種類のすべてのミノアのものは、それがどこで発見さと、今や疑いもなく一つであると見きわめることが出 6 れようがー。ーキュプロスにおいてであろうが、キュク来た。そこで年代を定めるのにもう一つのチェックが ラデスにおいてであろうがーーー概して同じ時代のもの出来ることになった。そして、エジプトとクレータ両 でなくてはならない ( クレータで始まったある流行が方におけるこれらの発見物を検討し、再検討し、討論 ミノア帝国の辺境の地に拡がる前に時が経過するといし、相互に関連させるにつれ、次第次第にアーサー うことを斟酌しても ) 。 エヴァンズは彼の『大設計』を作成することが出来た このような方法で、エヴァンズとクレータの他の考 すなわち、ミノアの物と、他のエーゲ海の島々と 古学者達はミノアの堆積物のあるものを、エジ。フト史本土に発見されたそれに類似のものの年代を算定する の王朝以前の時期 ( 紀元前三二〇〇年 ) までさかのぼ年代組織である。 って年代設定をすることが出来た。 何故というに作業が進展するにつれ、考古学者達は そこで、エジプト学者達がクレータで働いている仲 エヴァンズがクレータに始まったと信じたこの文化が、 間達を助けにやって来た。エジ。フトの墳墓には、死者他のエ 1 ゲ海の島々に、はるか東方のキュ。フロス島に、 が地下の世界で必要とするおびただしい品物を埋めるそして小アジアの沿海に、そして北方のギリシア本土 のが習慣だったーー・例えば家具、衣類、飲食物の容器にまで拡がったことを認めるようになった。これらの などだ。 ( われわれはすでにエジプトの墳墓の壁の不地方のすべてに、クレータ出土のものと同一ではない 可思議なケフテイウの絵のことを述べた。 ) 今やエジプ が類似の土器が見出された。発掘の初期にはエヴァン ト学者達は、エジ。フト墳墓に見出された品々、とくに ズの発見物はミュケーナイのものとされたのだが、進 土器を新たに検討し始めた。その中にエジプト製でなむにつれ、ミュケーナイに発見されたものとは本質的 い土器があり、それはクレ 1 タで出土したミノア製品 な相違があることが立証された。エーゲ海のさまざま
もしくは遊牧王として知られるアジア人の君主による有名なラムセスなる名を帯び、その中の一人ラムセス エジプトへの侵入と占領によって起された、弱体と無三世は、紀元前約一二〇〇年頃にエジプトに侵人しょ 政府時代がつづき、彼らは再起したエジプトに覆えさうとした『海の人々』に大勝利を得たということが、 れるまで、エジプトを約一五〇年間支配した。 エジ。フトの寺院に記録されている。『海の人々』とは ついで、エジプト帝国の最大の発展の時期、すなわ海軍力に支持された陸上の侵略者であったということ ち、いわゆる新帝国 ( 紀元前一五五五ー七一二年 ) の になっている。陸上部隊はシリアから下り、一方、海 初期がそれにつづく。本書の読者には十八から二〇ま軍は海岸づたいに陸軍に従った。しかし、シリアとエ での最初のたった三つの王朝が関係があるだけである。ジ。フトの間のどこかで、ラムセスはそれを迎えて両方 その後には、クレータの古代文化は忘却の中に沈んでを撃減し、そのため侵入は行なわれなかった。この挿 しまったからだ。しかし、これはエジプトの歴史の中話は後に読者が見られるように、エーゲ海文化の歴史 で最もよく知られた時代であった。それは軍隊の栄光 ことにミュケーナイのそれに・・ーー・・・大いに関係があ を最大に高揚した『エジ。フトのナポレオン』たるトウる。紀元前一〇九〇年以後はーーっまり第二〇王朝の ートモシス三世の、そしてまた強力なアメノ。ヒス三世終りからのちはーーエジ。フトの歴史はわれわれの物語 の、そしてその息子で宗教改革を起し、ほとんど帝国に関係がない。 を失うばかりになり、また多分クレータのエ匠を自分発掘の初期の段階で、エヴァンズはクノーソスの宮 の宮廷に迎えたであろう、狂信的な謎の人物、アクナ殿で、第一二王朝に属すると確認された『閃緑岩のエ デンの時代であった。 ジ。フトの像』を発見した。そして作業が進むにつれ、 つづく二つの王朝、すなわち第一九と第二〇王朝にクノーソスやまた他のミノアの遣跡で、エジ。フト製に はつぎつぎと強力な王が現われ、その中の数人はかの疑いのないものが外にいくつか発見された。これらの
