ウィリアムズはこの動脈を結紮して、心嚢の傷を縫合あった。彼は、愚かな先着権主張論争などには、執着 した。心臓の傷は、自然治癒した。患者のジェームを抱かなかった : ・ ズ・コーニッシュは全快した。正確には心臓縫合では 一方、手術に成功してから一年後に、レンはベルリ ンの外科医会議に現われ、全快した患者ジュスタスを ないが、ウィリアムズの手術は、医学史上ではひんば んに見られる国際的な先着権争いが、生じる可能性が出席者全員に紹介した。彼は、ついでこう報告した。 あった。もっとも、それはウィリアムズが白人だった「心臓縫合を行ない得る可能性は、もはや疑う余地が 場合のことだが、ともかく、そういう危険性ははらんなくなりました : この事例が単なる好奇心に止ま でいたのである。 らず、心臓外科分野の刺激剤となって、この研究を更 しかしウィリアムズは、。 ヘンシル・ハニア州、ホリデに推進するよすがとなり、そうして、外科学の新分野 イスパーグの、アメリカ黒人の子として生まれたのでとして発展していくようになることを信じます。」 ある。偏見にめげずに、彼はシカゴの医科大学の学生 となり、学位を得た。さらにウィリアムズはシカゴの 一八九八年の九月十六日には、世界はまだ、六日前 マーシー病院の外科医となるまで、医学に邁進した。 にジュネー・フのモン・フラン埠頭で起こった、オースト 彼は、三十五歳で、ノックスビルのテネシ 1 医科大学 リアのエリザベス皇后暗殺事件で湧き返っていた。ル の教授に任命され、次いでシカゴの外科医院に帰り、 イス・レンが、彼の診療室で、彼の最初の心臓縫合の け後にワシントンのフリードマン病院の外科部長に、就話を私にしてくれたのは、この日である。レンの心臓 夜任した。私はウィリアムズに数回会い、敵意に囲まれ縫合の日から、ちょうど二年近く経過した日に、皇后 科た境遇が、この人に、深い心の孤独を強いたのに気づが同じ心臓の刺傷で死亡したということは、何か不気 いた。その孤独はまた、彼に聡明さを与えたものでも味なものすら感じさせる。私は、ちょうどジュネ 1 ・フ
アメリカの即時手術の進展が、ヨーロツ。ハ大陸に伝 腹部切開を行なった。驚いたことに炎症の原因は、化 膿して破れている虫垂突起だった。そのためこれを摘えられた時、大陸ではまた「盲腸周囲炎ーについての昭 出したが、手おくれのため、患者の命を助けることは古い観念が、完全に支配していた。「盲腸周囲炎」は できなかった。幾つかの、他の同様な試みも、やはり町医者や内科医の扱う仕事だった。下剤や阿片が奏効 しなくなると、死を待つばかりだったのである。しか 命取りに終わった。 ロンドンでは、一八八八年六月二十九日、フレデし、青年医師チャールズ・クラフトの「アメリカにお リック・トリビスが慢性虫垂炎の虫垂突起を、一定期ける虫垂炎の外科療法」と題する論文が、ローザンヌ 間を置いて起こる痛みの症状の間隙をぬって手術し、 で発表されると、より積極的な外科療法への関心が高 初めて成功した。この手術によって、ロンドン病院のまるようになった。 外科医であり、王立外科大学の解剖学教授である三十 シュ。フレンゲル、キュンメル、リーデル、ゾンネン 五歳のトリビスは、後に虫垂突起手術の専門家としてブルグという四人のドイツ人を含む数人の外科医が、 の名声を築く基礎を作った。しかし、彼は初期手術の外科療法を採択した。しかし彼らは、これに抵抗する 提唱者には決してならなかった。逆に、頑冥な保守主障壁に当面した。アメリカでの時もそうだったが、虫 義によって、軽い症状では下剤療法を守った。そして、垂炎患者の殆どは、町医者の手に委ねられていたので、 手術によって膿の放出口を作るのは、少なくとも四、医者が患者を手放そうとしなかったのだ。もっともこ 五日待って、膿瘍が触診で分かるようになってからだ れは、アメリカの時と比較すれば、問題にならぬほど、 という原理を守った。慢性の場合にだけ、虫垂突起除おとなしいものだった。しかし、こうした現実は、や かんけってき 去を考え、最初成功した方式を踏襲して、間歇的に激はり若い外科医たちの歩みを著しく阻害した。数十年 痛がおさまる期間に手術した。 にわたって、数えきれないほどの患者の屍体を越えて、
