の中で、ケネディが自分を大統領候補にえらんでくれ喜びであった。だが、彼女はこの満足に高い代償を払 たことで、「支持者」たちに感謝していた晩のことをわなければならなかった。すでに、ヨーロッパで爆撃 思い出す。当時はまだ子供のような顔つきで、これが機のパイロットをしていた長男のジョゼフは、一九四 未来の大統領になるのかという感じはあまりなかった。四年八月十二日イギリスの基地を出発したまま、二度 むしろ、何か伝言をもってきたポーイが、映画にあると帰還しなかった。同じ年、ハリントン侯爵と結婚し ように、何か突然の衝動に押されて、マイクを奪ったていた娘キャスリーンは、夫をなくして、彼女自身も のを見ているような気がした。彼のそばには、母のロ 一九四八年、フランス南部で飛行機事故のため死んだ。 1 ズ・ケネディがいた。 ケネディの四人姉妹の最年長者ローズマリ 1 ・ケネ ダラスの悲劇ののち、実に悲しい試煉をうけたこの ディは、頭がへんになっており、ウイスコンシン州の 母親の人柄は、しばしば閑却されている。若くて美し精神病院に入院していた。勇敢にもケネディ家は、精 いジャックリ 1 ヌ・ケネディの方は、夫のそばにいて、薄児救済基金の創設をうながすため、一家の秘密を打 公衆の想像力を誘う才能をもっていたが、母親は息子ち明けたのであった。やがて彼女の夫で一門中のいわ の殉難のとき居あわせなかったから、苦しみが少ない ば″神通カ〃をもった人物ジョゼフ・・ケネディが とでもいうのか ? 駐英大使に任命され、民主党の大物になった。彼は大 有名な政党人の娘に生れたローズ・フィッツジェラ胆で、しばしば問題となった投機で巨万の富を得た人 ルドは、多くの母親と同じように、さらに疑いもなく物である。彼は自分の息子をーーー・それも一人だけでな 他の母親の多くよりは熱心に、息子が最高の地位につく、四人を次々にーーー大統領にする運動の先頭に立っ く日を見たいと念願していた。ジョンが国家の最高行ていたが、一九六一年十二月十九日、卒中の発作で、 政官の地位にえらばれたことは、彼女にとって大きな ほとんど全身がマヒしてしまった。偶然にも私は、 0 8
対に許せない、といった感じだ 0 た。「気の毒だが。」見分けがっきにくい。人は、暗闇のなかでならだれだ かれは顔をそむけた。 かわからないだろうと思って、明るい光のもとよりも 「そうですか、ありがとう」とわたしは言った。 大っぴらに自分をさらけだすものだ。あるものはずう ずうしくあけすけだったし、あるものはずうずうしく 暗くなるまでには、海岸地帯を離れ、州もはずれに狡猾だった。みな、黒人の性生活に病的な好奇心をみ きていた。おかしなことに、わたしは車に乗りだしてせ、だれもが胸のなかで、類型的な黒人の姿を思いえ いた。昼間は傍を通りすぎてゆくが、暗くなると乗せがいていた、つまり、特大の性器をもち、いろいろ変 てくれるのだ。 ったたくさんの性体験をつみあげてきた、疲れを知ら その晩はきっと十二回ほども乗せてもらったろう。 ない性の機械くらいに思いこんでいる。かれらは、黒 この人たちは、ほとんどだれもかれも同じようこ、 冫か人がこの「特製」品で、自分たちには真似のできない すんだ眼で悪夢をのそきこんでいる。 ようなことを、なんでもやってのけると思っているよ かれらがなぜわたしを乗せてくれるのか、そのわけうだった。かれらは話をすぐしたの方のことにもって はすぐにはっきりした。そのうちの二人をのそいてす いった。わたしは、上品な顔だちをした男や若者たち べての人が、まるで = 。写真か = 。本でも拾いあげるが、もっとも落ちぶれた白人にでも、敬意を払 0 てなに ように、わたしを拾ってくれたのだ ただ違うのは、もきかないところを、相手が黒人だからという理山で、 こ 0 ちがものを言う春本くらいに考えられていたことそういう控え目な態度をまったく示す必要はないと考 だ。相手が黒人なら、かれらは自尊心とか体面とかい えているのを見るに忍びず、このことを書きとめてお ったものをみせる必要がないと考えていた。そのうえくのである。またわたしは、これが男たちのあいだで に、視覚的な要素が入ってきた。夜の車のなかでは、 よくやっている「自由討議」ともまったく異なるもの
