外料の夜明け ら、切開して分娩させるという発想がーーー少なくとも 母親が死亡していた場合ーー実行に移されたのだろう。 幾多の時代の、幾多の人の言い伝えを記録したものの 中には″切開による出産″に言及したものも含まれて ヒンズー人の最古の書リグ・ヴェダをはじめ、 へプライ人のタルマッドや、ギリシャ人、ローマ人、 ン開 キ切アラビア人などの記録を通じ、すべてに含まれている ル王 工帝 出産の歴史は、常に苦痛に満ちていたのである。 フる 家サ疑わしい伝説によれば、ジュリアス・シーザーは手 のダ術によって分娩したと言われる。帝王切開という名称 は、シーザーにちなんだものだという。事実、シーザ ギウ ーという名は「切り出されたもの」という意味のラテ ン語から出ていると、後代のずさんな語源学は説明し のフ 一年アている。しかし、シーザーの出生にまつわるこのよう 一 7 た な伝説は、ローマ人が「帝王切開」に成切していたと いう証明にはならない。 死んだ母親の胎内から、生きている胎児を取り出す ことを、中世期の人たちが知っていたことは確かであ 5 る。カトリック教会は、あらゆる可能な手段を尽して、
ュールゲン・ソールワルド塩月正雄訳 外科の夜明け ジョン・ディル編毎日新聞社科学部訳 字宙への挑戦 一七人の横顔 二最初のアメリカ人 リバティー・ベル 四準備する三人 五われ宇宙飛行に成功せり 三「七人の自由の鐘」号の沈没 2 / 9 239 幻 2 178 ノ 63 1 引
ワスジーが所属していた部隊の隊長で、カワスジーのしてしまうので、こういう手術は日常茶飯事になって いるということでした。 手術に立ち合ったワード中佐の居所さえもっきとめま した。カワスジーの他にも、テイプーの捕虜となった ワードの念頭には、軍の犠牲になったカワスジーた 兵士は四人いて、これらの兵士もすべて鼻と手を切りちのことが閃めきました。術師の住居までは六百キロ 落とされ、イギリス軍を戦慄させるために送還された近くもあったでしようか。直ちに使いが送られ、術師 は。フーナまで連れてこられました。そこで、一七九四 のです。 それは凄まじい光景でした。腕の切り口には血止め年の <<Gentleman's magazine>> の記事となった手術が に木の葉が縛りつけられていましたが、鼻を削り取ら行なわれたのです。ここまで突きとめてもカープュは れた無惨な傷跡には繃帯すらも巻いてないのです。そまだ飽きたらず、その手術に立ち合ったヨーロツ。ハ人 の医者の住居も探り出しました。この医者はわれわれ の翌年、ワード中佐が、あるインド人の油布行商人に ゆき合うまでは、誰一人、この気の毒な人たちをどうの東インド商会で働いていたバリー博士で、手術には してやることもできませんでした。ワード中佐は、そ一時間を要したこと、手術中に再三砥がなければなら の行商人の鼻柱に傷跡があるのに気づき、たまたまそない、古い剃刀を使用していたことなどを教えてくれ のわけを尋ねてみたのです。行商人は正直に自分の本ました。また、他の報告書によって、この造鼻術はク 当の鼻は、人の女房と寝た罰で、自分の村の村長に切 ーマスたち、つまりヒンズスタンの煉瓦造りのカース り取られてしまったのだと打ち明けました。そして額トが、方々で行なっているということも明らかになり にあるもう一つの傷を指さして、造鼻術の術師が、額ました。手術を開始する時、患者はビンロウジュの実 の皮膚から新しい鼻を作った様子を話しました。男のを食べさせられ、ヤシ酒を飲まされます。そして手術 話では、なにかの罰というと、たいがい鼻を切り落と が行なわれる間、患者に両手を両脇に置き、床に仰向 340