れてきた。アンケセナーメンの姉妹の一人は結婚のたさはヒッタイトの王の採らざるところであった。しか 0 めにある外国の王宮にはいった。多くのエジ。フト学者るべき熟慮なしにこの種の計画に突入することは、けな っして成功をおさめるゆえんではないであろう。この はアンケセナーメン自身の母はアジアの王女であった と考えている。したがって、このような危機にさいし手紙が策略でないとどうしていえようか。そこで、彼 て彼女が外国に助けを求めたのは驚くに当たらない。 は顧問官たちを呼び集め、問題は長時間にわたって討 彼女がヒッタイトの王に次のような手紙を書いている議された。結局、この話の真偽をたしかめるためにエ のを、わたしたちは知っている。 ジ。フトへ使者を送ることが決定された。彼は返書の中 「わたしの夫は死にました。わたしはあなたが幾人も にこう記す。「なくなった王の子息はどこにいるので の成人したご子息をおもちであるということを聞き及すか。彼はどうなったのですか。」彼自身の抜け目の なさから、なれなれしい素振りをみせているのを、わ んでおります。ご子息の中の一人をわたしのところへ たしたちはそこに見るのである。 おくって下さい。わたしはその人を夫といたします。 その人はエジプトを支配する王となります。」 さて、使者が一国から他の国へ行くのには約二週間 彼女としては、抜け目のない行動であった。エジプが必要であった。だから、一カ月の待機ののち、要請 ト王位の真の継承者はなかったのであるから。だから、に対する回答として、一人の王子ではなくて、一通の ヒッタイトの王子が、ある相当な支援部隊を伴ってす手間どった無益な手紙を受けとったとき、憐れな王妃 みやかに派遣されるなら、それは非常な成功をもたらの感情がどんなものであったかは、想像できる。絶望 す行動となるであろう。ともあれ、敏速さが唯一の本の中から彼女は再び手紙を書く。「わたしがどうして あざむ 質的要件であった。だから、王妃は自分勝手に考えたあなたを欺かねばならないでしようか。わたしに息子 のである。ところが、いかなることにおいても、性急はありません。わたしの夫は死にました。あなたのご
の矛に変えられたのかもしれない。 紀元前三二〇〇年メネスによる下 = ジプトの征服後、幻 下エジプトの避難民の上陸さえ幾つかの小グルー。フで レ 行なわれたかもしれない。前王朝時代 ( 紀元前三二 0 の〇年以前 ) のナイル川の西側のデルタの首都はサイス 星であ 0 たが、その女神ネイトはその標章として 8 字の 司 楯をもっていたということは興味のあることである。 西側デルタの人々はリビアと近い関係にあったことが 知られているーー・実際のところエジプト語をそこの住 めて初期の頃から下ナイルとリビアとに交渉があった民は知らなかったのであるが。 ー、ー・ニュ ことは疑う余地がない。故。ハゾ ーベリー教さてこのリビアとの関係が、クレータ人の文化の起 授は一九二三年大英協会の演説で、下エジプトの歴史源について真実らしく見える最も重要な糸口をわれわ 時代のごく初期に、 ( クレータに最も近い ) 北西テルれに与えてくれる。何故なら、この遠い時代のリビア もり タの人々の信仰の対象には「 C 銛、交叉した矢のつ男性の衣服の特徴の一つにーー・小像に見られるように はかま 『リビアの袴』があるが、これは中世時代の『急 いた 8 字の楯、Ü山と、おそらく四双斧、国鳩と燕が 含まれていた」と指摘した。「銛は例外として、これ所覆い』のように生殖器を保護していた。ミノア人は らすべての信仰の対象はクレータにもまた見出され同じような覆いをつけていた。リビア人の男は横の巻 る」、そしてその銛ですら、後にクノーソスやフェス毛を耳の前から胸の上に、または腋の下を通るように トスの壁上に現われる、かのおなじみのミ / アの三叉たらしていた。 ミ / アの男子もそうであった ( 一一〇六べ
