ファルグとモランディエールは五〇ひろの底のあたり その経過はとても舌に尽しがたく、またその回復も完 全なものだ 0 た。私はやっと一個の人間に立ちかえり、で短時間のやさしい仕事ならできたとい 0 た。操舵員 身心ともに軽く、敏感になり、肺の中に拡が 0 ているのジージは底の記録板を訪れたあと一時間かそこら 軽やかな空気を楽しんでいた。私は大速力で薄明りの目まいがしていた。ジャン・。ヒナールは六七メートル 区域を上り、。フラチナのような泡やプリズムが踊 0 ての所で体の調子の悪いことを感じ、そこに署名して分 いるようなきらきらした水面の模様を見た。それはま別よく戻ってきた。私たちのうち、だれも深い所の板 に読み易い文字を書いたものはなかった。 ・さに天国にむかって飛んで行くようなものであった。 しかしながら天国の手前には煉獄が待っていた。私秋になると、私たちは五〇ひろよりもっと下まで達 は水面から六メートルの所で五分間の減圧段階を過ごする記録板を用意して、さらに一連の深海潜水を遂行 し、そこから三メートルの所まで急いで行って、そこした。この計画では私たちは腰に綱を縛りつけて、五 でまた十分間ふるえるような時間を過ごした。測量綱〇ひろのむこうまで思い切って下ること、そして救助 が引き上げられたとき、私はある詐欺師が最後の記録人を甲板の上に待機させ、危険な場合すぐ飛び込んで 援助するように十分に装備させることなどをとりきめ 板に私の名を書いたのを見出した。 三〇分後に私は膝と肩にかすかな痛みを感じた。そた。 ーリス・ファルグは最初に潜水しこ。 潜水主任のモ の後フィリップとタイエは同じく最後の板までたどり つき、ばかな伝言を書きつけては帰ってきたのだが、私たちは甲板の上で、ファルグが綱をひつばって「万 あとで二日も頭痛を訴えていた。デ = ーマの場合は五事よろしい」という安心を与える約東のしるしの、あ 0 ひろのあたりで劇的な、ものすごい陶酔に打ち勝たのいつもの信号を送ってくるのを規則的に受けていた。 ねばならなかった。私たちの仲間の強い水兵であると急に信号が来なくなった。私たちは一斉に心配にな ノ 26
船にむかって以来、私たちこそはその偉大な進歩へのトルの所でたった五分間の減圧の段階を必要とするだ 後継者であったのた。そして事実ジャン・アリナ海軍けで、それはヘルメット潜水の減圧待機時間のたった 中尉の指図の下に一組の独特の潜水表が最近でき上っ 一二分の一にしかならないのである。 たのである。その表はアクアラングを使うときのため アリナの理論を活用してローマ船を効果的に政撃す に考案されたものである。この方法というのは短時間 るためには、二人一組のチームが厳格な時間表によっ の潜水をくりかえし、すばやく沈んだり上ったりできて降りたり上ったりしなければならなかった。彼らは るものであり、長時間の潜水のとき間題となるあの窒自分の腕時計を当てにすることはできなかった。私た 素の飽和状態をひきおこすことがないのである。これちは「射撃時計」なるものを考案した。すなわち甲板 に対しへルメット潜水者が大商船の沈んでいる深さの にいるライフル銃をもった人が、潜水者が下に潜って 所で四五分間仕事をするために作られた最近の表によ五分たっと水の中に一発打ち込み、一〇分たっとふた ると彼は減圧するために段階的に上るように指定されたび一発打ち込み、一五分たったときは水面に上れと ている。まず水面下九メ 1 トルの所で四分停り、次に いう厳然たる信号として三回鉄砲を発射するのである。 六メートルの所に上ってそこで二六分間過ごし、最後弾丸の衝撃は沈没船の中ではっきり聞くことができた。 に三メートルの所で二六分間停っていなければならな最初の日、小さなきらきら光る物を抱いて一人の潛 水者が水面に出るのを見て、私の心は嬉しさで小躍り 界すなわち、四五分の潜水から帰ってくるのに、ほとした。というのは私たちはギリシャの青銅像を見つけ 世 んど一時間もかかるのである。これに対してアリナのることを期待していたからだ。しかしよくみると、そ の 黙計画は、三時間休憩したのち、三度一五分間潜水するれは射撃時計から出たただの弾丸でしかなかった。海 もので、個々の潜水者は三度目の潜水ののち、三メー 床は弾丸で被われていたのだ。次にやってくる海綿採 、 0 ノ 7
