代にだけ限定することは、ちょうど島嶼地理学とか中ィッ人と考えを同しくするためではない。それはこの 世代地質学の講座を創設すると同じくらいの理窟しか イギリス人にははるかに古いものに思われた。様式に ないように思われます。」 は何かがーーギリシア的でもエジ。フト的でもオリエン フ丿ーマンはこの手紙に思いやりのある返事をし、 ト的でもない何かがーー・あり彼の繊細な趣味を持っ心 講座に立候補するよう忠告した。 はそれにただちに反応した。彼はそれらを調べるのに 「皆は君に対する一人よがりの無知を代表する、かぎ何時間も費し、その間マーガレットはソフィア・シュ リーマンと語った。 鼻の先にご立派な学間をぶらさげた、どこかの偏狂な というのは、エヴァンズは大学の主脳部に対する文 / カレ , ジのっ ) の愚物を採用するだろう。 だが私は彼らに一言二言文句を言いにゆくつもりだ。」 書にも見られるように、『古典的』ギリシアの芸術に その席は結局、 こど習慣的な敬意を払うことを拒んだからだ。彼は他 1 シー・ガードナ 1 ( 一八四六ー一九三 七イギリスの考オナ の規準を認めようとはしない、根本的に審美的でない 学 ) のものとな 0 た。まさに = = ートン ( 一八一六ー九四 る学的考古 ) のお気に入りの、いわゆる『古典的』考古せまいアカデミックな心のタイプをしんそこ嫌 0 てい 学者た。 た。彼の心は自山に飛びまわり、独立し、鋭敏で、彼 一八八三年の四月の終りに、アーサーとマーガレッ にとっていわゆる『ミュケーナイ時代』の芸術は トはギリシア旅行に出かけた。前の章でふれておいた力強く、しかも抑制されて貴族的な精神を持ち、それ がシュリー マンを訪れたのはこの旅行中のことであでいて人間的であってーーーはるかに強く訴えるものを 発る。エヴァンズは竪坑墳墓の中に発見されたミュケー 持っていた。それは彼を満足させ、しかも当惑させた。 融ナイ時代の宝石、武器、装飾品に魅せられたが、それどこに源を持つのだろう ? いかなる文化、また文化引 はそれらの物がホメ 1 ロス時代のものだとするかのド 圏に関係があるのだろう ? この問題は心の単純でな
今から十年くらい前、私は「断碑」という小説で考古学者を主人公にした。モデルは森本六爾氏であった。森 本氏は、昭和のはじめ、ある意味で考古学に近代的な新風を送りこんだ先達である。彼の業績をひと口に言うと、 それまでの考古学が発掘された遺物や遺跡によってその様式を分類し、編年を考えることだけで終る、いわゆる 「列品」考古学だったのを一歩進めて、その遺物遺跡の使用目的を考え、その古代の文化を推定した。その方法 えんえき 論的には帰納法だけではなく、さらに一歩進めて、その帰納法を昇華した演繹的方法により、古代文化を類推し たのである。当時は、そのような方法は考古学の邪道であると嘲られたが、森本六爾は意に介せず、独自の方法 を情熱的に推し進めてゆくうち、惜しいことに中道にして倒れた。妻は夫に献身的な努力を惜しまなかったが、 夫の病に感染して死亡している。この夫婦は考古学と心中したようなものであった。いま、森本の開いた道は、 発その後継者によって受け継がれ発展している。たとえば、壺は貯蔵用のもの、瓶は煮沸用のもの、甑は蒸し用の ムものと、農耕社会の生活用途の分類が現在では常識になっているが、これも森本の考え出したことなのである。 はや 森本六爾はすこぶるロマンチストであった。彼はそのころ日本に流行ったランポオの詩を愛し、自分でも詩人 を気どっていた。私は森本のあの天才的な着想は、彼のロマンチシズムのせいではないかと思っている。事実、 ロ 土の下から出てきた物を見て他の同類と比較し、編年や推移をあれこれと考えるのは誰にでも出来る。それが実 ロマンチシズムの発掘 松本清張 こしき 3 6 4
