当時は大部分の新聞電報や論評でまるまる誤「て伝えゆる経済的勢力の糸が集まってきて、政治的な影響力 が無数にからみ合っていた。この銀行は近東や回教圏 られたのは確かである。それはすべてオナシスのせい にされた。まるでこの企業心に富むギリシャ人が、計が専門で、とくに石油商売に目をつけていた。それは 画全体を自分の帽子からとり出し、ま 0 たく単独で全ポン政府とも、西ドイツの有力な工業家、たとえばア ルフリート・フォン・クレツ。フ、フリードリッヒ・フ 部の話をすすめたとでもいうように。 ウォルフ、ヘルマン・ロイシュ、 リ . ック、オットー・ 実際には、これほど真実から遠いことはないのだ。 オナシスはこの特別なケースでは、中近東の経済的征 ( インリッヒ・ディンケル・ ( ッ ( といった人々とも、 服をねら 0 ているドイツの工業閥や財閥の、手先にすばらしく仲のよい関係にあ 0 た。それはドイツ実業 界が一九五三年、ドイツ商工業の海外拡張のため設け ちょっと毛がはえた程度のものだったといってよい。 ジッダ、ー協定に署名したのは・・オナシスだったた特別の秘密資金を管理しており、世界的に枝をのば した有力な情報蒐集・宣伝機関をつくり上げた。 が、そのペンをあやつった目に見えぬ手は、ヤルマー まだ個人的魅力や外国語が自山にあやつれる才能と、 ル・シャ ( ト博士の手たったのである。 当時すでにヨーロツ。 ( 大陸最大の経済力だった復興うす気味の悪いほどの商売上の抜け目なさとをあわせ もっていたシャハト老は、ドイツの外交官ではめった ドイツで、シャハトはまたもや注目すべき人物になっ に太カ打ちできぬ声望と支持者を回教世界にもってい ていた。一九五三年はじめ、新しい金融業「シャハト た。ドイツの週刊誌『デア・シュビーゲル』は一九五 シ会社」を組織し、その社長になってからのちは、ふた 三年一月十四日号に書いた。「金融界の名医シャ ( ト オたび国際金融界の大立物になっていたのである。 運 は、近東全体でほとんど神秘的に崇拝されている。」の デュッセルドルフのシャドウ。フラツツ十四番地、こ このケ 1 スでシャハトとオナシスの実際の接触とい の銀行の本社の目だたぬ正面の背後には、ありとあら
は、あらゆる手段を使ってこれに打撃を与えるべしと リカの石油カルテルの、猛り狂った感情であった。ワ いう意見もあった。最後には、この意見が勝って、ペイド会社の抜け目ない見通しのきくリスク評価者でさ 2 ル 1 に暗黙の了解を与える決定が下されたのであったえ、地球を半分ぐるっとまわるこのように異常な因果 これまで神聖だった原則を明らかに無視して、ま関係は、まず予見しがたいことであったろう。 た、この場合では、予想される損害が船主よりも保険 この紛争でまたもや、通常ならば自分に反対する政 業者にかかりそうだったにもかかわらず・ : 府や経済閥を、何とか自分の有利な方向に動かすこと それでも、この政策の主唱者は、オナシスも痛い目のできたのは、オナシスがそのほとんどすべての活動 に会うはずだと推理した。ロイド会社が法廷でその負で示してきた異常な戦術的能力のあらわれであった。 たとえばイギリス政府は、関連したイギリスの利益 担について争って勝っ可能性を別としても、″捕鯨海 賊″に対する官辺筋および新聞筋の罵倒というロやかを守る立場をとらざるを得ず、こうして間接には、た たかっている国際海運王の助け舟に出ないわけにはい ましい伴奏入りのベル 1 の行動の結果、この海運王も 大いに声望を失わざるを得まいと思われたからである。かなかった。このケースへのイギリスの公式の介入は こうして、捕鯨船をめぐるオナシス対ベルーの戦争実を結ばなかったとはいえ、少なくともオナシスの立 でアメリカの政策が奇妙に逆転したことは、オナシス場を強めるのに役立ち、さらにはワシントンとの無一言 の全世界的な企業によって動き出した諸力の微妙な相の紛争にさえ立ち至った。同じことは、とりわけノー ルウェ ーについてもいえる。ノールウェ 1 は、あから 互作用の結果とみるほかはない。せんじつめると、ペ 1 海岸沖の奇妙な事件に対するアメリカの政策形成さまにオナシスが大きらいだったが、伝統的な海洋の 上で決定的な役割を演じたのは、遠いアラビアの砂漠自由に対するべルーの高飛車な介入に対しては、これ でその重大な利益がオナシスによって挑戦されたアメ に抗議する国際的な動きに加わらざるを得なかった。
