にする層の数が多いことです。しかも、各層のあらゆ 住居群の建設から最後の住居群の破壊までには非常に この種の堆積る特質や形態から推して、次々に住民の種族が入れか 長い時間がかかっているにちがいない。 層ーーー時代を追って住居群の遺物がこれほどの量に達わったことがわかる。ですから、この遣跡の年代を した堆積層ーーはこれ以外にまだ世界のどこでも発見はっきりした数字であらわすことは不可能にちかい。 されていないという事実が、何よりもよくそのことをただ、大量に出土する遺物を手がかりにして大まかな 証明しているでしよう。時代ごとの都市建設の状況に年代をもとめることはできるでしよう。 さきほどお話しした巨大な角柱がいつごろまで風化 ついては、どんな仮説でも成立します。というのは、 人工堆積物がこれほどの高さに達するまでには、ヒッしないで残るか、私にはわかりません。しかしとにか く、かなり長い将来にわたってあの角柱は、ヒッサル サルリク以外の、世界のどこの人工堆積物の集積に要 リク遣跡の堆積物の膨大さの証拠として、また、私財 した推定時間よりも、さらに長い時間を要したにちが いないのですから。しいて類似の例をさがせば、アツを投じてその膨大な土を掘りおこすことをくわだて、 ついにそれに成功したひとりの人物の、信じがたいほ シリアにあるいくつかの人工堆積層でしようか。そこ では大量の煉瓦をつかって都市をきすいたために、そどの活力の証拠として残るでしよう。もしあなたがた れが崩壊したあとの粘土の山は膨大な量に達していまが、下層部の遺跡をたしかめるために掘りおこして運 ローマ七丘の一つ。ロムルスが最んで捨てたあの膨大な瓦礫の山 ( 文字どおり山です ) す。また、パラテイウム丘 ( 初に 0 ーマ市を建設した丘と伝え 3 の古代ロ 1 「市跡の発掘によ「て、もうひとっ類を自分の目でごらんにな「たら、おそらく到底信じら れなくなるーーこれほどの大事業をたったひとりの人 似の例ができたと言えるかもしれません。しかし、 物がわずか数年のうちにやりとげたとは。今日この機 ヒッサルリクの人工堆積層の無類の特質は、すでに知 マンのために私ははっきり申しあげた られている他のいかなる遺跡の場合よりも、時代を異会に、シリー 9
ら、なにしろ天文学的な量ですから、今日までかかっ垂直濠には幾つもの堆積層の斜めの線があらわれてお り、一見してこの堆積物が丘の斜面に投げ捨てられた 9 てもまだ財宝が埋まっていた層に達しなかったにちが いない。あの大きな丘の核心部にただちに迫ったからものであることがわかる。リシマコスの壁はそうし た堆積層のうえに建設されました。本来の岩山のうえ こそ彼は財宝を掘りあてたのです。 ヒッサルリクの丘はたしかに長い年月のうちに膨脹に直接立っているのではなく、投げ捨てられた瓦礫の しました。敷地を整備するために、次々にいくつものうえーーしかも場所によっては、もともと下に岩盤の 世代が運んでは捨てた瓦礫類の堆積によって、高さば よ、、瓦礫だけのうえに立っている。ひとつの住居群 、幅や奥行きまでひろがったのです。そから次の住居群へとヒッサルリクの丘が確実に膨脹し かりではなく の方向にむかっても発掘が組織的におこなわれた現在、ていったことは、この壁の例で十分に納得できるで しよう。時間の流れとともに丘の面積はたえずひろが 垂直濠には幾つもの時代層が斜めの線であらわれてい ますから、それを手がかりに年代を推定することがでりつづけました。やがて高さにおいても幅においても、 きる。かさなる順序は一定でも場所によって高さがち〈焼けたトロイア〉をはるかに上回る大きさになった がうこの丘の堆積層で、もしも表層から一皮ずつ水平のです。