の不変の初期症状を把握してその対策を確立した。こものだったからである。アメリカの新聞は、地方の小 うして彼は、初期診断をい 0 そう容易なものとした。新聞にいたるまで、この問題を論じ始めていた。一方、 1 ニーは、す町医者は外科医を呼ぶことを、患者に強いられた。阿 ちょうどその頃、チャールズ・マック・ハ べての場合に、痛みに圧倒的に鋭敏な腹部の場所を発片療法では少なくとも数週間は寝ていなければならな い上、もし、炎症を起こした虫垂突起が破れて、内部 見したと発表した。この発表も、虫垂炎の初期診断の 助けとなった。その間にもマーフィーは、自分の主張の膿が腹腔に氾濫したら、生命は風前の灯だというこ を発表し得る機会は、逃さず捉えた。年を重ねるうちとを、患者も今では知ったのである。手術では、ごく に、彼は手術に成功した例として、二百件以上も挙げ短時間寝ていればよく、一度手術すれば二度と虫垂突 得る立場になった。彼は、カタル性と化膿性虫垂炎と起に悩まされることがないことも、よく分かっていた。 このようにして、虫垂炎の内科療法から外科療法への が、別個のものであるという見解を、完全に拒否した。 どの場合でも、ごく初期の段階ですら、彼は虫垂突起移行、緩慢で間に合わせ的な薬物治療から、初期診断 で直ちに手術を行なう治療への移行が、アメリカでは の中に膿を発見していた。 マーフィーの報告には、うなずける点が非常に多か迅速に進んだ。この療法の成功は、全世界に提示され、 ったために、前衛的なアメリカの外科医は、次々と彼虫垂炎療法の道標となるべきだった。しかし、ヨーロ この療法に反抗した。 ッパでは執拗に、そして痛烈に、 の説に迎合し、初期手術を提唱する一団を結成した。 ヨーロッパでも十八世紀半ばに、数人の外科医が虫 けその数は、次第にふくれ上がっていった。誤った診断 の結果、健康な虫垂突起に当面することも、一つの可垂突起に関する手術を行なっていた。チ 1 リッヒの 科能性としてはもちろんあるが、致命的な問題ではない。外科教授 = ールリッヒ・クレーンラインは、一八八四 迅速な処置がもたらす恩恵は否み得ないほど決定的な年二月に洗滌をして、腹膜炎の治療の助けにしようと、
ばならないのが、虫垂炎だと説いた。彼はその兆候をした。彼らは、数時間以内に虫垂炎と診断し、そうし 説明した。第一に痛み。ついで、普通なら痛みを感じた信びよう性のない根拠で手術するのは、愚かなこと 始めてから三、四時間後に吐き気ど嘔吐。それら腹だと考えた。聴衆の中には外科医もいたが、彼らでさ 部右側が敏感となり発熱する。嘔き気が痛みの前に襲え、それほど迅速な診断を下すことは不可能だと考え、 う時のみが、診断決定に疑義があるケ 1 スで、それ以膿瘍が外部から触っても明確に分かるまでは、待っこ 外は虫垂炎と断定しても誤りなく、直ちに外科医を招とが必要だと主張した。また、虫垂突起が犯されてい へいすべきである。この方法によってのみ、病源の部るという仮定を正しいと認めて、それが、危険な手術 を正当化するものにはならないという意見や、化膿し 分で病気を阻止する手術を行なうことが可能である。 また、大衆にも、腹部の激痛の時には、直ちに虫垂炎ない事例は、すべて内科医の阿片療法に委ねるべきで ある。これらの軽いカタル性のものは自然に治癒する のことを考え、外科医を呼ぶように教えるべきだとい から、腹部手術の危険を犯すのは適当でない、という うのが、彼の主張だった。 