て、器具はまったく同じものであったのに、なぜ違っ問題なく優秀であった。しかし、ひとっ 2 ( ル・フをの た結果が出たのだろうか ? ・ : : ・ この謎を解く鍵を発見そいては、このマスクはジャヌーで使用したものとは、 できることを期待して、わたしは四三〇〇メートルのどこも違ってはいないようだった。ジャヌー隊のマス ヴァロ小屋で数日間を過ごし、いろいろな型のマスク クのひとつをいじりまわしているうちに、わたしはマ を実験して、比較してみることにした。 カル 1 の時のマスクの・ハルブをうまく合わせ、いまひ 一九六一年の七月、わたしはモ 1 リス・ルノワール とっ補助に取りつけることに成功した。 と、経験に富んだアル。ヒニストだが、ここ十一カ月間 すると、ただちに奇蹟が起こった。この変史したマ は一回も登山をしていないために、まったくトレーニ スクによっておさめられた成績は申し分がなかった。 ング不足になっているジャン・ルツールヌールといっ この吸入器をつけ、一分間三リットルという比較的少 しょに、 ヘリコプタ 1 で小屋の近くに下ろしてもらっ 量の酸素を吸入したルツールヌ 1 ルは、なにも吸入し ないが、これに先立っ数週引 ドいくつもの大きな山行 天候は非常によかったので、モン・・フランの頂稜をを果たし、高所でのしつかりしたトレーニングが仕上 楽に登ることができ、非常に興味ある実験をすることがっているモ 1 リ ス・ルノワールを、かなり楽々と引 ができたのだった。 き離すことができたのであった。 ジャヌ 定められた一定の距離を果たすのに、それぞれほん これで吸入器の問題は解決ずみとなった。 3 のわずかしか違っていないマスクをつけても、非常に隊で使用したマスク 2 ( ル・フをはすして、代わりのも 一異なった成績がでたのである。 のをつければよいのだ。 幸いに、マカルー遠征の時のマスクが一個わたしの ジャヌー征服のようなきわめて野心的な計画では、 3 手もとにあった。このマスクは、ほかのマスクよりも酸素吸入器の効率と、ポータ 1 としてのシェルバたち こ 0
、。、ールの王宮で国王 登山の真の姿や、人間の弱さを明白にする本を書くこ燃えるように立っている彼が、、イ一 と握手していた姿を思い出す。国王と生理学者の対面。 とだろうと思っている。 に冫いかにもふさわしい情景であった。 生理学は別として、グリフは思いがけない場合に、 いろいろのことで登山隊にとってはありがたかった。 ートをカ カントリーマン映画会社が、トム・ストバ 彼は戦争中に軍隊で研究し、装備については専門家で あった。そのため私たちの登山服は、彼によっていろメラマンとして派遣すると聞いたときには、みんな大 いろ考案され、改善された。また登山隊の食糧の調整喜びをした。彼は仲間として愉しく、また登山家でも あった。戦前にはラダク地方のヌン・クンに登山を試 もやってくれた。また彼は臨時医師でもあった。ト ム・スト / 、ートが病気で倒れたときや、シェルバ隊がみたことがあるのだ。 クムに下るときに、非常に役に立った。それよりも彼 トムは非常に背が高く、髪はふわふわした金髪で、 について驚くべきことは、科学の知識が非常に広範囲顔は円い。ほんとうは三十九歳なのだが、だれもが二 にわたっていることであり、数字についてすばらしい 十五歳ぐらいだと思っていた。インドへ向う船の中で、 頭脳を持っていることであった ( グレープ・ナツツ一私は彼のことをひどく心配していた。というのはトム 袋で何カロリーになるかといったようなこと ) 。また が病院を出たばかりで、私たちが船のデッキを走って 話題にも豊富で、ゆっくりした学者らしい口調で話を廻るときにも、仲間に加わることができないくらいだ するのだが、それがいつも驚くようなおどけた調子でったからである。だが彼の仕事に対する情熱が、行進 終るのである。カトマンズに帰り着いたとき、汚れた が始まってからも、彼を落伍させることなく引っ張っ 鼠色の。ヒジャマを着て ( 歩くのには一番衛生的だとグていったのだと思う。グレグといっしょに撮影しなが しやくなげ リフは主張していた ) 、連動靴をはき、赤い髪の毛がら、ある時などは赤い色の石楠花の花を写すため、適