長い時間がたったように思えた。それからわたしは人でも、こんなことが起こったろうか ? ) 2 それにつづいて、昨日医者の事務所をでるとき言わ幻 露地の角から顔をつきだして、もときた通りを眺めた。 通りは、いちばんはずれの街灯までひとけもなく見通れた言葉が浮かんできた。これであなたは世間から忘 れられてしまうのです。 せた。 今夜、教会の石段に坐って、わたしはあの医者が、 ドライアディーズへと急いだ。昼すぎに訪れたカト リック教会の明るい階段のところまでいった。石段の自分の言ったことがいかに真実であり、忘れ去られる いちばんしたに腰をおろし、組んだ腕のうえに顎をのという感じがいかにびったりしたものであるか、本当 せて、神経が静まるまで、じっとしていた。塔のなかに知ることができたのだろうか、と思った。 パトカーが巡廻してきて、速度をおとした。漆喰の から大きな鐘の音がゆっくり鳴り響いて、八時を告げ た。がらんがらんと鳴る金属的な音が、そのへんの屋ように白い顔をした警官が、わたしの方をうかがって いた。車が右に迂廻したとき、わたしたちは互いに顔 根のうえを響きわたってゆくのに、わたしはききいっ こ 0 をじっと見合わせた。それから車は、教会の古びた牧 「黒ん・ほ」という言葉が、その鐘の反響に結びついて、師館のかげに消えていった。きっと、警官はこの一画 を一巡してから、わたしを調べるだろう。尻のしたの わたしの頭のなかで、なんどもなんども繰返された。 セメントが急に固く感じられてきた。立ちあがって、 おい、黒ん・ほ、そこへ入ってはいかん 次の一画にある小さな、黒人のコーヒー店の方へむか おい、黒ん・ほ、ここで飲んではいかん って急いだ。 黒ん・ほたちにだしてやる食べものはないよ ドアを開けて入ると、黒人の女が大声で言った、 するとこんどは、あの若僧が言った言葉だ。毛なし のおっさん、禿さん、くそ頭のおっさん。 ( わたしが白「お客さん、豆と米しか残ってないよ。」
とめているーーー・それがセックスのあるべき姿なんだ。 かれは驚きながらも喜んでいる様子だった。それは 0 気持よく感じることは、道徳的にも正しいことだよ。 わたしが喋ったことについてではなく、わたしがこん そこのところが大きな違いじゃないか ? 」 なことを言えたということに対してだった。すっかり 「別にたいした違いがあるとは思いませんね。」一人感激した態度になって、実際に叫んだものである、「い の黒人が自分の言うことに反対したといって怒りだすやはや、きみがこんなに知的に喋るとはね ! 」この男 かどうか、試したくはなかったが、わたしは真重に答はかなり血のめぐりがわるいのか、この驚きのなかに、 黒人がいつも「イエス・サー」と言い、人まえをはば えた。 「そうは思わないって ? 」その声には、興奮とわけをかる言葉をぶつぶつ言うことしかできないのだという 知りたい熱意があらわれていたが、怒っている様子は軽蔑を、それとなく示しているのに気づかなかったの はかっ」 0 ふたたびかれは質問をはじめたが、それは白人たち 「ほくたちの牧師さんも、あなたがたの牧師さんと同 だれもがききたがっていることと、たいして変らなか じように、罪と地獄のことを説教しますよ」とわたし った。とくに学者たちとなると、・公平に文化的水準の は言った。「・ほくたちだって、あなたがたと同じよう にビューリタン的な素地があるんです。白人の人たち格差について論じたがるものだ。だが、こんどの調子 が心配するのと同じくらい、・ほくたちだって子供が処にはどことなく大目に見ているといったふうがあっ 女を失ったり堕落したりするのを、心配しています。た。かれは心のこもった調査でもするようなふうをみ セックスの影響については、あなたがたと同じように、せたのだが、その実、自分の偏見はやはり隠しきれな つまらないことにもいろいろ頭を痛めていますし、罪かった。かれは黒人の性器の大きさや性生活の細部に わたってきいてきた。ただ、このまえの男たちとは、 を感じているんです。」 ミ」 0