でささやかな礼拝に加わった。信じられなかった。わ司厨長のプラテンがひじでわたしをそっと突いたと たしたちは、不幸ではあるにしても、あのように堅くきは、夕食の配給の時間になっていた。わたしは彼を 結ばれた小さなグルー。フだった。仲間の一人が死んで見た。彼は答えもしないで、ただ死人を指さして目を しまうーーわたしたちがまだいかだ舟に閉じこめられ海へ向け変えただけだった。 ているというのに、この世を去ってしまうなんて、あわたしはあとを追ってきているサメのことを考えて、 りえないことに思われた。 たじろいだ。「できないよ」 「やらなければならんね。いかだ舟においとくわけに 二時間ばかり、体を動かすものも、声をあげるもの もなかった。航海士は善人ですばらしい高級船員だっ もいかないしさ。「一、は確かだよ、クック」 た。習慣には節度があり、きびしい訓練家であった彼わたしは命令などしたくなかった。「いや、プラテ は、下級船員からも高級船員からも好かれていたし、 ン、そんなことはできない。とにかく、まだだめだ。 早すぎるよ。それでは感じがよくない」 尊敬されてもいた。ラルワース・ヒル号で行動中は、 恐慌とか感情に走るというようすを見せたことがなか 司厨長は肩をすくめた。「やらなかったらもっと感 った。命令の仕方はてきばきして鮮やかで、帝国海軍じがよくないといっていいさ。あの体はまだ生ま身と 式だった。命令が実行されるのをわざわざ見とどける同じで、いかだ舟には飢えかかった人間が十三人も乗 ようなことはせず、それによって、おまえを信頼してってるんだ」 その言葉はあまりにも力強くわたしを打った。頭が 目いるのだという気持ちを相手に持たせた。非番のとき + は、行儀がよくて親しみやすく、見知らぬ人には遠慮ずきんずきんと痛んだ。司厨長のいうとおりだ。その 流がちではあ 0 たが、陽気でり「ばな家庭人だというも行為の恐ろしさにわたしがどんなにすくもうとも、死 体はただちに葬らなければならなかった。わたしは年 つばらの評判だった。
タ 1 北極探検旅行に際し、グリーンランドの氷塊の下 私は寒気から身体を守るためにゴム引きの服を縫っ たり、ゴムを硬化したりして数日を費した。最初にでを潜水したときこの服をきて、たいへん効果のあった ことを報告している。またデューマは「半防寒」服と きたのを着てみたら何かしらドン・キホ 1 テのような いうのを考案した。これは羽のように軽いスポンジゴ かっこうに見えた。 私はもう一つの服をつくったが、それはもっと熱のムで作った胴衣で、これを着ると約二〇分間冷水中で 絶縁をよくするために少しふくらますことにした。し敏捷な活動をすることができる。 私たちの初期の裸潜水の時代には相当にうぬぼれが かしその服がうまく釣合いを保っているための深さは たった一つしかないので、私はたぐり上ったり、下っあったものである。すなわち子供の頃から鍛えている たりして釣合いをとるのにとても時間がかかった。こ真珠取りや海綿取りたちが働いている深みに、私たち の服のもう一つの欠点は、空気が脚の方につき抜ける新参者だって、やろうと思えばできるんだと自慢した ものだ。一九三九年ジェルバ島のチュニジア沖で、私 ので、体が逆さになってしまうことであった。 最後に、一九四六年に、こんどはいつも容積の変らは六十歳のアラビア人海綿取りが、えらくすぐれた潜 ない服を作った。これは今でも冷たい水に入るときはり方をしているのを目撃して、人間の潜りうる境界線 使用している。この服は潜水者の鼻から出る呼気でふについて確信を得た。彼は呼吸装置を持たないで、三 くらますようになっており、マスクの下部にその吹き九メートルの深さに達し、その潜水時間は二分三〇秒 込み口がついていた。排気弁は頭の所にあり、手首とであった。 くるふし このようなきびしい潜水の試験をするのは、全く例 踝は潜水者がどんな深みにいて、どんなかっこうをし ても、しつかりと固定されるようになっていた。探検外の人だけである。裸のままで潜水すると、水圧の増 ル・ビク 家マルセル・イシャックが最近ポールエ 加につれて、肺臓の中の空気はだんだん圧縮される。
