ように、自分たちの権利を国家に譲り渡すことに満足り、後に政治局の委員となったミハイル・トムスキー していた。 が起草した一九二〇年一一一月の綱領に概略されている。 ~ 国家は所有され、したがって管理される、そしてそ彼は次のように提案した。単独管理制が容認されるま の管理は、党に選ばれ、党に奉仕する管理者の仕事でれな場合を除いて、上部機関から下部機関に至るまで、 ある、とレーニンは考えた。そして、一九二〇年当時、つまり、全ロシア国民経済会議や政府最高機関から個 共産党の党員は六十万人であった。 個の工場に至るまで「工業の共同管理」の「基本的原 一方、労働組合の組合員は、一九二〇年当時、三百則」が適用されるべきである。しかし、労働組合は、 万を数えていた。そして労働組合や党上層部には、労労働組合と政府最高機関との間に、重複と「有害な」 働組合、つまり組織した労働者階級が国民経済の非農まさつを避けるべきである。そして最後に、労働組合 業的分野を指導する主たる役割を演ずべきである、と は、経済を復興させるために、「あらゆる方法をつく 考えていた人びとがいた。この問題は、一九二〇年として、労働軍の仕事と、労働者徴発制度の導入に支援 一九二一年のソヴェトの政治をゆるがす論争をひき起を与えなければならない。」 こし、それはンヴェト史に傷跡を残すことになった。 これは、日和見的主張であった。トムスキ 1 は、単 反対派は、工場の単独管理制というレーニンの考えに独管理に賛成したのである。一九二一年の時点で、彼 反対し、その代案として、専門技術者と組合が選任しがレーニンと手を結ぶことを妨げるものは、ほとんど た労働者とからなる合議体、ないしは委員会が行なうどこにも見当らなかった。 管理を提案した。レーニンはこれに反対した。 労働者反対派は、もっと過激な態度をとった。この 労働組合主義の公的な見解は、全ロシア労働組合中派は、元労働人民委員、前商工人民委員のア・ゲ・シ 央委員会の議長であり、共産党中央委員会の委員であ ル , 「・ウ . イノ リヤ。フニコフ、金属労働組合のユーリ 1 ・
るという。スモーリヌイはすでに放棄されたという噂た : もあ 0 た : ・ : ・すべての政府機関は機能を停止していた。社会革命党は、ソヴ = ト大会に残留した全党員と、 1 リヌイから来た委員た蜂起に参加した全党員の除名を決議していた・ : 国立銀行の従業員たちはスモ ちのもとで働くことを拒否し、委員たちに金を支払う地方からのニ = 1 ス。モギリョフはポリシエヴィキ ことを拒んだ。私立銀行はぜんぶ閉鎖された。各官庁に反対の態度を宣言した。キ = フでは、コサック兵が ソヴェトを打ち倒し、蜂起の指導者を全員逮捕した。 はストライキをつづけていた。ドウーマの委員たちは いまだに方々の会社をまわって歩き、ストライキ中のル 1 ガのソヴェトと、三万名の駐屯軍は、臨時政府に 忠誠をつくすことを宣言し、ロシア全国にむかって臨 官吏に給料を払うための資金を集めていた : ・ トロッキーは外務省へ行って、平和に関する布告を時政府の周囲に結集せよと訴えた。カレ 1 ジンはドン 諸外国語に翻訳することを命じたが、六百名の役人は地方のすべてのソヴ = トと労働組合を解散させ、その トロッキ 1 の面前に辞表を叩きつけた : : : 労働人民委軍勢は北進をつづけていた・ : 鉄道労組の代表の一人は言った。「きのうわれわれ 員のシュリャープニコフは労働省の全員にむかって、 二十四時間以内に各自の持場へ復帰せよ、さもなけれはロシア全国に打電して、政党のあいだの争いをただ 蹴ば地位と恩給の権利を失うだろう、と命令したが、こちに中止することを要求し、社会主義連合政府の樹立 十 れに応じたのは門番だけだった : ・ : ・特別食糧配給委員を主張しました。この主張が通らなければ、あすの晩 し からストライキを断行します : : : あすの朝には、この 会のいくつかの支部は、ポリシエヴィキに服従するよ ゆりも仕事を中断するほうをえらんだ・ : : ・電話局の交換問題を検討するために政党間の話し合いが行なわれる 界手たちは高給と有利な労働条件を約束されたにもかかでしよう。ポリシエヴィキは話し合いの成立を切望し わらず、ソヴェトの本部に電話をつなごうとしなかっているようです : : : 」
