で許されていることです。海事委員会にはすぐ、外組員と、補給・設備・修理のためアメリカ人実業家 2 に支払われました。数百万ドルがアメリカの税金と幻 国人グル 1 プが参加していることを通告しました。 私が代表している外国の会社が与える海運上の技術、して支払われた。株主への定期のささやかな配当を トロリウム・キャリアーズの利潤 除いて、・ペ 資金、その他関連事項で、船舶の購入が可能になっ は、財政上の拡張をまかなうため留保されました。 たのですよ。 r-n ・ベトロリウム・キャリアーズは、 この成功した海運事業は、いつのときでも、五十 三年間にわたって、合計三十万トン以上の船舶二十 1 セントの株をもつアメリカ市民によって所有 隻以上を購入した。船舶購入はすべて、会社、その され、支配されていた。いつのときでも、・ペ 役員、その国籍、外国人株主について綿密な吟味と トロリウム・キャリアーズの株の百パ 1 セントは、 調査ののち、アメリカ海事委員会の法律部によって 十分に再検討され、さらに海事検査院ならびに会社会社に対する引きつづきのアメリカ人支配を確保す る株主間の協定によって、アメリカの銀行の保管下 の主要な顧問弁護士によって承認されたものです。 におかれていました。船舶は数百万トンの国防用貨 その後の船舶の運航はすべて、海事委員会の規則に 従っておこなわれており、この規則では毎月の情況物を輸送し、一千人以上のアメリカ海員に職を与え たし、余剰船舶の会社への売却によって、アメリカ を委員会に通報することが必要とされています。 こうして生まれた企業は、船舶への投資が合計約政府は納税者のために、船舶の建造費用の三分の一一 をとりもどした。普通は、中古の余剰資産の処理で 三千万ドルとなり、その大半は現金で支払われた。 は、コストの十分の一をとりもどす程度ですがね。 これらの船舶から会社とその傘下機関は、五千万ド 納税者に負担をかけて、泥川で錆びつかせておく代 ル以上の総収入を得て、運航による利潤は二千万ド りにーー売れない政府所有の船舶はまだそういう状 ル以上。約三千万ドルが給与として、アメリカ人乗 0 、
なスキー場に行く途中の事故だった。ティ 1 ナは重傷合計約四百万重量トン、資産にして十億ドルを越える と推定される海運業が、単一の門閥に合同したことは、 を負い、鼻と両頬の骨が折れ、顔に切り傷ができた。 実にかたずをのませる出来事だったので、 ( この縁組 同乗の二人は軽傷を負っただけであった。 オナシスは事故の報に接して、自分の会社を改組しみに含まれぬあらゆる船主の ) あえぎが世界中に聞え るほどだった。つけ加えておくべきだろうが、むろん ていたニューヨークからすぐスイスに飛んだ。チュ リッヒで、スイスの一流の外科医ヨルギ・ロイディ教当時の合計は、トン数にしても資産にしても、今日で 授と、指折りの整形美容の大家を雇い、この二人がデはさらにおそるべきものになっている。 リケートな整形手術をした。当時の風説とはちがって、 公衆は、この " 王朝。の大きさを知ったとき、その ティーナはこの事故で取りかえしのつかぬほどみにく縁組上のつながりとお金の上での結びつきの背後には、 たくらみがあるのでは くなったのではなかった。実際、彼女の顔の古典的な何かーーおそらくは不吉な 美しさは、完全に復元されたのである。 ないかと思った。なるほど、王家の縁組にも似たこれ らの結婚には、強い政略的な要素もあったけれど、根 スタヴロス・・ニアルコス 本的には、「金持の青年が美人の遣産相続人に会う」 という方式にすぎなかったようである。しかも、それ が二度起った。二人組あったからである。 エフゲニ ー・リヴァノスが、富裕なスタヴロス・ tn ・ 0 、 0 、 / 」リヴァ シニアルコスのお目あてだった。大金持のギリシャ人海ともあれ、注目に値することだが、「 , ノスが時をうっさず、この女婿であり商売上の競争相 オ運業者オナシスが大金持のギリシャ人海運業者リヴァ 運ノスの娘と結婚したのち、同じく大金持のギリシャ人手である二人をひどく好きになったことはないようだ 海運業者 = アルコスがその別な娘と結婚し、その結果、った。それでも、娘の双方にかなりの持参金をやるこ