膨脹した丘の中心部につつみこまれて、第三 に掘りすすめる方法だけにたよっていたら、年代はお都市はいわばかなり小さな核と化したのです。一回ご とにますます都市は大きくなり、その半径は延長され そらくいまだに判明していないでしよう。 上部層のひとつの地点には神殿があり、もうひとった。私たちがそのことに気づく最初のきっかけになっ たのは、〈焼けたトロイア〉を明るみにだそうとする の地点には、切石を整然と積みかさねたアレクサンド リア期の壁がありました。いわゆるリ = シマコスの壁私たちの作業自体でした。中心部の堆積物を周辺部に ですが、その位置は非常に特徴的です。丘の周辺部の運びだすわけですが、そこがちょうど崖になっている
物の基盤になっているのは焼け焦げた煉瓦そのほか第出土したことから、かってこの地点にはドーリア様式 三都市の堆積物で、それそれ独立した四つの建物のあのアポロン神殿が建っていたと断定できる。ただし、こ とがはっきり残っていた。つまり、おなじ地点に次々の神殿はよほど徹底的に破壊されたらしく、元の位置 に四つの建物をつくったわけで、その最初の建物は第にそのまま残っている土台石はひとっとしてなかった。 二都市の壁の崩壊あと ( あるいは石塊の集積 ) を基盤台地の幅が二五メ 1 トルになるところまで掘りすす んだとき、私は掘りはじめる位置がすくなくとも五メ にして建てられている。また、頂上面から約一一メ 1 ートル高すぎたことを知った。そこで台地の拡張をあ トル下で私は幅二〇センチ、深さ一八センチの緑色の きらめ、ただその中央部から、上端の幅八メ】トル、 砂岩で作った小さな溝をこわさねばならなかったが、 下端が四メートルの発掘溝を伸ばすことにした。丘の おそらくこれは住宅の下水溝だったと思う。 六月二〇日に私は、フランク・カルヴァート氏の承斜面から四〇メートルまで掘りすすんだとき、私は高 諾をえて、ヒ , サルリク北面の彼の所有地内でも発掘さ三メートル、厚さ一・八メートルの大きな壁 ( 2 ジ図版 ) にぶつかった。壁の上端が頂上面からちょう をはじめた。こんどは、もとの大きな台地状発掘溝の参照 ちかくの斜面をけすって頂上面からの垂直深度一二メ ど一〇・二メートルの深さにあり、大きな石塊のすきま ートル、幅約三三メートルの台地をつくり、堆積物をに小石をつめて築いた、いわゆるキュクロペイア様式 らくに運びだすために、上のほうにテラスを、横にはの壁だった。そばに大量の石がころがっているところ 側廊を切りひらく。フランにした。作業開始後まもなくをみると、元来はずいぶん高い壁だったにちがいない。 私は、四頭だての馬車を駆る太陽神アポロンの見事なあきらかにこれは下から二番目の、巨石で築かれた第 リグリフ 二都市に属していた。この壁の一・八メ 1 トル下に私 浮彫り板のついた大理石の三条竪筋石を掘りあてた。 四七ペ このトリグリフのほかに、ドーリア様式の石柱も多数はもっと小さな石でできた勾配四五度の擁壁 ( ージ図
は六一ページの挿荒く舗装してある。舗装が荒れたのはおそらく、かっ てこの二つの門の、四本の石柱をふまえて聳えたって 5 絵を参照されたい。 いた大きな塔の壁が落下したためであろう。炭化した 第一の門の広さは 膨大な堆積物が、門のあいだの路面を二・一ないし三 三・七メートル。 二本の石柱がそれメ 1 トルの高さまで埋めつくしていたことによって、 それ両側の胸壁かその塔の存在は確実に証明できる。塔の壁には木材も たくさん使ってあったらしい。というのは、堆積物が を ~ ら張り出したかた ~ 跡ちで、一方は七五大量の木炭をふくんでいるうえに、路面の赤い大きな 、も , ~ 、、家 ~ ンチ、他方は八敷石が、掘りだしたばかりのときは固い新鮮な石にみ き三センチ張りだしえたのに、空気にふれるとたちまちこなごなに崩れて ている。