字宙への挑戦 として訓練を受けてきた男たちだ。これが社会学的にわけだ。 もきわめて重要な意味をもっているのである。爆撃機戦闘機飛行士はまったくちがう。彼はただ一人であ の飛行士は特定集団の一員である。爆撃機が作戦出撃る。無電連絡も、航空も、応急修理も、銃撃も、爆弾 するときは、操縦、爆弾投下、敵機銃撃、無電連絡な投下もすべて彼一人がする。彼の生命は彼一人の責任 どの職務がそれぞれ分担されている。一人の不注意がにかかっている。彼の使命の成否も彼一人の行動にか 全員の生命を危険にさらすのである。ひとりひとりが、 かっている。それが彼らの性格に反映するのだ。もち 同一機の乗組員全体に対して重大な責任を感じているろん、ただひとりで飛ぶ戦闘機飛行士でも、編隊飛行 のような場合は、他機の安全を考慮するし、戦闘の場 合も、友軍機を護衛したり、両側面をまもられたりは する。 宇宙飛行士の場合も、実際の飛行は単独で行われる ム が、訓練は七人を一団として行われ、一人の飛行の経 州験は、次の飛行者のための貴重な資料となる意味にお ル いて、緊密な団結精神が全員を一心一体としている。 ジ 彼らはその精神能力と肉体的抵抗力において一見ほと 1 マンであるが、決して「異常な」人間で んどス 1 はない。人間である以上、互いに先陣をあらそう気持 はきわめて強い。しかし、いろいろな意味での「初飛 行」は七人の全部に実行できるであろう。「レッドス
宇宙への挑戦 なくてはならない。特定の一個人だけの考慮は一切行ビルやクライスラーエ場をよく訪れたものだ。第二、 なわれていない。それが一番公平な競争であろう。」第三の宇宙飛行に使用されるレッドスト 1 ン型ロケッ トにはちゃんと私の名が書いてあるのだよ。ロケット 「私たちはみな一番さきになりたい。しか し、それは不可能だ。これは団体的訓練である。一番の外側に私が書いておいたのさ。」 さきに飛ぶ者は、あとの六人にささえられて飛ぶのだ。 カーベンター「一番立派な資格のあるものが一番さ しかし、私には実は小さな秘密がある。私はレッドスきに飛ぶだろう。それは公平にえらばれるにちがいな トーン・ロケット関係の仕事をしていたから、ハンツ いから、私は安心している。もちろん、私も一番さき に飛びたいとは思う。しかし、それよりも、七人のう ちの一人にえらばれているということが、私にはなに より大事なことなのだ。たとえ私が一番さきにえらば れなくても、この七人のうちの一人であることだけで も、私には大きな名誉なのである。」 いずれにしても、計画は進められ、初飛行士はえら ばれた。ジョン・グレンは最初の宇宙飛行に成功し、 他の六人は団結して、彼を助けた。しかし、グレンの いくたびも失敗と実験を重ね、テストをくり 飛行は、 かえし、計画を更改してつづけていく長い苦しい道程 の最初の第一歩にすぎなかったのである。 「七人の友情」号が発射されたときは、すでにガガ 1 シ ウォルター 17 /
どころかイタリア出身のフェルミのごときは完全に 「敵国人」として、はなはだしくその研究が阻害され た。しかもそれはあまりひどかったので、ヴィーグナ 1 は自分に向けられた不信にひどく感情をそこねて、 原子ネルギー解放の途上に横たわる無数の行政 ・フリッグスあてに一文をしたため、こんな有様では残的・技術的障害は、結局のところただただアングロサ 念ながら、原子力開発に関係のあるすべての仕事からクソン諸国の科学者たちの確固たる決意と一歩もゆず 手をひかざるをえないと言ってやった。後には彼も名らぬ態度とによって克服されたのだ。彼らは命令を受 誉回復を得て、この企図の最も重要な共同研究者の一け取る以上のことをやった。彼らはこのおそるべき兵 人となった。この点でもまた、イギリス人ははるかに器を生みだすために、自ら何度もイニシアチ 1 ヴを取 太っ腹だった。彼らは、自分たちのところに逃げて来った。 た科学者を自分たちと同等に扱った。ワイスコップの彼らのうちの多くの者を当時何よりも励ましたのは、 回想によると、彼は以前オーストリア人だったという このようにすることこそ今回の大戦における原子兵器 ことのために、ロンドンからやって来ることになっての使用を阻止する最善の、いや唯一の道だという堂々 いた「三人の英国紳士」との専門会議に参加する許可たる確信だった。「ドイツの原子の脅威がある場合、 をアメリカのその筋から得るのにたいへん苦労した。 われわれは対抗手段をもっていなければならない。こ いよいよこの三名のイギリス人が到着してみると、そうして均衡が保たれていれば、ヒトラーもわれわれと れは ( ルバン、パイアース、シモンであることがわか同様、このような怪物の使用をあきらめなくてはなら ったがゞ彼らはいずれもつい最近までワイスコツ。フ自ぬだろう」といわれた。 身と同様に中欧人たったのである。 ところでドイツ人が原子兵器竸争ですでに危険なほ ノ 30