でいる。また「労働者反対派の綱領は、工業の管理を部の「三分の一から二分の一」が「同一人となら」な 労働組合の手に集中させたいという、まったく適切でければならない。 正しい主張に基いている。」しかしそれによると、各その提案の第二点は次のようなものであった。「こ 工場と共和国の最高経済部門の管理にたずさわらせるのようにして、党の諸機関が、諸事の一般的な指導権 ための労働者代表の選挙が行なわれることになるのだを完全に保ちながら、個々の組合の仕事に干渉せずに が、これは、「発案者たちの意図にかかわらず、各工すむような情況が作りだされるであろう。」 場を孤立させ、中央集権的経済機構を破壊し、党が持その上、「すべての専門家は、例外なく労働組合と っ労働組合と経済に対する支配的影響力を失わせるこ いう濾過器を通らなければならない。」 これは、レーニンにとっては異端を、そしてもし実 とになるであろう。」だが、われわれトロッキー壥フ ハーリン・グループは、そうした提案の代わりに、「エ行されたなら、彼の権力の纂奪を意味した。彼は、す べての任命は、党という濾過器を通さなければならな 業の管理を漸進的に労働組合の手に集中させること」 いと考えていた。党は、歯車のすべての動きに「干渉」 を、またそのようにして「労働組合を労働者の国家の 組織」に変えることを、「すなわち、ソヴェトの諸機しなければならない。組合員の大部分が共産党に属し 関と労働組合の漸進的融合」を提唱する。 ( これは、 ていない組合によって産業が管理されるなら、党の最 すなわち、・フハ 1 リンが労働組合の「国家化」、「政府高権力は欠けていき、しまいには消減してしまうだろ 化ーと呼んでいたものである。 ) また「労働人民委員う、とレーニンは考えた。レーニンはあらゆる手段を 部は、その基本的な役割が労働組合に移ると共に廃止つくしてこれと戦い、これを甘受するくらいなら辞職 される。」そして、「ただちに」全ロシア労働組合中央したほうがましであると考えていたことを、トロッキ 評議会と政府の全ロシア国民経済会議の双方の最高幹 ーは知っているべきであった。政府と労働組合とのト 8 6
のツェ・イー・カー ( 中央執行委員会 ) の会議で、左翼 十一月七日の革命の成果ーーすなわちソヴェト政 % 社会革命党は、ポリシエヴィキは他の社会主義政党と ともに連合政府をつくるべきだと主張した。さもなけ府の樹立、平和と土地と労働者の産業管理にかんす る布告、および労働者階級の武装ー・ーを承認する労 れば、左翼社会革命党は軍事革命委員会とツェ・イー 働者・兵士・農民代表ソヴェトからすべての社会主 カーから脱退するというのである。マ 1 ルキンは言っ 義政党の代表が政府に参加することが必要であると、 た。「われらの同志たちがバリケードの両側で死んで ツェ・イー ・カーは考える。したがってツェ・イー いくというモスクワからの報道を聞いて、われわれは カーは、ソヴェトのすべての政党にたいし政府の構 もう一度、政権の組織の問題を持ち出さざるをえない。 成にかんする交渉を開始することを決議し、その基 そうすることはわれわれの権利であるばかりか、われ 礎として次のような条件を主張する。 われの義務でもあるのだ : : : われわれはポリシエヴィ ・カーにたいして責任を負う。 キとともにこのスモ 政府はツェ・イー ーリヌイ学院の議席にすわり、こ ツェ・イー ・カーは百五十名に増員される。この百 の演壇から語る権利をかち得た。もしも諸君が妥協を 拒否するならば、われわれは苦々しい党内闘争ののち、 五十名の労働者・兵士代表ソヴェトの代表に、七十 公然たる外部闘争に転じることを余儀なくされるだろ 五名の農民代表地方ソヴェトの代表、八十名の陸海 う : : : われわれは受諾できる妥協条件を、民衆にたい 軍の戦線組織の代表、四十名の組合代表 ( 各産業の して提示しなければならない : 全ロシア組合からその組織数に比例して二十五名、 この最後通告を考慮するために会議はいったん中断鉄道労組から十名、逓信労働組合から五名 ) 、そし て五十名のベトログラード市ドウーマの社会主義諸 され、やがてポリシエヴィキは決議をたずさえて戻っ 団体代表が追加される。内閣そのものにおいては少 てきた。カーメネフがそれを朗読した。
