ーロッパ、小アジア、北アフリカに旅し、第二次世界大戦中 のはなかった。その冬の日は、はたして人間がたえしのぶこ はアメリカ陸軍に属し、耐寒服装、装備の考案にたずさわ とができるものかどうか。この緩慢な、しかしのつびきなら り、日本にも進駐した。南極の国際観測がはじまるとともに ぬ危険と困難に身を投じて、見事にやってのけた記録が Paul アメリカ代表として活躍。著書、 A Boy Scout with Byrd. SipIe: 90 。 South, The Story the American South Pole 1931. Scout to ExpIorer. 1936 ほか。 Conquest. New York. 1959 である。 全三十章のうち、ここには、第一章と第七章の一部と、第 かのういちろう 十章から第二十九章までを訳出した。 海兵からなる建設、設営隊と、若い学者からなる科学隊、 一八九八年大阪市に生まれる。一九二三年北大農学部 この二元的な南極隊をうまく統率しえたサイプルの背後に 卒。朝日新聞大阪本社勤務。雑誌「山とスキー」「ケル は、南極で三冬九夏をすごし、成人してからの五分の一の年 ン」を創刊し編集。のち札幌に移り、訳業にしたがう。著 / 1 ドの影響力が大きか 月を極地にすごした経歴とともに、・、 書『氷と雪』『極地の探検』ほか極地関係の訳書おおし。 ったことと思われる。海兵隊側のリーダーであったジョン・ タックもまたダ 1 トマウス・カレッジ出身の、地理学がすき浮かぶ氷島 だという二十四歳の好青年であったことも、サイプルには助 カール・ロダールはナンセンやアムンゼンを生んだ探検王 けとなったことである。 しかし軍側との折衝においてサイプルは、しばしば煮え湯国のノルウェ 1 に生まれ、早くから極地の世界に魅せられた をのまされ、苦境に立たされている。現地隊長と運営当事者若者であった。その後、極地医学と栄養学を学び、科学者と して探検家を夢みた彼は、後年、スウェーデンやデンマーク とのいごこざは、いつの探検隊にもあることだが、この場合、 の北極探検隊に加わって極北の地に若い情熱をもやしてき 海軍側の事情は Dufek, G. 】 Operation Deepfreez. 1957 , た。一九三八年にはグリーンランドで越冬し、狩猟民族とそ New York を見るとよくわかる。 の食料となる動物のビタミンをとりあげて、人体生理学的な サイプルは一九〇八年オハイオ州モントビリアの産、 問題を研究した。第二次大戦になると、。ハラシュート部隊に ドの五回の南極探検に参加したほか一九三二ー一一一三年にはヨ
ラサレフ . ( ノルウ = ー ) ー」ソ連 ) = ポードワン王 - 二べレギー ) ヘルグラノ - 、 = : / 工ルスワース予 を ( アメリが ・サウスアイス 。 ( イ判ス ) & - モーソン ( オーストラリア ) オーストラリ刀 ソピエッカヤ ( ソ連 ) 0 アムンセン・スコット ールヌイ コムソモルスカヤ第 ( アメリカ ) ポストーク ピオネルスカヤノ - アシス ( ソ ( ソ連 ) ( ソ連 ) ウイルクス ラクマート・ ( アメリカ ) つ、・ . : 嶽アヌリがをスコット ( ニュージーランけ シャルコー ( フラン 7) 00 ′ / ヾード ( アメリカ ) 9 い W アメリカ ( アメリカ、 ニューシーランけー・一 南極大陸 IG Y 基地 0 ー繝ー刪 0 180 。 ドウルビール ( フランフ ) 二機にて二度目の極点飛行 リチャード・ ードほか十一名 一九五六年十月三十一日、アメリカ海軍 R 4 D ケ セラ・セラ号にて四十五分間、極点初の着陸 ジョージ・デュフェーク指揮官 コンラッド・シン 操縦 ドーグラス・コルディネル観測 ほか四名 一九五六年十一月二十日、 R 4 D 二機、極点付近 に着陸前進隊八名と犬そり一組を輸送の操縦士 コンラッド・シン ロイ・カーチス 南極点基地を建設した人 一九五六年十一月二十日、極点より十二・八キロ 8
ウェッデル海 シャックルトン ( イリ ( アメリカ ) : 才・廴 ・。フィルヒナ / コ、サウスス ( ィをリス ) 300kn1 ・エジス . ロンネ ェルスワース / し、イランドを 9 ( ) 。 W アムンゼン \ 、スコット ( アメリカ ) 極心 / ←ドランド 七世島の , メリカ 極点を目ざして一。 = 。、
