を求めるにあたっても、ザハロフは兵器の場合と同じジョージは再びそれを試みた。今度はザハロフを仲介 手を使った。彼は石油の必要性を宣伝し、イギリス、者に立てた結果、ザハロフは採掘権の三分の一をイギ リスへ、残り三分の二をフランスが保留するように決 フランスの両政府に、アフリカと中近東において石油 採掘権の確保が望ましい旨を強調した。まだ当時ほとめた。 んどの政治家が考えいたらなかったが、石油はかけが オーストリアに敵対するセルビアを支持するにあた えのない武器として、連合国の協力関係を破壊するの って、ザハロフがとった策略は、まことに狡猾をきわ に使われる、それをドイツ側は戦争となれば狙ってくめた。つまり、この両国の間には火薬樽があるような へ火が ると、ザハロフは考えたのである。従って、一九一四もので、火花が飛びさえすれば、全ヨーロッパ 年の初め頃、ザ ( ロフは全力をあげて、石油が連合国つく状態になっていたが、それをザ ( ロフはよく承知 側のパイプラインを流れるようにしむけようとして、 の上で、行動したのである。一九一四年、事態はザハ 動きまわった。 ロフが予期していたよりも早く動き出した。彼の考え ロイド・ジョージもイギリスはアルジェリアの石油では、翌年にならないと、連合国側には完全な戦争準 に投資すべきであると、ただちに説得をはじめたにち備ができないことになっていた。従って、夏が過ぎて がいない。そう思われるふしは、一九一五年、彼と緊開戦の導さがたかまってくるとともに、彼としては、 密な関係のもとに動いていた男、エ リバンク学寮長が、事態が思わしくなくても、はっきり有利な立場に立 ・。ヒアソン社の代表として、採掘権獲得のためアル っため、決め手を打っ必要を感じた。オーストリア外 ジェリアへおもむいているからである。そのころ、フ務省の記録文書によれば、当時メンスドルフ伯爵は、 ランス政府側では、これをイギリス政府の陰謀と受けイギリスの政治家に「オーストリアの要求は強硬であ り、セルビアの要求は非常に不満である」旨を、よく とり、協力を拒否した。しかし、一九一九年ロイド・ 8
イルソン大統領のような理想主義者を、彼は信用しな るに先立って、ザハロフと相談する必要があった」と、 ・・オコーナーがかって言ったことがある。恐らかった。政治家と折衝する場合、まず最初に商売とい く、これは単に大人物に対するザ ( ロフの影響力を誇う立場で考えると宣言した。そうしておいて、政治面 示するため、創作された話であろう。しかし、たしかで強い信条があるとは少しも感じさせないでおいて、 に、彼は連合国側の全戦争指導者から敬意を払われて純政治的な問題に対しても、意見をのべられるように いた。もし彼らがパリにいるザ ( ロフを訪れなかったあらかじめ考えをまとめていた。もっとも、ザ ( ロフ としたら、それをザ ( ロフは侮辱されたととったであのような冷笑的な見解をとる男に、政治上の信条があ ったかどうか、それは非常に疑問ではある。ザハロフ ろう。彼の行動は戦時中いつも秘密にされていた。ま た、役人が、彼の黒幕でありたいという気持を、助長は、アリスタイド・ブライアンドに、個人的な見解を のべている。「連合国側の完全な勝利の日まで、そし したという面もあった。 ョロツ。 ( からバルカンまた中近東にかけての広いて現在の諸国連合の形態が不可避的に崩壊する日まで、 彼の知識に、かなう者はいなかった。さらにその広い戦争は続けなければならない。」 この言葉の意味するところを見定めるのはまことに 知識は、かけひきのうまさをともなっていた。生来狡 猾であり、心理的な洞察力もすぐれ、それは外交官や困難である。というのは、ドイツは再建されるべきで 軍人にはほとんど見出し得ないほどのものであった。あり、イギリスやフランスと協調するようにしむける べきであるという意見を、ザハロフが繰返しのべてい わずかに時折政治家の中に見出される程度であった。 もちろんザ ( ロフは、刻々変る戦況にもとづいて考えたからである。実際のところ、ザハロフは、一時しの を立てる政治家と相対する方を、好んだことはいうまぎの平和には関心がなかったのである。一時しのぎの でもない。その意味で、新しい世界秩序を提唱したウ平和は、どちら側にも事態を収拾する力を与えず、そ / 24
