口に向って前進する姿を見た。 たび命令口調になった。 「進め ! 」 フェレアウド中尉は、妻と友人たちといっしょに 兵隊は誰一人動かなかった。フェレアウドは彼らを カーニバルを楽しんたあと、レ。ハルト・スェニョ ( モじろじろと見て、軽蔑口調で、 ンカダの近くのサンチャゴの一地区 ) の自宅に歩いて「卑怯者め ! 」 帰っていた。そのとき市民病院の方向に銃声を聞いた。 と言った。続いて彼は、妻に命じて一軒の家の正門の 彼は酔ってはいなかった。しかし、幸福感と楽しい刺下に避難させ、連発拳銃をサックから引き抜き、しつ 戦で、疲れを覚えなかった。市民病院から適当な距離かりした足どりで、ただ一人病院の入口に進んで行っ にうずくまったり、伏せたりしながら兵隊たちが機関 銃を発射しているのを見た彼は、近づいて行った。よ 入口から数メートルのところにきたとき、彼は頭の りそっていた妻は生きた心地がしなかった。そして情上に連発拳銃をふりかざし、大声で叫んだ。 「出てこい 出てこい 況の説明を求めた。 「よし、突撃すべきだ」 何の答えもなかった。 と彼は言った。 「出てこい 「中尉殿」 と、最後にもう一度叫んだ。そして待った。誰一人引 と一人の兵隊が言った。 き金を引く者はなかったーー兵隊も、反乱軍も 「敵は上から撃っています。」 これに続く沈黙はほとんど異常たった。 「たから、進めというのだ。」 フェレアウドは、ふたたび歩きだした。乾いた音が フェレアウドは、勇猛な返事をした。そして、ふたして、彼は地上にうつぶせに倒れた。妻が泣きはじめ こ 0 132
慎にも旧政党の首脳と接触を重ねたが、彼らは彼よりっていた。それは彼の回りに空白をつくり出そうとす ははるかにすぐれた策士だった。彼は善人だったから、る、ひとつのワナなのであった。 彼らのどんな要求をもつい引き受けてしまい、これら「解放連合」の扇動に乗って、群衆は革命評議会への の約東の内容がしばしば矛盾したものであるのにも気忠誠を叫んで集まった。この時彼らが称賛したのはナ がっかず、また実行を迫られて立場に窮するようになセルであり、もはやナギ・フではなかった。しかし将軍 はまだ屈しない。そこでナセルは止めの一撃を加えよ る日の来るのも予見できなかった。 うと思った。それは革命評議会の復帰を要求するゼネ このような間に、ナセルは軍を再び手中に収めるこ とに専心していた。威信を回復する道はこのことを措ストの実現である。 いてなかったからである。彼は機械化部隊の大佐二人三月二十九日は、待ち望んだ混乱の一日であった。 を異動させ、腹心の大佐十五人を将軍の位に昇進させ、ゼネストは政府によって組織されたのである。町は政 さらに例の危機の間に急進的ナギブ派であることを示治熱に湧き返った。軍隊は街々を練り歩いて政治的自 した大佐三人を解任した。そして巧みに、軍の良識に由への嫌悪を表明し、熱狂した群衆やガタ馬車にとり 訴えたのだった。 つけたラウドスビーカーは軍隊万歳をわめき立てた。 かくて三月二十五日、革命評議会の解散が発表され昼近くなると、この「ドラマ」の空気はいよいよ熱 つぼく盛りあがる。ナギ・フ、アンワール・サダートお た時、ひとびとの反応は一カ月前とはまったくあべこ よび数人の革命評議会議員は、サウド・サウジアラビ 命べだった。「革命の時代は終った。革命は達成された のだ」 これが解散の理山である。以後はナギブがア国王を見送るため、国王に随行して空港へおもむい た。彼はナギブ大統領がメッカ巡礼の際行なった招待 彼ただ一人がーーー・国を治めていくことであろう。 2 しかしこの解散はナギブの意向をはるかに越えて先走に応えて、カイロを訪問中だったのである。「四日間