ている間にあげた利潤の概算として、四百万ドルをア間にわたり、新規造船のため約二千二百万ドルをそれ に投資していたのであった。 メリカ政府に支払う 三、関係したニアルコス支配下の七会社が、合計十紛争の両当事者はまた、それそれ相手方の鼻先にニ 一万ドルの罰金をアメリカ政府に支払う。 ンジンをさし出してもいた。政府は起訴を取下げるほ 四、政府は個々人に対する起訴を撤回する。 か、ニアルコスが長い間求めていたこと、つまり船を 五、問題になった船を引渡すよりも、友好国の国旗友好国の国旗の下に移す許可を与えることに、原則的 に同意するむねを明らかにしたのである。政府の許可 の下に移すことを許すのと交換に、アメリカの新たな 造船の可能性を検討するため、海事委員会との交渉が は、アメリカに加えられている休航の圧力を取り去る つづけられるように、問題の船は九十日間は引渡されことになった。この休航で繋船している船を維持する のに、一隻あたり毎月三千五百ドルかかっていたので 六、船が引渡される場合、七百七十万ドルに上るアある。他方ニアルコスは、アメリカの弱っている造船 メリカ政府の未払担保支払の残高は帳消しにされる。業を助けるため、何ができるかを検討してみる約東を 関係者のすべてはこれを、対等または対等に近い対さし出したのであった。 立者間に到達された事務的な妥協とみなした。アンク 政府にとっては、財政的な勝利というよりは道義的 ル・サムの方では、ニアルコスの頭上に大きな棍棒な勝利であった。それは政府に法律上のポイントがあ ( 刑事犯罪扱いと長びく費用のかかる訴訟 ) をふりか ることを示し、法律を維持するものであった。事実、 ごしたとすれば、ニアルコスの方でも、したたかもの ただしポス自身や個人とし ニアルコスの諸会社は テクニカル という棍棒をふりまわしていた。アメリカ造船業のポての提携者ではないーー、技術的な共同謀議に有罪であ イコットがそれで、ニアルコス・グループは過去数年 り、罰金を引きうけることを納得した。罰金といって 2 ノ 8
イルソン大統領のような理想主義者を、彼は信用しな るに先立って、ザハロフと相談する必要があった」と、 ・・オコーナーがかって言ったことがある。恐らかった。政治家と折衝する場合、まず最初に商売とい く、これは単に大人物に対するザ ( ロフの影響力を誇う立場で考えると宣言した。そうしておいて、政治面 示するため、創作された話であろう。しかし、たしかで強い信条があるとは少しも感じさせないでおいて、 に、彼は連合国側の全戦争指導者から敬意を払われて純政治的な問題に対しても、意見をのべられるように いた。もし彼らがパリにいるザ ( ロフを訪れなかったあらかじめ考えをまとめていた。もっとも、ザ ( ロフ としたら、それをザ ( ロフは侮辱されたととったであのような冷笑的な見解をとる男に、政治上の信条があ ったかどうか、それは非常に疑問ではある。ザハロフ ろう。彼の行動は戦時中いつも秘密にされていた。ま た、役人が、彼の黒幕でありたいという気持を、助長は、アリスタイド・ブライアンドに、個人的な見解を のべている。「連合国側の完全な勝利の日まで、そし したという面もあった。 ョロツ。 ( からバルカンまた中近東にかけての広いて現在の諸国連合の形態が不可避的に崩壊する日まで、 彼の知識に、かなう者はいなかった。さらにその広い戦争は続けなければならない。」 この言葉の意味するところを見定めるのはまことに 知識は、かけひきのうまさをともなっていた。生来狡 猾であり、心理的な洞察力もすぐれ、それは外交官や困難である。というのは、ドイツは再建されるべきで 軍人にはほとんど見出し得ないほどのものであった。あり、イギリスやフランスと協調するようにしむける べきであるという意見を、ザハロフが繰返しのべてい わずかに時折政治家の中に見出される程度であった。 もちろんザ ( ロフは、刻々変る戦況にもとづいて考えたからである。実際のところ、ザハロフは、一時しの を立てる政治家と相対する方を、好んだことはいうまぎの平和には関心がなかったのである。一時しのぎの でもない。その意味で、新しい世界秩序を提唱したウ平和は、どちら側にも事態を収拾する力を与えず、そ / 24