ックはいつも土曜の夜のうちにステーキをとり出して もちろん放送からもニュースをきき、娯楽番組やべ ースポール、フットボールなどのゲームを 0 や 日曜の昼までにはとけて、隊員が自分で料理できるよ ニュージ 1 ランド、オーストラリアからきいた。モス うにした。オスポーンだけは毎日欠かさず仕事をつづ けた。「はたらくのが何よりすきなんだ」と彼はいう。 クワからの巧妙な宣伝用の英語放送も入ってきたが、 日曜の午後全部とウィーク・ディの数時間、一人かすくなくもその音楽放送はいいものだった。 ところですべてのラジオ通信のうちでも、隊員たち 二人はいつもハムセットをとり出してアメリカのハム の最高のよろこびは友人や恋人との通話であった。信 と交信し、自分の家族や友人たちと電話をしていた。 最初の定時交信はニュ ] ヨーク州の北シラキュースに頼のできるジュール・マディーのほかアメリカ中から 住むポール・ブルームであった。この人とその友人となお幾人かのハムと接触できるようになった。呼び出 は南極にいる全部のアメリカ人にとっては思いがけぬしをうけた人は自分の家からハムのところまでの電話 幸せであった。この人たちはアメリカの赤十字の手を料を支払わなければならぬので、できるだけ近いとこ へて、家族や友人からわれわれにあてた手紙をうけとろの ( ムを見つけることが経済的に有利である。希望 って、送信してくれた。無線の状態がわるくて通話がの町の近くにハムを見つけることのできない人は、た できぬことがたまにあっても、・フルームは電信を送受とえばミネソタの友人と話をするのにニージャージ してくれた。彼と、彼が働いたり寝たりしている間は 1 のハムを使うよりほかなく、したがって三十分以上 その友人がわれわれのキャン。フへの、ほとんど毎日のも話をしていると、その長距離電話料はすごく高いも 訪問者となってくれた。この人たちからわれわれは世のにつく。これがわたしの頭痛の種であった。ハム通 界のあらゆるニュ 1 スをうけとり、また他の基地から信のもう一つの問題は、われわれの方からの呼び出し のだいじなお話をきくことができた。 は、こちらの午後であるが、それはアメリカの東海岸 ノ 36
はくめい 午前後には薄明があった。それから二カ月間、リト ル・アメリカでは本当にくらくなるが、なお北の方、 ロス海のあたりには赤味がかった青白い光がさしてい 十五箱の中の人間 た。そのころの太陽は正午には地平線下わずかに一二 度のところにあった。 「まっくらになるんですか。」海兵の一人は極点につ しかし南極点ではわれわれが直面する暗さはもっと くなり、わたしにこうたずねた。 暗く、もっと長く続くだろう。リトル・アメリカでは 「しじゅうそうではないんだよ」と教えてやったが信四カ月であるが、ここでは六カ月であり、六月二十二 じかねるふうだった。 日、太陽がいちばん遠ざかる時には、それは地平線下 わたしのこれまでの南極の越冬の経験は、ロス氷床一二度ではなく、 完全に二三度半となる。グレーア のクジラ湾に遠からぬリトル・アメリカに限られてい ーマ 1 半島にあるイギリス、アルゼンチン、チ た。そこから内陸へ千三百キロへだてた地理的南極点 丿 1 の基地は南極圏よりも北にあるので年中、毎日、 につしゆっ での、地球の歴史はじまって以来の最初の越冬では、 日出、日没がある。もっとも日はそう高くはの・ほらず どんなことが起るだろうか。 六月二十二日の冬至には日は長くはないけれども、な わたしはリトル・アメリカで三たび越冬をした。そお毎日、数時間は光がさす。アメリカのウイルクス基 ールヌイ こでは四月の終りから四カ月、太陽はかくれていた。 地、フランスのドウルビル基地、ロシアの、、 度冬夜のうちのはじめと終りの一カ月は、一日数時間 とオアシス基地、オ 1 ストラリアのモーソンとデービ 緯戸外で仕事ができる明るさが十分あった。五月には太ス基地、日本の昭和基地、ベルギーのポドウイン基 陽は毎日、地平線の下ふかく沈むのたが、それでも正地、ノルウェ 1 のモ 1 ドハイム基地はみな南極圏に近 111