これから待ち受けている試錬を耐えし間は高所で生活するには、まるつきり向いていないの 作業を行ない、 のべるように体に焼を人れることにした。 日が射すと同時に、各自はそれぞれの持ち場で活躍遠征の初期には、どんなに抵抗力が強く、恵まれた した。高所用の装備を検査分配し、高所用キャン。フでアル。ヒ = ストでも、生きることに非常な困難を感じる。 の食糧をまとめ、六〇〇〇メートルまで荷上げできる四五〇〇メートルからは、早くも睡眠をとるのが難し くなり、食欲は減少し、歩いたり登ったりすると息切 ように荷物を軽く。 ( ッキングしなければならない。 午後は体のトレー = ングに当てられた。キャン。フのれがはげしくなる。 しかし、規則正しい、適切なトレーニングを一週間 近くにある岩場でアクロ・ ( チックな岩登りをやったり、 とくに、ナンガ・マの側面の長い登りをやった。このすれば、たいがいの隊員は、ほとんどアルプスでと同 。ヒ 1 クの斜面は、傾斜は急だが、難しくはなく、そのじ調子で、四七〇〇メートルから五四〇〇メ 1 トルに 登れるのだ。 下部にわたしたちのべース・キャン。フが設けられてい るのだ。 わたしにとっては、この時期は苦難そのものだった。 連日、わたしたちはすこしすつ高い所まで登り、そ ネ。 ( ール縦断で、体のコンディションは非常によくは のたびごとに歩行のリズムを速めるようにした。 なったがソーソワでのアクシデントからまだまだ完 空気の希薄な高所で体が頑張れるようにするには、 こうした方法で次第に慣らしていくより他にやりかた全に回復してはいなかった。わたしが登山に活漫に参 加することは不可能だとドクタ 1 たちがした予測は、 はないのだ。 事実、ヒマラヤやアンデスで、四〇〇〇メートル以はっきりした根拠があってのことだったのだ。ちょっ 上もの高所で暮らしている山人たちを別とすれば、人と頑張っても、わたしは喘息症のおいぼれた馬のよう 418
エヴェレスト 登「たスイス登山隊の健闘ぶりも立派なものだと言わなく、ナイロンの細いロープにな「ている。灰色の癶 なければなるまい。 ばかりの世界に、突然に黄色い色が見えてくる。 三十メートルほど、このような登攀を続けると、巨第六キャンプのテントの前でジ , ージが笑「ている 大な氷の突起の膨らみの上に出るのだ。こんどは登路のが見える。最後の雪の急斜面を攀じ登る私たちに、 は、斜め上に左の方へと進んでいる。固定ロープを右映画の撮影機を向け、それを動かす合間合間に笑「て 手で握り、左手に持った氷斧で次ぎの足場になるあた いるのだ。これはジョージの大好きな愉しみだったら りの雪を突き差して確め、そして左足で氷の上に載 0 しい。数日前にもジ「ンが第六キャン。フへ登「て来た た雪を払うのだ。まるでカ = のように左上〈左上へととき、同じことをや「たのである。この急斜面の雪は 横に進むのであり、実に疲れる登攀である。これがど 非常に深く、登攀は非常に苦しい。ここを登ったジョ こまでも続いているのだ。だがついに固定ロー。フの終 ンは、まさにこの場にふさわしく苦しみあえいでいた る所へ来た。そこから先は、マ = ラの太いロープではのであった。これこそ映画の観客が期待するヒマラヤ 登攀者の姿である。だがジョンは、上を見ると、そこ に無慈悲なカメラが彼を狙っているのがわかり、面く らわされたのであった。 ン 第六キャンプのある場所は、巨大な氷の突起の上に えぐ ン抉り出された棚であって、後方にカ 1 。フを描いて並び ジ 立っ灰色の氷塔群が、上の方から落ちて来る氷塊を防 いでいてくれるのだ。こんな場所なので、テントを一 っ張るのがやっとである。私たち全部が寝そべって休
