オ ( ウルグアイ ) のニコラス・コニアリデスとその妻 言したものは免訴されるという根拠である。 しかし、クルクンディス・グル 1 プに対する刑事訴メロープであり、メロ 1 プは「アリ」の妹である。 自分の資産を、表面上の所有者として一族の間に分 訟の却下は、船の取りもどしと損害の支払いを求める 政府の民事訴訟措置をさまたげるものではなかった。散しておくテクニックを、オナシスがどの程度まで異 事実、司法省は一九五五年になってからもまだ、海運常に発揮したかは、まだ一般には知られていない。権 法規に反して取得されたとされる外国人支配下の船の威筋から私の聞いたところでは、彼は自分の名前では 差押えをつづけた。一月なかばで、そういう船で差押不動産を全然もたず、銀行の口座も全然ないそうであ えられた合計は四十三隻に達し、それにはクルクンる。彼のもっ財産はすべてーーーおそらくョットだけは ディスの船二隻も含まれていた。 例外だろうが , ー、、誰か他人の名義になっているという。 これにより、オナシスひとりだけが攻撃の正面に立その他人とは身辺の親戚か事業界の大立物、あるいは っことになった。アンクル・サムは一九五四年、彼にその双方たそうである。 コニアリデス夫妻はオナシス閥の主要な管財人であ 対して第二戦線を開いた。十一月二十三日、司法省は った。ウルグアイが南米の諸共和国のうちではほとん ニューヨ 1 クの連邦裁判所に、オナシス閥の購入した 余剰タンカーが、自由に運航していた期間にあげた利どたたひとつ、外国為替上の困難がなく、したがって 為替管理もない国だったという事実は、疑いもなく、 潤二千万ドルの返還を提訴した。 ス にはじめモンテビデオをオナシス帝国の財政本部にえらぶ上で この民事訴訟ーーー刑事措置とはちがう オて、「アリ」の親戚がさらに二人、相被告の役割で登の決定的要素であったろう。 運場した。この二人は長い間、世界をまたにかける事業オナシス対アメリカ政府の事件が解決したのは、一 の資金面で重要な役割を演じていた人間、モンテビデ九五五年十二月のことであった。この解決条件で、オ 22 ノ
への輸送について上院が調査をはじめる以前、中国立証するための、部厚い書類をまとめ上げた。ところ 貿易に政府が反対していなかったころでも、北朝鮮で、この会社は大っぴらに、同じビルの中で、中米汽 や共産中国も含めて、鉄のカ 1 テン諸国向けの貨物船会社と同じ階に事務所をもっていたのだ。実際、二 輸送をすべてことわるのは、私の断固たる方針でしつの会社の事務所はしかにつながってこそいなかった が、うすい仕切りでヘだてられているだけであった。 二つの事務所の外の控えの間で待たされたことのある こんどの場合のように、公然と誠意をもっておこ なわれた取引のかどで、どんな人間に対しても非難訪問者なら、事務員がよく双方の間を出入しているの を加えることは、どうみても不公正といわざるを得を見逃すことはないだろう。法律や細目はいりくんで いたけれど、実際はこれほど簡単な事例だったのであ ませんが、それにもかかわらず、私は強制されなく とも帰ってきました。事実無根の悪意ある風説を終る。 さらに、オナシスは O の株の四十九パーセン らせるためです。私は喜んで、アメリカの司法の立 派な伝統に従って、問題を裁判所によって決しても トをもっている事実を少しもかくさず、物やわらかに、 。ハーセントをアメリカ市民に " 貸しれて、 らいたいと思います。」 残りの五十一 私がオナシスと会見したとき、彼は「中米汽船会名目上は彼らが会社の株主を支配していることをみと めた。 社」のポスである事実に少しもこだわらなかったし、 秘書や助手の誰もがそうであった。ニューヨークのこ 「もし彼らが自分の金をたんまりもっている海連業者 の会社で私を迎えたのだから。他方、司法省はかなり だったとすれば、全然ぼくと取引しなかったろうね」 大きな努力を払って、オナシスが・ペ トロリウと彼はいった。「その場合には、自分で船を釣り上げ ム・キャリアーズ (> O ) のポスでもあることをたろうさ。法律では、外国人よりもアメリカ市民の方 こ 0