うかと、出席者のすべての眼はわれわれの方にあつまな設営作業であることは明白であった。 ってきた。しかしわれわれが先のローマの会議で非公 式にあきらかにして以来、アメリカ政府の態度にはす こしも変りはなかった。 会議の議長をつとめていたフランスのラクラベ教授 はこれをおさえて、ロシア代表に向きなおり、頭をふ って「残念ながらわれわれはすでにアメリカ合衆国が 南極点基地を建設して、人員を配置する申出を受けい れている。二つの観測所があっていいとは考えられな い」と申しわたした。実際にはアメリカはまだそれほ ど深くはかんがえていなかったのであるが、後になっ てロシアが議長の修正案をうけいれて地磁気南極点に 観測所をたてることがきまったために、われわれの責 任はいよいよ重くなってきた。 会議がおわってひきあげるとき、わたしはこうなっ ては、「不可能をなしとげる」よりほかに道はないこ 度とをあきらかにした。何としてもわれわれは極点に自 齠給自足の集落を建設してアメリカ人を住まわせなけれ 。ならない。これは歴史あって以来の、もっとも困難 3 2
だけでもそうである。さらにまた両極ちかくの高緯度地殻は次第に薄くなり、大陸は移動しにくくなる。 6 「では、そういう間に、磁極はいったいどうなってい に石炭層が発見されたことや熱帯地方の同時代の古い 氷河作用の証跡は、極地の移動に、より多く負うとこるのであろうか」との疑間が出る。 ろがあるとわたしは思う。もちろん極地方に石炭が見堆積物や火山噴出物のなかにふくまれている鉄粒子 つかったり、インドやアフリカや南アメリカの暖帯に が地球の北と南の磁極にしたがって定位していること 氷河作用が見られるのは、中緯度地方の陸塊にはたらは、地質学上の証拠によって十分に証明できる。幾千 く遠心力の結果、地殻がその下の溶融状の地殻上を動万年のあいだに堆積した地層が示すところによれば、 いたことにもよる。もしそうだとすれば、このようなその粒子の定位から、磁極はかなり移動したばかりで 移動があれば、地球はバランスをとりもどそうとし、 なく、ある時期には、あたかも磁極が極性をかえたか その結果、新しい方向から動いた陸地に遠心力が作用のように、堆積物のまわりを完全にまわって歩いたこ するだろう。 ともある。わたしはかねがね磁極は、回転軸と主軸の ウェゲナーの大陸漂移説とはちがい、わたしの仮説変化する位置を調整し、これを追いかけて動いている は、極の移動につれて大陸は、ある時はこっちから、 ものと考えていた。地球の全磁場の焦点である磁軸極 あるときはあっちから押しまくられ、その周縁部や内は、地理的極点からはおよそ一二度はなれているが、 部の弱いところで、しわがよったり、曲ったり割れたしかし実際にうごく磁極はさらにそれより二倍ちかく りするものらしい。過去の地質時代のあるときには、 離れており、しかも南北正反対の位置をとってはいな そういうふうにして南極大陸に森林や湿地帯があった 。磁極は地球の磁場と地殻のなかの磁性をおびた各 ものが、今日は人の住まぬ環境になっただけのことで種のローカルな地層との歩みよったものと思われる。 ある。だから地球がだんだん年代をへていくうちに、 わたしはもし地球がいつも今日まわっている軸を中心
に計画された三つの連鎖の礎石となるものである。南であり、それはいまだかって人間の生きたことのない 極大陸の内奥部の気象については知られるところまこ温度である。 とにすくないのであるから、この基地は南極気象につ 一九五四年の九月にローマで—の国際会議がひ いて歓迎すべき情報を提供してくれるであろう。そしらかれるまでには、南極点基地をどうするか結論がで てまた実際に極点では、大陸のどこよりも長く、六カていなかった。この会議ではじめて各国の代表者は、 月間も暗黒がうちつづくから、太陽の不在が電離層に地球観測年に観測をおこなう場所を公けにしたのであ どんな意味をもっかを知るのに絶好の機会となるである。その会議の席上で、南極点基地の建設をやる国の ろう。それにまた、かってわたしが学術会議で指摘し有無が問題になった。この発問がなされたとき、各国 たとおりに、南極点にいたる道は非常な危険をはらんの代表者たちの顔には、さっとほほえみが流れた。そ でいることは、おおうべくもない事実であり、そのこの時ひょっこりアメリカ代表が発言をもとめた。「た とはアメリカ人のにたいする熱の入れ方を示すしかなことはうけおえないが、われわれは政府に要望 ことにもなる。そこに至る氷河の道はクレバスに満たしてみるつもりだ。」 されている。たといトラクターで、アムンゼン、スコ 国防省への打電の返答は、たしかなことはいえない ット、シャックルトンのとった道にそうて行くとして が、アメリカがやってみようとしていることだけは、 わずかの積荷しかつめないだろう。ドラム罐の一つか会議で発表してもよいだろうという程度のものであっ 二つ、あるいは数百キロの食料。これでは観測基地をた。もちろんこれは責任のある回答ではない。このよ 度建設し維持する適切な方法だとはいえない。その上、 うな基地の建設にあたって、どんなことが起るか見当 緯もしも故障がおこったら、トラクターの不凍液は凍るもっかないのに、アメリカ政府としては、これ以上にノ にちがいない。何しろ気温は氷点下七〇度にも下るの積極的な態度はとれなかった。