しかも、ギリシャ人の息子たちが世界的に海運に卓越る船はすべて百パーセント、ギリシャ人乗組員をのせ なければならぬという政府の主張にも閉口させられた。 しているにもかかわらず、ギリシャそのものの船籍に 彼らはこの規則により、水増し雇用をせねばならぬこ ある船は比較的少数であった。 二とや、その他について苦情をもった。 外国の港で運営しているギリシャ人船主は、一、 の例外はあるだろうが、政治的亡命者ではない。彼ら税金も集団的な紛争で大きな役割を演じた。大体に は大部分、アテネ政府と話し合える立場にある , ーーたおいて貧しく戦災をうけたギリシャ政府は、わずかし かない有望な財源のひとっとして、船主に対してかな だし両者の関係は総じて友好的というにはほど遠いが。 りきつい課税をおしつけようとした。 第二次大戦以来、海外に定住するギリシャ人船主は、 ノの相っ いくつかの点でアテネと仲たがいした。ひとつは、ギ 戦後の共産主義者の暴動やドラクマ (\ っ第 リシャ政府が戦時中のギリシャ船籍の船の喪失に支払ぐ平価切下げにみられるような、本国の政治的財政的 不安定を計算に入れると、オナシスやギリシャ人大船 うべき保障金の三割を凍結したことであった。船主側 は、自分の希望するところに再投資するため、全額を主の大半が海外で商売をする方をえらんだのは、見や うけとる権利があると主張した。政府は「いや、諸君すい道理である。 ヘラスの放 ~ 湯息子どもを、その船とともに父祖の岸 の船をギリシャ船籍にしておかなければならぬ。さも 辺につれかえすために、決然たる措置がとられた。一 ないと、資金の一部は銀行に凍結されたままだ」とい ス った。この指図に従うよりも、海運業者は自分たちの九五四年七月アテネ政府の出した政令のねらいは、さ オ手に入るものをうけとり、海外で新しい船の建造をはまざまの外国船籍に分散しているギリシャ人所有の船 のギリシャ船籍への大量復帰聖 運じめ、それをパナマやリべリアに登録した。 ーー・・・推定九百万トン 2 キリシャ国旗の下にあを実現するにあった。 国外に出た船主たちはまた、。
需要の点で近い将来に新たな一般的上向きが起らぬか これら諸国が国をあげて名儀だけの会社の役割に堕 ぎり、第二次大戦 ( あるいはそれ以前 ) の産物たる老落する光景は、船や海を愛する人々にとっていささか 朽したタンカー船隊が、長期にわたる不活動を運命づ悲しむべきことである。まやかしはまやかした けられるのは避けがたかった。そして大タンカーが建とえ、最高当局の祝福をもって、また必要の名におい 造されればされるほど、旧型や小型の船の遊休期間がて、おこなわれようとも。 長くなり、一般的になるだろう。 パナマは名儀だけの海運国としては、一番古い伝統 同じ意味で、伝統的な大海運国ーーことにアメリカ、をもち、最も定評がある。それは長年にわたって、高 イギリス、ノールウェ よ、。ハナマ、ホンデュラ い税金やコストからの逃げ場所を求め、賃金や安全基 ス、リべリアといったアウトサイダー諸国が登録トン準の点で安上りにすませたいとするアメリカやギリ 数でますます目ざましい増大を示しているのに、自国シャの海運業者にとって、都合のよい道具として役立 旗の下で航行するのが比較的高くつくため、今後長ら ってきた。 くその地位を保持するのが困難になろう。 人口八十万にすぎぬ中米の小共和国は、登録された これらアウトサイダー諸国は、ただ名前だけの海運商船隊の点では世界最大のひとつである。一九五四年 国であるーー・あるいはそうなるだろう。これら諸国の の年央、総数五百四十隻、合計五百九十三万一千重量 国旗をかかげて航行する堂々たる船隊は、まやかしでトンで、大海運国ノールウェーの運営するトン数を数 口実であるにすぎない。。、 / ナマ、ホンデュラス、リ べ十万トン下まわるたけであった。だが、両国の間には リアその他は、これら商船隊を所有ないし支配してい 途方もなく大きな相違がある。ノールウェ 1 に登録さ るのではない。 これら諸国に登録された船が、その国れた船のほとんど全部は、ノールウ = ー人によって所 の港を見たことはめったにないのだ。 有され、連営され、乗組まれているのに、。 ( ナマまた