と一一 = ロっている。 早くも一九三九年にはイギリスへ伝えていたことも、 カナリスの本心は、外見とは別のところにある。彼明らかである。不明なのは、どの程度連合国側へ秘密 は痛い目にあったから、今では単に情報機関の中で自情報を提供し、また連合国側の意図がナチスの情報機 分の地位を保持しているにすぎない。 つまり、彼はヒ関へもれるのをどれほど防止したかという程度の問題 ットラーの計画を探知し、新しい勢力が権力を掌握でである。カナリスの伝記を書いたイアン・コルビンが きるようになる日まで、ヒットラーの企図を妨害し続調べたところ、次のような答がえられた。「第二次大 けようとしているのである。スペインにとって必要な戦中のイギリスの情報機関の活動ぶりは、どの程度で 同盟国は、フランスというよりは、むしろイギリスであったか。 : : : 連合国側は、ドイツ国防省の裏をかい あろう。それは、イギリスの方が安定勢力であるからたであろうか。私はこんな質問を、大戦が終ってから である。しかし、イギリスでは、誰ももうザハロフのであったが、国務次官に昼食をともにした折に出して 意見に耳を傾けようとはしない。彼らはザハロフに対みた。これについては関心のあることを国務次官は示 して不信の念を抱き、カナリスはドイツ情報機関の長し、次の点を強調した。『連合国側の情報機関はよく であるということで、彼の意見も採用されない。ここ整備されていた。カナリス提督が連合国側についてい たが、彼はかなりの功績をあげた。』」 に悲劇の根源がある。」 カナリスがイギリス側のスパイであったという事実 一九四四年のヒットラー政権転覆に加担したかどで、 カナリスはついに処刑されることになった。この事実を証拠立てた者はいないが、しかし、事実上、間接的 からして、カナリスがナチス政権に反対していたことではあったが、彼の策略によって、たしかに何かがな は、明らかである。彼はヒットラーを放逐しようとしされたのである。 ていた。また、ヒットラーから権力を奪還する計画を、 ザハロフがもし二十歳若かったら、それとも彼がも . Z52
ささか不思議に思われる に全力をかけていたことを、認めてやらなければならが存在しなかったことは、、 ない。また、この方針からそれるようなことも、彼はであろう。しかし、一九一四年当時、政治家は今度の しなかった。彼は連合国のために忠実に、勤勉に、休戦争をどう受けとってよいやら理解できず、そのため みなく働いた。また勝利が確実となるまで、戦争を遂狼狽するばかりで、ただ専門家の助けを求めるしかな 行しようとしている政治家には、すべて心よく協力しかったのである。その専門家すら、実は、自分たちの 計算がすべて狂ってしまったから、まったく自信を た。連合国側のために、彼は私費を投じたばかりか、 一身の危険さえもおかした。これらのことはすべて認失っていた。その証拠に、一九一三年から一四年にか めなければならない。しかし、そうした行動をとってけて、イギリス外務省は、ヴィカーズ社やアームスト ロング社のため海外からの軍需品註文を確保し、ロス も、彼は兵器会社の代理人、金融家という狭い立場か ら考えを進めたのである。勝っため可能なかぎり早いチャイルドやキャッセルなどのイギリスの各銀行が外 道筋をとるという考えは、彼は受けつけなかった。ま国政府に対して借款を供与する場合やはり保護を加え た、彼の関係する兵器会社や、軍需用資材には、まつるのが、その仕事の一部であると考えていたくらいで たく手をつけてはならないと、勝手に決めてかかってある。このように、外務省を通じて政府の保護を受け いた。それが彼の要求する条件であり、それは動かしていたから、兵器会社は絶大な力を行使できた。また、 ・クルソ 1 社のごときは、海軍大臣の えないことが、彼の言動から察せられた。これに反すシ = ナイダー フ る考えをもし政治家がとれば、ザ ( ロフの思いのまま任命権を同社の役得ででもあるかのように見なしてい た。それのみならず、同社は議会の陸軍委員会をも支 人に、その政治家は激しい非難をあびせられ、沈黙させ 配していた。他方、ロシアでは、軍当局は上から下ま のられるのであった。 このような策謀を阻止する力をもった政治家や政府で、ヨーロツ。 ( 中の兵器商人からの賄賂と脅迫に毒さ