両方ともしまった。よほどの高熱にさらされたものとしか考え ようのない現象だろう。 ~ 咼さ一メートル、 の幅一・三メートル。 第一の門とおなじように、第二の門の柱もやはり両 ー物大きな敷石の舗装側の胸壁から張りだしており、高さ六〇センチ、幅九 、物 ~ 曰は第一の門までで〇センチ以上、張りだしは約七五センチだ 0 た。 終り、そこから第第二の門からさらに東北にむかって一・五メートル 二の門までの六メ掘り進んだところで、私は作業を中断せざるをえなく 】トルは大きな未なった。な・せなら、二・一ないし三メートルの高さで ~ 】報 ~ 加工の石で非常に街路を埋め 0 くしている堆積物のうえの、例の大きな
トロイアへの道 西の発掘溝と私貴重な出土品は、宝物の出土地点の五三センチ下に が〈塔〉と呼んあった銀の皿三枚。うち二枚は人夫のつるはしで破壊 でいた巨大な壁されたが、一枚だけは無事だった。例の宝物がつるは との中間にある しによる被害をまぬがれたのは、大きな銅製の容器が 膨大な堆積物のちょうど工合よく突出し、堆積物の堅い層のなかから 層を切りひら、 しナイフですべてを切りだすことができたためであった。 ここまできてから考えてみると、私が一八七〇年に した。しかしそれ さ にはまず、堆積掘った溝はまさに絶好の発掘地点で、もしそのまま掘 ( 水 " 金物の運搬を楽に りすすめていれば私は数週間のうちにトロイアの代表 = のするために、大的な建物群を発見したにちがいない。ところが、その 出きいほうの木造溝を見捨てたばかりに、私は丘全体を東西および南北 家屋をとりこわにつらぬく大発掘作業ののち、ようやくそこにたどり し、〈門〉のうえ ついた。 に橋をかけねば ならなかった。 一八七三年六月一七日に私は発掘を中止した。 この発掘現場で 私は多数の興味その年の一二月に、クム・カレ駐在のトルコ警察は ぶかい遺物に出ふたりの人夫から多数の金製装飾品を押収した。ヒッ 会った。とくに サルリクの私の発掘溝で働いていた人夫たちで、その
ン人類学・民族学・先史考から、それが風化侵蝕をうけないかぎり、見学者たち 古学会でおこなった講演は発掘以前の頂上面の水準を知ることができるでしょ をここに転載しよう う。その地面は、首長邸が建っている地盤より八ない 「私がトロアスから帰国し九メートル突出した巨大な角柱のような形で残って います。しかし、すべての都市跡の層を掘りつくすま する時点で、ヒッサルリ ク城塞高地のうち〈焼けでには、首長邸の地盤からさらに六ないし八メートル、 ときには一〇メートルも掘りさげることになります。 四たトロイア〉の炭化した 遺物が発見された部分は、したがって岩盤上の堆積層ぜんぶの厚さは二〇メート ~ 第眺すでに数地点にわたってルにちかい。古代住居の遣物がそれたけの厚さにぎつ ア 天然土壌に達するまで完しり積みかさなっているわけです。遣物ではないとい , ぐ、ゞ当 , ト全に掘りたされていましう印象をあたえるような物体ないし徴候はなにひとっ 存在しません。 らた。ひとつの地点では、 地形的状況は次のとおりですーーー・火山地帯から東に 最古の都市の基盤になっ た岩盤そのものに達してむかって、スカマンドロス河へと伸びている第三紀陵 います。シュリーマンは線上の、平原よりおよそ三〇メートル高い最終突起点 大発掘溝の中央に一箇所のうえに、人工堆積物の層が幾重にも積みかさなった。 だけ、かなり大きな正方そこには、時代を追って次々に建設された住居群の層 形の地面を手つかずのま構造が明瞭に認められる。この人工堆積層が到達した 5 ま掘り残しておきました高さはまったく信じがたいほどです。しかし、最初の 第
