権力の問題は、共産党の そう なると兵士たちは逃げようとしたからである。あると内部ではまだ完全に決定してはいないのだ き、総くずれの退却を阻止しようとして、李は負傷し、なれば、おそるべきものはほとんどないといってよい 足を骨折した。ところが、このとき農民たちはかれの だろう。もしも純粋のインテリが指導部を占めたら、 そばに踏みとどまり、かれを危険地帯から引きずってその場合には、偶像崇拝が中国を支配することになり

9. 現代世界ノンフィクション全集18

いで、この地方ではまったくひどかった飢饉のときに任たちもとどまったのだ。安陽の人たちがわたしに語 8 ったところによると、これらの人たちが国民党から逃 それを手放したのである。終戦近くなって、日本軍が この県の山そい地方から撤退したとき、地主たちの多げなかったのは、かれらの信ずるところでは、八路軍 くも日本軍と行動をともにしたが、その業務は手下ものやった改革などは、日本軍のあとを引き継いだどん な中国政府でもやるに違いない改革だったからである。 しくは小地主の手にゆだねていった。 撤退した地域には八路軍の遊撃隊が入ってきて、かもうこれ以上戦争にまきこまれるのはまっぴらだった れらの減租減息の綱領をうち立てたので、多くの人びので、かれらはふるさとにとどまったのである。 ところが、国民党の軍隊が村々に入ってきたとき、 とがそれまで奪われていた土地をとりもどした。それ と同時に、人民は地方政府をつくり、哨兵勤務に立っ多くのばあい、日本軍の下でカイライだったり、とき には略奪者だった以前の匪賊や地主をつれて入ってき 民兵を編成し、婦人の平等のために戦う婦人団体や、 た。こうした連中はまもなく区長になり、手下の差配 その他多くの組織をつくった。平和がおとずれたとき には、八路軍は、村人たちに選挙のやりかたを教えは人は村長になった。すぐにかれらは、それそれの村の じめたばかりだった。 住民にたいして収復 ( 鞋改 ) をや 0 た。かれらはこれ ところで、奇妙で重要なことであるが、内戦がはじを直接にやるか、あるいは、特定の男女を「名ざしす まって、八路軍が撤退してほとんど全県を国民党にある」にとどめて、名ざしされた者を軍隊、または国民 けわたしたときに、住民はほとんどだれも共産党と行党の特務に一括して処分してもらった。この逆改革こ 、まや全国にわたっていよいよ激しさを加えて 動を共にしないで、あとに残って国民党を歓迎したのそが、し 冫しやがうえにも油をそ たたかわれている人民戦争こ、、 である。百姓たちの大多数がふるさとにとどまったば かりでなく、多くの地区幹部や、民兵や、婦女会の主そいだのである。

10. 現代世界ノンフィクション全集18

、しかし、県の役人た たたが、こんな情報も、こういうやりかたの戦闘でのまま是認するものではないが はきわめて有益であった。地方地方の遊撃隊は、だれちが、銃をとって自分たちと戦った地主らに示す忍耐 が苦しんでいるかを知れば、同時に、苦しんでいる者とがまんとには、しばしば驚嘆した。 をおそらく助けている者の名まえも知ることができる 国民党地域における民兵の活動には、しばしばどこ のだった。他方、こうした情報はすべて、後方に送り かロビン・フッド的なところがあった。民兵たちは、 かえされて、事実と照合され、八路軍が効果のある政自分たち自身が貧乏人だったから、苦しんでいる男や 治や社会政策をやるのに役だったのである。 女を見つけるといつでも、そういう人たちを救おうと 村人たちの苦しみを調べることのほかに、民兵はまっとめるのだった。悪をこらして徘徊する農夫たち た、人民を苦しめている地主、悪党、匪賊の名まえを が、しばしば残酷な行ないをしたことは疑いの余地 も暴露した。地主が住民から何かを取ると、民兵は地 がなく、多くの人びとにとってはこうした連中は、た 主に手紙を送って、地主に取ったものを返すように警んなる野蛮な人殺しとしてしかうつらなかったに違い よい。しかし、わたしはまったくよく知っているが 告した。地主が返さないなら、民兵はさらに、もっと 命令口調の手紙を送った。それでも何ごとも起こらな蒋介石地域にいる多くの貧しい農民たちには、夜中に すいと、民兵たちは、地主を誘拐して夜中に戦線のこちかれらのもとに現われるこうした人間は義賊として、 るら側につれてくることもしばしばであった。 ときにはすばらしいサー・グラハッド ( で潔の士。聖杯 の発 ) のような人士としてうつったのである。 を安陽では二カ月間に、八十人の地主と回郷軍兵士が、見者 ある年の大みそかに、民兵の小さな一団が、敵の戦 靆このようにして戦線のこちら側につれてこられた。一 ウェイチャン 国般に、区委員もしくは区政府責任者がお説教をして、線後方二十キロにある囲場の町に行き、収復をやった 5 そのまま帰してやるのが例だった。わたしは誘拐をそ地主に手紙を届けたことがある。途中、民兵たちはあ