るのに成功した。しかし、なかでももっとも彼が力をは見解を異にし、軍部と同じく、ギリシアは戦力不足 入れたのは、。 キリシアの参戦であった。これが主囚とで参戦できないと考えていた。もちろん、当時、ギリ なって、急激にブルガリアが崩壊し、戦争の末期にあシアが参戦すれば、ブルガリアは、パルカン戦争の際 の敗北の報復措置として、ギリシアにとられた地域を った枢国側の士気に大きな打撃を与えた。アジャン ス・ラジオの放送を通じてギリシアの中立を休みなく奪回しにかかるという危険があった。また、ザハロフ と、ギリシア王族やギリシア軍部との間でも考えが分 攻撃し、アテネの刺客や泥棒からなる「ザハロフの私 キリシアの参戦 兵」をもって、地下工作を進めるのに成功し、ついにれていたし、連合国側各国も多くは、。 コンスタンチン王の人気を低下させ、結局王に亡命をにさほどの賛意を表明していなかったのである。たと 余儀なくさせ、べニゼロスが政権をとるようにした。 えば、軍事専門家も、ギリシアに充分な戦力があると これはとるに足らぬ収穫というようなものではなかは考えていなかった。 それに対し、ザハロフは、・ キリシアは日を追って強 った。連合国側からあるいは枢軸国側から味方に引き ヒされつつあると見ていた。一九一五年いったん首相 入れようとする働きかけがあったにもかかわらず、ギイ リシアはそれまでかたくなに中立を守っていたからでの席から追われていたべニゼロスが、コンスタンチン ある。ロシアがセルビアを支持し、セルビアがギリシ王の退位を求める運動を起すと、すかさずザハロフは アと同盟関係にあったことは事実であるが、しかし、連合国側の最高会議へ割りこんでいった。当時フラン かってバルカン戦争で勝利をもたらしたコンスタンチスの外相であった・フリアンに、コンスタンチン王退位 ン王も今や苦境に立たされていた。つまり、王はドイを求めるギリシア国内の運動を支持するかどうか、ザ ッ皇室と姻戚関係にありながら、しかも連合国側の考 ハロフは問いただした。それに対してブリアンは慎重 え方に賛成であったからである。王はギリシア国民とな態度をとり、その運動が正当であるかどうか疑問で ノ 26
て、はじめて彼は連合国側に助言できたのであった。情報として入手していた。それについては、スウェー デン大使が報告している。「勝利が確実となる前に、 その際の助言の要旨は、一九一八年秋には、ドイツに 対して講和を押しつけうるというものであった。それ一九一九年に入ってから、さらに大攻撃を加えるとい に対し、当時連合国側は、一九一九年までドイツを敗う計画については、バジル・ザハロフは意見を変えた。 ポルシェビキ 1 の同調派である社会勢力が革命を起す 北にもちこみえないと考えていた。その意味で、革命 の第二段階を妨害したのは、まさにザハロフであっ可能性に、彼は大きな関心を払うにいたり、連合国側 の外から加える圧力と、国内の革命の圧力の両方には、 ーグからロイド・ジョージのも 真実のところは、ハ ドイツは耐えられないと、ザハロフは考えるようにな っこ 0 とへ次のような情報が入っていたのであった。それは ドイツのルーデンドルフ将軍の急送公文書であったが、 そこでロイド・ジョーンはパリを訪れ、クレマンン 「事態は暗たんとし、この春 ( 一九一八年の春 ) 以来わ ー立会いのもとで、ザハロフに「どちらの話が正しい れわれの失地は大きい。しかし重要政策決定に参画しのか。どちらを考えているのか」とたずねた。 ているバジル・ザハロフが、今年中にわが国を倒すと フランス首相のクレマンソーを補佐していたミッ いう連合国側の案に反対しているのを聞いて、本官は シェル・クレマンソ 1 によれば、ザハロフは次のよう 気を取り直している。