インのキャ・ハレーの舞台に出演したばかりであった。 やはり日本の東京で、青年の狂信者に殺された社会 ( このキャパレ 1 には数週間後、誘拐事件でセンセー 党委員長浅沼稲次郎の未亡人は、こう言った。「政治 ションを起したフランク・シナトラの息子がはたらく家の妻というものは、さびしく悲しいものです。わた ことになる。 ) いまわしい暗殺の報をきいたとき、こしもまた、夫が病院に行く途中、わたしの腕の中で死 ぬのを見ました。」 の俳優は「ああ神よ、われわれにお慈悲をたれ給え」 と叫び、すぐに大統領の妹にあたる妻と、″クラン〃 もうひとりの未亡人は、しかし、何の同情も示さな とよばれていた映画界でオールマイティの俳優集団のかった。この年の十一月一日、夫がサイゴンで惨殺さ 親玉、フランク・シナトラとに電話をかけた。そこでれたゴ・ジンヌー夫人は、少し前ロサンジェルスで私 に、ジョン・ケネディこそこの殺害の責任者であると シナトラはハリウッドに、喪に服するよう要求した。 、、ネアポリスで妻を委任殺人した男ジーン・タムス考えており、天罰があたることを期待すると語ってい ソの裁判は、無期延期となった。暗殺によってひき起た。彼女はローマから皮肉たつぶりのくやみの手紙を されたはげしい感情の下では、陪審は客観的に被告を送り、次のように言った。「奥様、わたしはあなたを 判断することができないと、審理を主宰していた判事存じ上げませんが、夫がむごたらしく殺されたと知ら されたとき、妻がどんな感じをもっか、おわかりにな が説明した。 ったことと存じます。あなたの身に起ったことは、わ 日本では、大戦中太平洋でケネディ中尉の指揮した たしの夫が無実の犠牲になった恐るべき不正の結果に パトロール艇を沈めた駆逐艦の元艦長花見弘平は、か っては自分が撃破するつもりだった敵の死を知って泣ほかなりません : : : 。」 いた。「世界はとりかえしのつかぬ人間をなくした」 ダラスの小学校でケネディの死が発表されたとき、 と、現在では製靴工場をやっている花見は語った。 家に帰された生徒たちは、みんな熱狂して拍手しはじ
まま、立てつけの悪いドアの隙間から洩れてくる月の気づきだすと、人は絶望に喘ぐか、さもなければ、慰 めるために、慰安を求めるために、自分の女にすがり 光を見つめた。蚊のぶーんという音がきこえてきて、 つくことになるのだ。二人の結合は、沼の夜からの、 やがて部屋じゅうが蚊の大きな羽音と化した。こんな 寒い夜に蚊がでてくるもんだろうか。子供たちが眠り二人にとっていっかはよくなるという希望をまったく いっときの逃避なのだ。これは、 絶たれた状態からの、 ながら、手脚を動かした。蚊に喰われたのだ。スト 1 ヴのかまが、なかでかすかに、ばちつ、ぶすっと音を希望を絶たれた人間が、希望を求めるまさにその点で、 たて、だんだん冷えてきた。夜の匂い、秋の匂い、沼どこまでも悲劇的な行為だ。 の匂いが入ってきて、家のなかの子供たち、石油、冷このようなことを思うにつけ、この人たちの、家族 えた豆、小便などの匂い、松の木の灰になったにぶい をりつばに育てようとしている勇気、子供たちのなか 匂いとまざりあった。腐ったものと新鮮なものとがまに一人のめくらも片輪もできなかったことを感謝する ざりあって、不思議な芳香ーー・貧困の匂いをかもしだ気持、見知らぬ男に食べものを分かち寝ぐらをあたえ していた。い っとき、悲惨な境遇を身近かに感じ、名てくれる親切ーーーそのすべてのことに、わたしは圧倒 された 0 わたしはべッドから立ちあがり、なかば凍え 状しがたい喜びを味わった。 とはいえ、悲惨さは重荷だった、じわじわと身に食そうだったが、そとにでた。 いこんでくる死の重荷である。かれらがなんでこんな薄い霧のために月の光がかすんでいた。散らばった にたくさんの子供をこしらえたのかがわかった。沼や光のなかに、樹々が不気味な黒い塊となって聳えてい 暗闇にとり囲まれた夜のこんな一瞬一瞬にも、果てし た。伏せたたらいに腰をおろすと、ズボンを通してし ない淋しさ、恐ろしさに襲われ、ほかの人間的なものみ通ってくるその金属の冷たさに、わたしは身ぶるい から遮断された感じを味わうのだ。このようなことにした。
