種族だろうーーーシラミやネズミを根絶し、隣近所の人題が生じた場合、適当な時期に介入することによって、 びとの不潔な生活によっていっそうひどくなっているそれを法廷にださずにすませるということも知った。 むろん人種上の敵意から、とくに両方が酒を飲んでい 下水の悪臭を消すことは不可能だった。 このような状態で暮らしているあいだに、彼らはたる場合には、けんかにまでなる多くの事件があった。 いていまじめな生活へもどることをあきらめてしまう。しかし私が間にたって話をすれば、起った事件につい 私は腰をおちつけて彼らの訴えを聞いた。イギリスのて双方がすまなかったといい合い、握手をして水に流 娘とごたごたを起している者もいれば、こそ泥をしてすということもしばしば起った。これらの事件が警察 ス の手にわたって、拘留とか禁錮ということになれば、 法律にひっかかっている者もいた。ワームウッド・ クラ・フスに拘禁されていた人びとをたずねたことも数彼らの悲惨な生活がいっそうあわれきわまるものにな ることはまちがいなかった。 回あった。その幾人かが住むには刑務所の監房はりつ ばすぎるほどであったが、自由を奪われるのは連中に有色人労働者のための仕事があまりたくさんあった ので、西アフリカ民族事務局は彼らを組織することに とっても、あまり嬉しいことではなかった。 これは憂欝な経験だったが、有色人労働者協会が設一ます努力を集中し、西アフリカ学生同盟は学生の問 置されて、彼らにいくらかは役にたっ努力がはらわれ題に専念することになった。しかしどちらも、ある範 るようになった。その結果、彼らは希望をもち、自分囲まではアフリカ問題の意見交換所の仕事をいつもお たちの状態を改善しはじめた。私たちが彼らと定期的こなっていた。 イギリスにいる学生と労働者の組織がホルポーン・ に会い、彼らのぶつかっている困難を語り合い、その 解決方法をさがしもとめたことも、彼らがその悲惨なホールで大衆集会を開いたあと、私はパリをもう一度 訪れた。フランス国会のアフリカ人議員との会合で、 状態から脱却するのに大いに役立った。私はまた、問
とリコ中尉が言った。 ラの軍服を着せてやる仕事を命令された兵隊が、ひど く怠け者か、あるいは、その仕事を嫌悪して、紐を鳩「わが方の兵隊は、優秀な射撃手そろいです。反逆者 目に通す労をとらなかったにちがいない。 どもはいずれも脳天を打ち抜かれています。」 「そうですな・・・・ : 」 新聞記者たちは目を見合わせた。この馬鹿げた舞台 設営が彼らの胸をむかっかせた。 と一人の新聞記者が言った。 リコに案内されて、彼らはバルコンへ一番近い階段「真近から見ると : : : 」 を昇り、理髪室の中にはいった。しかし階段を昇る前 リコはその新聞記者に怒ったような眼を向け、無愛 に、階段の下にある大きい血の海をさけねばならず、想に言った。 階段という階段が、黒い凝血の大きいしみで汚れてい 「見るだけだ。話してはならん。」 たので足の置場に注意をしなければならなかった。理 リコは一同に「兵営」全体を案内し、死体も一つ残 髪室の中では五個の死体を数えることができた。五人らず見せてくれた。マルタが数えたところによると四 が五人とも頭をぶち抜かれていた。脳味噌がゴミとま十八体あった。建物のまわりにこれほどたくさんの死 じってセメントの上に散乱していた。 体がころがっているのを見ると、戦闘は「兵営」の中 : 。たしかに、そ 敷石のあ ) に案内しで行なわれた、と人は思うだろう : ・ 理髪室を出ると、リコはパティオ ( る たが、ここでも頭を粉砕された十五人ほどの死体が横こがつけ目で、チャビアノは事件を劇化し、自分の功 たわっていた。さらにその大半が、手の指の爪をはが績をふくらますために、意識的に新聞記者たちに、そ され、唇はふくれ、そのうえ、前歯は一本も残ってい んな印象を与えるよう努力したのである。さらに彼は、 なかった。彼らが拷問死に会ったことは明らかだった。「反逆者ども」が、小銃や、自動銃、榴弾を山ほど持 「お気づきになると思うが : ・ : こ っていた、と語った。 200