の軍備拡張による脅威を宣伝の武器として振りまわし、 ザハロフの会社のヴィカ 1 ズ社と競争会社のアームス トロング社とは事実上提携して、トルコにイムペリア 九戦争宣伝 ル・オッ + マン社を設立した。この会社の経営者の大 半はイギリス人によって占められ、トルコの造船所や 兵器工場の再整備を行なった。ヨーロッパの情勢が悪 フィリツ。フ・ノエル日べーカーが「民間兵器産業」 化の一途をたどりつつあったことを無視し、また開戦の中で述べているところによれば、兵器を製造する私 となればトルコはドイツにつくと再三再四警告されて企業に対して操業の許可を与えた各国政府は、「犯罪 いたにもかかわらず、これを無視して、イギリスの実行為を犯したかどで告発されるべきである。その理由 業家たちは敵側の軍備を強化した。それは盲目的にな は、各国政府は断乎としてその信ずるところに従い されたものではなく、また天真爛漫な無知から発した戦争へなだれこむのを阻止できた筈だからである。兵 ものでもない。全体を冷く計算し、天文学的な数字に器産業資本は戦争 ( 第一次世界大戦 ) を前にして、あ ・ : 兵器産業は註文を求め、 達する巨大な利益を、冷やかな笑いを浮かべながらはわただしく動いていた。 じいていたにちがいない。 閣僚、議員、官僚を買収し、各国の行政機関内におい ても、陸海軍省部内においても、また軍隊内において それから何年も経過してから真実が明らかにされ、 イギリス国民は衝撃をうけた。ダーダネルス海峡でド も、絶大な勢力を築きあげた。」 ィッ砲兵が放ったトルコの大砲はイギリス製であり、 この事情がイギリスにもあてはまったことは、多く それはザハロフが売ったことが知れわたったからであの事件、たとえばマリナー事件などからも明かである。 っこ 0 一九〇九年、コペントリー造兵工場の支配人であった 7
一九年五月十五日、ギリシャ軍のイズミル占領がは ものです。ジウディッイは、ヴァンデルゼー海運会 じまるや、いくらか政治家に転じたようでした。占社のためにはたらいているイタリア市民です。 領の数週間後、ソクラテス・オナシスは Z — さて、小官の個人的印象を申し上げると、前記は という団体の会計係になりました。これは地元のギ オナシス氏についての正確な記録にちがいないと思 います。現地で事態を明らかにするため、かなりの リシャ人居留民が組織したもので、ギリシャ占領軍 に支持を与えるのを目的としていました。ギリシャ 苦労をしたのですから。通常ギリシャ人は誇張しが 軍の潰減的敗北ののち、彼は国外に逃げました。 ちであり、時としてはあからさまな嘘をつきがちで あります。 さらに、記録によると、イズミルで登録されたア リストテレス・オナシスの叔父または従兄弟はない と報告されています。そういう人物を想起できる人 いうまでもなく、トルコ人もこの場合では関係当事 も全然いないようです。オナシス家に属するもので者であり、オナシス一族にくわえられた残虐行為を頭 絞首刑になったものはひとりもいませんし、彼や彼から否定しているのを、額面通りにうけとる必要はな の息子が、三十日ないし六十日投獄されていたとい う記録もありません。彼らがパーカー副領事によっ 二つの解釈を調整するため人手しうる情報の出所が て処刑から救われたという話も、根拠がないようにきわめて少ない点から、スミルナ事件の事実を最終的 思われます。 に確定するのは不可能のように思われる。 前記の情報は、イズミルの記録ならびにホホー 牢屋から釈放されるや、数多くの家族のうちで男と ル・アラズラキやミシェル・ジウディッイのようなして生き残ったたった二人 ( オナシス親子 ) は、女た 信煩すべき商人や海運代理業者の陳述から得られたちのあとを追ってアテネに行った とオナシスは話 ノ 80