われわれだけが仕事をしているのではなく、十一カ 8 国によって四十以上の *ch>«観測所が南極大陸に越冬 隊員を出しているのである。フランス、イギリス、べ 二十一雪三千年 ルギ 1 、チリ、アルゼンチン、オ 1 ストラリア、ニュ ロシア、南アフリ 1 ジーランド、日本、ノルウェ 国際地球観測年の仕事は、七月一日のものすごい磁カ共和国からそれそれの隊員が来ている。極点 リ . 、トー 気あらしと太陽黒点あらしによって口火をきっておと基地にいるわれわれアメリカ隊は、マクマ 1 ト エルスワース、ウイルクス、 きれた。これと時をおなじうして、この上なく壮大なル・アメリカ、バ 1 ト ハーレ 1 基地にそれそれ仲間をもっている。そして 赤いオーロラが出現した。方位格子の北の方にむいて 空の大部分が霧のように赤くゆらめき、南西の方にはの仕事は各国の観測所とのあいだに完全な協力が 弱い赤色の輝きがあった。赤いオーロラは、地平線の行なわれているのであって、これはいたるところに演 下にかくれた大都会の灯が反射するのによく似ていてぜられている政治的な竸合による敵意とは著しい対照 時々天頂にむかって黄緑色のコロナが射した。 である。アメリカの気象学者が東経九〇度ちかくの 地平線のうえに血のような赤い色が、暗黒につつまウイルクス・ランド沿岸にあるミールヌイ基地にロシ れて見え、頭上には電気的なあらしがおこり、まったア人とともに暮し、リトル・アメリカにはロシアとア く—プログラムのはじめにふさわしい景色であっ ルゼンチンから学者が来ている。またハ 1 レー基地で た。国際地球観測年は太陽黒点の最大になる時期と一はニュージ 1 ランドと仕事を分けあっている。 ・致するように設定されたのであり、発足のその時から グレーアム・。ハ 1 マ 1 半島には観測所が密集 それが起っていることがラジオによって知らされた。 して、所によっては背中あわせになっているのにくら
べて、極点基地ではわれわれは他の観測所と遠く遠くれの場所は、南極大陸中でも、もっとも長い暗黒期間 はなれており、一番ちかい隣人は八百五十キロのサウをもっている点で、特別な寄与をすることとなる。 ス・アイス基地に三人いるが、これはフックス隊長の 極点基地の六カ月にわたる冬夜の特異性は、電離層 いるイギリスのシャックルトン基地の出張所である。 のプログラムでもっとも重要な意味がある。というの ードランド 千六十キロ離れた。ハード基地は、マリしハ は太陽は上層の大気の稀少ガス体のイオン化に大きな にあって、二十三人が越冬しているが、これが一番ち影響をおよぼすからである。六カ月間の暗黒がイオン かいアメリカ人である。南極観測所としてに公化を低下させて、通信ができなくなるのではあるまい 認されているところは、南緯三七度におよんでいる か、またこの中心的な位置は、多くの現象が地球の軸 が、それはわれわれから五千九百キロ離れている。 にたいして集中的な型をとる点からも意義ふかいもの 南極点基地の科学上の作業は、地球をとりまいて行となる。 なわれる同時観測のくさりの一環にすぎないのであり そういえば南極大陸にあるアメリカの—ch>* 基地の その観測とは、気象、電離層、極光、夜光、地磁気、位置はたいてい何らかの意味で特別の寄与をするはず 地震、雪氷の各部門である。たからわれわれが、雪のである。われわれのいる南極点基地は内陸気候と電離 大陸のどまんなかでやっているのは、ただの小さな点層の研究に絶好の場所であるし、リトル・アメリカは の役割でしかないのである。けれどもある意味ではこまたオーロラの現象を研究する機会にもっともつごう こは致命的な点である。というのはここは三つの世界のよいところである。リトル・アメリカはまた無線通 度の経度観測のアンカーをなしており、また南極点基地信のセンターとしての設備をそなえている。それは南 囀は観測所網のなかで三千二百キロのギャップを極にある他のすべての気象観測所からの同時、同精度 うめる肝心かなめの所なのである。そのうえ、われわの観測報告をあつめて分析し通報する南極気象センタ