かった。ひじようにおおぜいが投獄されたことは明ら夢を見た。巨大な黒いこうもり傘が大きなテントのよ 、・こっこ 0 、刀ュ / ュ / うに私の上に落ちてきて、五分間ぐらいと思われるほ 復員軍人のデモが警察と衝突し、アフリカ人警官一一どのあいだ、私の上に完全におおいかぶさった。その 名が死ぬという事件がおこって、事態は頂点に達した。あいだ私は呼吸をしようともがきつづけていた。やが 政府の網はひきしめられ、獲物の数は日ごとに増した。てこうもり傘が上がり、遠くのほうへ消えていくのを 一月二十一日金曜日の夜、私の仲間の大部分が逮捕さ見つめているうちに、眼がさめた。アフリカ人はこの れた。そのなかに私がはいらなかったのは、ほんの偶ような夢を、死や大きな危険からかろうじてのがれる 然からだった。もしそのとき捕えられていれば、当時ことと解釈している。 ひつばく の逼迫した情勢、とくに二人の警官の死によって緊張朝八時に私はその家をでて、党本部へむかった。本 のいちじるしく高まった情勢下で、最後の検挙だとい部の近くへきたとき、すぐに事件のおこったことを知 った。警官が建物をすみからすみまで捜査したあげく、 う興奮もあり、私はおそらく八つ裂きにされただろう と田う 0 私の帰りを辛抱づよく待っていたのだ。のちに知った たまたまその日の午後四時に、私はラバディに住んことだが、彼らは私の個人使用人ニアメケと彼の友人 でいるある党員をたずねるために党本部をでた。そのたちまで警察に連行して、めちゃくちゃになぐり、私 家につくと、彼は四、五キロはなれた農場へ行ってるがどこにかくれているかを白状させようとした。むろ すだったので、私は彼の帰りを待った。彼がもどってん、気の毒なその連中は私の居場所を全然知らなかっ きたのは六時で、すでに外出禁止の時間になっていた。 家からでることはもちろんできなかった。私は毛布を警官の一人は、私の姿を発見すると、すぐに駆けよ かりて、床で眠った。その夜ひじようにはっきりした ってきた。私の抵抗を予期していたらしい。しかし私 こ 0
各人が生と死の間に揺れ動いているような気持のこの寛厳をたしかめることであった。 すべてが上首尾に進んだ。アルカルデは、道をたず の時刻に、寸秒がひどく長く思われ、きわめて些細な ことが、非常に重大な意味を帯びてくるのだった。十ねるような振りをして哨兵たちに近づいた。哨兵たち は、何の不信も抱かずに彼を迎えた。そしていっしょ 年後、ペドロ・グティエレスが、この夜、サンチャゴ で、はじめて、イリ飯を食ったことを思い出している。に長話しをし、誰かが今しがた持ってきた水筒の中の オスカル・アルカルデは自分のカミソリを忘れてき熱いコーヒーの四分の一を御馳走してくれたりした。 オスカル・アルカルデについで、ファン・アルメイ た。剣では剃ったことがないので、ファン・アルメイ ダが、剃ってやろうと言いだした。頬っぺたにシャポダは、看護兵のフロレンチノの顔を剃ってやった。ア ンを塗っている間にオスカル・アルカルデは突然、八ルメイダは人のことに夢中になるクセがあった。彼は 十二人兄弟の家に生れ、男兄弟では長男だった。中背 月一日で自分は三十一歳になることを思いだした。 「しかし、結局、おれは三十一歳になることはの、細い、筋肉質の黒人で、眼は知性の輝きを見せて いた。父の賃金では全家族を養うに足りなかったので、 永久にあるまいテ。」 めめ さしもの こんな考えは女々しかった。彼はそんな考えを振りアルメイダは十一のときから働きはじめた。彼は指物 撃 おとし、襲撃のことを考えはじめた。オスカル・アル師の徒弟となり日給四十センタポスをかせいだ。の「 ダ カルデは「兵営」攻撃を二カ月前から知っていた六人円 ) あまり家計の助けにならないので、転職をした。 のうちの一人だった。 「私は小さな四輪馬車を作りました : : : 」 の ロ 五月にフィデルは彼に新しい使命を託した。夜明けと彼は私に語った。 ( 一九六三年九月、ファン・アル メイダとのインタビュ スにモンカダの前を通って、第三衛門 ( モンカダ兵営の 入口の一つ ) の二人の哨兵と話しをし、衛兵所の警戒「 : : : 私は二つの五リットル罐を修理しました。そし 3 8