よろこんでやり、またえらばれない者には同情する。 飛行士にはおめでとうといって、それでおわる。 私も一同がよばれたときは、そんなことになるだろ うと思っていた。以前にはそんなふうに感じたことも あったものだ。しかし、今度はそうではなかった。私 は長い間、世界で最初の宇宙飛行士になりたいと願っ 詳細な計画 ていた。ロケットの先端に坐って宇宙へ飛びたつ自分 ジョン・・グレン の姿を夢に描いたのである。しかし幾度か落胆させら 私が地球を軌道飛行する最初のアメリカ人になるこれた。まずソ連が米国より一足先に人間宇宙飛行を実 とが発表されたときは、当然のことながら、うれしか現したこと。次に、仲間の二人が私よりさきに、「レ ッドスト 1 ン」による弾道飛行を行なったことである。 った。私がそれを初めて知ったのは、「マ 1 キュリー アル・ンエ。、 1 ト・ギルルスが、私たち七人をラン / 1 ドとガス・グリソムがさきに宇宙飛 計画」部長ロバ グリー基地にある彼の事務所によび集めたときである行にえらばれた時は、正直のところ、残念だった。私 が、同時にスコット・カーベンタ 1 が私の補欠飛行士がすこぶる竸争心が強いからこの二人がさきになった ことは、花嫁の付添いばかりしていて、自分は花嫁に ( 出発の時、いろいろと飛行士の世話をすると同時に、 載飛行士に事故があった場合は代りに飛行士となる ) に なれない娘のようにも感じたものだ。 しかし、アルとガスが発射されるときの私の感情は の選ばれた。任命のあとで、私は仲間の一人一人から握 宙手を受けた。私たちは、ただ肩をたたき合うだけの知もうそれとは違っていた。二人の補欠飛行士として私 2 りあいではない。だれかがえらばれる時は、みんながは最後の一分までカプセルの準備に全力をつくした。 四準備する三人
私として満足なのである。 われわれは本書においてみな同じ点を強調しようと している。われわれはこの新しい時代の先駟者にすぎ ないということだ。若い人たち、そしておそらくその 経験のためにわれわれより賢明になる人たちが、・ハト ンを受継ぎさらに遠くまで進んでくれるだろう。われ われはただ道を示す手助けになったならうれしいと思 私たちが維持しようと努めてきた団結精神と協力心 が、あとに続く若い人たちを導いて行くことを私たち は期待する。 本章の終りにあたり、七人の宇宙飛行士の全員に代 って、私はここに、米議会の歓迎式において私が述べ た言葉を、つぎに引用したいと思う。 「私たち七人の宇宙飛行士は、わが国を代表してこの 戦宇宙飛行計画に参加させて頂いたことをみな誇りに思 のっています。私たちが生きているこの宇宙について、 宙私たちの知識が増すとともに、私たち人間が知識を賢 明に利用できるよう、神が英知と指導をあたえて下さ ることを祈るものであります。」 327
・ : わたくしは : ことは許されていないのだから、 た。その人たちは当時も、それから現在もなお次のよ も、当時その生命を儀牲にしてほんとうに真剣な抵抗をし うな見解をもっている。すなわちハイゼンベルクはナ た七月二十日の人たちの前では ( 彼らの幾人かはわたくし チズムからはっきりと距離を保つ態度を取っていたら、 の友人である ) とても恥かしい思いをした。ところでこの ヒトラーに反対する科学者たちのあらゆる力を勇気づ 実例を見ても、真の抵抗は、一見敵の手足の働きをしてい る人によってのみなされ得るものだということがわかる。」 