この会議は、開催された数の上からは五回目である ら二百名をこえる代表が出席した。各植民地の状態に 2 ついての報告があり、アフリカの植民地問題についてが、まえの四回とは会の空気も光景も思想もはっきり の資本家と改良主義者の主張は否認された。そして非ちがっていた。まえの四回の会議は、いずれも中産階 級の知識人と富裕な黒人改良主義者によって計画され、 暴力的積極行動の戦術によるアフリカ的社会主義とい う思想が満場一致で採決された。また「人権宣言」に運営されたが、第五回パン・アフリカ会議に出席した 表明されている根本思想を可決し、政治的自由と経済のは、労働者、労働組合員、農民、協同組合員たち、 的発達をもとめる闘争を支援するために、全世界のアアフリカ人とその他の有色人学生であった。しかしア アフリカ以外に ) に、政党、労働組フリカ人が出席者の大多数をしめていたので、会議は フリカ人とその子孫 ( 住む黒人をさす アフリカ民族主義ーーアフリカにおける植民地主義、 合、協同組合、農民組織に加盟するよう勧告した。 帝国主義諸国に対する重要ないくつかの宣言がこの人種差別主義、帝国主義に対するアフリカ民族主義の イデオロギー 会議で採択されたが、その一つはデ = ポイスが書き、反逆ーー・を思想とし、マルクス主義的社会主義を、 のこりは私が書いた。この宣言は、植民地民衆の自由その基本原理として採用した。 しかしこの会議がとくに大きな成果をあげた根本の への決意を擁護し、資本の独占化、私有財産と私的企 業が個人の利益の追求のみに使用されることを非難し理由は、まえの四回の会議の出席者がテーゼを書くこ た。また真の民主主義は、経済上の民主主義の上にのとだけに満足して、アフリカ問題を解決するための積 極的な行動を果たすことができず、またそれをしよう み成立することを明らかにし、世界の植民地民衆 知識人、職人階級、労働者・ー・・・・に、自らを解放し、世ともしなかった単なる理想主義者であったのに対して、 この会議には実際家と行動的な人びとがはじめて代表 界を帝国主義の魔手から救うための連帯責任をもつよ として出席したことだった。ガーヴェイの思想と同様、 うに訴えた。
ダ カ ン モ の ス ミレトは最初、家のうしろの家屋に付属した小さな洗 なー」に弾丸をこ めているの濯場に陣どった。そこには大きい流しと蛇口が一つあ り、蛇ロのうしろには顔の高さに達する壁があり、そ を一人の隊 のうしろに、わずか十メートル余をへだてて、「兵営」 員が見た。 そのときのの窓を見ることができた。家そのものは閉されており、 ヒルドの態窓もしまっていた。ペドロ・ミレトはその中にはいろ 度が彼の心うとせず、中からも誰も出てくる気配はなかった。し 〉 ) を打った。 たがって、その日、その家に人が住んでいたか、いな レ彼の態度は、 かったか、彼には今もってわからない。 まるで食堂 二階の端から端に走っていゑハルコンの手摺のうし に腰をおろろにうずくまっている一人の兵隊に彼は照準を定めて 、して、コー いた。この兵隊の射撃は非常に正確で、ペドロがちょ ヒーを飲んっとでも体を見せると、小塀の稜 ( かど ) に弾丸を打 でいる時とち込んだ。 〕第おなじよう ペドロ ・ミレトから数メートル離れたところでフィ デル・ラ・フラド 1 ルが射撃をしていた。カ 1 ニ・ハルか に平静で、 無心だったら帰ってきた一人の兵士が彼に近づいて「何が起った のか ? 」「どうすればいいのか」と訊ねたとき、彼は ペドロ・答えた。