争行為から生ずるまる損の場合には、ロイド会社の負けないかぎり、過激な措置をとりそうもないと思われ 担は実に五百万ポンドにも達したであろう。もしもべていたのである。 ルーがその成嚇を実行して、オナシスの船を竸売に付当時、一般の印象としては、合衆国はイギリス、ノ したとすれば、ロイド会社は ( 拿捕をまぬがれた数隻 1 ルウェー、その他の海運国と同じく、南米三国の三 のキャッチャー ・ポートを差引いても ) 、ベル 1 の法百二十キロ領海という主張をみとめることに断乎反対 廷が課した三百万ドルの罰金をはるかに越える額を負していた。そういう情況の下で、また西半球の指導国 家が明らかに示した不同意に面して、ベルーがアンク 担することになったであろう。 ル・サムの弟分である。ハナマの国旗の下で航行する船 この特別な場合には、保険されたリスクが明白に予 見され、さし迫っていたばかりか、事前に威嚇されて隊に対して、実際に戦争行為をあえてすることはある まいと想定しても、安全と思われたのであった。 いた事実を考えると、ロイド会社がオナシスの求めた とすれば、ナゾの解明は、ロイド会社がこのリスク 保険をひきうけたのは、大きなナゾであった。ロンド ンの保険業界の間ばかりでなく、全世界の保険業界で、を保険した時には予想できなかった、ワシントンにお ける政策の変史のうちにのみ求めることができる。 活で長期にわたる論議がつづいた。 答えは、保険という見地だけについてのアカデミッ 実際、ワシントンの政策立案筋では、この場合二つ クな論議では見つかりつこなく、むしろ政治的な誤算の相矛盾する意見が対立していたのであった。一部は シに求めなければならない。ロイド会社は、オナシス捕どんな事情があっても、拘東されることなき海洋の自 オ鯨船隊に対する現実の脅威が、ベルーからは実際に生由という伝統的政策を維持すべきだとしていたが、他 運ずるはずがないと見くびっていた。ベルーはこれほど方では、世界をまたにかけた活動が一ダースほどの重れ 2 重大なケースでは、合衆国からフリー ハンドをとりつ大な個所でアメリカの利益を脅かしている男に対して
これは納得できる証言でないかもしれないが、しか察が、反ロイド・ジョ 1 ジ活動に対して真剣に対策を し、 考えたことはまちがいない。それだからこそ、警察署 6 ハーミンガムのリべラル・ユニオニスト紙が 常に罵倒的な挑発的なそして脅迫的な投書に、その通長は騒動を予想して、騒ぎが起れば公会堂からケ 1 ナ 1 ヴァン選挙区選出議員のロイド・ジョージをこっそ 信欄を開放したことは事実である。これは、すべて口 イド・ジョージに対する憎悪を煽るためであった。投り連れ出す計画を、事前に練ったのであった。 書はほとんど匿名であったが、「パックス ( 平和の女 ロイド・ジョージの演説にイギリスの兵器会社がお 神 ) 」と署名した手紙には、「暴動は避けられぬ」と書どろき、その暗躍ぶりを隠すのに都合のよい煙幕を探 いてあった。 しはじめた、ということも充分にありうる。ブーア戦 ストー = ィア警官の体験は、もっと直接的であった。争は、狂信的な愛国心と野蛮な主戦論によってひき起 されたが、今や逆にその主導者にとっても苦々しいも ーミンガムの警察署長は、暴徒がロイド・ジョ ジを捕えたら、殺すだろうと確信していました。誰かのになりつつあった。ロイド・ジョージは、かってプ 不明の人物に雇われたならず者どもが、ロイド・ジョ ーア戦争に関連して自党の議員を攻撃したため、影響 ンガム公会堂の事件があっ ージの演説会を混乱させ、どんなことをしてでも彼が力を失っていたが、。ハ 演説するのを阻止せよと、計画的に煽動されていましてからは、影響力をある程度回復した。兵器産業界の た。外国人が一人、この目的のためバ 1 ミンガムへき大立者が演するのに、平和交渉ほど効果的な煙幕が、 ているという情報を、われわれは擱んでいました。そほかにあろうか。しかし、この場合、調停者となった して、その男がバジル・ザ ( ロフであることが判明しのはザ ( ロフではなかった。しかし、彼が南アメリカ ました。」 でとったやり口を、主人どもに教えたということは充 この証言は信頼できるであろう。く / ーミンガムの警分考えられるであろう。プーアの代表がすでにハ 1 グ