マ 1 フィーがこの会合で語ったことは、今日ではす意見もあった。 マーフィーは、突起に穴が開き、腹腔に膿が氾濫し べて、当然のことと考えられている。しかしこの講演 ないうちに手術することで、そうした危険性を取り去 が終わると猛烈な反動が起こった。その凄まじさは、 血気盛んで激しやすい彼でさえ、打ちのめされそうにることが可能なのだと説明しようとした。しかし徒労 なった。絶望はやがて、激しい怒りに変った。町医者だった。怒りと失望に震えながら、彼は大広間を去っ の大半は、彼の主張を拒否した。彼らは「盲腸周囲炎」た。 強い決意をもって、再び彼は研究に突入した。その はーーー・或いは、フィッツの用語によれば虫垂炎は 手術しないでも、単に阿片のカのみで治癒すると言明後数年間に行なった多くの手術の中で、彼は、虫垂炎
考えることも無理なかった。 その年の九月二十五日、ハンコックはこの事例の報 一八四八年の四月十五日、ロンドンのチャリング・ 告を、ロンドンの医学協会に対して行なった。このよ クロス病院の三十九歳の外科医、ヘンリー・ うな腫瘤が腹壁まで到達することは極めて稀だから、 クは、鼠蹊部右側の激痛を訴える、ある若い婦人に呼将来は到達するまで待たずに、化膿の疑いのある時は、 ばれた。明らかに彼女は「盲腸周囲炎」に犯されてい たとえどんな深部であろうと、炎症の部分を探し出す た。彼女が診断を受けた医者たち、チョーンとディア べきだと提唱した。この提唱によって、ハンコックは、 モンドは、例によって大量の阿片を用いた。しかし容外科の積極療法の開拓者として名が残った。しかし、 態は、ますます悪化した。ハンコックは通例のように、彼もまた、荒野に叫ぶ声にすぎなかった。下剤と阿片 外側の腹壁に膿瘍が現われるのを待った。四月十七日の王座は、やはり徴動もしなかったのである。 には患者の容態が悪化し、死が近づいたことが明らか 一八六五年、レビスは、腹腔深部の膿瘍切開に成功 に分かった。この時ハンコックは、腹部の内側の奥にし、ハンコックの成果を前進させた。しかしウイラー 固い瘤状のものを、手ざわりで感じとった。彼は自棄 ・パ】カーが、三例目になる症例に対して深部膿瘍 的な気持ちから無暴の勇に駆られて、患者にクロロ切開を敢行するまでには、更に十八年の年月を要した。 フォルム麻酔をかけ、手ざわりで感じた瘤を切り落と六十四歳のパーカーは、当時コロンビア大学の外科教 した。炎症した突起からは膿がふき出した。 この授だった。彼は、かってポストンのワレンのもとで学 け膿は、自力で外部に流出することはできないが、間もび、左手でも右手同様鮮やかな手術を行なうことで有 なく患者の腹腔に浸透して、死を招くはずのものだっ名だった。彼は常に、患者が検屍台の上に死体となっ 科たーー数日後には、患者の容態は急激に快方に向かって横たわらないうちに「盲腸周囲炎」の手術を行ない、の 4 た。そして、五月半ばには、完全に元気を回復した。 手遅れとならないように注意していた。彼の手術以後
聴しているようにも、好奇心から聞き入っているよう にも見えた。その一団の中には、ホテルの事務員まで 一インド人の鼻 ・ : 加わっていた。語り手の外人が話しているドイツ 失われた鼻の復活 語で、私には彼がイギリス人だということが分かった。 そして、その話の中のディーフェイハッハという言葉 : 、私の注意を捉えた。 一八四七年十一月十一日は、寒い重苦しい日だった。 古都ベルリンは、陰欝な薄闇の中に沈んでいて、初め「彼は十二時に手術室に入って来ました。」 その男が話しているのは、明らかにディーフェン て訪れた私を、いかにも招かざる客という表情で迎え くッハのことだった。 た。前の晩に私は、エルランゲンからベルリンに到着 していた。