ように費消することは、洗練された礼節の感覚をもつひとびとに訴える大きな効果をもち、それらのひとびと が、かれの犯行をみるばあいの道徳的背徳の感覚を緩和するほどである。」 ( 『有閑階級の理論』 ) そのような現象は、アメリカだけではなく、わが国などでも、つねにみられる。遠くは、千葉銀行から多額の 不正融資をうけて、伊皿子御殿というものをつくった坂内某という女実業家がいた。近くは、農林中金たけから でも三十二億円あまりの融資をうけて問題となった共和製糖がある。国民大衆は、それらの俄成金にたいして、 半分は反感と憎悪をいだくが、半分は、感嘆と尊敬をさえ示しているようにみえる。 アメリカのばあい、そのような傾向はいっそうはっきりしている。十九世紀後半の「金びか時代」の富の英雄 たちについては、その当時から二十世紀の二十年代までは「盗賊貴族」の概念をつかって、その悪業と横暴を非 難する論調が支配的であった。ところが、ニュ ー・ディール時代以後には、そのような「盗賊貴族歴史学」はし だいに影をひそめ、その代りに「非盗賊貴族伝記作者」が輩出するようになった。例えば、ジョン・ディー クフェラーについても、はじめの頃は、アイダ・ターベルとか、ジョン・フリンといったような連中が批判的な 立場から評伝をかいていたが、三十年代以後には、く / ートン・ヘンドリックとかアラン・ネヴィンスとかいうよ うな保守的な歴史家が、ロックフェラーの事業と人間を讃美して、その頭上に月桂冠をのせるような伝記をかい ている。そのような著作の代表的なもののひとつは、一九六一年、ジョン・チェイハレンが書いた『アメリカの 企業者魂』という書物である。それは、アメリカの企業者の歴史を「非盗賊貴族歴史学」の立場から書き直した 牧ものだが、著者はその序文の中で、執筆の動機を次のようにかいている。つまり、「フォーチュン」社で著者の 富同僚のジョン・ダヴ = ンポートというひとの娘が、学校の宿題で、アメリカ史の「盗賊貴族」論を反駁するよう 4 な論文をかくことを命ぜられたが、。 とうも適当な参考書がない、そこで、その欠陥を補うために、この書物をか にわか
た郵便がとどいた。」 いささかナゾめいた電報は次のようなものであった。 ークレイ・ホ , リ、ポンチウ街一番地、 「至急報 テル気付、シェイク・アリレザ宛。ジ、ネーヴ三〇三 九 / 二、一三〇〇三、三八、一三 / 一〇二〇一六。 カタボディスに、未解決の諸点を解決せば、余の接触 が大いに有望なることを告げよ。十日以内に妥結に達サウディ・アラビア王国の創設者の老王イ・フン・サ ウドは、しばらく前から健康をそこね、その体力は弱 することを望む。また彼に時間的要素が重大なること りつつあったーーー・・少なくとも公式の話ではそういうこ を通告せよ。愛す。モハメッド」 とだった。それも無理はないと思われた。世界最後の 当時カタボディスが知らなかったらしいことだが、 大蔵大臣スレイマンは、ジュネーヴにいると思われた封建的専制君主であるアラビア王は、すでに七十歳を 時には、実際にはドイツを旅行中で、モ ( メッド・ア越えていたからである。かっての伝説的な彼の活力も、 リレザはドイツで彼に会ったのであった。ここで事件アラ。フ貴顕につきものの放縦な生活で徐々にそこなわ の背景とその基本的事実を示すため、ちょっと横道にれていた。 イプン・サウドは残酷で悪意ある専制君主ではあっ 入る必要がある。これは人を動かさすにはおかない興 たが、アメリカの石油会社からは好かれていた ( 地元 味があり、当時は大きな意義をもつものだったにもか かわらず、世界の新聞からは完全に見落されていたもで雇われている石油会社の職員からはそれほどでもな のである。 かったが ) 。彼が一九三三年に一群のアメリカの石油 会社との間に結んた取引は、当時まだ手をつけられて 十二登場したのは誰あろう、ヤルマ ール・シャハト博士 286