ことにした。ザハロフは自分が得た利益をこの会社の なった。また、パリはスペインへずっと近かった。 4 の頃にはしげしげスペインへ訪れるのが習慣にな 0 て株にふりむけ、一八九〇年代のはじめにはすでにかな 5 りの資産家となった。 いたのである。それよりも、パリに本拠を置くことに よって、今までよりも自由に、そしてロンドンの同僚軍需産業はブームとなり、接収や合併が世界中で行 なわれた。局地戦争が繰返され、大国間では軍事費支 どものうるさい目にわすらわされることもなく、彼は 行動できたのであ 0 た。つまり、マクシム・ノルデン出が急増しつつあるこの時代に、小企業が、それぞれ フェルト社に、彼の行動や策謀をすべて知られたくは銃や軍需品を生産するのは時代おくれであり、大量生 産にともなって生ずる問題は解決できなくなっていた。 なかったのである。 一八九〇年という年は、多くの点でザ ( ロフにと 0 事実、小さな会社では大量の註文をさばきえなか 0 た のである。このような事情から、オ 1 ストリアのシュ て記憶すべき年であった。しばらく前から、ノルデン コダ社はいくつかの竸争会社を買収し、フランスでは フェルトは会社の事業を能力のかぎり発展させるには 年をとりすぎているし、推進力にも欠けていると、ザシ = ナイダー社が、ドイツではクル , 。フ社が、また。 ( ロフは考えていた。またノルデンフ = ルトにと「て、シアではプチロフ社が同様の措置をと 0 た。 マクシム・ノルデンフェルト社のため、ザハロフは マクシムは一筋縄ですむ協力者ではなかった。つまり、 半ば昔の競争相手として反感を抱いていたのである。すでにヨーロッパを遠く離れた海外まで旅行していた。 恐らく、マクシムとザ ( ロフがノルデンフ = ルトに対同社の記録によれば、一八八〇年代の終りには「リオ して陰謀をめぐらしているのを感づいていたのであろとヴ = ノス・アイレスに立寄 0 たあと一、二挺の銃を たずさえて」チリとベルーへ旅行したことになってい う。この年の暮、ノルデンフェルトは手を引くことに に決め、マクシムとザ ( ロフの独占的管理にゆだねるる。一八九〇年、彼はスペインにおける取引きを計画
このとき、喧嘩の二人は見物人によって引きはなさ ぬかれたオナシス、身長も体重もずっと小さな男に、 4 まともに襲いかか「た。たくましい両手で首をしめられ、オナシスは飛行機に乗り、五月の最後の週にアメ リカから帰ったら、万事を解決するともう一度約東し れて、「アリ」は、テリアにつかまれたウサギよろし 身体をゆすぶって逃れようとしながら、ギリシャ 語の辞書にあるありとあらゆる罵倒の言葉、それに英次の週も次の月も、その約東が守られなかったので、 カタポティスは事件を裁判沙汰にすることに決心した。 語やフランス語でも二、三の悪罵が浴びせかけられる その予備工作として、一九五四年九月二十七日、彼は のを耳にした。 ニースのイギリス領事のもとに赴き、十六ページに及 やがて、怒りの最後の爆発で、最高の侮辱の言葉が 貴様は : : こぶ宣誓供述書に署名し、彼の目から見た事件のさまざ きた。「貴様はギリシャ人でさえない。 ん畜生、トルコ人だ、それが貴様だ ! 」こういってカまな事実や非難を陳述した。この陳述書には事件に関 タボディスは、かっての友人の顔いつばいに唾を吐き連ある文書の三十あまりの写真版、一九五四年一月ジ ツダーでとったスナップ写真その他の物証がそえられ かけた。 ていた。 その時までには半分ひざまづいていたオナシスは、 ついで一九五四年十一月十九日、カタボディスはパ この場を目撃していた元ギリシャ領事に、嘆願するよ リの刑事裁判所に、オナシスに対して損害賠償要求を うな目つきを向けた。「どうか、お願い、とめてく れ ! 」と彼は哀願した、「この男が何をしているのか正式に提訴した。事件の原告と被告はともに合法的な フランス居住者であったから。 見えないのか ? 」 この提訴でカタボディスは、オナシスが「さまざま 「おれだって、まるきり同じことをやっただろうな」 な詐欺的なかけ引きによって」原告から「資金や原告 と元領事はいった。 こ 0