りや。わしらのなかには、白人以上になにも変えたく 小型トラックを止めて乗れと言った。ドアを開けると、 2 ないと望んでいるアンクル・トムもたくさんいるよ。 男の膝のわきの席に、散弾銃が一丁立てかけてあるの かれらに二ドルもやれば、わしらを地獄へ落す糸を引が眼についた。「黒公狩り」というのが、アラバマの つばるさ。こういう連中は、わしら人種の恥さらしだ。ある不平分子のあいだではスポーツと考えられている そうかと思うと、なんでもかでも、白人と『対等になのを思いだし、わたしはあとずさりした。 る』機会しか眠中にない若いうぬ・ほれの強い連中も大「入れよ」かれは笑った。「これは鹿狩りのやつだよ。」 勢いる : : : こういう連中にあるのは、憎しみと悪口だ わたしはもう一度、男の血色のいい顔をちらりと見 けだ、これもとんでもない恥さらしだ。アンクル・ト た。感じは悪くなかったので、男の隣りの革張りの席 ム連中がユダなら、この連中だって、同しような裏切に入りこんだ。 り者だよ。」 「ここにくるまで、うまく乗りついでこられたかい ? 」 例によって、話は「こんなことを言っても、実際に とかれがきいた。 はなんの解決にもならない」という行き詰りに終った。「いし 、え、モビールからこっち、おたくがはじめてで 十一月二十四日 かれは結婚していて、五十三歳、いまでは家族のも のたちも成人し、二人の孫もあるそうだ。その話しぶ モビ 1 ルとモンゴメリーのあいだの沼沢地帯へと、 りから推しても、たしかにかれは活動的な、市民の指 ヒッチハイクして北上した。すばらしく涼しい日だっ導者で、その地元社会のなかでも有力な人物たった。 感じのいい白人に逢えたものだとわたしは思いはじめ こ 0 数マイル歩いたころ、大柄な、陽気な顔つきの男が、 こ 0
わした。男は歩いてきて、わたしのそばに立った。よは愛想よくうなずいた。ニュー・オーリアンズでは、 にもかもはじめての経験だった。会釈して「今晩は」電車のなかで席の差別はなかったが、わたしは後部に幻 と言うべきか、それともそのまま知らないふりをして近い席にかけた。車中の黒人たちがなんの疑いも興味 いた方がいいのか ? かれはわたしをじっと見つめた。も抱かず、わたしを一瞥した。まえよりも自信をもて わたしは、男が言葉をかけはしないか、なにか尋ねはるような気がしてきた。黒人の一人に、どこかいいホ しないかと思って、彫像のようにじっと立っていた。 テルはないかときいてみた。その男は、ラムパ 1 ト街 その夜は寒かったが、体は冷汗でぐっしよりだった。のパトラーがいちばんだと言って、下町からどのバス これもまたはじめての経験だった。この成年の黒人がに乗ればいいか教えてくれた。 汗をかいたのは、これが最初だった。黒人グリフィン 電車を降りると、両手にそれぞれ小さなズックの袋 の汗も、その体には、白人グリフィンの汗とそっくりをぶらさげて、街の中心部のキャナル街を歩きだした。 同しに感じられることが、お・ほろげながらわかってくまえの晩、呼びこみ屋たちがしきりとわたしを誘った るように思えた。黒人と白人の汗が同じだろうとは思同じ飲み屋や娯楽場のまえを通った。呼びこみ屋たち わなかったので、この発見は、子供の発見のように、 はせわしく動きながら、白人たちを引っぱりこんで女 きわめて無邪気なものだった。 の子たちを見てくれとすすめていた。昨日と同じよう 市街電車がその窓から青白い光を投けながら、がた に、煙草、酒、湿気の匂いが、半分開いたドアから流 ごといって止まった。白人をさきへ乗せることを思い れてきた。今夜は、呼びこみ屋たちはわたしを誘わな だした。かれは料金を払うと、わたしには気もとめず、かった。今夜、かれらはわたしに眼をむけたが、わた 空いている席の方へと歩いていった。かれはなにもきしを見てはいなかったのだ。 きはしなかった。わたしが料金を払うと、電車の車掌 わたしは、この街へついてから毎日買いものをして