ちを追求しはじめた。数人の編集者が刑務所に送られ、積極行動の評判を高めた。旅から帰った私は、紛争を 私自身もまもなく、『セコンディ・モーニング・テレ解決する機会が完全に失われていることを知ったが、 グラフ』にのせた論説が官吏侮辱罪に該当するとして、一応は仲裁につとめた。しかし政府はこれを拒否した。 だが私が仲裁にはいったことによって、この重大な時 裁判にかけられた。法廷は人であふれ、はいれなかっ た数百人が戸外にさわがしく集まっていた。私を応援期にストライキがおこなわれるのを延期させようとし するはげしい、たえまのないデモンストレーションのた、私の意図は達せられた。もしそのときストライキ ために、法廷の審理は耳にはいらなかった。最後に私が決行されていれば、積極行動の成功は危険にさらさ は罰金三百ポンドまたは拘留四カ月をいいわたされた。れたかもしれない。 さいわいにアクラの民衆と、さまざまの組織のメン・ハ 私の留守ちゅう、前インド駐在武官だった植民相 ーが協力して罰金をはらう金を集めてくれたので、私・・サロウェイ氏からの手紙をわたすために、警 は帝国主義に対する煽動と闘争をつづけることができ官が私をさがしていたことがわかった。私がアクラに もどった日の夜半に、その手紙がようやくとどいた。 そのすぐあとで、私はまた国内旅行にでた。そのる私と会見したいから、翌朝彼の事務所にきてほしいと す中に、気象従業員組合と政府とのあいだに紛争がお いう通知だった。私はすぐに党の執行委員会を召集し こった。交渉は決裂し、気象労働者は ( 会議、一て、このことを話した。私が行くべきだということが 九九 ) に訴えた。は気象労働者を支持して応援全員一致できまった。 態度を表明し、気象従業員組合の要求がうけいれられ翌朝私は三人の仲間とでかけた。私が植民相と話を なければ、としてストライキを宣言すると決議しているあいだ、三人は私を待っていた。私はまっす 問題点にはいり、私の立場をはっきりのべた。 した。この特別の時期にストライキで威嚇したことが、 こ 0 2
間を与えるためである。前方席のフィデルのそばにはナト・グイタルトの「道を開けろ、将軍閣下のお通り レイナルド・ べニテスが坐っていた ( 彼は胸の上に前だ ! 」という叫びは、彼らをびつくり仰天させた。彼 夜・ ( ヤモで母がくれた聖母マリア像を下げていた ) 。 らは歩哨たちを武装解除している先頭車の「軍曹」た そのそばに「運動」の偉大な武器調達者であるペドちを、ポカンとして見守った。 ロ ・ミレトが坐っていた。後部席には、左から右に、 「この時 : : : 」 グスタボ・アルコス、アベラルド・クレスボ、カルロ とフィデルは私に語ってくれた。 ス・ゴンサレス、それにイスラエル・タバネスが乗っ 「 : : : 私の頭の中に、二つの考えが浮びました。コ ていた。小さな陸軍病院と、道路の左側の下士官埠ハ サック警備兵は二人とも軽機関銃を持っていたので、 ンガロ 1 の間には一条の小路が走っていた。さて第二歩哨の武装解除に夢中になっている隊員たちに発砲し の車が陸軍病院の前を通りすぎたにもかかわらず、後やしないか、というのが一つ。もう一つは、その発砲 部席の隊員たちはこの小路を、カルチュチョ ( 食料品 によって兵営全体が騒ぎ立てるのを避けたい、という 店などで、買物を入れるためにくれる、大きな紙袋 ) 考えでした。そこで私は彼らをとりおさえ、捕虜にし を手に持って、足早やに降りてくる一人の陸軍軍曹のようと思いました。これはたやすいことだと思われま 方に注意を奪われた。歩きながら彼は第二と第三の車したーー廻れ右をしているのですからね : ・ : ・」 を、疑惑と恐怖のこもった目付で眺めた。そして機械そこでフィデルは、 的に、その手を連発拳銃の方にやった。 「やつらを捕虜にしよう ! 」 フィデルはこの軍曹を見なかった。彼は「コサック といいながら、さらに車の速度をおとした。後部席の 衛兵」の二人の機関銃を持った兵士に目をそそいでい誰一人として、この「やつら」という複数形に注意を た。警備兵はちょうどそのとき廻れ右をしていた。レ払わなかったし、誰一人として、それが「コサック警