レ ツキー主義的な融合は、労働組合を壊減させることわされた。内戦と農民の不安が一九二〇年の終りを画 になるか、それともそれが官僚主義を振り回すことがし、一九二一年初頭の二、三カ月が転換点となってい できるようになるか、どちらかであった。この提案た。多くのプロレタリアは、社会主義下での労働者の ための権力か、官僚主義的独裁か、という鋭く対峙す は、労働者反対派が提案した権力の分散に反対して、 中央集権を主張するものであったのだが、それは、レる二つの路線の対立に、意識的に、あるいは半無意識 ーニン的な中央集権ではなかった。それによっていた的に気づいていた。平和のおかげで話し合ったり、争 ったりすることができた。人びとは、これがソヴェト なら、中央集権的な「労働組合国家」が、党とプロレ タリアとの中間に立っていたことであろう。だが、レ国家の形と運命を決める歴史的な時であることに気づ ーニンはその提案をはねつけた。彼が好意を示したのき、みずからも、その未来に手を染めたいと望んでい は、最大限の統制のもとで筋金入りの共産主義者が支た。「私がそのことについて質問すると、誰もがすぐ 配する直接的独裁だけであった。労働組合は、組合員に、まるで集会の群集に向っているかのような調子で を学校に連れていくこと以上に重要な仕事を任せるに私に話し始めるのだった」、と労働組合論争の趨勢に は、あまりも大きすぎるし、またあまりにも分散しすついて質問していたランサムは書いている。そして彼 ぎていた。トロッキーは敗れ去る運命にあった。彼のは、最後に次のような三つの要素を指摘していた。 ( 一 ) 工場労働者が専門技術者や管理者をーーー彼らの命 綱領は、党至上主義者の反感を買ったばかりでなく、 ン党国家から権力を引き抜いて独立した労働組合を作る令は労働者たちにとってなんの苦にもならなかったの ことを望んでいた、民主主義的労働者にも満足を与えだがーーー免職にするという結果をもたらした一九一七 年の考えは、二、三の変り者を除いてほとんどのもの 9 なかったのである。 それにもかかわらす、論争は続いた。国中がかきまが支持していなかった。そうした考えや、それがもた
らした不正行為つまり仕事のサポタージュや、管理者から来たものだった。彼らは、資本主義を求めて騒ぎ を袋の中に縫い込め池に沈め、手押車で運び去るとい始めた。 ったような出来事は、すでに歴史上の骨董品として過 だが、レーニンは、農村で資本主義に応じていなが 去のものとなっている。」 (ll) 「 : : : 工業労働力の徴ら、同時に工場で社会主義に応ずることが、どうして 用制は、 ・ : 少くとも共産党内部では、一般に当然のできただろうか ? また彼は、農民の自由取引を許可 こととして受け取られているようである。」 ( 一一 l) 労働しながら、革命の目の中心である労働者を軍隊的規律 者管理制の是非はまだ論議されている。だが大多数のに服させることが、どうしてできただろうか ? こう 者はそれに反対し、党の支配下での単独管理に賛成して、結局は、労働者管理制も、工業労働力の徴用制 していた。 も、農村から吹いてきた風と共に去っていったのであ 労働者管理制は、社会主義的な理想を叫んだ過去をる。投票権を持たない農民が、反対派とレーニンの労 ほうふっさせた。一方、工業労働力の徴用制は、当時働組合綱領を否決したのである。労働者の徴発は、農 の経済的混乱という苛酷な事実を認識していた。軍隊民が反抗的である時には不可能であったし、そして労 的規律にもとづく労働軍と、自律的な規律にもとづく働者が従順であったために不必要であった。そしてラ 労働者管理制とは、互いに相いれない政策であった。 ンサムは言う。「労働組合主義者と共産主義者の双方 そして現実的な必要と惑的なイデオロギーとの選択を恐らせるために乱暴な言い方をすれば、ー労働組合 に迫られて、レーニンは、現実的なほうを選んだ。 は、「共産党が、大勢の工業労働者大衆にその恐怖や しかし、一九二〇年の秋ごろに至って、討議場外で希望や決定を伝達するためのメガフォン」となった。 の騒音が、銃声と叫び声とが、労働組合論争を押しつ メガフォンは大きかったが、しかしそこには血が通 ぶし始めた。騒ぎは、党にも、代表されていない農民っていなかった。 470
