の ) の一場面の光景を呈しながら、他 彼らがある小さな町の「役場」の一隅に宿をとったポロ』 ( = 朝の喜劇 きしよう とき、役柄をしめす黴章と銀の握りのついた一本の杖方ではスティーヴンスに早くも三梃のマスコット銃が ちなまぐさ で身をかためた寸長が、 / 本彼らをうさん臭そうに迎えた。むけられたので、血腥い厳粛なものとなった。 ちん その夜、この村長は約二五人の一団とともに寝室に闖そのとき、明らかにより高い位階のーーー最初の士官 入した。一団の指揮をとっていた男は、カレラ党の士よりいっそう入念に磨いた「びかびかの帽子」をかぶ っていたからーー、第二の士官が現われたので、危機 官たったが、スティーヴンスはこの冒険について語る とき、いつもこの男を「帽子氏」と呼んだ。やがて交は一瞬の間おあずけになった。またもや旅券が検査さ 渉がおこなわれた。そのときちょっとした騒ぎがもちれた。その士官はいっさいの暴力をきびしく禁する一 方、村長には捕虜たちを厳重に命をかけて監禁するよ あがった。スティーヴンスの従者オーガスティンが、 うに責任をおわせた。スティーヴンスは大急ぎでカス 山刀で頭を打たれて、 カラ将軍に手紙を書き、さらに効果をねらって、その 「射ってください。旦那、やつつけてください ! 」 たいまっ 手紙をアメリカの半ドル貨幣で封印した。その貨幣の と叫んだ。スティーヴンスは松明をつけ、そのあかり の下に旅券とカスカラ将軍の印章を拡げた。カスカラ「鷲は翼を拡げ、星は松明の光に輝いていた。一同は 将軍はナポレオン軍の逃亡士官であって、この地方でこの貨幣をよく見ようとして近寄ってきた。」 スティーウンスたちは睡れなかった。宿舎の前で野 はある程度幅をきかせ、その紹介状はスティーヴンス 者の身分を保証していた。一方、キャザーウッドは、人営していた兵士たちは、喚声をあげ、放歌し、そして 学 民の権利と代理公使の権利とを学問的に説明したが、猛烈に火酒をのんだ。そして挙句のはてに、村長が泥 すでに酔っぱらった一団には、とうてい旅券ほどの感酔した一団を後に従えてふたたび姿をみせた。彼はカ 神 銘は与えなかった。情勢は、一方では『フラ・ディアスカラあての手紙を握っていた。まだそれを発送して ちょう
以後、グアテマラのサラマ地区にあるラビナルという インディアン村の牧師となり、インディアンの言葉と和 古い文化の遺物の研究に多くの収穫をあげていた男だ 二間奏曲 った。 ( 僧侶で、インディアンの伝道師をやりながら、 学者でもあった彼は、エティエンヌ・シャルル・ド・ およそ二〇年後の一八六三年のある日、マドリ 1 ド ラヴァンスペールという仮名で多くの物語や歴史小説 の王立図書館の公文書史料保管室で、一人の来館者がも書いていたとたけ述べて、彼の興味が多方面にわた 非常に古く、見たところほとんど使用した跡のない、 っていたことをここに明らかにしておく。 ) 黄色く変色した一冊の写本を発見した。それには一五 このシャルル・エティエンヌ・プラッスール・ドウ・ 六六年という年号があり、表題は『ュカタン事物記』・フール・フール ( 一八一四ー七四年 ) が、黄色に変色し とあった。そこには、ひどく注意をひく、一見しただた古びたディエゴ・デ・ランダの小本を手にして、そ けでは何がなんだかわからぬ数枚のスケッチが挿入さのままうち棄てることなく調べてみると、彼は中央ア れていた。著者はディエゴ・デ・ランダと記名されてメリカ文化の研究にとってこのうえなく重要な発見を あった。 していたわけであった。 一般の来館者は誰も、そんな写本はいつも脇のほう ウィリアム・プレスコットはスティーヴンスより九 へおしのけていたことだろうし、またたしかに、ずつ歳年長であり、・フラッスール・ドウ・・フールプールは と以前から無数のひとびとがそうしていたのだ。いま九歳年下だった。そして・フール・フ 1 ルの重要な発見は それを手にした人は、たまたま、一〇年の間メキシコ 一八六三年にはじめて行なわれたのであったが、これ のフランス公使館の慈善係をやっていて、一八五五年ら三つの仕事はたがいに連関している。スティーヴン