賞讃すべき明確な野心を抱いていたのだ。この点を除ウス・コルの上に十八個の荷を担ぎ上げた一隊は勇敢 けば、ヨーロッパ人としての私などが羨しいと思う単なシェルバたちであった。テンジンはそのリーダーで 純さが、すべての点に現われていた。そして素朴な鄭あり、彼らの代表として頂上に立ったのた。もしテン ・重さが、真実であると同時に魅力でもあった。私が彼ジンが文章の書ける男だったとしたら、はたして彼が シェルバの気持ちを、同じように代表できたかどう に不用になった靴をやったとき、翌日彼は私に綺麗な か、私には疑問である。 赤いシャ 1 。フ・。ヘンシルをお礼に持って来てくれた。 そしてその翌日には、それに入れる芯をくれた。多く の人が言うように「テンジンは自然の紳士の一人」な私は自分の仲間と並べて、自分のことも紹介しなけ のである。そしてそれは本当である。また彼は人の家ればならないのだろうが、どうもこれは不安のようで ある。この本の中には、自分のことが出過ぎるほど出 族のことを尋ね、自分の家族の写真も見せてくれる。 その点でもなかなか愛嬌があり、このような自然な鄭ているからである。だが、十一月十七日の午後に、私 ・重さというものは、非常に気持ちのいいものであった。の生活の中へ、何かが突然に侵入して来たように感じ 私がシェルバたちの食糧を管理していたとき、なぜたということだけは言って置こう。こんどの登山隊が 非常に仲よくいったという理由の一つは、隊員の多く 計算というものがそんなにむつかしいものであるかと いうことが初めてわかった。テンジンは字が読めもしが、チョ・オュウ、一九五一年のエヴェレスト、ある いはイギリスの山などで、いっしょに登った経験を持 なければ書けもしない。したがって寄せ算も掛け算も っていたからだと思う。だが私は、隊長のジョン以外 できない。そうなると簡単な方法を取るより仕方がな くなる。たっぷり渡して置けば、十分に食べられるだとはいっしょに山へ登った経験がなかった。山で出会 っただけならば、ほかに二人ある。その上に私は山で ろう。そうすれば苦情も出まいという方法である。サ ノノ 4
・フーヴィエ、ルノワール、ポーレ、パラゴの一行は、乗り越えなければならなかった。そのうちのいくつか 三年前、わたしたちのルートを遮断していた岩の大側は、この標高にあ 0 ては、極度につらい人工登攀法を 薐を容易に乗り越えるギャツ。フをついに発見すること使用しなければならなかった。 親切にも同行してくれたラヴィエと、わたしはずつ に成功した。 三月二十九日、二十名以上のシ = ルバによ 0 て大量と後方から、映画を撮影しようと努めながら、骨を折 の荷上げを行なった結果、第二キャン。フは所定の場所って登った。 に建設され、その日の夕方、隊の主力がここに落ち着このルートの一カ所は、非常に危険に思われた。い まにも崩れかかってきそうないくつもの氷塔の下をデ キャンプの上部を手短に偵察した結果、セラックのリケ 1 トなトラヴァースを行なって、最後に一番高い 障壁は、前回の遠征の時にくらべて様相が変わ 0 たこ氷塔を人工登攀で登らなければならないのだ。この氷 とが明らかにな「た。今年は、高さが低くなり、亀裂塔は、。ヒサの斜塔よりもさらに空中に傾いていて、そ も多いようだ。ビトンを使 0 て垂直な壁をいくつか強う時がたたないうちに崩壊することは明白だ 0 た。張 り切りすぎ、行動に熱中していた仲間たちは、このル 引に突破すれば、直登できそうだ。この新しいルート ートがどれほど確実性がすくないかということがビン を採れば、一九五九年のルートにふくまれていた氷河 とこなかったのだ。幸運に恵まれたいくつかのパー の左岸の困難で危険な〈アービン・カー・フを避けるこ ティーが、たとえ無事にこのル 1 トを通れたにしても、 とができる。 デメゾン、ベルトラン、数週間にわたって、連日、多数のシェル。 ( の荷上げ隊 三十日、ケレール、ルルー、 ウオンディはアイス・フォールの主要部分を突破するを通すことはまったく考えられないことである。そん ことに成功した。彼らは非常に困難な氷壁をいくつもなことをすれば、遭難間違いなしだ。