事故が起ってドアをあけたとき、靴は溝の中にころげ「 : : : おいらの心が通じないんだもの : : : 」 アダルベルト・ルアネスは、悲しげで真面目な眠を 落ちたのである。それを見つけ出すためには小半時間 もかかった。彼は、濡れた靴をはいたまま、あとの旅した、おだやかな青年だった。彼はハーモニカがうま 行を続けねばならなかった。そのときの彼は全く不機く、ニコがたまに手と口を休めると、抑揚をつけてメ 嫌だった。しかし七月二十六日の昼と夜、さらに二十キシコ音楽を奏した。主としてニコの上機嫌のお険で、 七日にかけて彼はある恐るべき試練をくぐり抜けた。旅行はすばらしかった。同様に、その衝動的性格によ って事態が逆転しそうにもなった。サンタ・クララを あとになってふり返って見ると、その試練にくらべ、 濡れた靴の一件ごときはとるに足らぬできごとだった。すぎてから、中央街道は大いに混雑した。道路工事が ラウル・マルチネス・アララの弟のマリオはビュイ進んでいる地点の入口に、一人の農民がきまぐれに交 ック四八で四人の同志をパヤモに運んだ。その四人は通整理に当っており、それが非常に不手際だったから アレンシビア、アダルベルト・ルアネス、それに形影である。ニコは車からおりて、その男と口論をはじめ た。口論が激しくなった。くだんの農民は、激昻して、 のごとく、常に相伴っている二人の「デカとチビ」 ーっまり「七階」という仇名のニコと、カリクスト・ そばにかかっていたマチエタ ( ビ伐用につかう大ナタに 撃ガルシアとであった。ニコは自分のギタ 1 をかかえてをかけた。ニコの同志たちが彼をおしとどめ、他方、 力いて、途中、訊問にひっかかって停車を命ぜられるご農民をなだめる者がいて、車はやっと発進することが とに、そのギタ 1 を伴奏に、「エスパニョレリア」をできた。ところがこの事件のウップンは、可愛想にも の アダルベルト・ルアネス一人に向けられた。事が終っ 歌った。 て、彼がふたたびハ 1 モニカをとりあげてメキシコの 9 ス「お前を愛せないんだよ : : : 」 歌を吹きはじめると、ニコはその方をふりむいて、怒 冖と彼は警官を見つめながら歌った。
になるがーー・・町中が奴隷たちの催しに解放される。こ町は外国人を呑吐した。寝る家がないので、彼らは路 れはまことに前代未聞の爆発であった。不幸も変じて上に寝るか、中には公衆広場の木々の間に ( ンモック 歌となった。復讐と殺人の意志はダンスに変った。人をかけて寝るものもあった。場所を変えることまで監 間の尊厳への希求は、魔術的な仮装に変じた。昨日は視監督される警察国家のもとで、フィデルにとってカ ひいろ ーニ・ハルはハ・ハナからサンチャゴまで、誰の注意も引 人夫頭にムチ打たれた若い黒人奴隷が今日は緋色と金 くことなく百五十人の青年を引きつれて行ける願って 色の衣裳をつけた王子に変った。この空想的な遊びは しんきろう すべて、蜃気楼にすぎなかった。黒人たちは、自由でもない機会であった。サンチャゴでは、軍隊まで、監 あるとの印象を自分で描き出したばかりではない。彼督という名目だが、多くの場合、自分たちもいっしょ になって踊り狂うために、お祝いに加わった。ラム酒 らは悲しみを拒んだが故に自由であった。この上ない 活力、自由奔放な情感、人間の内部にひそむ偉大なるが溢れるほど抜かれ、兵隊たちは泥酔する者が多く、 力との、より深い接触・ーーすべてそれらは、いっか近軍紀はゆるみ、将校の許可やら、不在やらのために諸 い未来に自分らを支配する白人から自由をかちとるそ勤務はおろそかになった。事実、その雰囲気は戦闘ど という自信を呼び起すものであった。白人たちは、そころではなく、ヒロイズムにもほど遠かった。 ラム酒に酔いつぶれ、疲れ切って寝ている兵隊ども 襲の三日間、自分らの奴隷たちが、奴隷であることを忘 カれるために狂気のように踊り狂い、生きる喜びを表現の寝込みを襲うのが一番だと誰でも思う。しかし、ろ くろく訓練のできていない民間人を夜戦に使うことは する姿を、不機嫌な表情で、しかも魅入られたように できなかった。フィデルは暁の奇襲を選んだーーー・衛兵 ロ眺めていた。 スキュー。ハ のあらゆる土地から、あらゆる地方のキュ交代の直前である。長時間の夜間警備で頭がもうろう しハ人がカ 1 ニバルを見物にサンチャゴになだれ込み、としている時をねらったのである。 2