て言いました。『運動の中では、すべてが極秘を要すか』と言いました。『そのとおり』と私は答えました。 る。君はいかなる名前も名乗ってはならないし、誰と『僕は誰も知らない。君さえ知らない : 会 0 ても、そ知らぬ顔をしなければならない。わかる「さて、フィデルは二五にはいませんでした。ホ べラル一〇七にいたのです。『君が行ってくれるのだ かね ? 』『わかります』と私は答えました。」 ね。』と彼はそう言って両手を私の肩の上におき、肩 「そこで、私は同志たちをそのように訓練しました。 の肉を軽く二、三度叩きました。『ランチョ・ポエロ 二十四日チソルが私のところにやってきて『フィデル をサンチャゴまで連れて行くのは君だ』と言い、私をスで一人拾って行く。さあ行こう。』 ( ランチョ・ポ 二五 >A O のア。 ( ートに連れていきました。もういつば = ロスは ( ・ ( ナの飛行場の名。その付近にラジオ無線 いの人が集っていました。私はアグイレラの顔を見つ通信士のマヌ = ル・ロレンソが住んでいた。フィデル けましたが、挨拶もしませんでした。『ここで君のが呼びに行ったのは、彼である。 ) ビ = ィックの中で フィデルは私のすぐ横に坐りました。私は車を発車さ 知っている者はいないかね』とチソルが言いました。 『いや、誰も知らない』と私は答えました。すると彼せましたが、すっかり嬉しくなって、アクセルをいっ はアグイレラに近づいて行きました。私もそのあとに ばい踏みつけました。すると後方でサイレンの音が鳴 従いました。彼はアグイレラに話しかけ、私の方を指りはじめました。『救急車だ』と私は言い、右側に車 さしながら、『同志を一人紹介しよう』と言いました。を寄せました。フィデルは『警察車だ』といいました。 アグイレラは笑いだして、『彼をフィデルのところへ事実、その車は私たちを追い越し、止まれ、の合図を やったのは僕だよ』と言いました。チソルは私をふりしました。中から二人の警官が、軽機関銃を持って現 返り、あいたロがふさがらぬ、といった顔をして『君われましたが、その中の一人が、私の方に近づいてき て叫びました『オイコラ。黒ん・ほ。どうして、そんな は、ここにいる者を誰も知らない、と言ったじゃない 2 7
「電話料は『陸軍』が払ってくれるわけだな」 「どこから、持って来い、とおっしやるのかね」 と誰かが言った。 と兵隊が言った。途端に彼女はその兵隊を威圧するよ 彼らは歩哨の許可を得て、空気の流通をよくするた うな態度に出て、長期戦を開始した。彼女は激しい言 めに、事務所のドアをあけつばなしにした。しばらく葉で歩哨の態度を責め、恐れ入らせた。たつぶり十分 すると、十五名ほどの反乱者たちが、両手を背中にく 間、息もっかせず、彼女は嘆願と非難をくり返した。 くりつけられ、破れシャツを着て、殴打のあとも生々 「よろしい。負けました。あなたにつきそって行きま しい死んだような顔をして通るのを見た。そのよろめすよ」 く姿を見て、兵隊たちは罵言をあびせかけ、銃の床尾と兵隊は肩をゆすぶりながら言った。そして新聞記者 でヒルの事務室に押し込んだ。ヒルは叫んだ。 の監視を、通りがかった一人の戦友に託した。 「もうたくさんだ。これ以上連れてくるな。」 「僕も行く」 すると、捕虜につきそってきた一人の兵隊が、新聞とパンチトが言った。 記者たちが屯している事務所の前を通りながら、連れ「僕は便所に行きたいから。」 の兵隊に声をかけた。 兵隊に先導されて、二人は一階下に降り、廊下を横 襲 「この畜生どもの首も、引っこ抜かにゃならんな : ・」切った。小さな一室の広くあけ放たれた窓から、マル カ新聞記者たちは顔を見合わせた。反乱者の中には、 タは、色青ざめ、やつれ切って、地面にじかに坐って 女性も混っていた。 いる二人の女性の姿を見た。 の 「私は、徹底的に事件を洗いたいわ」 「パンチト」 スとマルタが言った。 と彼女は兵隊の背中のうしろで、二人の女性を指さし 彼女は歩哨に近づいて、一杯の水を所望した。 ながら言った。パンチトは振り返り、胸にはすかいに たむろ