もし実際にザハロフがそう考えに答えたという。「来年までにドイツが完全に、つま ているならば、われわれには陣容を建て直す時間が与り軍事的に打ちのめされるとは、私には思えない。し えられるからである。しかし万事はロシアの出方にか かし、それまで待っていれば、ポルシェビキー派の方 かっている」とのべていた。一方、ロイド・ジョージがわれわれを出し抜いてしまうであろう。この両方と ーグにおいて行なわれた別のある会談の内容を、も正しい。共産党が何らかの方法によってベルリンを ノ 3 ひ
ト・ド・・フルポン皇子へ宛てた秘密信書であった。こしていたし、それが実際に進められるようになったか 8 らである。その証拠に、フランスとイタリアがこの計〃 の手紙はフランスに見せるつもりのものであったが、 ザハロフは、まずロイド・ジョ 1 ジに最初に読ませる画に反対しても、長い間この案を主張しつづけた。 ことに決めたのである。それを読んで、ロイド・ジョ ヨーロッパの金融資本は、連合国側も敵国側の金融 ー。、、は、ただちに和平会談の機会を探ることにした。 資本も同様に、戦時中提案された和平提案に対しては、 シクスト皇子の提案の内容は、オ 1 ストリアは次の点周知の通り、内容のいかんを問わず飛びつこうとした。 に同意すべしというものであった。西部戦線の連合国またシクスト皇子の提案にも大きな興味を示し、ザ ( 軍に対して大兵力をさしむけないこと、その代償としロフもパリで連合国側の金融資本からこの提案につい て相談をうけた。しかし、ザハロフは、オーストリア て、反動的なオーストリア・ハンガリア帝国にイギリ の提案については、それを中近東における戦火の拡大 スから支持が与えられることーーーしかし、これはまっ たく途方もない提案であり、連合国側の指導者は一顧に利用できたから、関心をもっていただけで、金融資 リ駐在イ だにすべきでないような提案であった。そこで、この本に対しては次のように明言したという。パ 提案を考えに入れ、ザ ( ロフは次のような計画をたてギリス大使であったべリティ卿が伝えるところでは、 た。それは戦争終結ではなく、西部戦線では小休止を「バジル・ザハロフは最後まで戦争を継続する考えで とり、中近東とバルカン地方で戦火をかきたて、死のあった。」彼はこの時のザハロフを「冷たく、打算的 兵器の顧客を開拓し、またギリシアを戦争にまきこむであり、不可解であった」と言っている。 ことであった。 戦時中、ザ ( ロフは、ロイド・ジョージの依頼で、 いろいろと秘密の使命を帯びて旅行した。その活躍ぶ この計画は、ロイド・ジョージにとって、魅力的で りは、たしかにアルキン・ジョンソンをして「ロイ あった。それは、彼自身も中近東における戦争を計画
1 の脅威とともに拡大しつつあったし、またオ 1 スト リアもトルコもドイツを見限る可能性が大きくなって いたから、その意味で、終戦は間近かに迫っていたの 十三老いらくの恋 である。また連合国側が西部戦線の不利な戦いで力を 失いつつある時に、トルコが中立の立場をとり、強固 になるのを許すわけにもいかなかった。そのため、最ザ ( ロフはすでに七十五歳になっていたが、それで 後の大攻撃が是非とも必要となったのであった。 も四十年来のロマンスが実を結ぶのを一日千秋の思い こうした事情から、一九一八年の春ドイツ軍は最後で待っていた。この間、彼は可憐なスペインの公爵夫 の猛反撃を試みた。そのため五週間に三十万の戦死者人のことをかたときも忘れはしなかった。彼女のため を連合国側は出し、その年の十一月やっと連合国は最にかって彼は決闘までしたのであった。ほかの女に心 後の勝利を手にしたのであった。しかし、それは勝利を動かしたのは、ただ取引きを進めるためか、数時間 といっても休戦であり、枢軸国側を軍事的に破ったの官能を満足させるためであった。いつも彼は男性より ではなかった。つまり、ドイツには侵攻できなかったも女性と相対している時の方が打ちとけていたが、し のである。 かし、本能的に女性には不信感をもっていた。ただし ヴィラフランカ公爵夫人だけは例外であり、愛の手紙 を送り、密会を続けてきたのである。 一九二三年、彼女の夫が精神病院で亡くなり、彼女 とザハロフの結婚を妨げるものはもう何もなくなって しまった。一九二四年九月二十二日の朝、ザハロフは 134