まえの四回の会議は、アフリカ人の生来の自覚から生この人には金をはらって、なるべくいざこざを起さな じたものではなかった。ガーヴェイの思想は、アフリ いほうがよいと私はきめた。のちに、アシェ カ民族主義に対立するものとして黒人民族主義をあっ氏ーー・黄金海岸ココア市場局の設置に抗議した農民代 かっていたからだ。アフリカ民族主義をおおやけに声表の指導者ーーを通じて黄金海岸の原住民権利擁護協 明し、アフリカ人の政治意識の覚醒をもたらしたのが、会から五十ポンドをうけとった。 この第五回パン・アフリカ会議だった。そしてこれが、 会議はパン・アフリカ民族主義の綱領を声明して終 現実に、アフリカ人のためのアフリカという大衆運動った。パドモア、エイ・フラハムズ、私の三人はまもな に育っていったのだ。 く口ンドンへもどったが、マコネン、ジョモ・ケニヤ ッタ ( のちにケニアのマウマウ団運動の責任を間われ この会議では組織を見まわるのに忙しかったので、 ミリアード博士はパン・アフリカ連盟を組織す 演説をした人びとと会う機会はなかった。だが、あるた ) 夕方、マコネンがひじようにあわてたようすで、会場るために、マンチェスターにのこった。 この会議の結果、会議で採択された綱領の実現を促 の裏に私をさがしにきたことを憶えている。ラファ工 ル・アルマトウ博士に会ってくれないかと、彼が私に進するために、実行委員会が組織された。デポイス いった。そこへ、この会議で演説をするために招かれ博士が委員長となり、総書記に私がえらばれた。会議 伝ていたト ] ゴランド出身のアルマトウ博士がやってきが終了してまもなく、ロンドンで開かれたこの実行委 のて、貴重品をいれた旅行鞄を失ったといいだした。会員会の会合で、各植民地に今後生ずると考えられるさ 国議中は博士の世話をする責任が私たちにあるのだから、まざまな政治運動の一種の意見交換所の役をはたすパ 博士のうけた損害を私たちが弁償すべきだと博士は考ン・アフリカ会議本部をロンドンにおくことが決定さ 3 えたのだ。会議はすでに多額の借金をせおっていたが、れた。本部のための事務所を私たちはさがしはじめた
戦闘が激烈な間は、メ化ハは大変な活躍ぶりを示し のを、列をなして見送るという格好だった。 陸軍病院の二階は、明るく風通しのよい、広い廊下た。しかし、それがおさまると、彼女はすっかり疲れ に通じ、その一部は内庭の上の。 , ジア翁面 ) にあを覚え、病院の小さな腰掛の上に倒れ込んだまま身動 った。ペドロ・ミレトがこの廊下に達したとき、多くきもできなかった。二人の石護婦がその彼女を支えて、 小さな部屋に運び入れてくれた。そして牛乳入りの の人間が前を走るのを見た。続いて銃声と人の叫びが コーヒーを持ってきてくれたので、彼女も元気をとり 聞えた。 一人の兵隊ーー・・・その顔を見る時間の余裕はなかった戻すことができた。腹がへっていたことも、倒れた原 が、彼のもものつけ根を激しく蹴上げた。彼は転因の一つだった。そう言えば前夜シポネイでレナトの がった。なかば起き上ろうとしたとき、もう一人の男ために作った「鳥鍋」を食べてから、何も口にしてい なかった。 がーー・その顔も見る暇はなかったーー銃の床尾で、い 市民病院の従業員や石護婦たちは、サンチャゴ市民 やというほど頭を殴りつけた。そのショックで、彼は 頭が二つに割れた、と思った。血が眼や鼻に流れ落ちの大部分と同様に、独裁者に対して反感を持っていた た。彼はどうと、床に倒れ、両手を頭にやって、身をので、この戦闘の意義を諒解すると、あらゆる方法で、 ちちめた。殴打はまだ続いた。隊員たちが倒れ、彼の反乱者たちの手伝いをした。戦闘が終ったとき、彼ら 上に投げとばされた。その体に動きのないところから、は反乱者たちに、病室にかくれるよう暗にすすめた。 彼は死体だ、と覚った。頭は冴えたままで、痛みはなそのため彼らは病衣を貸してくれたり、いろいろの仕 かった。しかしその中、自分の上におっかぶさった死事に配属してくれたりした。アベルは彼らから手当を うけて一眠に繃帯をし眼科室に連れて来られた。一一人 体の重みで、次第に意識を失って行った。 の若い娘には看護婦の作業服が与えられた。 152