ソジャン 0 突然、船全体がばっと照らされた。「何だろう ? 」と わたしがスーツケ 1 スを救命ポートのおおいの下へ三等航海士がさけんだ。わたしはあとになってわかっ 入れるが早いか、四点鐘が鳴りはじめた。第二折半直たのだが、恐慌のため一瞬血迷った機関長が、電源 スイッチをひねってしまったのだった。哀れにもわた のおわりだ。陸上時間で夜の八時になると、わたしに とっては海上時間であれ陸上時間であれ、当直時間だ。しの仲間たちは彼らの衣類を、手にすることのできる 十時になると、船尾のほうに曳光弾が打ち上げられ、ものなら何であれ、明るくかがやく舷窓にかぶせよう ナベての目は船尾に向けられた。わたしはそのとき船とっとめた。彼らはスイッチのところまでいくのに、 尾楼にもどっており、三等航海士が顔に望遠鏡をつけ機関長をたたきのめさなければならなかった。 てすぐそばに立っていた。 たとえあの潜水艦に前にはこちらの位置がはっきり 「あの潜水艦だ」と彼はわたしに言った。「後方六キわかっていなかったとしても、いまはもうこちらを見 ロぐらいのところに浮上してる。こちらを探してるつけてないということはありそうもなかった。ポー トはなおもべリー式信号光を発射していた。ときには わたしたちはラルワース・ヒル号を誇りにしていた一度に二発も発射していた。空は数キロ四方にわたっ が、それでも怖かった。もしもあのポートがわたして明るかった。それでこちらがそれに照らされるのも たちが考えているような設計だとすれば、海面では一時間の問題にすぎない、とわたしは思った。いまはも 時間一一十ノット、水中では十四ノット出せることがわう、わたしたちは肉眼ででも潜水艦が見えた。もちろ かっていた。わたしたちは長くは逃れられそうもなかん、わたしたちの注意は出てくる光のすしによって、 正確な位置へと引きつけられていた。 わたしたちが黙ってそこに二、三分立っていると、 続々とべリー式信号光は発射され、船が潜水艦から 4
こ全速力を出して今にも現われないかと私たちは待ち受けていた。つい 二、三秒間手をふるためにまた水面冫 6 上っていった。私たちは交替で水面に上り簡単な信号にそれがやってきたので、私たちは背中に手を伸ばし をする方法をとった。下の者はそのあいだ胸の所までて緊急のための供給弁をあけた。緊急用としては五分 ーマが 間だけ呼吸できる空気があった。この最後の五分間が 膝をちちめサメを見張っているのである。デュ 水面にいるとき水色のサメがその足に近寄った。私は過ぎると、もはや私たちはロあてを捨て、息をつめて ーマは引き返してきて大膕にサメ マスクだけで潜水しなければならないのだ。私たちは 大声で叫んだ。デュ この緊急の事態に当面するや、あせり気味となり、労 と対面した。そのサメは攻撃を中止して円を画いてい る仲間の中に戻っていった。私たちは永いこと水の中力の消耗も倍加した。そして絶対に呼吸の必要のない、 でぐるぐるまわっていたので、船を見るために水面に また疲れを知らぬ不減の動物に対決させられたのであ る。すると意外にも急にサメの動きが混乱してきた。 上る時は眩量がしたり、方向を見失ったりしており、 ・モニエ号を発見するために水上で頭を燈台の彼らは大きな強い推進力のある鰭を動かしながら、私 たちのまわりを走りまわると下の方に向って消えてい 台座のようにまわすのにたいへん骨が折れた。しかし ったのだ。私たちはとても信ずることができなかった。 船の仲間が私たちをさがしているような気配は見えな っこ 0 デュ 1 マと私はお互いに顔をみつめあった。影が私た 、刀ュ / 私たちは相当疲労してきた上に冷たさが私たちの体ちを横切っておちてきた。上を見上げるとエリー・モ の外層にこたえてきた。私たちは半時間以上潜水してニエ号のランチの船体が見えた。私たちの仲間が信号 いることに気がついた。 を見て、私たちの気泡を探し当てたのであった。サメ はこのランチを見たとき逃げ去ったのである。 空気の供給が不足してくると、ロあての所で空気が 私たちは弱って寒さにふるえながらポートの中にど 圧縮されるように感するものであるが、その徴候が、