完全なものではなかったろうが、納得がいかないことは、はなはだあやしいようだ。また、そんな投資のお はない。アルゼンチノこ 、冫いたころ、彼が道楽半分にや返しで、誰にせよ金融の大道にのり出せるとは、とて ったと思われる他の取引についての報道もあった。 も考えられぬことである。 こよると、オナ 「彼の友人の間にひろまっていた一説冫 レイザーも懐疑的で、さらに次のようにいっている。 シスと友人コンスタンチン・コニアリデスは、その貯「オナシスを好まない人々は別の説をなしており、こ 金の全部ーー一千ドルかそこらーーーを、・フェノスアイの方はもっと非好意的である。実際に証明できるただ レスで南極捕鯨のため必死に資金探しをしていたノ 1 ひとつの事実は、オナシスがそのとった手段のいかん ルウェ 1 のある捕鯨船隊の所有主に貸したそうだ」と にかかわらず、やっと世間にのり出したばかりの青年 アーネスト・レイザーは『サタデ 1 ・イヴニング・ボにしては、非常にうまくやったということだけであ スト』に書き、次のようにつけ加えた。「この説による。」 ると、この捕鯨遠征は意想外に大当りをし、オナシス 私との会見で、オナシスは役に立った一要因につい の分け前は、彼を金融の大道にのり出させるに十分でて、ごく率直に話した。つまり、両手でつかみとった あったという。」 金に対して税金を払わず ( 当時アルゼンチンには所得 オナシスの捕鯨への関心は周知のところであり、ま税がなかった、と彼は説明した ) 、事業の運営費用は だ若いころからこの事業に一枚加わったというのは、 ほとんどゼロだったのである。 シありうることである。しかし、一千ドルという金は、 三年目になって、彼は自分でシガレット製造を開始 ナ 一シーズンの平均費用が幾百万ドルに達する事業へのし、しかも、それまで東洋タ・ ( コの発注を全部彼の所 運賭け金としては、あまりにも少額と思われるので、必にして助けてくれた二人の大製造業者と、友好的な関 死のノルウェ 1 捕鯨業者がそれで助けられたかどうか係を維持することができた。
や宝石を売り、夫の弁護のための費用を準備しました。する抵当品を盗んだかどで」、マンション・ハ ウス軽 放免されたら、ともに再出発しようというつもりだっ犯罪裁判所へ呼び出された。しかし、第一回公判で、 たのです。」 イスタイフ 1 ルにおける盗みの件については当該裁判 ロンドンにおけるザハロフの裁判記録は、不完全で所の裁判管轄外と決定され、他人から委託された物品 ある。建て前として、公文書保存所はこのような事件を抵当に入れた件のみが問われることとなった。一八 の記録をすべて保存しておくべきであるし、それを閲七三年一月十七日のタイムズ紙に、その後の経過が述 覧もできる筈である。しかし、一八七二年から七三年べられている。 にかけて行なわれたザ ( ロフの裁判に関しては、肝心 「ザハリア・ ハジリウス・ザハロフ二十二歳は、代理 の文書が紛失してしまっている。いっか、誰かの手に人として、イスタンプールの商人マニ = エル・ヒへス よって、その書類は持ち出され、返却されなかったの ティズから総計千ポンド相当の物品の販売を依頼され である。第一次世界大戦中、治安上の理由から持ち去たが、不法にも当該物品を抵当物件として私益のため られたことも充分考えられる。 流用した。」 当初この事件がどのように取扱われたか、それを追当初この事件はマンション・ハウス軽犯罪裁判所に 跡するのは極めて困難である。それというのも、最初おいてメイヤー卿を裁判長として開かれたが、ザ 逮捕された時、ザハロフは本名で告発されていなかっ フは他人の物品を抵当に入れた事実について確証があ ロたからである。一八七二年十二月十六日のタイムズ紙がるまで再拘留されることになり、保釈は拒否された。 上では、ザ ( ロフはその変名のゴルツアコフとして出その後ロンドン中央刑事裁判所で公判が開かれた時に 商てくる。「代理人として販売を依頼された物品を抵当は、弁護士のすすめにしたがって、無罪の主張を取消 死に入れ、イスタンプ 1 ・ルにおいて約七千ポンドに相当し、犯行を自認した。