医者はふりむいた。彼の視線はすばやくラモンをな ってきて、マンビたちを一人一人首実験したが、彼ら のうち誰一人として、おじいさんのそばの椅子におとでた。それから四分の一秒ほどサンチェスの顔の上に なしく坐っている、小さな男の子に注意を向ける者はとどまった。サンチェスがまばたきした。医師は何く よ、つこ 0 わぬ顔で、 「戦いは負けだ」 「ええ、ええ、知っていますとも」 マス・サンチェスはラモと言った。 と、捜査が終ったとき、トー ンに一一一一口った。 大尉はラモンの肩を軽く叩きながら、 「 : : : 君をここから出さねばならない。しかも一刻も「では、来なさい。僕が出して上げよう。」 病院の廊下は、小グループごとの兵隊で溢れていて 早くだ : ・・ : 密告者がうようよしているからな : : : 」 彼は少し考えてから看護人に言った。 出入する者は残らず、病人だろうが、職員だろうが、 「大尉を呼んでくれ」 看護夫だろうが、看護婦だろうが、医者でさえも、身 「陸軍」の大尉がやってきたとき、トーマス・サン 元調べをされた。大尉と連れ立ったラモンは、そのグ チェスは、枕元に起き上り、挙手の礼をして言った。 ループのすべてを突破した。しかし、彼はサンチェス 撃「お願いがあります。孫が昨夜からここに来ています。の心配を思い出し、一歩ごとに、密告者に見つかりは 今朝、例の戦闘のお陰で家に帰りそこないました。きすまいかと、ビクビクした。病院の廊下を際限もなく ン っと母親が気をもんでいるでしよう。」 歩いた末、階段をおりると、数時間前、制服を着、銃 ロちょうどそのとき、医師が回診にやってきた。大尉を手にして突破したドアが、遂に現われた。彼はホッ あんど スは医者をつかまえて言った。 と安堵の吐息をついた。 「・トクター この子をご存知ですか ? 」 「さあ、行け、坊や」 159
第 ~ 叡 ' ~ 三新を ~ たちは火の回りシャ人による征服が三世紀、。 1 人の征服が七世紀、 2 をかこみ、彼らアラブの征服が九世紀、そしてトルコ人の征服が四世 紀あったが、その間マムル 1 ク族がトルコの支配を骨 の国の将来を語 り合う。しかし抜きにしていた。今やトルコはイギリスにその地位を こ竇スパイの眼が絶譲った。しかし何ものも変らなかった。一九一三年、 えず光っているエジプトは独立を「宣言され」たが、それは単なるう ソようなので、話わべにすぎなかった。エジプト王ファルーク一世は外 し声はいつも低国人である。彼は「保護者」と話し合うことなしには、 事実上何ごとも行なえなかった。英国は駐留部隊をカ ~ を 0 一 : 、營′一》第 , 遠カ 0 た。 エジプトが自イロ、ポートサイド、イスマイリア、スエズに置いて いた。英帝国海軍はアレキサンドリアに停泊し、この ・を簽・イ分の国を統治し 《】は : 当第まるなくなってから地中海の要港を艦砲の射程下に入れていた。つまりエ 、 0 ・ ) ー・、 : ・・物、 ( 穹、、「流すでに久しし ジプトはいつも監督下にあったのである。 一 0 一 3 : : 一多ミ第。一 ~ 方最後のフ , ラオ年を経たシ = リフ山の麓で、一人の青年将校が母国 の統治が終っての将来を激しい口調で語っている。「 = ジプトは病人 紀元前五 ) 、 サから ( 一一五年 だ」と彼はいう。「恥ずかしめられて、その意思は打 エジ。フトには征ち砕かれてしまった。健康を取り戻すためには荒療治 服の歴史が続い が必要だ。そしてその荒療治こそわれわれの仕事なん た。まずギリ だ。われらの祖国を、なぜわれわれはつくり直さない