ポット それに答える承諾のささやきが、いかだ舟の中でゆ 船舶防備員 リーク船舶防備員 つくりとさざ波のように起こり、航海士はわたしのそ ばに腰を下ろした。わたしは心配になり、 総勢十四名で、見す・ほらしい一隊であった。燃料油何時間も当直をしたため、彼から信頼されていること で顔は真黒になり、爆発と荒れ狂う海のカのため衣服を知っていたので、小声で質問をくり返した。「どん はずたずたに裂けていた。むき出しの皮膚にたいするなものがあるのか、どうして見てみないんですか ? 」 彼はわたしの目をまともに見つめ、それからごく、 太陽と塩のききめをすでに感じている者もあり、こう いう日焼けの症状は、ちょっとさわっただけでもひどごく静かに答えた。「見るのが怖いからさ、クック」 い苦痛をまねいた。ところが全員おとなしく、おおむ それからまもなく暗くなり、四時間交替当直に二人 ね現状に引き比べておどろくほどに夬活だった。 ずつの当番を決めてから、一等航海士は横になって眠 船のときと同じように、航海士はわたしを自分のとれといった。わたしは見習いのひとりと第二当直を交 なりへ配置した。水や食料などのはいっているロッカ替することになっていたので、眠ろうとはっとめなか 1 をこっそり見ながらわたしは小声で彼に、どうしてった。眠るのはかなりむずかしいだろうし、一度眠り 中身を調べてみないのかたずねた。 が破られたら、その夜はもう眠れそうにない、とわた 彼はにつこり笑って、全員に聞こえるように大きなしは感じた。四時間の当直がすんでからのほうが寝ら 目声でいった。「われわれは先がひどく長い旅をしなけれそうだと決め、仲間のあいだに暖と少しばかりの避 十 りゃならん。 難をもとめてすり寄って、母と恋人にあてた、いつお ししか、みんな時間もたっぷりかかる。 五 流まだだれも絶体絶命とまではいっていまい。だから、 わるとも知れない頭の中の手紙を書きつづけた。 朝まで食物も水も支給しないことにする。、、 ししな ? 」 数日後、航海日誌をつけはじめたとき、わたしは次 303
った。潜水者たちは、漁撈鑑礼を取って、公認の、ヤに一〇〇キロの魚をャスでつくことができるかという ス漁クラブに加入することを要求された。しかしメン賭なのだった。彼は制限時間以内に一五メートルから トンからマルセーユまでの沿岸では大きな獲物の群れ二〇メートルまでの深みに五度潜水した。潜るたびに、 息のつづくかぎり大きな魚と闘ってはそれを突き刺し のいる所もなかった。ここでもう一つ注目すべきこと がわかった。それは、大きな遠海魚類は、どうしたら た。彼は四匹のスズキと三六キロのアジ 2 科 ) を持 武器のとどく範囲からのがれられるかということを知ってきたが、その全重量は一二七キロであった。 っていたことである。彼らはヤスのときは、いつも私たちの大好きなお得意の思い出の一つは多分九 0 一・五メートル離れた所で悠々と泳いでいた。 一・五キロはあったと思われるアジと闘ったときのことであ メートルという距離はこの武器の射程外になっていたる。まずディディがヤスで突き刺したのち、私たちは のである。ゴムで撃ち出す銛銃の射程は二・四メート 交代で潜ってはこのアジと闘った。私たちはやっとの 思いで二度こいつを水面まで引っ張りあげたのだが、 ルであるが、この場合、魚はいつもわずかばかり二・ まるで空気のように逃げ出し、やつは私たちがっかれ 四メートルを越えた所にいるのだった。 ていくにつれて元気を回復して、とうとうこのアジの また彼らは、いちばん大きい銛銃からは四・六メー トルも離れていた。長いあいだ、人間は水中では最も王様は逃げうせてしまった。 害のない動物であった。ところが人間が急に水中の戦私たちは若かったので、ときどき常識を飛び越える 界闘を覚えてからは、魚もこれに対抗して急速にその避ようなことをした。タイエは十二月のある日、カルケ 世 難法を考え出したのである。 イランヌで愛大ソアカに着物の番をさせながら潜水し の 1 マはル・プリュスクで、 ていたことがあった。海水は華氏で五二度であった。 黙眼鏡潜水の時代に、デ、 軽い気持ちで賭をしたことがある。それは二時間以内フィリ , 。フは大きなスズキのびをャスで突こうとし