エジプト芸術の全史を通じて多くの点でもっとも興味 0 あるものであり、わたしたちは美しいものに対しては認 心の用意を整えていた。わたしたちに心の準備ができ ていなかったのは、それらの品々のいくつかを特徴づ ける驚くべき活力と生気に対してであった。それは、 。元わたしたちにとって、エジプト芸術における予期せざ 《がる可能性を啓示するものであった。わたしたちは、こ 。」飾のあわただしい予備調査によってさえ、この遺物研究 はわたしたちの古いすべての考えを完全に覆すことと ならないまでも、修正することになるだろうと暦った のである。しかしながら、それは将来に残された問題 であった。わたしたちは、墓全体を清掃し、その全内 ものであった。他のものは、新しく異様であった。そ明確に定めることができるであろう れらは、時には、他の王墓から発見された小さな破片わたしたちがこの調査で最初に気ついたことの一つ によってわたしたちがこれまで外観を想像していただ は、大型の品々の全部および小型の品々のほとんどに けのものについての、完全無欠な見本であった。 ッタンカーメンの名が刻まれていたということである。 発見が非常に驚くべきものであったのは、単に量と もっとも奥の扉の封印も彼のものであった。したがっ いう観点からだけではなかった。墓の属する時代は、 て、何の疑いもなく、そのうしろに横たわっているに
そらく司祭王であったろう。 ていた。はじめ発掘者達はそれを浴場たと考えたが、 仲間のエジ。フト学者達と違って、クレータの考古学 エヴァンズは後に『浄めの場』だと決めた。つまり、 何か聖油の儀式が行なわれた場所だとした。彼が宮殿者達は自分達を導く文字に書かれた文書を一つも持た なかった。また、 ミノア人は古代エジプト人のように、 の他の場所を掘るにつれ、もっと多くの『浄めの場』 が出土した。すべては丹念に作られていた。すべて柱親切にも歴史的事物の絵や記録を残すため寺院の壁を で支えた段々が通じ、どれ一つとして水を溜めておく使ったりはしなかった。彼らはエジプト人や、血に飢 ように設計されていないし、また、よごれた水を流すえたアッシリア人のように、勝利や戦闘、条約や征服 設備は何もなかったーーーあの不可思議な凹みが浴場だを記録することにまるで無関心だったように見える。 ( ミノア人がエジプト人と一〇〇〇年以上も交渉のあ としたら、熟練した水力学の技師であるミノア人は、 その設備を絶対に忘れることはなかったろう。その後ったことからみればなおいっそう驚くべきことだ。 ) その代りに、彼らは自然の中から楽しい光景を描いた。 クレータの他の場所から、同じような聖汕の場につい すなわち、花や鳥や木々、あの『さかすき捧持者』の ての報告がとどいた。すなわち、アルベルはフェスト ような貴族の若者の行列や、西南の入口近くで発見さ スの宮殿でそれを見付けたし、マリアにもまた別のが れた司祭王の、それにも増して美しいフレスコ画、公 あった。それは大地の祭式と何か関係があったのか ? の儀式の光景、また、宮廷婦人達がめかしたててしゃ とエヴァンズは考えこんだ。彼はいよいよますます、 べりまくるスポーツや祭などの光景である。そして、 それが宗教的な目的を持つものとの、そしてたしかに ぎよく 宮殿の多くの部分、ことに西半分は宗教的祭式に供せ回廊の壁に、小さな塑像の上に、そしてまた小さな玉 ミーノ 1 スよ 、刀 られたとの信念を堅くした。実際、 の印章の上にまたしても繰り返し現われるのは いや、その名を持った王の一族かも知れないがーー・おの牡牛だ。 ノ 96