たく値打のないものだ、こんな土地をもっていたとこ は手短かにかっ率直にドン・ホセ・マリアに尋ねた。 ろでお前の興味をひかないであろうし、この土地にあ「お前は、あの廃墟の町の代金をどれくらい欲しいの る「偶像」はどれもとるにたらぬものだ この土地か。」 やっかい はただの厄介な所有権にすぎず、お前はそのことでた スティーヴンスは書いている。 えず頭を痛めねばならないだろう、云々。 「わたしが彼のあわれな古女房、いわばあのリューマ スティーヴンスは、、、 し力なる儀牲を払ってもーー彼チ患者を買いたいと願ったとしても、この男は驚いた は政治的に物騒な土地にいることを知っていた り、うろたえたりはしなかっただろうと思う。・ : ・ : 彼 周辺のすべての住民たちと親密な協調関係を棄てたく は、われわれ二人のうちのどちらが正気を失っている なかったので、ばかけた決心をする。スティーヴンスのか、よくのみこめていないようだった。その地所は ぶっそう コバンの彫像碑 ( キャザーウッド画 ) 393
ぎつづけていたが、その後は、形式にこだわった実験スティーヴンスはこう言う。 2 となって絶えてしまった。それでこのとき、彼は、自「それはあたかも『偶像』が彼の美術を嘲笑している かのようだった。そして一本の木の上に二匹の猿が現 分の絵画上の技法ではとてもかなわないように思えた われて、彼をあざわらっていた。」 仕事に相対しているということをみとめた。 しかしキャザ 1 ウッドは朝早くからタ方遅くまで立 というのは、ここで彼に提出されたこの形態の世界 って、最初の一枚が完成する日がやってきた。それが は、彼がいままでに知っていたあらゆる形態の世界の 枠外に属するものであり、またあらゆるヨーロッパ的センセーションをまきおこすことになった。 な絵画の観念をこえたものだったから、筆は思うよう ところでこのとき、いささか特筆すべきことがおこ に動かず、その彫刻の比例もわからす、角度はすれ、 当時普通の補助手段だ「た白カメラ龕写 ) を使 0 たと 0 た。村の援助を頼りにしていたスティーヴンスは村 ころで、彼の要求をみたすような結果は得られなかっ民と密接に接触していた。この交際は親密そうにみえ た。というのは、スティーヴンスはー・ー探検家がしば たからである。 二、三の薬品 そこにあるのは装飾であろうか、それとも男根であしばそうせざるをえなかったように ろうか。こちらのものは一つの眼だろうか、それともを与えたり、よい忠告を授けたりして、彼なりに援助 太陽だろうか。あるいはシンポルだろうか。これは動していたからである。このとき、めんどうなことがも 、つ、どこに、このようちあがった。すなわち、ドン・ホセ・マリアがいくた 物の頭だろうか。した、し しつよう な動物が生存し、どのような空想からこのように恐ろびも執拗にやって来て、この土地の所有証書を提示し しい頭をつくりだしたのであろうか。世界中のどこに た。スティーヴンスは彼と十分話しあって、つぎのこ も原型のない、豪華な形に石が変形しているのだ ! とを彼にさとらせた。この遺跡地はお前にとってまっ