て、ほぼ同じ高さに保たれていたーーっまり、主に焼の成功は量り知れなかった。しかし、壁や床、列柱、 いてない粘土の煉兀ーー・・それは部分的には溶けていた入口の柱廊などの物質的の修復は、ただエヴァンズの幻 がーーその煉瓦が上の方の壁から落ちてたまったもの 心をほんの少し満足させたに過ぎない。 ミノア文化の である。同時にこの侵入物をどけるや否や、階上の建道徳的な、精神的な根源を見出すことはもっと困難で、 物の残存部分が下の階にくだけ落ちるのを防ぐ手だてそれ故にもっと力的だった。この古代の人々は何を は何もなかった。」 信じ、何を望み、何を恐れただろう ? 大地の鎮めに はじめ、エヴァンズは木製の梁や柱でやってみたが、明らかに固執するのは何故か ? 何故『蛇』の崇拝が それは早く朽ちがちであった。ついで石や、苦心してあるのか 『大地』の象徴たろうか ? 不思議な浄 石から切った柱身や柱頭を用い、一方、煉瓦のアーチめの場は何故あるのかーーー『大地』の下に導く階段な や大梁が上の床を支えた。しかし、これは十分でなかのだろうか ? ったし、エヴァンズにとってさえも金がかかりすぎた。 神秘的な宗教的儀式の行なわれた証拠がさらに明る 最後に彼は鉄筋コンクリート を使うことに決めたが、 みに出た これもまた大地崇拝に関連している。ク それは大そう強く、見た目にもよく、手早く建てるこ ノーソスで、フェストスやまたクレータの他の所で、 っちあな とが出来た。 考古学者達は地中の土窖に出くわしたーー暗い地下の 発掘の復元の費用は年々増大していったが、エヴァ部屋の中で、その中心をなす物は常に重い石の柱であ ンズはこの宮殿を考古学者が鑑賞出来るばかりでなく、った。時には、これらの土窖は地の上の建物の下にあ もっとも想像力のない素人の訪問者でさえもがそのすったが、大体から言えば、中心の柱は上部の建物を支 ばらしさを感じ、それに感応することが出来るようなえるためには必要以上にはるかに頑丈であった。たま 形で、世界に披露すべきだと決めていた。この点で彼さか上に載る建物がない時でも、それでもなおどっし
このことから、それそれに起こったもっとも驚くべまであるのだ。 どうかすると、読者のどなたかが しゅうじ き歴史的事件の一つが明らかになってくる。おそらく この解答を見つけるかもしれない。これは修辞的に、 マヤ人は、その帝国を外側から内側へと発展させた世あるいはただお世辞だけで言っているのではない。と 界で唯一の民族だったのであろう。 いうのは、この問題は、ただ専門的な知識からたけで 自己の中心へ向かう帝国主義。四肢から心臓への発はます解けないからである。これまでのところ、専門 展である。それは、実際に成長であり、「拡張ーだっ的知識はなんらの成果もあげていない。考古学の知識 た。この帝国は強大な外国によって圧迫されなかった だけでは、マヤ人がその発展の頂点にあり、都市が豪 ばかりかーー・・・マヤ人の国以外に強国はなかった 華を誇り、その勢力が最高潮にあるときに、なにゆえ 外部からなんらの影響もうけずに、歴史のあらゆる論に突然に諸都市を棄てて荒涼たる北方に移動していっ 理とあらゆる経験とに反するこのような方向に発展したか、という問題の解決はえられなかったのである。 わたしは、ここで中国人のことに ( また彼らの長城 マヤ人は都市居住者であった、とわたしはいった。 に ) 触れようとは思わないし、また末期にある民族は ここ五〇〇年来、すべてのヨーロッパ民族が都市居住 外部に向かって発展しようとはしないものだなどとい 者であったと同じように、制限っきの意味においてそ う浅薄な心理的理由をここに引こうとも思わない。むうだった。すなわち支配階級 ( 貴族と僧侶の階級 ) は しろ、マヤ人の歴史のこの驚くべき特徴については、都市に住んでいたというのだ。もちろん、すべての権 いかなる説明も、われわれはまたもたないことを示そ力は、そしてすべての文化、精神生活、教養もまた都 うと思うのである。しかも実に珍しくも、今日にいた市からおこった。しかしすべての都市は、農民と土地 るまで、一つの歴史上の問題が長いあいだ未解決のまの収穫物がなければ、ことに主食の穀物ーーわれわれ こ 0 420