差し値がうけいれられた。ほかに入札するものがなか 一九三一年はじめ、そのときまでにはアルゼンチン ったのだ。 市民になっていたオナシスは、スウェーデンの国家独 それは大した買物ではあったが、もし彼が即時にそ占専売公社に大量のタ・ハコを売りこむため、スウェー の船隊を就役させようとしたならば、採算はとれなかデンに旅行した。途中、旅行者がおちいりがちなロー マンスにぶつかった。船中で、ストックホルムの有名 ったかもしれない。そこで彼は、海運市場が好況にな り、船隊をチャータ 1 に出して儲かるようになるまで、な船主の令嬢であるスウェ 1 デン娘と知合いになった のである。それはまことに「異国の少年が北方美人に その船の大部分を遊休させておくことに決めた。 市場はなかなか上向きにならず、オナシスも海運業会う」式のローマンスであった。ヨーロツ。 ( に上陸し たのち、「アリ」は新しいガール・フレンドとその故 での冒険の第一歩では、あまりうまくやったのではな デ 1 トをつづけた。そのうちに二人 かった。二年後、彼が船隊を完全就役させたとき、値国の土地で会い は結婚を約東し、オナシスは相手の両親に紹介された。 引した運賃ではほとんど利潤がなかった。この値引の そういう状況で未来の舅がよくやるように、スウェ 基礎になったのは、当時政府も海員組合もしかめ面を 1 デンのこの船主は、ブエノスアイレスからきた敏腕 投げつけた標準以下の賃金や、その他の運営上の節約 家を自分の商売に紹介し、いささか老朽したスウェー によるものであった。 海運業は、のちにはオナシスの巨大な財産の基礎をテン貨物船一一隻を入手するのに手を貸してやり、これ がやがてオナシス海運帝国の礎石になったというので シすえることになったものだが、彼の海運業へのデビュ ナ オ 1 について、多少とも公式にみとめられた説は以上のある。 運ようなものである。しかし、内部のものは別な説をな他の有望な青年が同様な事情でありがちなように、 「アリ」はしばらくすると許婚者への熱が冷めたが、 している。 ノ 89
一九年五月十五日、ギリシャ軍のイズミル占領がは ものです。ジウディッイは、ヴァンデルゼー海運会 じまるや、いくらか政治家に転じたようでした。占社のためにはたらいているイタリア市民です。 領の数週間後、ソクラテス・オナシスは Z — さて、小官の個人的印象を申し上げると、前記は という団体の会計係になりました。これは地元のギ オナシス氏についての正確な記録にちがいないと思 います。現地で事態を明らかにするため、かなりの リシャ人居留民が組織したもので、ギリシャ占領軍 に支持を与えるのを目的としていました。ギリシャ 苦労をしたのですから。通常ギリシャ人は誇張しが 軍の潰減的敗北ののち、彼は国外に逃げました。 ちであり、時としてはあからさまな嘘をつきがちで あります。 さらに、記録によると、イズミルで登録されたア リストテレス・オナシスの叔父または従兄弟はない と報告されています。そういう人物を想起できる人 いうまでもなく、トルコ人もこの場合では関係当事 も全然いないようです。オナシス家に属するもので者であり、オナシス一族にくわえられた残虐行為を頭 絞首刑になったものはひとりもいませんし、彼や彼から否定しているのを、額面通りにうけとる必要はな の息子が、三十日ないし六十日投獄されていたとい う記録もありません。彼らがパーカー副領事によっ 二つの解釈を調整するため人手しうる情報の出所が て処刑から救われたという話も、根拠がないようにきわめて少ない点から、スミルナ事件の事実を最終的 思われます。 に確定するのは不可能のように思われる。 前記の情報は、イズミルの記録ならびにホホー 牢屋から釈放されるや、数多くの家族のうちで男と ル・アラズラキやミシェル・ジウディッイのようなして生き残ったたった二人 ( オナシス親子 ) は、女た 信煩すべき商人や海運代理業者の陳述から得られたちのあとを追ってアテネに行った とオナシスは話 ノ 80