レ は不安定で信頼できないと非難した。スターリンはま 義をもたらした。しかも、それは、文盲がもたらし、 文盲でない者の不確かな忠誠心と怠惰なやり方とがもた公然と彼を攻撃した。一九二一年一月十九日付『。フ ラウダ』の論説で、彼は次のように言った。「われわ たらす悪しき官僚主義であった。 労働組合論争に関するレーニンの演説は、トロッキれの意見の相違」が問題になっているのは「労働者階 : これ ーと彼との意見の相違によって党の結束が脅かされて級の労働規律の強化の方法に関してである。 には二つの方法がある。すなわち、強制による方法 いたことを明らかにしている。世界とソヴェト人民に は、レ 1 ニンとトロッキ 1 は二人一組になってポリ ( 軍隊方式 ) と、説得による方法 ( 労働組合方式 ) とで シエヴィズムを象徴し、そして彼らが指導者となってある。 : トロッキーに率いられる党官僚の一派は、 いたのだった。 軍隊で軍隊方式の成功に酔って、その方式を労働者の 中へ、労働組合の中へ持ち込むことが可能であり、必 一方、レーニンとトロッキーの間の摩擦はスターリ : トロッキーの誤りは、彼 ンに希望を与えた。 要であると考えている。 が軍隊と労働者階級の差異を過小評価している点にあ トロッキ 1 は、初めはほとんどわからないほどゆっ くり、それからだんだん早く、自分の立場を変え、つる。」 いにはレーニンよりも労働者反対派の立場にーーその スターリンとレーニンとトロッキーは、労働軍を組 どちらからも離れてはいたのだがーー・・近くなった。自織するという党の決定に賛成し、それを実施した。た がもはやトロッキーは、労働徴発を支持していなかっ ン分の政治的見解を変えたほとんどの共産主義と同じよ ニうに、彼もまた、自らの変化を情勢の変化のせいにした。つまり彼は、国家機関化された労働組合による管 理を支持していたのである。だが、スターリンはこの 3 ていた。しかし、スターリンは、それを過去の反レ 1 ニン主義的時代への復帰であると呼んで、トロッキー ことに注意を払いたくなかった。そして、強制の使徒
た。そして彼は言う。「同志トロッキ 1 が」この問題もこんな「思慮のなさ」で ? それは「基本的に誤っ 0 にあまりにも性急に取り組み、十分な準備もなしにそている」のである。そしてこうしたふるまいをしては ならないのだ。」とレーニンはいった。レーニンは、 の考えを中央委員会に提案して採択させたことを「私 トロッキーの言葉と論調に反対した。「トロッキーと は強く非難する。」このことは「われわれの誰にでも 起こっていることであり、また、再び起こることなの争うのは有害であるから、しかもわれわれにとっても、 党にとっても、共和国にとっても有害であるから、た である。なぜなら、われわれは大急ぎで仕事をしてい るからである。誤りは大きいものではない、われわれぶん私は双方の『緩衝者として行動し』、論争には加 は皆急いで行動したのだ」と。それだけに党を派閥にわらないですむかもしれない、と以前には言っていた 力」トロッキーが攻撃を始めたからには、私は、発 分断するような論争には用心が必要となる。 「なぜならば余り激しやすくない人間でもーーーこれは言しなければならないと、彼は感じたのである。 一九二〇年十一月にトロッキーは労働組合内に「ゆ 私の論敵」 ( トロッキー ) 「については、そうはいえな トロすぶり」を行なわなければならないと言った、とレー いがーーー・容易に誤りにおちいるかも知れない。」 ニンは引用して続けた。「トロッキーはこういう言い ッキ 1 は労働組合役員のミハイル・トムスキーとソロ モン・ロゾフスキーとに対して、排他性と、新来者へ方をして、誤りを犯した。この場合、こういう取扱い の敵意と、官僚性とを批難した。彼等二人が労働者を方が分裂を引き起こし、プロレタリアートの独裁をく つがえすだろうということは政治的に明らかである。」 労働組合の指導部から遠ざけたことは事実である。 レーニンが大衆討議に付すことを反対したのはこのた しかし「トロッキ 1 のように高い権威を持った重要指 めであった。彼は委員会で討議することを望んでい 導者が、こんなやり方で党員を攻撃することは正しい た。「だが、同志たちはこう言った。『だめだ、どうし ことなのであろうか ? 」とレ 1 ニンはたずねた。しか