神・墓・学者 人 ( ケツツアルコアトル ) の最後の約束を思いおこし て、彼らは「東から来た白い神々」だとみなされたと 、、つこ AJ しかしこれらのスペイン人 ( あらゆる 国民的な誇りからはなれて、一般的にヨーロツ。 ( 人と 、ったほうがよいが ) は、たしかに、習慣と正義とを こうえい 説いたケツツアルコアトルの後裔ではなかったという ことである。 0 457
マヤ暦が、 ン、グッドマン、ボアス、プロイス、リケットソン、 三六五・二四二一二九日 ヴァルター 天文的計算によれば、三六五・二四二一九八日 ・レーマン、ボウディッチ、モーレイなど しかし、この民族はもっとも精密な天体観察ともっ のひとびとが関係している。しかしそのうち一人の名 とも複雑な数学技術とを結合した状態、すなわち合理を強調することは、ジャングルのなかにわけ入って複 的思索をしめす優秀な証拠をしめしながら、他方では、写したり、書斎の研究で部分的な知識をかちえた無数 もっとも劣悪な神秘主義に完全に屈服していたのだ。 の他のひとびとに対して不公正である。アメリカ諸文 世界で最上の暦をつくったマヤ民族は、同時に、この化の学問は共同作業である。そして共同で、暦から年 暦の奴隷となっていた。 代学へと難路をふみ分けていった。 というのは、暦学は暦学だけを目的にするわけにい マヤ暦の神秘を明らかにしようとして専門家が努力かなかったからである。数をしめす怪異な顔、月と日 フアサード して以来、すでに三世代がたった。その仕事はこの国と年代をしめす記号が、宮殿や神殿の正面、柱、フリ の発見にはじまり、モーズレイ・コレクションに最初 ーズ、玄関前の階段をなす斜路に見られた。あらゆる の成果をあげ、そしてなお今日までつづいている。そ建築物がその前額に生年月日をくつつけていた。いま の絵文字の解読についての成果は、・・フェルや学者たちは、建築物を時間的な立場から群に分け、 はいれつ シ = テマン ( 『ドレスデン法典』を最初に註釈した本来その群を年代的に排列し、一群の他群への影響によっ 者のゲルマン学者 ) 、エドウアルト・ゼーラー ( はじめはて様式の変化を認めるようになった。要するに、歴史 学 教師、のちにベルリン民族博物館長。彼の「論文」は、を見ることができるようになったわけだ。 モーズレイによれ・は、マヤ人とアステック人に関する いかなる歴史を ? もっとも豊富な材料を編集している ) 、またトン。フソ もちろんそれはマヤ人の歴史であって、その解答は 41 ノ
「慣れない土地で落着きを見出すためには、彼はそこ政策に没頭する『恐るべき子供』になろうとしていた からである。 に複雑な文化と、歴史的な過去の感覚を必要とした。 彼は兄弟のルイスとともにポスニアに戻った。・フル ラブランドでは幽霊は一つも歩いてなかった : : : 」 ードではロシアのス。ハイとして二人とも逮捕されたが、 たぶん、彼が共感した人々は幽霊ではなかったと 言ったほうが妥当だろうけれども。 アーサーの鼻つばしの強さは事態を紛糾させるばかり エヴァンズが・フロード 一八七四年は、アーサー だった。一八七五年の暴動の間、彼はポスニアにいた。 ウェイ・タワーの彼の高い砦に戻り、イーヴシャムの彼はヘルツェゴヴィナがトルコに対して蜂起した時に 谿谷の豊か夏のみのりを眺め、卒業試験のため猛勉は、サライエヴォにいた。彼は回教徒の暴徒にも、ま 強した年だった。