「わしにとっては : : : 」 ルソン通りを通るほかはなく、医師の車が「兵営」に 近づくにつれて、銃撃は激しさを加えた。時師はおだと、医師は、いつもの静かな声で答えた。 やかな人で、ス。ヒードを出すのは好きでなかった。し「 : : : 君が負傷者であること、それで十分じゃ。」 繃帯を巻きながら、医師は手伝っている、若い信心 かし自分の周囲で、弾丸がヒューヒュ 1 唸りだすと、 彼は、しなやかな手で ( ンドルをしつかりと握り、カ深い娘に軽い冗談を飛ばすのをやめなかった。それが 終ると彼は、もう一人の尼僧マヌエラを呼び、繃帯を 、つばい、アクセルをふんだ。 病院につくと、くだんの黒人は一人で、グスタボ・切るために、鋏を借りた。それから、時計を見て、元 アルコスを、患者控室に運びこんだ。ここは負傷した気な足どりで遠ざかった。 兵隊たちで満員だ 0 た。医者は、これらの負傷者をす「 = ルマナ ( む。」 ぐ入院させるよう命令した。ふりむくと、黒人の姿はとホセ・ポンセが呼びかけた。 もうなかった。っとめがすんだので、姿を消したのだ。「あなたの鋏には、特別な何かがあるのですか ? 」 ポサダ医師の息子と娘婿ーーー二人とも医者であるー 「法王様の祝福を頂いているのです」 ーがアルコスのために手術室を用意している間、ポサと、尼僧は赤い頬に、黒いマッ毛を伏せながら言った。 グスタボ・アルコスは、手術台の上に横たわってい 襲ダ医師は負傷者を診察した。皆で六人だった。しかし た。身動きもせず、頬はこけ、ひどく青ざめて : カ重傷者はいなかった。六番目の男は一つは腕に、一つ は肩に負傷していた。ポサダ医師が近づくと、彼は言生きているのは彼の目だけだった。ポサダ医師は、そ っこ 0 の頬を軽く叩きながら言った。 「グスタポ。二十五年前お前の生れるのを手伝ったと ス「私はホセ・ポンセと言います。私は革命家であって、 き、わしは、よもや、お前をいっか : 兵隊ではありません。」 ほうたい
ス・ロドリゲス、マヌエル・ロホ、マヌエル・イスラ、てだった。しかし、その驚きを決して顔色に出さなか ロランド・グエレロ、ヘナロ・エルナンデス、それに った。彼はどちらかと言えばやせ形で、黒い瞳とちぢ グイエルモ・エルサルデだった。彼らはアベルから頼れた頭髪をしていた。物静かでロ数も少なかった。彼 は戦う日の近づいたことを喜んだ。ときどき死ぬかも まれた弾薬をつめて手荷物扱いにした行李を持ってい た。その行李は非常に重かったので、手荷物一時預り知れないという考えが頭をかすめた。しかしおそろし 所から引き出すときへナロはどうしてもそれが動かせ くはなかった。それから家族のことや、同志のグイエ いいなすけ ず、六人のうちで一番力の強い、エルサルデに助けをルモ・エルサルデの従妹にあたる許嫁のエルサ・エル 求めねばならなかった。 サルデのことを考えた。 この農民グルー。フには一つの特徴があった。「運動」 グイエルモ・エルサルデはカの強いごっごっした男 中の最年長者と、最若年者を含んでいたことである。 で、木底靴のような顎をしていたが、眼はなごやかに 二人ともマヌエルという名前だった。一人はマヌエ笑っていた。彼は砂糖キビの収穫期には砂糖工場で働 ル・ロホで五十二歳。背が低く金髪で、肥っていて、 き、その他の時期にはラス・ベガスで指物師として働 快活だった。もう一人はマヌエル・イスラで十七歳だ いた。七月二十四日にハバナで汽車に乗ったとき彼は った。彼も背は低く、褐色の憂な顔をし、物静かで考えた。 ロ数が少なかった。この二人のマヌエルはモンカダで 「これでよし。今度こそは絶好の機会だ。さあ、やっ 死んだ。 てやるそ。」 ロランド・グエレロは、ヌエ。 ・パス村にあった彼は少しも興奮したところはなかった。決意ができ ロス・ ハロス精糖工場の砂糖労働者だった。彼にとっていたのである。 へナロ・エルナンデスは事実上、ヌエバ ・パス村の ては食堂車つきの汽車で食事をするのは生れてはじめ 6 5