けたばかりでなく、さらにまたおそらく積極的な抵抗 を呼び起こす指導的な精神となっていただろうにとい 彼の友人でまた共同研究者であるフォン・ワイツゼ ッカーよ、、 / イゼンベルクはいつも国際的な教養と考 うのである。 え方をもった人でしかも故国を愛していたのだと言っ ハイゼンベルク自身、彼の当時の態度について著者に 次のように弁明している。「独裁国では、積極的な抵抗とて、彼を弁護しようと努めている。彼がドイツにとど いうものは、外見上ではその体制に協力しているように見まったのは「ドイツの物理学を、彼が予測した破局か える人たちによってのみなされる。もし公然と体制に反対 ら救いだすことに一臂の力をつくすためだった。」 するような発言をする者があれば、その者はそれによって しかもその上にもう一つの、おそらく最も重要な動 積極的な抵抗のあらゆる可能性を奪われてしまうことは疑 う余地がない。すなわち独裁政治〈のこうした批判は、ほ機があ 0 た。これは、 ( イゼンベルクが一九四六年の 文章の中でただ暗にほのめかしているにすぎぬもので んのときどき政治的にはたあいない形で現わされるか る そのときはその人の政治的影響力はたやすく遮断されがちある。彼とその緊密な仲間は、カイザ 1 ・ヴィルヘル 明 ・ : そうでないなら、その者は実際に、例えば もである ム物理学研究所を指導することによってドイツの原子 よ 学生たちを政治的に動かそうと試みるかであるーー・。そのと 開発をその手中に収めておこうと思ったのである。な 太きはもちろん数日をいでずして強制収容所で敢えなき最期 ぜなら彼らは当時まだ、もしそうしなければ非良心的 千をとげて、その犠牲的な死さえも実際には人に知られない ままに終わるだろう。な・せなら、そういう人について語るな他の物理学者たちがヒトラーのために原子爆弾を製
して、このような措置に対し身を守ろうとした。しかに取り扱われる」とフランクは訴え、自分だけよい子 し彼が第一次大戦中、ドイツ軍の兵士としてヴェルダになるようなことはしたくないと力説した。 しかしこの見あげた態度も、「ゲォルギア・アウグ ン戦線で腹部銃創と重い毒ガス中毒を受けたことによ って、「立派なドイツ人」として取り扱われる充分なスタ」のある教授たちから悪意に受け取られた。学問 資格を得たと信ぜられる事実をいくら指摘しても、まの自由と精神の尊厳とを主張することをしないで、四 た二十二名のドイツ人教授 ( その中にはハイゼンベル 十二名の講師、教授たちはゲッチンゲン・ナチ党の地 ク、ヒルベルト、プラントル、ゾンマーフェルトなら区指導部に恥ずべき文書を送って、フランクは外国の びにノーベル賞受賞者フォン・ラウ工とプランク等が「おそるべき宣伝」に一役買っているという理由をあ いた ) が彼のためにいくら抗議の請願をやっても、焼げて、彼の行動を弾劾したのである。ゲッチンゲンの 自然科学者のうちでたった一人だけ、まだユダヤ人科 石に水だっこ。 ジェ 1 ムス・フランクはノ 1 ベル賞受賞者として国学者の罷免に対して抗議する勇気をもっている人があ った。それは生理学者クライヤ 1 である。。フロシアの 外でもその名を知られていたので、ひとまず安全だっ た。けれども彼はじつに毅然たる人だったから、すす新任文化相シュトウッカアルトが彼に対して取った罷 んでこのような特別扱いを放棄したのである。そして免措置によっても、また終身停職という威嚇によって 一九三三年四月十七日付で辞表を提出した。それからも、彼は断固ひるむことはなかった。 二日後に、まだ統制下におかれていなかった少数の新ゲッチンゲンの教授団の大多数は、煽動や憎悪が彼 聞を通じて、自分は追放された同僚たちへの連帯責任らの静かな世界にまで侵入して来ることを快からず思 を取って身をひくのだと世間に発表した。「われわれ ) ってはいたのだが、自らの教職をなげうってまでも、 ユダヤ系ドイツ人は祖国に対する異邦人かっ敵のよう抗議するだけの勇気はなかった。今や学問的には二流、 デマイギー こころよ