いっていくと、魚は訓練を積んだボクサーのようにひ らりと横へ逃げる。その日、わたしは一尾もものにし なかった。 太陽がついに沈んだ。雨はまったく降らず、夕食は 三月二十一日、日曜日 チョコレートと水だった。わたしはジョン・アーノル ドに、タベの祈りをしてくれと頼んだ。若者はわたし たち全員とかっての船の仲間たちのために祈った。すある人は教会へ行き、ある人は一週間の仕事を離れ ばらしいお祈りだった。 て家でのんびり羽をのばしていることだろう。ロンド ほんの少しの風もなく、わたしたちの衣服は乾き、 ンでは、人びとはキュ 1 植物園やハンプトン旧王宮や いかだ舟もなめらかに動くので、たいていの者は、そテディントンにつどって、テムズ河での一日を楽しん の晩、かなりふかい睡眠をとることができた。わたしでいるだろう。たれかが小舟で舟遊びをするためにか の二時間の当直は、十時から深夜までだった。当直をなりの金をはらっていると思うと、わたしは意地悪い おえると、コリンとジョン・ターニー少年のあいだのほくそ笑みを浮かべる。故国の連中のだれかが望むな 谷間にもぐりこんだ。そして恵みぶかい、まさしく恵ら、無料で、ロハで、はっきりいってしまえばただで、 みぶかい眠りの中で、航海士から朝の当直だと足で起わたしと立場をとり替えてやるのに。 こされるまで、何も知らなかった。 いつものように、暗闇の何時間ものあいだは、たえ ず母の姿が心に浮かんだ。夜は、眠りと目ざめとのは ざまに、母がいかだ舟に、わたしといっしょにいるの を見た。母は家にあった。ヒンクの水差しから水を注い 漂流第三日 320
・がら、ようやく静めて降ろすことができた。ジプ・セたガラスの破片の掃除に一〇分間も手間を取られてし ールだけになったいまでは、ス。ヒードは五ノットになまった。 三週間目の終りには、嵐を免れたプロンディが、。フ っている。午前八時に私はやっとべッドにもぐり込ん 。だが、三時間後の一一時にはまたまた起き上がることリマスから私よりもはるかに正しい直線で航行してい グリーンランド付近四八〇キロの辺を通ってい になり、激しい疲労をお・ほえた。 この週間は何から何まで手違いだらけだった。私はるので北へ寄り過ぎのため、 = = ーヨークへの距離で ・七月二日の夜ミランダを自由に動けるように直した後は私よりさらに一三七キロ遅れることになった。ルイ ・で、終夜自動操縦にゆだねた。もう次から次への帆のスは大分追いついてきて、後方五六〇キロの辺にいた。 その次の週間の帆走中、私は人生を素直に受け入れ 張り替えを止めてしまった。半睡半覚の気持でべッド に横たわ 0 ていた私は、ヨットがグルグル同じ場所でるコツを会得し始めた。私の = ーモアを楽しむ気持が 回転しているのを感じた。翌朝の航海日誌を見ると夜戻ってきたのを初めとし、陸上で立腹したり、いらい らさせられたり、憤慨したりしたことがらを、いまで 問にわずか一四・五キロ走ったにすぎないことがわか った。私は五時間の睡眠ののち、あと一二時間ほど眠は笑ってすませることができるようになった。その結 り続けていたいなあと感じながらも毛布からしぶしぶ果、仕事が秩序だって能率的にできる。雨、霧、スコ ール、そして灰色の空の下のものすごい怒濤も、すべ はい出した。コーヒ 1 を沸かしていた時、私はケビン ・の床へたたきつけられてしまい、脊椎の下部をケビンて単なる妨害物として受入れることがでぎる。自分が きようえん 【の片側で、いやというほど打ったのみならず、上半身調理した食事はそのつど、素晴らしい饗宴の美食のよ ・は反対側にひどく突き当ったので、手に持っていた魔うに味わえたし、自分一人でくむウイスキーの盃にも、 法瓶がコナゴナに割れてしまい、ケビン一杯に飛散し天国の美酒のように舌鼓を打った。ことに熟睡ができ 254