は、あらゆる手段を使ってこれに打撃を与えるべしと リカの石油カルテルの、猛り狂った感情であった。ワ いう意見もあった。最後には、この意見が勝って、ペイド会社の抜け目ない見通しのきくリスク評価者でさ 2 ル 1 に暗黙の了解を与える決定が下されたのであったえ、地球を半分ぐるっとまわるこのように異常な因果 これまで神聖だった原則を明らかに無視して、ま関係は、まず予見しがたいことであったろう。 た、この場合では、予想される損害が船主よりも保険 この紛争でまたもや、通常ならば自分に反対する政 業者にかかりそうだったにもかかわらず・ : 府や経済閥を、何とか自分の有利な方向に動かすこと それでも、この政策の主唱者は、オナシスも痛い目のできたのは、オナシスがそのほとんどすべての活動 に会うはずだと推理した。ロイド会社が法廷でその負で示してきた異常な戦術的能力のあらわれであった。 たとえばイギリス政府は、関連したイギリスの利益 担について争って勝っ可能性を別としても、″捕鯨海 賊″に対する官辺筋および新聞筋の罵倒というロやかを守る立場をとらざるを得ず、こうして間接には、た たかっている国際海運王の助け舟に出ないわけにはい ましい伴奏入りのベル 1 の行動の結果、この海運王も 大いに声望を失わざるを得まいと思われたからである。かなかった。このケースへのイギリスの公式の介入は こうして、捕鯨船をめぐるオナシス対ベルーの戦争実を結ばなかったとはいえ、少なくともオナシスの立 でアメリカの政策が奇妙に逆転したことは、オナシス場を強めるのに役立ち、さらにはワシントンとの無一言 の全世界的な企業によって動き出した諸力の微妙な相の紛争にさえ立ち至った。同じことは、とりわけノー ルウェ ーについてもいえる。ノールウェ 1 は、あから 互作用の結果とみるほかはない。せんじつめると、ペ 1 海岸沖の奇妙な事件に対するアメリカの政策形成さまにオナシスが大きらいだったが、伝統的な海洋の 上で決定的な役割を演じたのは、遠いアラビアの砂漠自由に対するべルーの高飛車な介入に対しては、これ でその重大な利益がオナシスによって挑戦されたアメ に抗議する国際的な動きに加わらざるを得なかった。
ノ・フルク、 ' のように、 フレーメン、キールの大手筋オナシスの名前が、その後の西ドイツにおけるほど尊 敬された国はない ( 公式筋でのことだが ) 。「アリ」自 造船所の事務所に流れこんだ。 再開したドイツの造船所から供与される一般に有利身が明らかにご満悦で話してくれたことだが、彼はポ な値段と引渡し条件を、まっさきに利用した外国の海ンでは大した人気もので、アデナウア 1 首相その他の 運業者の中に、オナシスとニアルコスが入っていた。要人から歓待を受けていた。 「オナシス氏は個人としてはわれわれの最大の顧客で ことにオナシスは、海運競争に勝っチャンスを異常な 程度まで、復興したドイツ造船業に賭けたのである。す」とルードウイヒ・エア ( ルト教授 ( 当時の経済相、 オナシスが彼の最初のタンカーをドイツに発注した昨年まで西ドイツ首相 ) は、一九五四年はじめに言っ た。彼の念頭にあったのは、事業慾の強いギリシャ人 とき、その船を造るはずの造船所のいくつかは、まだ ガラクタの堆積や高く伸びた雑草で蔽われていた。こ海運王が、一九五一年以来ドイツの造船所に発注した ドルないし七千 の荒廃の光景を見て、彼の仲間の中には用心した方が巨大な注文ーー公式推定で合計七千万 よいと勧めるものもあった。 五百万ドルに達するーー・のことであった。 「心配するな」と彼は笑いながら答えた。「ドイツ人「アリ」がサンタクローズの役割を演じていたのは、 に何ができるかは知っているよ。今週発注すれば、造 ドイツの造船業に対してばかりではなかった。ドイツ 船所は来月には、ブンブン音をたてて仕事をしているの捕鯨関係者とも手を握ったし、また、彼の最も見事 だろうさ。」彼の楽観論がこの場合完全に正当化されな船の多くは、宮殿のようなョット「クリスティー たことは、その後の数年間に北ドイツの造船所の実績ナ」号も含めて、ドイツ人の上級船員や乗組員が操繼 した。 が示したところである。 オナシスが最もひいきにしたドイツの造船所の中 世界のどの国でも、アリストテレス・ソクラテス・