でささやかな収入を得ていた。。 トヴァで、尊敬すべ そのとき、旅行者ポルヒャルトを通じて、彼はエジ きカトリックの家に生まれた彼を、両親は布教者にす。フト在勤イギリス総領事ソールトに紹介してもらい るつもりでいた。しかし、もちまえの浮浪傾向が、当「メムノンの大胸像」 ( いま大英博物館にあるラムセス 時のイタリアにおける国内混乱と結びついて、彼を外二世のこと ) をルクソールからアレクサンドリアまで 国へ送り出し、運をためさせることとなった。わたし運搬するという契約を総領事と結んた。それは一八一 たちは最近、スミスの回想記『雨の日』の中の一冊に、五年のことであった。それから五年のあいだ、彼はエ エジプトへゆく前のベルツオニに触れたくだりを発見ジプトで暮らし、遺物の発掘と収集をし ( はじめはソ した。その中で著者は、いかにして彼が他の人々の一 ールトのためであり、のちに彼自身のためであった ) 、 団と一緒に「強力の人」ベルツオニによって舞台のま競争発掘者たち、とくにフランス領事の代理人たるド わりをめぐって運ばれたかを記している。サ 1 カスの ロヴェティと紛争した。当時は発掘の全盛時代であっ 仕事のあいまに、ベルツォ = は工学を学んだように見た。気にいったものは、スカラベからオペリスクに至 える。一八一五年、彼は現地人の作業力の四倍も仕事るまでただちに入手できるという時代であった。同僚 をする ( と彼は主張した ) 水車をエジプトへ紹介して発掘者と意見のちがいがあるなら、銃を持って待ち伏 財産づくりのチャンスをつくろうと考えた。この考えせるという時代であった。 のを抱きながら、彼はエジプトへわたり、「大立者」モハ エジ。フトでベルツオニが経験したことについての彼 刈メッド・アリにうまく話し、宮殿の庭で水車をくみた自身の報告は、一八二〇年に刊行された。それはエジ カてた。ベルツオニによれば、それは大成功であった。 プト関係の全文献の中で、もっとも魅惑的なものの一 タしかし、エジ。フト人はそれを何かに利用することを拒つである。わたしはその著書から、できるなら詳細に 2 んだ。かくして彼はエジ。フトで挫折した。 引用したいと思う。たとえま、 。いかにして彼がオペリ
および二四〇ペ ) 。奇妙な例が他にもある。例えばフ = ス同じものだと認めた。」 ) 考古学者達が便宜上初期ミノア時代 ( 紀元前ほぼ一一 トスからあまり遠くないメッサラに発見された、ごく トロス 初期の穹窿型墳墓の中で、発掘者達は古新石器時代の八〇〇ー一八〇〇年 ) と称する千年の間に、島の人口 ものとはまったく違ってはいるが、ナカダ ( エジ。フト ) は急速に殖えた。重要な町々が。ハレカストロ、。フシラ、 の先史時代の墳墓に見出されたものと同じ偶像、あるモクロス、グルニアの海岸に興った。南方のメッサラ の平野にも人口が殖えたが、もっとも繁栄した居住地 いは人形を発見した。 したがって新石器時代のクレータには二つの主要なは東側にあった。町や村に人々が集中すると共に専門 要素がある。一つは西アジアからの原種族で、同じ地のエ匠の階級が起った。技術、ことに陶工の技が盛ん になった。生活はすっと容易になった。交通は良くな 域からの他の民族によって常に強化されたもの。今一 った。外国との関係ーーことにアジア、エジプト、そ つはナイルの谷からの刺激で、それは通商によるか、 さもなくば紀元前三〇〇〇年代の初めに上ナイルの王れにリビアとの関係は一そう近くなった。しかし金属 達が国中を征服した時、追い出された西デルタからの細工ではミノア人達はいまだに遅れていた。彫刻は幼 少数の避難民の移住によるか、のどちらかで蒙ったも稚で、印章石はデザインも材質も貧弱たった。 島は当時三つのグル 1 プに分れていたーーーすなわち のである。彼らは原住民に新しい技術を教えたことで あろう、例えば石細工やファイアンス焼の製造で、こ中央と南と東で , ー・・・互いに独立していたように思われ れに関してはデルタが有名であった。 ( エヴァンズはる。王宮は一つもなかった。 掘 中期ミノア時代 ( おおよそ紀元前一八〇〇ー一五五 発ミノアの農業はエジプトとの交渉で利益を受けただろ いかなる場 宮うと言っている。「クノーソスの貯蔵室に見出された〇年。この時代の年代決定については 2 豆はわれわれの人夫達がすぐさまエジプト輸入ものと合にもただ大体のことだがーー・現代の学者たちは二十