エルランゲンでは、ドイツで最初に患者に 「いつものように元気のいい調子で、最初に、数日前 麻酔をかけて無痛手術を行なった外科医、マ 1 ティ に動脈瘤の手術をした患者を紹介しました。そしてそ ン・ヘイフェルダーを訪問してきた。私がベルリンをの患者の症状や手術後の処置を、学生やわれわれ招待 訪れたのは、著名な外科医のユンケンやディーフェン客に説明しました。それから、フランスから来たパリ ノハが、患者にニ 1 テル麻酔をかけて手術するのをのコントウ 1 ル博士の方を向いて、彼にドイツ語の説 見学するためだった。 明が分かったかどうか尋ねてから、ソファ 1 に腰をお レミシェ 1 ル・ホテルの私の部屋で、暫時休息してろし、コントウール博士にそばに腰かけるようフラン から、私はロビ 1 に降りた。階段の下では一団の人たス語で勧めました。事件が起こったのはその直後で ちが、四十台も半ばを過ぎた男を取り囲んで、その言す。」 葉に喰い入るように耳を傾けていた。尊敬の念から傾私は階段の最下段のところまで来ていた。そして耳
この一冊の本に出てくる医学的・歴史的な事件の 中には、読者にとって非常に奇異に思われるものも あるかもしれませんが、すべては学問的文献や、信 頼できる記録にもとづいています。すべてが、事実 なのです。 私は、この本を表わすにあたって、母方の祖父に ちなんで ハートマンと名づけた医師を登場させ、一 切をこの医師が目撃するという小説的手法をとりま した。それは外科医学の進歩という、偉大な物語の 一貫性を保っため、そしてまた、これらの出来事が、 一人の人間の一生の間に起こったこととして描くた めに他なりません。 ートマンを、外科医学の進歩における画 期的な出来事のひとつを、まず目撃するという幸運 に恵まれた青年として描きました。 一八四六年十月十六日、ポストンのマサチュ 明 夜セッツ総合病院の手術室で行なわれた、麻酔法によ 科る最初の無痛手術の成功がそれです。 それ以後の ハートマンは、医学記者として、その 長い一生を、外科医学の進歩がつくる偉大な時代の すべてとともに生きぬきました。彼が訪問した外科 医や科学者は、いずれもこの偉大な世紀に、外科医 . 学の新しい分野を開拓した人たちです。私は、彼、 ートマンを、外科医学の進歩の道を追い求め、報 導する、世紀の巡礼者として描こうとしたのです。 この物語に、真実性と生気を与えるために、 トマンが描いた重大な事件の場所を、可能な限り私 自身の足で訪れ、私自身の眼で見てきました。時に は、医学的な問題のわくを遙かに越えてしまうこと ノートマンが会 もあります。この世紀のふんいき、 った偉大な人々の性格・生活様式・習慣・個人生 活・会話などまで、私は学ばねばなりませんでした 9 この本をつくるためには、沢山の資料をつなぎ合 せなければなりませんでしたし、普通の歴史家なら 無視していいような、・ こく皮相的なこまかいことが らまで集めなければなりませんでした。例えば、コ ートやネクタイの色などです。しかし、これらはす べて、現実にあった素材なのです。 3 引
かった。彼の場合、恐らくは話すことを覚えようとしナ 1 などであゑ彼は、発見の優先権主張論争などに なかったのだろう。その代わり、病気を探求する方は、は、決して介入しなかった。 自分自身の目で確かめなければ気がすまない、という またジョージ・リ 1 アソン・ファウラーは、鉄道作 熱心さであった。熱心のあまり、生体解剖に近いとこ業員から身を起こしてニュ 1 ヨーク総合病院医学校の ろまで手術を行なったこともある。彼は、患者が生き外科教授に昇進した人で、腹部手術のための「ファウ た人間だということに、あまり関心がなかった。だか ラー・ポジション」という特殊な体位を研究した。も ら手術した患者が、脳の繊維腫を除去し終わった瞬間っとも彼自身は、後に虫垂炎で死亡している。更に、 に死亡すると、患者を罵って叫んだ。 