翌年、彼は現代史でファ ] スト・ク たキリスト教徒の暴徒にも、ともに好かれて、よい待 ラス翕位の川一 ) を取り、その後、生活の問題に身遇を受けたが、彼の家への手紙はパルカンの自由の旗 印に対する英国政府のなまぬるい態度への鋭い皮肉で を入れる前に、さらにもう一年研究するためゲッチン しつはいだった。イギリスや他のヨーロッパの政治家 ゲンにおもむいた。彼は紙の製造には何の興味もな たちが、ポスニアとヘルツェゴヴィナの圧迫された人 かった。学究生活が唯一の途のように思われた。彼は モードレンとオールソ 1 ルズ ( ともにオクスフ , ) の欠員に人のために、彼らがいかに英雄的で援助に価しようと なっているフェローの席を志願したが、両方とも駄目も、ヨ 1 ロッパの平和を危険に曝すのを好まないのは だった。おそらくある点で、彼の非妥協的な性質と、 当りまえであった。しかし、これらの人々の間に住み、 一般受けのよくない考えが、オクスフォード社会の彼らの苦しみを眺め、熱情的に彼らに同情した若い火 もっと保守的な要素に受け容れられなかったためだろの玉は、大強国の外交の陰険さに我慢ならなかった。 う。このころ、アーサー エヴァンズは、バルカンの彼はポスニアとヘルツェゴヴィナに関して一書をあ 124
したが「て、釘をひきぬけば、ふたをもち上げること影にすぎなかった若いファラオの遣体が横たわ「てい ができる。二つの棺の間のせまいスペースでは、ふつる。 うの釘ぬき道具を用いるわけにいかないので、他の方わたしたちの目の前には、黄金の棺の内部いつばい に、印象的なほど、形のよい、入念につくりあげられ 法を考えなければならなかった。条件に合うようにつ たミイラが横たわっており、棺の外側と同様、ミイラ くりかえられた長いねじ回しを用いて、純金の釘ない し栓はひとつひとっぬきだされたが、ざんねんながらの上にもやはりふんだんに注がれた清めの香油は、歳 これらの釘は、儀牲にしなければならなか 0 た。黄金月とともに固まり、黒くなっていた。香油の影響によ の取手によって、ふたはもち上げられ、王のミイラはる、全体的な暗い効果とは対比的に、かがやかしい 壮麗なともいえるほどの、磨きあげられた黄金のマス ここにあらわれた。 ク ( ロ絵参照 ) 、あるいは王の肖像が、頭と肩をおおっ この瞬間の興奮は複雑で、動揺していて、言葉にい いあらわせるものではない。人間の目がこの黄金の棺ており、そこは足の部分と同様に、意識的に香油はそ ミイラはオシリスを象徴して型 をのそきこんでから、三千年以上もの歳月は過ぎ去っそがれていなかった。 たのだ。消えうせた文明の荘重な宗教儀式をいきいきどられていた。打ち出しの黄金のマスクは、古代にお ける美しい、ユニークな肖像の傑作で、若くして死に 記と追想させるこの光景を前にしては、人間のはかない 発生命を規準にした時間など、そのありふれた展望を失奪い去られた青春をしのばせる、悲しい、しかし、し 心ってしまいそうである。しかし、畏敬とあわれみの感ずかな表情をたたえている。その額には、金のかたま ゲタカのネクベ カ情からでているとはいえ、このような気分にお・ほれてりからっくられた国王のしるしーー、 ( トとヘビの・フト 王が支配した上・下エジプト両王 タいてはならない。考古学の研究には情緒的な側面はふ ここには、これまで名ばかりの国のシンポルがあった。そのあごには、金とるり色ガ くまれない。 6 3