この会談でオナシスは、国際的な弁護士連 ( 有力な弁護士たちが法的な議論で行きづまり、動きがとれ イギリス人二名を含む ) の恐るべき包囲陣にかこまれなくなって、双方が政治・外交上の理由からも商売上引 ながら、断乎として孤塁を守った。自分の石油輸送協の理由からも、一歩も譲る意志がなかったので、カイ 定は、どんな意味でも、「アラムコ」利権協定の字句ロ会談は何ら見るべき結果を生み出さなかった。 オナシスはモンテ・カルロに帰り、サウド王が従前 ないし精神に反するものではない、と彼は主張した。 石油を採掘し精油することと、完成品を最終の送り先通り徹底的に自分を支援していると吹聴した。王の庇 まで運ぶこととは、全く別なことである。だから、今護をうけている実証として、彼はサウド王がオナシス 後できる彼のサウディ・アラビア海運タンカー会社に夫人に贈りものにしたサラブレット馬一頭をもち帰っ ジッダー協定で与えられた優先権は、生産の分野におた。 ける「アラムコ」の排他的な権利を侵害するものとみ数日後、オナシスは、サウド王が提示した代案を積 、よ、。また、国際法のどこを探極的に考慮していると発表した。アラビアの王様はギ なされるわけこよ、 リシャ人船主に質問したのであった。なぜ自分に、た しても、一主権国家がその国産品を海外に運ぶ規則を とえばタンカー百万トンをズバリと売れないのか ? 定めるのを妨げる条項は見つからない : 「アラムコ」の側でも、断乎攻撃をつづけた。会社のそうすれば、問題になっているジッダー協定を廃棄し 顧問弁護士は主張したーーもしも一国または一大業者て、取引き全体を文句のつけられぬ基礎の上におくこ がこのようなことをやってのけることを許されるならとができよう。一九三三年の「アラムコ」協定の条項 では、サウディ・アラビア側はその石油を自国の船腹 ば、独占的取引きをする慣行が世界中にひろがって、 やがては自由企業と国際競争をしめ殺してしまうだろで運ぶ優先権を主張できる、少なくともそう解釈でき るからー・ーというのであった。 うと
えていたから、ロイド・ジョージが陸軍大臣から首相 の位置につこうと工作する様子を、じっと見守ってい た。こうして、ロイド・ジョージは、一九一六年の末、 十二政治家ザハロフ ついに首相となったのであった。 ロイド・ジョージが権力を一身に集めるまでは、彼 を見守るだけでザハロフはこらえていた。つまり、直 一九一六年十二月の危機を迎えて、ロイド・ジョ 1 ジは、連合国の運命は危うい、戦争遂行に新しい方針接政界へ干渉などはせず、しかし事情によく通じてい て、誰よりも常に一歩先んずるようにつとめ、戦争遂 がとられないかぎり前途は暗いとのべた。その時ザハ ロフは、政府に近く変化があるものと慎重に注目して行に関する彼の考えを宣伝を通じて育成していた。こ いた。アスキス内閣の閣僚のひとりーーマケンナはザれまで、ザハロフは、ただの鉄工所の親爺であると言 ハロフの友人であったが、しかし、ザハロフは心中ロ い張ってきた。しかし、今や政治家にはあきたらず、 この戦時下に世界を股にかけて立ちまわる兵器商人と イド・ジョージこそ自分の思惑にびったりであるとに らんでいた。ロイド・ジョージはすでに悲観的な見解して、どうしても政治や軍事の問題へ手を出さなけれ も捨て去り 一時は非常に悲観的になったがーーー戦ばならないと考えるようになった。その結果、彼はこ 争にはあくまでも勝ちぬかねばならぬと考えるようにれまでとってきた自分の戦術を変えることにした。し なっていたのである。それが、まさにザ ( ロフの狙いかし、この変身は、決して誇大妄想から発したのでは であった。ザ ( ロフは本能的にこう考えていた。野党なかった。彼はもっと現実的であった。恐らくそれは、 にいる間、ロイド・ジョージは左翼化しているかもし自分の影響力の大きさを知ったことと、強烈な自信か れぬが、与党になれば右翼化する。ザハロフはそう考ら生れたのであろう。またそれだけでなく、人を屈服 Z ノ 4