ウィリアムおよびチャールス・メイヨーがいる。彼ら 「なんて愚かな奴だ。治療した瞬間に死んでしまうと はミネソタ州のロチェスターで、世界最新の設備を誇 る外科病院を建て、世界的な名声を得るに至った。 しかし、彼は病気に関する知識を増進し、「外科の最後に、ニュ 1 ョ 1 クのチャールズ・マック・ハー シカゴのジョン・べンジャミン・マ 1 フィーと、 勝利」を、従来手の触れられなかった人体の奥深い部 分にまで、押し広げることに、大きな貢献をした。まう激しやすいアイルランド人、フィラデルフィアの ートンなどがいる。モートンは、 たニコラス・センも、このようなヨーロッパ人の一人ジョージ・トマス・モ だった。彼は愛嬌のない人間で、傲然としていたため、一八四六年のあの忘れ得ない日に、エーテル麻酔を行 け誰からも好かれなかったが、多くの新しい道を、外科なって最初の成功を収めたウィリアム・グリーン・モ 夜の世界に切り開いた。 ートンの息子である。 一八八七年四月二十七日、ジョージ・トマス・モー 科アメリカ生まれで特筆すべき人は、真面目でおとな しい、シカゴのオ 1 ガスタナ病院の外科部長、オクストンは、虫垂突起の攻略に最初の成功を収め、これを 415
描き出していた。そして、久しく延引していたヨーロ パ旅行に出発する時が到来したのを急に悟った。わ れわれの発見がヨ 1 ロッパを征服するのを、身近にこ の目で目撃しなければならない。そして可能な限り早 く、この興奮の覚めやらぬうちに急きょ出発しなけれ ばならない。私は興奮の中でそう決意していた。 三帝王切開 それは母親にとっては死を意味していた パビアのサン・マテオは、無菌防腐処置以前の典型 的な病院だった。粗末な廊下や病室や壁は、一度も消 したことがない学生の春画で醜貌をさらし、いたる所 に腐敗と化膿の悪臭がしみついていた。ジュリー・コ ハリ 1 ニという名のイタリア婦人と、エドアルド・ポ ロという外科医が、歴史的な役割を演じた舞台は、こ のように設定されていた。 この物語については、殆ど知られていない。ポロは 自分の口から、この物語を私に話してくれた。しかし それは、物語の一件があってから多年の歳月を経た後 で、既にその時には、彼もメスを手放して久しく、し かも、死に直面していた。彼はこの物語によって、 いわゆる″手術熱″に対して、外科医がいかに無力で あるかが明らかにされると指摘した。彼の時代の外科 2 3
めていた。この時になって初めて『ランセット』とかの態度はヨーロッパ外科の象徴だったのだ。しかもョ 『イギリス医学ジャーナル』といった雑誌に、王の病ーロッパの外科は、他の点では輩新的だったが、マー フィーが熱心に力説した「虫垂炎の患者は出来るだけ 気の経過を説明する記事が掲載された。記事の大要は、 リスターの話と一致した。もし王が死亡していたら、早く手術をすべきだ」との方法には、実に緩慢にしか 虫垂炎の即時手術を提唱し始めていた人たちによって、向かっていかなかった。 王の治療法は痛烈な批判を受けたことだろう。おそら く、それによって、小心で時代遅れな保守主義の障壁 を、一掃することも可能だったかもしれない。或いは レイキングとトリビスは、エドワード王自身が戴冠式 の延期を嫌って「盲腸周囲炎」の診断と手術の意見に、 激しく抗弁したと指摘するかもしれない。しかし、レ イキングは初期診断に失敗し、外科医の招へいを要請 する時期が遅かったという非難に応じられるだろうか。 トリビスは、招へいされた時症状を正しく理解し得な かったばかりに、直ちに手術を行なわず、数日間も、 け王を運命に任せたという非難に反駁できるだろうか。 夜彼らを弁護する材料は一つしかない。彼らが行動を起 科こさなかったのは、怠慢や無能からではなかった、と いうことである。彼らは時代に順応したのであり、そ 9