。 ( リを二月十六日に出発することになっていた。とこてはいなかったし、ヒマラヤ大山脈の光り輝く嶺々の 4 アソギナ ろが出発の前日、ひどい口峡炎にかかって、わたしはふもとに横たわるみどりの丘陵の真っ直中に孤立して、 べッドに釘付けになってしまったので、ポールは単身インドと連絡している道は一本もなかった。 飛行機に乗った。わたしは二十一日に、 ふしぎな、すばらしい場所であり、現代の世界と時 で彼に合流した。 代の外に取り残されたエデンの園のごときものだった。 フランス大使館の援助のおかげで、インドで片づけ ところが、数年間のうちに、事情は非常に変わって る仕事は短期間で切りがっき、二十三日にはカトマンきた。シワリクのヒマラヤ前衛の山々を横断する豪放 ズに到着した。 な道路によって、西洋文化はネパ 1 ルの古い都にその 一九五四年に、わたしがはじめてネパールの首都を恩恵をそそぐことができるようになったが、これと同 訪れた時には、カトマンズは千一夜物語から抜け出て時に、その背後にある醜さも吐き出されたのである。 そうそうしい車が道路を走り、新しい商店が悪趣味 きたような不思議な町で、仏教とヒンズー教が出会っ て一緒くたになっていた。インド文化がチベットの文の贅沢を見せびらかし、あらゆる種類の、おどろくべ 化と並んでいたが、このために昔ながらの地方的な風き鋼鉄線が寺院のデリケートな彫刻を、まるで巨大な 習がつぶされているようなことはなかった。こうした蜘蛛の巣のように取り囲んでいる。こうした急激な変 文化のすべては、無数の寺院、パゴタ、宮殿、記念建貌にもかかわらず、カトマンズは、幸いなことに、そ 造物を生み出していた。建物の様式は、バロックのもの魅力をすっかり失ったわけではない。寺院と宮殿は のが多かったが、変化に富み、非常に優美なものもあ存続し、住民たちはその風習と徴笑を保ちつづけてい っこ 0 る。道のすみでは、相変わらず奇妙な音楽が鳴ってい あの当時、カトマンズは西洋の影響を何ひとっ蒙つる。香辛料のきつい臭いが漂い、小便くさい古い区域
た。そしてこの調子なら大丈夫続くと考えていた。私 エヴェレストの北山稜を見下ろすと、そこには雪が ミットから降りて来るの 少なく、岩が黒々と剥き出しになっているのが強く印が昨日彼ら二人のサウス・サ 象に残った。しかし北山稜は、頂上から一メートルほを見たとき、二人はひどく危険を感じていたのであっ どの雪を伝うと、それきり急角度ですべり落ちているた。あの雪の斜面は、非常に急で、カンシュン氷河ま のだ。そのはるか下に初期の登山隊が幾度も苦しい努でまっすぐ落ち込んでいるように感じられるのだ。し 力を繰り返した登路が見えるのであった。もちろん高かも雪は、崩れ落ちそうな危ない状態なのであった。 ただでさえ山の下りは神経を使わなければならないの い所から下を見た場合、傾斜の角度を誤ることはあり このような状態だったのだから、彼らの困難が想 得る。だが北山稜が頂上に近づくにつれて非常に急に なっていることだけは確かなようである。エドは頂上像される。 トムとチャールズが酸素容器を置いていってくれた で十分間だけ酸素マスクをはずし、写真を何枚も写し た。八八四〇メートルの高さで、十分間も酸素の使用地点に達したとき、二人はほっとしたそうである。そ をやめていて、彼は別段の苦しさも感じなかったそうれから再び山稜に出て、テントの所へ戻ったのだが、 小さなテントは風にあふられて、すでに止め綱がはず である。だが「もう一度マスクをつけて酸素を吸った れかかっていた。ここで腰を下ろし、。フリマスで飲み ときは嬉しかったよ」と言っていた。 頂上には十五分間いただけで、下り始めた。下りに ものを作り、それから再び下り始めたのだが、こんど はよけいに気をつけなければならないし、その上に酸はひどい疲労に襲われ、自分たちのやった事が、どん 素が、トムとチャ 1 ルズが残していった酸素容器のあなに大きなことであったか、それを考えることもでき る所まで続くかどうか、これらが心配だったからであないほどであった。それからあとは、すでに記したと る。エドは登る途中で、酸素の使用量の計算をしてい おりである。