うとも、どこにでもついて行く。ャルタ会談のさいに いう風説をほんとらしく思わせた。その後は逃げ出し も特別班が同行したし、もっと最近では、ベルリンのても、大して問題にならなかった。彼はたったひとり で、お忍びで映画に行ったり、友人のもとで食事した 壁の前でも、ケネディのそまこ り、モロッコの ( ッサン王の来訪のときなどには、誰 ハウスをぬけ出し、 ウッドロウ・ウイルソン大統領が、結婚するつもり にも予告せずに徒歩でホワイト・ のエディス・ポーリングに言いよっていたとき、最初街路を横ぎり、「フレア・ハウス」にお客の王様を訪 のランデヴー以来、たえず誰かに監視されていることねたのであった。 を漠然と感じていた。彼は警察に電話をかけた。「で 十一月十四日、つまりダラスに行く一週間前、最後 も大統領閣下、シークレット・ のニューヨーク訪問のさいには、警察のオートバイの サ 1 ヴィスの二人がた えず閣下を見張っていることを、ご存知ないのです護衛を拒み、沿道の保護の非常線をやめるようにさえ ・ : 」ウイルソンはもう文句をいわなかった。要求した。ニューヨ ] ク市民は実際、こういう警戒措 。」それ以来はもう、 置が非常に高いものにつき、市内の交通をさまたげ、 国家元首にも、その家族にも、私生活というものはな商店はお客が大統領の行列で道をふさがれているため、 くなってしまった。 何も売れないのでたいへん迷惑だと抗議していたので ケネデイも前任者たちと同じように、よく反抗した。あった。だからこの日、公式の車でもほかの車と同じ 大統領に就任した晩、独立の行為をしようとさえした。 ように、赤信号の前には停止しなければならなかった。 の午前一一時ごろナゾのように姿を消し、シークレット・ また、七二番街の角では、信号のため十字路で車が動 ス サ 1 ヴィスの護衛官の間に、まぎれのないパニックをかないのにつけこんで、一青年が大統領に近づき、護 ダ ひき起し、彼の″かわい子ちゃん″に会いに行ったと衛の警官が阻止しないうちに、カメラを突きつけて写 「諸君の義務をつづけたまえ : : : 0
人の皇太子、十三人の政府主席、無数の閣僚や顕官が、汝のしもべ、ジョン・フィッツジェラルド・ケネディ 4 五十三カ国を代表して世界の至るところから、聖マタを守りたまえ」という言葉をそえた小さなカードがお〃 てあった。故人は全ワシントンの前で新大統領とし イ教会でおこなわれる葬儀に列席するためにやってきい て、墓地まで徒歩で、遣体に従って行列した。ケネての宣誓をしたとき、この同じ言葉をのべたのであっ ディが生前、むなしくワシントン訪問を待ちわびてい ポストンの大司教クッシング枢機卿がミサをあげた。 た近寄りがたいドゴールもいた。フルシチョフの感動 的なメッセ 1 ジを携行してきたソ連のミコャンもいた。十年前、ジョンとジャックリ 1 ヌを結婚させたのも、 フルシチョフはみずから参列しようとしたのだが、アこの同じ大司教であった。また、ルイジ・ヴェナが、 メリカ側は危険があまりにも大きいと判断して、思い結婚式のときと同じく「アヴェ・マリア」を歌った。 とどまらせたのであった。たしかに、これらの国家元ケネディ″王朝〃の首長である父親を除けば、家族全 首すべての身辺を保護するため、異常な措置をとらな員が集っていた。父は、マヒ状態で動くことができな ければならなかった。彼らは数時間で決定され実行さかったが、アイルランドの縁者で看護婦のメアリ・ア ン・ライアンもきていた。特別機がシャノンに彼女を れたアメリカ行きで、危険をおかし、不便をしのんだ のであった。ワシントンでは、ロシア人に対する民衆さがしに行ったのであった。 故大統領の母方の祖母フィッツジェラルド夫人、ポ の怒りの動きを危惧し、共産圏諸国の大使館は厳重に 保護されていた。とりわけ、ドゴール将軍に対する暗ストンの有名な政界人の未亡人は、九十六歳の高齢の ため、孫の死を知らされておらず、この日になっても、 殺計画という風説が根づよく流れていた。 宏大な教会の各席には、故大統領の写真と「一九一ダラスの惨劇を知らす、ケネディがまだ生きていると 七年五月二十九日ー一九六三年十一月二十二日。神よ、信じていた。 こ 0