森林と中央アメリカの森林で発見された奇妙な、そし彼のところから程遠くないところに、同じアメリカ人 てたしかに非常に古い時代の建築について述べていた。のある男が、彼が中央アメリカへ出発しようとしてい この軍人の無味乾燥な記録にスティーヴンスはすっ るちょうどそのとき、古代中央アメリカのある民族に かり魅せられてしまった。彼はこれよりもさらに詳しついて入手できる文献を、ことごとく蒐集することに い報告を探し求めて、グアテマラの歴史家ホアロの著専念していたとは、まるで気がっかなかった。またこ 書を手に入れた。しかしこの書物は、その資料をさらの男が、書斎から出てきて彼にこの古代民族について にある書物から引用していた。このもとの資料は、当多くのことを説明できるばかりでなく、さらにおそら 時、すなわち一七〇〇年ごろには、ホンジラスのコく彼がやがて発見するはずのものについても語ること パン付近の地域に複雑な古い建造物ーーーそれを彼は ができるなどとは、まったく知らなかった。 「円形競演場」と名づけた がまだよく保存されて スティーヴンスは同伴者を探がした。そして友人の いると主張していた。 イギリス人の画家フレデリック・キャザーウッドを見 これらの不十分な報告が、スティーヴンスにとってつけた。こうしてここに、かってナポレオンのエジ。フ 決定的なものとなった。彼がこれ以上のことはなにもト委員会が蒐集したものをヴィヴァン・ドノンが筆で 知らす、また征服者時代の資料についていい加減にしとらえたような、またポッタがニネヴェの廃墟から発 か注意しなかったとは、ほとんど考えられないと思わ掘した崩れた彫刻をユージェーヌ・フランダンが描い れよう。しかしここで繰り返しいわなければならない たような共同作業が、この二人のあいだで生まれたわ のは、スペインの征服者たちの発見が、その古代文明けである。 の発見に関するかぎりは、一般の意識から失われてし彼らが旅行の準備にかかっているとき、早くも、そ まっていたということた。そしてスティーヴンスは、 の計画に必要な経費の大部分を合衆国が負担するとい
いなかったのだ。そこでスティーヴンスは強便になつある裏切者を罰するためにメキシコからホンジュラス たーーーそして見よ、彼の一変した態度で、旅券でも に進軍したとき、この地域を通りぬけた。山岳と原始 キャザーウッドの博識な説明でもできなかったことが林をぬって一〇〇〇キロ以上も。 はたされた。村長は一人のインディアンを鞭うって、 スティーヴンス、キャザーウッド、インディアンの 手紙を持ってただちに走らせ、自分も一団とともに案内人と人夫たちは、出発してまもなく、緑の海のよ 去っていった。スティーヴンスは、長時間待たされるうに彼らを閉じこめたジャングル地帯にもぐりこんだ。 ものと肚を決めた。やがて、事態はまったくひとりでこのとき、ようやく彼らは、なぜこれまで旅行家や学 に好転していった。 者がほとんどこの地に来なかったかということがわか ぶあいそう 翌日、太陽が高く昇ったころ、不愛想な村長が、公りはじめた。彼らより三〇〇年前に、コルテスは同じ 式の和解会見のために姿を現わした。暴徒たちは、早ようなジャングルについて記している、 朝に突然、新しい命令に従って、いっせいに退去して「繁った葉陰はあまりにも暗く、そのために、兵士た っこ 0 ちは足もとを見ることもできなかった ! 」 と。沼では騾馬は腹まで沈み、スティーヴンスやキャ とげ コパンはホンジュラスの国にあり、モンタグアからザーウッド・、 カそれを助けようとして降りると、棘のあ 発してホンジュラス湾にそそぐ同名の河沿いにある。 る植物が手や顔をひき裂いた。むし暑さのために、彼 ( リオ・コバン河畔のコバンの町、またコパンの北西らは無気力になり、沼沢地からわく蚊の群のためにマ 方、すでにグアテマラに属するカハポンと混同しては ラリヤにかかった。スペインの旅行家ドン・ホアンと ならない。 ) ウロアは、スティ 1 ヴンスより一〇〇年前に、この熱 コルテスは、一五二五年、アステック王国の征服後、帯の低地帯の風土について記している、 むち