レ フおよびエス・メドヴェーディエフに指導され、そし批判に立ちかえることによって党の活動を矯正する方 て労働者の中のただ一人の知識人であり、貴族的なふ向に向って、突き進むことになるだろう。」 明らかに、 コロンタイとその友人たちは、労働組合 るまいと激しい反逆精神を持った女権拡張論者である により多くの関心を寄せていた。ソヴェト国家の原動 美しいアレクサンドラ・コロンタイに支援されていた。 彼女は、レーニンがうんざりするほど、自由恋愛を説力である党の内部の状態は、彼らの心を乱していた。 き、そしてそれを実践した。当時、彼女はシリヤ。フニ彼らは、労働組合が独立した機能を営むことを、した コフと同棲していた。彼女は、労働者反対派の立場をがってせめて限定された権力でも手にすることを望ん 小冊子で説明し、次のように書いている。「結局、新だ。そして彼らがこれを望んだのは、労働者や労働組 しい経済形態を作るよう要請されているのは誰なのか、合のためばかりでなく、党のためーーもしそれがあら それは、心理的に過去に東縛されている専門技術者やゆることをするなら、官僚的に硬化し、政治的に専制 実務家や、少数の共産党員を含んだソヴェトの官僚た的になるであろうーーーでもあった。 ちなのであろうか、それとも、労働組合によって代表労働者反対派は、民主主義的中央集権派の援軍を受 されている労働者階級の集団なのであろうか ? 」そしけた。この派の指導者は、一九一八年の・フレスト・リ トフスク講和反対派であり、教育人民委員代理であり、 て彼女は、共産党は「広範な労働者大衆の健全な階級 的な叫び声に耳を貸す」べきであると要請して、言っ後に教授となったヴ = ・エヌ・マクシモフスキー、一 ンた。「産業別労働組合の形をとった新興階級の創造カ九二五年から一九二七年まで右派反対派の代表者とな 共産党から閉めだされたペンキ屋のテ・ヴェ・サ によって、われわれは、国の創造力の再建と発展に向り、 って、また、異質分子を追いだして党自体を浄化する。フロノフ、それに、経済学者であり、やはりプレスト 3 方向に向って、そして民主主義と自由な意見と党内の条約の反対派であり、後にスウェ 1 デン駐在ソヴェト
が、「説得」をほめたたえていたのである。 持ちだしたのだ、とレーニンは言った。トロッキーと 4 レーニンは、スタ】リンの反トロッキ 1 主義に都合ブ ハーリンとはレーニンとジノヴィエフとに敵対して のよい背景を作った。「党は病気だ。党は熱病にかかおり、労働者はこの間で選択を迫られていたのである。 ここでレーニンは、一九二〇年十一一月三十日の集会 っている。われわれは、苦い真実を直視する勇気を持 たなければならない」、こうレ 1 = ンは、一九二一年に立ち返って、言った。その集会で私は、「われわれ 一月十九日に薄い小冊子の中で書いていた。この小冊の国家はじつは労働者国家ではなく、労働者・農民国 子を彼は、『党の危機』と題していた。そしてこの中家である」と宣言した。 で彼は、トロッキ ] を「分裂主義者」といって非難し すると、ブ ハーリンは「どんな国家だって ? 」と、 たのである。レーニンの辞書によると、この言葉は、 詰問してきた。 非常に重大であり、労働組合に関するトロッキ】の誤「じつは、私がまちがっていて、プ、 ノーリンが正しか った考えよりももっと重大なものである、とレ 1 ニン ったのだ」と、レーニンはその『党の危機』という小 は言った。提案を行なうこと自体は許されるべきだ。 冊子の中で認めた。「私はこう言うべきであった。『労 だが、党の多数の意志にそむいて、こっそりと同志を働者の国家というのは抽象的である。じっさい、われ 糾合することは、それとはまったく別のことであり、 われは労働者国家を持っている。しかしそれは、まず 許されるべきことではない。これをトロッキ 1 はやっ第一に、労働者ではなく農民が全人口の過半数を占め たのだ、とレーニンは主張した。 るという特異性を、第二には、官僚主義にゆがめられ トロッキーは、労働組合論争を党内に留めておかずているという特異性を持った、労働者国家である』 と。」 に、一九二〇年十二月二十五日付の『労働組合の役割 と機能』という小冊子の中で、この問題を広く党外に レーニンは、労働者が過半数を占める農民と官療と