駐在ドイツ領事、故マックス・ミラー氏がガリポリ業を妨害する。 から四〇人の人夫をよこしてくれなかったら、とても 丘の南側では、斜面そのものの傾斜がゆるいために 4 必要人数に達しなか「ただろう。七月一日以後は、し発掘溝に一四度の勾配をつけざるをえなか 0 たのだが、 かし、常時一五〇人を楽に確保できるようになった。 その発掘溝の末端から六 0 メートル掘りすすんだ地点 コンスタンチノー。フル駐在イギリス領事チャールズ・ で私は石づくりの巨大な建造物を発見した。それそれ ククソン氏の尽力によ「て私は手押車一〇台を入手し厚さ約四・五メートルのふたつの壁が、頂上面から一 た。二人でひつばり、もう一人がうしろから押す手押四メートル下の岩盤のうえに並んで立っている。どち 車で、これが一〇台と単輪手押し車八八台のほかに、 らも高さは六メートル。外側の壁の南面は勾配四五度、 やはり作業用として私は馬車を六台使「ており、その北面は垂直。内側の壁の南面もやはり勾配四五度で、 貸り賃が一台につき一日五フラン ( 四シリング ) なので、それと外側の壁の北面とが向いあい、したが 0 て両者 私の発掘費用の合計は一日あたり四〇〇フラン ( 一六 / の中間は深い谷間になっている。外側の壁は比較的小 ポンド ) をこえるようになった。発掘器具はジャッキ、さな石を粘土でかためたもので、精緻な切石構造では 鎖、巻きあげ機のほか、大きなかなてこ二四本、シャ ない。内側の壁は粗製の大きな石灰岩プロックでつく ベル一〇八本、つるはし一〇三本で、いすれもイギリられ、北面の上部一・二メートルだけは精緻な切石構 ス製の極上品。現場監督は三人やとい入れてあるが、 造たが、そこから下は幅二〇メートル高さ五メートル 妻も私も日の出から日没まで作業現場にいた。それでの土畳状堆積物をささえにしている。この堆積物のな も作業はますます困難の度をくわえる。堆積物の捨てかには、壁をきずくとき土台を水平にするために底の 場所は一日ごとに遠くなるし、おまけに烈しい北風が岩盤からけずりとった石灰岩がまじっていた。どちら 眼をあけていられないほど埃をまきあげて、たえす作の壁も上は完全に平坦であり、最初からこの高さの壁
トロイアへの道 たつの最下層からは台地が水平より一四度かたむく。フランにした。ここ : ~ 一出土した石器類はの頂上面ちかくで私は大きな石火岩でできた見事な陵 堡をひとっ掘りあてたが、その年代はリュシマコス時 一まえと変らないが、 ヒッサルリクの南 , 」陶器は種類がちが代にまでさかのぼるかもしれない。 う。上部層の陶器面はおおなね新ィリオン後期の堆積物におおわれてい とも別種のものでたから、ギリシア時代の遺物は頂上面の場合よりすっ と深いところで出土した。 あった。 私の目的はトロイアの城を発掘することであり、お 用ヒッサルリクレし 年面に広い台地をきそらくそれは、幾重にもかさなっている古代都市の廃 りひらく作業はゆ墟のうち、かなり深い層にあるものと予想されるので、 アつくりとしか進ま私は上部層で多数の興味ぶかい遺跡をこわさねばなら いないので、私は五なかった。たとえば、頂上面から六・一メートルの深 月一日から、南側さに、高さ三メートルの先史時代の建物があったが、 に第二の大きな発その壁はごくなめらかに磨きあげた切石を積みあげ、 掘溝をつくる作業粘土でかためてあった。天然土壌のうえに幾重にもか さなる広大な堆積層のうち、この建物はあきらかに下 にとりかかった 0 しかし、南側は傾から四番目の層に属している。そして、どの層もそれ それ別の都市の遺跡であることはます確実と思われる 斜がゆるいので、 から、これはたぶん第四都市の建物であったろう。建 やむをえすこんど 45