、 - ・費物叮ぃ つ三三、 ツ : 題 三棄てられた都の秘密 北ュカタンのチチェンィッツアから南方のコパン ( ホンジュラス ) へ、東方のティカルとイクスクン 殿 ( グアテマラ ) からグアテマラ・シティをへて西方の パレンケ ( チアパス ) へ線をひくと、かってのマヤ文 化圏のだいたいの境界がしめされる。それは同時に、 。、 1 ンヴァル・モーズリ イギリス人のアルフレッド・ / ~ ・薯レ イが一八八一年から九四年にかけて、すなわちスティ ーヴンスの約四〇年後に旅行した地域の輪郭にもなる のである。 このイギリス人はスティーヴンス以上の成果をあげ かえり た。マヤ研究はスティーヴンス以後、顧みられなかっ たわけではなく、モ 1 ズリイはその間に。せひ必要とな ってきたことをやったのである。彼は実に七回にわた確 るジャングル行において、ただ記録と絵とを海岸にも
た民族をいたむ神のようにみえた。」 ジャングルの中のこの廃墟が誰かの「所有である」な 彼がキャザーウッドとふたたび会ったとき、キャザどとは、彼にはでたらめだとしか思えなかった。ド ーウッドに、写すべきものが五〇体あると語った。 ン・ホセ・マリアが質問に答えて、自分はこのような キャザ 1 ウッドはすぐれた画家であったが、またもや記念遺物があるということを一度ひとから聞いたこと 頭をふった。ここでは描くことができない。ここでは がある、しかしーー・・・と白状したとき、スティーヴンス 光をつくりださねばならない。ジャングルのこの暗さはみなまで言わせずに、この男を立ち去らせた。 もうろう では、影は朦朧となり、輪郭ははっきりでてこなかっ しかしその夕方、スティーヴンスが小さな小屋に横 になっていたとき、彼の頭にふたたびこの考えが浮か 彼らは仕事を翌朝まで延期した。助力を得なければんだ。実際、廃墟は誰のものなのか。そしてすでに夢 ならなかった。村のほうで、彼らに労力を提供するは うつつのなかで彼はかたく決心した。「廃墟がわれわ ずになっていた。そこに、彼らの荷持ち人夫よりはすれのものであることは正当だ。われわれがここからど こしばかりましで、派手な身なりをした一人の混血児れほど早く追いはらわれるか、それはわからぬが、と が、これまで見てきたような人夫連中といっしょにやにかく、これらのものをわれわれのものにしなければ って来たではないか。この男は、おそらく彼らの必要ならぬと決心した。そしてやがて名声を博し感謝を捧 とする助けをもたらしてくれたのか。ところがこの褐げられる幻想と、複雑な彫刻とがわたしの眼前をちら 色の男は、意気揚々とやって来て、突然、みずからド つき滑ってゆくあいだに、い っしかわたしは身体に毛 ン・ホセ・マリアと名のり、遺物のあるコ。 ( ン川そい布をかけて眠りにおちいっていた。」 の土地に関する所有証書を提示した。 スティーヴンスは笑わないではいられなかった。 昼間は、山刀の鋭く歯切れのいい音がジャングル中 こ 0