レグは、彼の住んでいる町、・フラック。フ 1 ルがサッカ殊に登山の冒険にはっきものの、非常に気持ちを緊張 3 させる要素と、対照的な気持ちなのであろう。なにか 1 の都市対抗に優勝したのに大喜びであった。ロプ 一つをなし終えたという安らかな気持ちと、これから ジェはこんな晩でも、楽しいキャンプ地だという気が 何かをやるんだという喜びとの混り合った気分である。 する。 その午後エドがやって来た。そして彼から第四キャ 次ぎの朝、太陽の光で雪が融け、小さな薄紫のプリ ムラの花が咲く草の土手に寝ころがったときは、一層ン。フへ一日で往復した話を聞いた。酸素の助けによっ その感じが深かった。河まで数メートルを歩いて行けて速度がひどく早くなることに、彼は一番驚いたよう ば、すき通った流れの中に緑の水草がゆれているのを、であった。午後に雪の降る中を下って来たときは、ひ 何時間も飽きずに眺めていることもできる。岩の上をどく不愉快であったろう。それにもかかわらず一日で ジョウビタキが飛び廻り、時には岩の間から、尾のな第四キャン。フまで往復したというのは驚くべきことで いチベットねずみや、テンが生意気そうに顔をのぞかあった。閉鎖式酸素装置を付けてローツェ斜面へ向っ せることもある。 た一隊は、あまり成績がよくなかったと、エドが言っ ロプジェでは、ただ怠けている以外ほかにすることていた。すっかり外気から遮断されるので、マスクを もない。 つけると非常に暑く、その上に開放式と違ってあとに この点が、ほかのキャンプとまるで違ってい だるい気分が残るということである。 る。手紙を書いたり、本を読んだり、ものを食べたり、 することと言えばそれくらいである。二日間もここに 私自身が科学的でないので、まことに恥しいのだが、 いれば、だれもが十分に休養したという気がする。仕ここで開放式と閉鎖式との相違を記して置いた方がい 事をした後で、そしてまた仕事が始まる前に、感じる いだろう。その正確な説明は『エヴェレスト登頂』 ハント隊長 あの解放された気分である。冒険の喜びにつきものの、 ( ) の付録四に詳しく記されている。私の知る の公式報告
点については私たちもみんな同じ経験をした。私はと屈な食糧分配という仕事であった。 ぎどき通訳の応援にかけつけたのだが、ジョージが料 もう一つの肖像は、ユーモリストとしての彼の姿で 理の種類や材料の分量についてよく知っているのに驚ある。これを書くには、もっと紙面が欲しいし、それ かされた。この感謝されない仕事を彼が担当すること と同時にジョージの言ったことをもっとよく覚えてお となったのは、彼がロンドンで言ったように、「ぼく けばよかったと思うほどである。彼の冗談は、隊員の は食べものに非常に興味を持 0 てるのだ」というため気持ちの上に非常に仕合せな効果を与えた。話が終る であった。 と彼はちょっと考えこむ、すると明るい徴笑が浮び、 遠征の全期間を通じて、食べものほど批判を受けや笑い声といっしょに最後の仕上げが行われるのだ。 = すいものはなく、またこんなに手きびしい批判の言葉ヴ = レストからの帰途、私たちのところへ新聞が送り を浴びせられるものもない。食べものについては、だ届けられた時、その一枚を手にとると「確かな筋から れもが専門家になって批評したがるのだ。不幸にもこ の情報によるとエヴェレストの攻撃は、ほとんど確実 れを担当したジョージとグリフの二人は、みんなから に二インチ日砲の砲撃によって開始されるであろう」 こ・こと まるで個人的な苦情ででもあるかのような小言を頂戴と書いてあった。それを見てジョージは、「ス。ヒット したものである。それでもジョージは平気なもので、 ファイヤー戦闘機がサウス・コル上空を旋回し : ときどき滑稽なことを言いながら、各所へ送られる食ろう」とさっそく付け加えた。彼は実に巧みにだれで 糧についての終ることのない数字の仕事に没頭してい もからかった。だから、からかわれてもだれも気を悪 ス レた。クムにおける数週間のあいだ彼の主な仕事は、第 くはしなかった。ジョージなら『 ( ント式人間管理 ヴ七キャン。フ ( 七三〇〇メートル ) に荷を上げることを法』という本を作ることができたろう。この本の内容 除いては、重要なことであったとは言え、まことに退は、彼がロでしゃべるのを聞いていただけでも数ベー 9