るのは論議の余地がある。なぜなら、女王を王家の谷 の、接近不能の場所の裂け目に隠されているのを、ロ レによって発見されたのであるが、下の谷で発掘したに見るのはすべての習慣に反するからである。いすれ わたしたちは、建造初期の墓に行き当たったのである。にせよ、墓は後にテ 1 べの官吏、センネフェルに奪わ その基礎堆積物から推して、本来それは同じ王のためれた。 につくられたものである。たぶん、この低い水準の墓今や、わたしたちは数シーズンにわたって王家の谷 の作業が進んでいるときに、トトメスまたは彼の建築を掘った。得た成果は極度に貧弱であった。こうして、 家に、上の方の岩の裂け目がよりよい場所であるとい仕事をつづけるか、あるいは別のもっと有利な地点を ねらって試みるか、ということが深く討議される問題 う考えがおきた。もちろん、それは秘密という点で、 よりよいチャンスを示していた。もしそれが場所変更となった。これらの不毛の年月ののちに、さらに掘り の理由であったとするならば、である。一方、もっとつづけるのは正しいであろうか。わたし自身の感想は、 納得のゆく理由は、時々ルクソールを襲う豪雨の一つ手を触れていない土地がわずか一カ所でもあるかぎり、 が下のほうの墓を押し流したかもしれない、そしてト それは冒険してみるに値する、ということであった。 トメスに対して、彼のミイラはもっと高いところに快王家の谷でもっと時間を費しても、得るところは、エ 適な安息地をもっことができるだろうと示唆したかもジ。フトの他のいかなる地点におけるよりも少ないかも しれない、ということである。 しれない、というのはもっともである。しかしながら、 その近くの、別の捨てられた墓の入口で、彼の妻でもし幸運な当たりが出るなら、退屈で利益のない幾年 あり、ハトシエプスト大女王の妹である、メリート・ もの作業が報いられるであろう。 ( トシエプスト大女王の基礎堆積物を、わたし それにまた、ラムセス六世の墓の下にある丸石フリ たちは見つけた。彼女はそこに埋葬された、と推理すントと人夫小屋の組み合せが、なおわたしたちの調査
トロイアへの道 参 ) を発見した。後者 ( ) はもちろん前者 ( ) よりで築いてある。したが 0 て私は、これが第一都市の擁 ず 0 と古い時期の壁で、丘の斜面の土砂くずれを防ぐ壁であ 0 たという彼の説に全面的に賛成する。下層の ほうの堆積物は石のように固く、ふつうの方法で掘る ために築かれたものにちがいない。したがってヒッサ ことがきわめて困難なので、私はもっと楽なやりかた ルリクの丘はこの擁壁がつくられて以後、幅四〇メー トル、高さ一〇メートルあまり膨張したと断定するこを試みた。まず垂直方向に坑道を掘り、それから長さ とができる。私の友人・・セイス教授がはじめて三メートル、直径六センチにちかい大きなかなてこと 指摘したこ巻きあげ機をつかって、堆積物を縦横五メートル厚さ とだが、擁三メートルの・フロックにきざんで切りおとす。しかし、 壁 (<) はやってみるとこれは非常に危険な方法で、ある日ふた りの人夫が七五立方メートルのプロックの下に生き埋 ・←最下層の第 前一都市の家めになった。彼らは奇蹟的に助かったけれども、この 壁屋壁とまつ事故があってから私は丘の幅いつばいに奥行き七〇メ のたくおなじ ートルの台地を切りひらく計画を捨てて、ます上端の 2 ように、 幅三〇メートル、下端で二〇メートルの溝を掘ること . 第つも下段の 石と石の継 これだけ大がかりな発掘には最小限一二〇ないし一 目の真上に五〇人の人夫が必要なので、六月一日に私は収穫期に 上段の石をなったことを考慮して、日給を二フランに値あげせざ のせる方式るをえなかった。それでさえ、もしも当時のガリリ 2 3 2