人あった。そのころは捕鯨における自由企業の時代で、 頑丈な船の大胆な親分が巨大な獲物をとるのを妨げる ものは何もなかった。捕獲された鯨一頭は海に浮ぶ一 財産であった。 「生きている間に三百五十頭の鯨をとった男を知って 1 ー・一アイツ る」とハーマン・メルヴィルは『ムービ オナシスは捕鯨にのり出したほとんど最初の日から、い 邦 %) の中で書いた。「私は、城壁でかこまれた 厄介な事態につき当 0 た。実際、この時点からは、比ク』 ( 『白鯨』 較的スム 1 ズで波瀾の少なかった多方面の海運業者の町を同じ数だけ占領したと豪語する昔の偉大な武将よ 生涯が、一転して風波を迎えることになったといってりも、その男の方を高く買う。」 現代の大″海賊。、城壁でかこまれた町よりも肥満 も過言ではない。 これは意外なことではない。捕鯨業は世界中で最もした鯨の方を好むオナシスは、一生涯よりはすっと短 敏感で、かっ竸争のはげしい商売のひとつだからであかい時期のうちに、大した栄誉をかち得ることなく、 る。伝統的に、それは一種の閉鎖的な企業体として操すでにずっと多くの種類の獲物をとっていた。 ーとして しかし、時代は変った。機械化された現代では、鯨 業している。二つか三つの国が主要なメイハ これに参加しているが、新参の弟分はほとんど許容しを捕獲することは、もはやかってのように大胆さと技 ス ノない。新参者は私有地域への密猟者と考えられるので倆のお手柄ではなくなった。明らかにちがうーー大捕 鯨会社のオフィスにいる人間にとっては。そして今日、 オある。 運すっと昔の時代には、アメリカが捕鯨では首位に立捕鯨業者の間で最も高く評価されているのは、鯨を最 ち、この商売にたすさわる船は約一千隻、人員は七万も多く殺す男ではなくて、適正な時期に、適正な場所 八オナシス捕鯨にのり出す
船の方への熱は冷めなかった。何年かの間、彼女とのけた。だが、彼はこの約東をそう長くは守らなかった。 不幸な結びつきは、猛烈な暄嘩になったかと思えば、彼が南フランスのリヴィエラ海岸に行って結婚した一 心なごむ和解の場面があったりして、一進一退をつづ方、彼女の方は遠くはるかなるストックホルムに安全 けたが、最後にはとうとう決裂した。「アリ」がはじにとじこめられていた・ーーと彼は考えた。だが、飛行 めて未来の妻、ティーナ・リヴァノスに目をつけはじ機に乗ればわずかの旅行にすぎず、一九五一年のある 日、振られ女はリヴィエラ海岸のアンチープに姿をあ めたころのことである。 オナシスは一貫して、スウェーデン娘と婚約したこらわし、おそろしい場面を見せますよとおどした。 この奇襲攻撃は完全な成功だった。「アリ」は毎月 とを否定している ( 彼女やその友人たちはそう主張し ーマンスは数年後には暗礁にのり上げの補助を再開することに同意したばかりか、その額を たのだが ) 。 たが、そうこうしている間に、彼はスウェーデンやノ七百五十ドルに増額することさえ約東したのである。 1 ルウェ 1 の海運業者の同業者とつながりをつくって、だが、一生つづけるというこの気前のよい約束には、 これがその後の登竜にとって大いに役立っことになつひとつの条件があった。スウェーデン女は、オナシス こ 0 一家が滞在しているかぎり、リヴィエラには二度と足 袖にされた娘は、父親が死んでいささか窮迫した状を踏みいれないと、正式に約東しなければならなかっ 況におかれたとき、「アリ」の銀行預金に食いついてた。もしもこの誓いを破れば、毎月のお手当はたちま やろうと決心した。その時までには、この預金はかなち永久に取消されると告けられたのである。 リヴィエラから追放され、冷たい北方にはいささか り大きなものになっていた。ある日、彼女はパリで彼 を追いつめ、オナシスはたいへん不愉快な思いをしたあきたこの女性は、その後ニ「一 ] ヨークの一流地ア デイソン・アヴェニューに邸をかまえたー・ーー「アリ」 ので、毎月五百ドル補助してやるということに話をつ 190