ぎよく をなす峡谷、春の牧歌的な谷の青さ、深く澄み渡った出かけた。たしかここで、もっと多くの玉の印章の象 8 いや、それ以 紺青の海に輝く白砂の岸辺ーー。そして中でも、すべて形文字の実物を見つけられるだろう : を包む、底しれぬ古い歴史があった。クレータ人、ギリ 上かもしれない、とエヴァンズは考えた。おそらく原 シア人、ローマ人、フランク人、ヴェニス人、トルコ人ー始的クレータ語に鍵を与えるであろう二国語の彫られ タ・フレット すべてがこの島にそれぞれの痕跡を残していた。 ている、エジプトの『ロセッタ石』のような板を見 ホメーロスはそれを知っていた。ここには つけられるかもしれない。 ミーノータウロ ス王と、彼の娘で英雄テーセウスに、 ミノスという名を名のる一人のクレータ人の紳士が スを切り捨てた後、彼女の腕に立ち戻るようにと貴重すでにクノーソスで試掘溝を掘「て、厚い壁や、多数 な糸玉を与えたアリアドネー姫の、伝説的な故郷があの。ヒトスと呼ぶ石の壺を掘り出していた。これは = った。神の中の王たるゼウスはここで生まれた。島のヴァンズの食欲をそそるに十分すぎるほどだった。 そび 北方には雪をいただくイーデー山が聳え、そこでは神「クレ 1 タ調査協会」のためと ( その時にはまだ存在 が生まれた洞を今なお見ることができると言われて いしなかったが ) 大胆にも宣言して、その地の回教徒の た。そしてイラクリオンの港のすぐうしろ、北側に、 地主から遺跡の一部を買い求めた。が、オットマンの 神の伝説的な霊廟であるユクタ山がある。「そうです法律の下では、彼以外の人による発掘を禁止するとい ねえ」と町の人々は言う、「ある角度から、そしてあう、必要かくべからざる事実以外には、彼にはたいし る明るさでその山をちょっと見てごらんなさい、ゼウて役に立たなかった。五年後、トルコの軍隊がクレー スご自身の横臥した姿が見られますよ」と。 タを去り、ギリシアのジョージ王子が大英帝国、フラ ンユリー マンと同じく、ニヴァンズはイラクリオン ンス、イタリアとロシアーーーの諸強国の総督となるや、 から数キロの所にあるクノーソスの伝説的な遺跡へとエヴァンズはこの地に戻り、遺跡の残りの部分の自由
位を固めるために、疑いなく得られる好機を待っことあるとは過っことなくいうことができるだろう。その 人自身についてはーーもし彼が実際に人間らしい威厳 にしたのである。 に達したとすればーー・そしてその個人的性格について 推測してみるのは興味ふかい。アイがこんどはアク ナトン治世の他の指導的官吏ホレンヘブ将軍によっては、わたしたちは何も知らない。 取って代わられたこと、彼らのいずれもが王位請求権彼の短い治世の事件については、わたしたちは記念 、非常にわずかばかり、落 をもっていなかったことを思いおこすとき、わたした建造物から、わずかばかり 穂拾いすることができる。 ちは、紀元前一三七五年から一三五〇年に至るこの小 たとえば、治世中のある時期に、彼が義父の異教の さな歴史のわきみちに、劇的な事件のために巧みに用 意された舞台があったと、合理的に信ずることができ都を捨てたこと、そして宮廷をテーベへ戻したことを、 るだろう。 わたしたちは知っている。彼がはじめアトン神の崇拝 しかしながら、わたしたちは自重する歴史家のよう者であったこと、そして古い宗教に改宗したことは、 な、「そうだったかもしれない」とか「たぶん」とか ッタンカートンからッタンカーメンに名を変えたとい を取り除くことにしよう。そして冷厳な歴史的事実にう事実から、また彼がテーべで古い神々の神殿にわす 帰ることにしよう。驚くほど親しくなっているこのツ かばかり補強と修復をしたという事実から、明らかで のタンカーメンに関して、真にわたしたちは何を知ってある。 問いにつき当たってみる またカイロ博物館には、もとはカルナックの神殿の 刈いるであろうか。端的にその 力と、わたしたちはいちじるしくわずかなことしか知ら一つに立っていた石碑、いささか雄弁な言葉でこれら 乃ないのである。現在の知識の段階では、彼の生涯の明の神殿修復にふれている一個の石碑がある。彼はこう 確な姿は、彼が死に、そして埋葬されたという事実で述べている。