威者はミュケーナイ墳墓はキリスト教以後のものだとる意味から、この年代を記憶することは無駄ではない。 まず始めに、エジプトの第一と第二の王朝が来る さえ主張した。しかし、年代の確実な証拠なしにはこ ( おおよそ紀元前三二〇〇から二七八〇年 ) 。メネスと のようなとんでもない説さえも反駁不能だった。 それならば、エヴァンズ、ホガース、アルベルや他言うほとんど伝説上の人物が第一王朝の創始者である。 のクレータの考古学者達はいかにして正確な年代をう彼はこれまで別々だった南北のエジ。フト王国を、初め ち立てることが出来たのだろうか ? その答はーー・遺て一つに結びつけた。しかしながら、アメリノーやペ トリが見出したように彼の前に幾人かのエジプトの王 跡に見出されたエジ。フトのものを通してである。 ミノア人がごく初期の時代からーーーエヴァンズは王達がいたが、紀元前三二〇〇年以前の時代は、便宜上、 朝以前の時代からだと信じたがーー・エジプト人と文化王朝以前と呼ばれている。 つぎに古王朝 ( 紀元前二七八〇ーー二一〇〇 ) が来 や商業の上で関係を持っていたということは、考古学 にとって幸運であった。古代のエジ。フト史について何たーーエジプトの歴史が三つの偉大な時期に分けられ かを読んだことのある者は、それがほぼ紀元前三二〇ている中の最初の時代である。この時代は北エジ。フト のメム。ヒスにいてエジ。フトを支配した、かの偉大な。ヒ 〇年に始まり、同じく紀元前三三二年に『グレコ・ロ マン時代』の開始と共に終るまでの間が三〇王朝に分ラミッドの建設者の時代を含む。それは八王朝にわた る、つまり第三から第十までだ。 けられていることを知っているだろう。第一の王朝か つぎに、十一代から十三代王朝にわたる中期帝国が ら第二四王朝の終り ( 紀元前七一二年 ) までの二五〇 発〇年は、便宜上、古王朝、中期王朝、新王朝という発来る。 ( 紀元前二一〇〇ーー一七〇〇年 ) これはエジ。フ 宮展上主な三つの時代に分けられている。エヴァンズが トの『封建時代』と呼ばれて来て、北と南に少なから いかにしてミ / ア文明の年代を定めたかの理解を助けず発展した時である。この時期の終りに、ヒュクソス
サラー ・べイ両博士のルクソ報道は現代文明における大きい必要な勢力であるが、 えて、わたしはテリー ール到着を十一月十日まで延ばすように打ち合わせた。往々実際に存在するニ、ースよりもっと多くのニ = ー 考古学の作業では、ほとんどいつも、予期したとはスをもとめたがる。しかも、極度の競争をする。あら 反対のことがおこる。実際に、三つの人型棺ととりくゆる種類の探究が知的な公表機関に負うところは大き いし、エジプト政府のつくった広報組織の十分な活動 む仕事にいつばい時間を食ってしまって、ラコー氏と が期待されたが、わたしの到着直後、エジプト人、外 両博士が到着したとき、やっとミイラ調査にとりかか 国人を問わず、記者団があまり満足してくれないのを る準備がおわっていた。 十月三日、わたしは遺物保存のエ合を調べるため、知って、いささかがっかりした。 カイロを出発する前に、わたしは公共事業省つき王 ルーカス氏とともに、カイロ博物館のツタンカーメン パシャ・ペダウィ閣下と 展示品を視察してみたが、この問題は古遺物を扱う場室顧問官アブデル ( ミッド・ 合、ことに遺物がこわれやすい性質のものである場合、愉快に会談し、その席上、わたしたちの計画を説明し きわめて重要である。王座は博物館に展示されてからた。閣下はこの計画を完全に了承され、つぎの日のタ 明らかに黒すんでおり、変色を防ぐために、わたした方、わたしはル 1 カス氏と連れ立ってルクソールへ出 パラフィン蝋を発、翌日、ルクソールで同市市長、上エジプト遺物局 ちがその春提案した保護策、つまり、 発用いることにきま 0 た。パラフイソ蝋対策で保護され主査官タウフィク・・フ 1 ロス氏と会合、そのあと、ナ 刈た遺物がそのおかげで改良され、よい状態に保存されイル川を渡って西テーべのクルナ村へいった。 カていることは疑問の余地がないし、したがって、この気温はあついけれども、夏の眠りの沈黙からさめや ン いつもながら印象的な環境に立ち 方法こそ常時もっとも効果的、一般にもっとも最善のらぬ、なっかしい 帰れたのはうれしいことだった。ちょっと視察しただ ものということに同意をみた。