刈する声明を発表し、これを「国際通商における不健 2 全なもの」とよんた。この声明は、かかる取りきめを引 すべて「遺憾とし、非難する」として、ニアルコス自 身の方針を再確認するものであった。つまり、「大手 筋の石油会社と密接な協力を保ち、われわれの船をす ジ〉ダー協定の大ざ 0 ばな輪郭がわかると、たちまべて正常のチャーター業務のため、石汕会社に提供 ち世界的な抗議の嵐が起った。細目がつぎつぎに明るする」というのであった。 一流の石油業者のうち最も猛烈な否認の表明をした みに出るにつれて、それは次第にはずみがついて強烈 のは、一九五四年九月二十九日、ソコニー・ヴァキュ なものになった。 ・ジェニングス ーム石油会社の社長・ブルースター 石油会社が概してやや控え目な論評をした一方、ま ず第一にしめ出しを食うことになる独立のタンカー業で、彼はロサンジェルスの世界問題評議会で演説し、 者は、大さわぎをはじめた。イギリス、日本、ノール次のようにのべた。 「こんどの提案は極度に広範囲の危険を含んでいる。 スウェーデン、デンマーク、オランダの船主 それは『アラムコ』への利権譲渡の具体的な条件に 協会は、すべて猛烈に抗議し、ジッダー協定を独占的、 完全に違反しているが、そのことでさえ、世界貿易 差別待遇的、ないしはあっさりと前代未聞といって非 への危険に比べれば重要性が少ないだろう。明らか に、もしも輸出しうる商品をもっ特定の国が、その オナシスの義兄スタヴロス・・ニアルコスは、ま 輸出のすべてを自国船で運ぶことを要求しうるなら っさきの抗議の声をあげたひとりであった。早くも一 ば、輸入国は同じ論法をもって、輸入のすべてを自 九五四年二月十七日、彼は取引きのあらゆる部分に反 十五騒音と怒り
のモサデグ首相の経験からまなんだらしく、彼の誤 リカの新聞が力点をおいているのは、実際には的はず りを避けたがっているとのことである。今日では周 れである。実際に問題なのは、この協約が、サウ 知のように、モサデグがイランの石油生産の国有化 ディ・アラビア王国としては将来のいつの時にか、イ 計画に失敗したのは、組織的なポイコットに面して、 ランのごとく、その石油資源を国有化する計画がない 必要な輸送力を供与することができなかったからで かぎりは、決して必要としなかったであろう商船隊を ある。これと対照的に、サウド王は事前に行動の自 創設する基礎工事になるはずだった、という点である。 由を確保しつつある。」 注目してよいことだが、アメリカの新聞がこのオナ まさにその通り。これこそが、オナシスの「神秘な シス取引きのおどろくべき面を完全に見落していたの 条約」の眼目である。サウド王は、アメリカの新聞に に、ドイツの新聞はこれを見落さなかった。 掲載された若干の記事では、だまされた可哀そうな人 ミュンヘンの『ミュンへナー・メルクー たとえば、 ル』は、「沙漠の王、大船主と取引きす」という論説間として描かれたが、実際には至って抜け目ない人間 ( 一九五四年九月十八日 ) で、中心的な問題を次のよであることを示した。そして、ドイツの新聞が言及し たように、モサデグの構想不足で急ぎすぎた国有化計 うに指摘した。 「国王サウド一世は、中東の石油に富んだ諸国と大画の欠陥を見ぬいたのであった。つまり、地元の消費 がほとんどゼロであり、輸送船隊のないため国外への 石油会社との関係に、新しい一章を開いた。 ス シ 国王は石汕生産を国有化する遠大な計画を抱いて出口が閉されているならば、国有の石油がみちあふれ ナ オ いるのだろうか ? 国営商船隊の結成は、そのようて海となろうとも、何の役に立とうか ? というわけ であった。 運な発展への第一歩であろうか ? 消息筋の指摘するところでは、沙漠の王はイラン 311