見した第二番目の人である。 スティーヴンスはニューヨーク州のシュルース・ヘリ 一スティーヴンス氏、 1 で一八〇五年一一月二八日に生まれ、法律学を修め、 八年間ニ、ーヨークの法廷に勤めていた。彼の個人的 一つの町を買う 情熱は、たえず古代の品、古代民族のあらゆる足跡に むけられていた。そして前章で述べたことが、ここで 一八三九年のある朝早く、騎乗の一小団がカモタンも実現されたのだ。このアメリカ人は、古代アメリカ の渓谷を通「て、ホンジ = ラスとグアテマラとの境界の昔の民族の足跡、無数の古代の遺品が層をなして横 に到着した。先頭には二人の白人が馬を走らせ、他は たわっている中央アメリカに行ったのではなかった。 インディアンであった。彼らは全員武装していたが、 というのは、それらについて彼はなにも知らなか この地方での平和な計画を抱いていたにすぎない。しったからだ。彼は = ジ。フト、アラビア、そして聖地に かしながら、それらの武器をもってしても、また平和旅行し、その翌年、ギリシアとトルコを訪れた。三三 な目的を通告してみても、その日の夕暮れに、彼ら全歳のとき、早くも二冊の旅行記を自費で出版した。そ 員は小さな町の「市庁舎」に閉じこめられ、酔っぱらの後はじめて、彼は彼の心を激しく揺さぶり、視野を って一晩中騒ぎあかしながら、乱暴にも発砲したりす一変させるような報告がある旅行記を手にいれた。 者る暴兵の一団に監視される始末となった。 それは、陸軍大佐ガーリンドという男が、一八三八 学 年、中央アメリカ政府の委託をうけて原住民におこな これが、ジョン・ロイド・スティーヴンスの大探検った公式調査の記録であった。 ( 大部分は自己の見解な 神 調査の不愉快な発端である。彼は、古代アメリカを発による。 ) そのなかで、ガーリンド大佐は、ユカタンの ほったん おさ
同じ民族、同し種族に属し、しかもとくに消えうせた になって、ユカタソの最初の発見者や征服者たち、ヘ 石造彫刻家たち、ビラミ ッドと階段とテラスの建造者ルナンデス・デ・コルド・ ( ()_ 五一 9 ) やフランシス「・ たちともまったく同じような言葉を話していたのだ ! デ・モンテョスの行動に関する史料のなかに、 この注 目すべぎ民族に関する最初の記述があるのを見つけだ 一八四二年、 = 、ーヨークでスティーヴンスの著書した。そして四年も前にパリで出版された一冊の本が 『中央アメリカ・チアパス・ = カタンの旅行印象記』突然に問題にな 0 てきた。この書物はスティーヴンス が、そしてやや遅れてそれに関するキャザーウッドのの『旅行印象記』とまったく同様のことを報告してい 図版が出版されたとき、新聞紙上にごうごうたる嵐が たのであるが、それまで世の注目をひかずに忘れられ まきおこった。そくそくと相争う議論が公けにされた。ていたのだ。 歴史家は、それまでかたく結合されていた世界が崩壊 これは、一見したところ、きわめておかしな話だ。 しろうと するのを見たし、素人はこのうえなく大胆な推論をくスティーヴンスの著作がセンセーションをまきおこし、 だして楽しんだ。 たちまちつぎつぎに多くの版をかさね、出版とほとん スティ 1 ヴンスとキャザーウッドは、あらゆる苦労ど同時に、多くの外国語に翻訳され、ーー・要するに、 を重ねてコパンの旅をつづけてグアテマラに入り、つすべてのひとびとの話題にの・ほ 0 ていた。しかるに へんれき いでチア。 ( スと = カタンを遍歴した。彼らは旅行中い『 = カタンにおけるロマン的考古学的旅行』として、 たるところでマヤの記念物に出くわした。いま彼らが一八三八年、。 ( リで出版されたフォン・ワルデック氏 言葉や絵画でしめしたものは、ただ一つの問題ではなの報告は、ほとんど注目されることもなく、今日では さんいっ 千にものぼる問題を一度に投げかけた。ひとびとその大部分が散佚してしまった。たしかにスティーヴ は、まったく突然にスペインの史料にさかのぼること ンスの報告のほうがより精密であり、叙述にすぐれて 3