は、少し時間をおいてからでなければならぬと考えた。 ために渡されたかは不明であるが、ドイツをはじめと それというのは、彼の考えとしては、枢軸国側のさらする敵国側を妨害するためであったと考えるのが、も に深部に情報網をはり、連合国側の勝利を確める情報っとも妥当であろう。」 の蒐集が絶対必要であったからである。どんな形の戦セルビアやロシアでは、彼の買収作戦は成功した。 争であるにしろ、ドイツ側に勝利の希望がもてるとしトルコでも、一大打撃を与えるのにほぼ成功しかけて たら、それは早期決戦による勝利以外にないと、ザハ いた。もしそれが本当に成功していたならば、トルコ ロフは確信していた。もし戦争が三年以上長びけば、 をドイツから切離し、戦争を早く終結させることに恐 連合国側が勝つにちがいないと考えていた。そこでザらくなっていたであろう。しかし、ザ ( ロフは臆病な ( ロフが狙ったのは、敵国側の兵器会社へ侵入し、そイギリス外務省に妨げられ、また青年トルコ党の革命 の工場を囲いこみ、連合国側からの供給品に依存せざの性格を外交筋が理解しなかったため、失敗に終って るをえないようにすると同時に、敵国の兵器会社が傘しまった。 下におさめようとする国々へ、兵器を供給させないよ開戦に先立って二、三年前から、ザ ( ロフは飛行機 うにすることであった。この目的をとげるため、ザハ の開発に大きな関心をよせていた。すでに一八九〇年 ロフが買収を用いたことは、ヴィカーズ社の社史ドお代、まだほとんどの兵器会社がそれほどの熱意を抱い いても認められている。「一八九八年セルビアにお いていないころから、また軍事専門家もほとんどが空爆 て二、三度、その後ロシアにおいても、また恐らくトの価値を疑っていたころから、飛行機によって戦術は ルコにおいても、ザハロフは秘密の手数料や賄賂を贈革命的な変貌をとげることを想像した数少ないひとり った形跡がある。その額は、一件当り百ポンドから数が、ザ ( ロフであった。マクシムは自分の実験に執着 千ポンドに及んだ。しかし、誰に渡したか、また何のしていたが、それは結局不成功に終った。しかし、ザ 8
た。政治家がいとも気軽に自己犠牲と自己抑制をまくて、連合国側も枢軸国側も、軍需品の不足こそ最大の 問題であるとさとったのであった。 したてているうちに、兵器産業界の黒幕は、自分らの 思い通りの方向へ戦争を引きずっていったのである。 ソンムの戦闘において、イギリス軍は兵器工廠が生 その結果、国際兵器産業の棺桶の中へ、何百万という産した弾薬だけで戦った。もちろん不足に悩まされた 尊い人命が投げこまれていった。 が、しかし、これは注目すべきことであった。ふりか やがて戦争の規模が拡大し、どの交戦国も想像できえってみれば、兵器工廠の設備は原始的で、砲弾を製 なかったような状態におちいった。弾薬の必要量の予造するには厄介な機械工作が必要であったからである。 測は、ほとんどどれもまちがっていった。敵味方とも イギリス陸軍省当局は、弾薬の製造を広い範囲にわた に弾薬の不足に悩まされた。ドイツは当初火力ですぐって下請けに出すのは危険であるというので、もめた。 れていたが、一九一六年の末には、弾薬が致命的に不造兵局長は、砲弾の生産を「これまで以上に広い範囲 足し、戦闘能力の回復の時間が必要なことがわかった。 に発註するには、あまりにも仕事が精密さを要求す る」と答弁した。 それまで連合国側は、敵の・この欠陥を充分把握してい なかった。それというのも、連合国側自身、前線の部 かって見ないほど、こうして戦争が無為のうちに過 隊に対する砲弾供給の不円滑に心を奪われていたからぎ去っていった。その事実を示すには、どんな文章よ であった。ドイツ側は一九一四年中に短期決戦を挑み、りも数字の方が雄弁である。西部戦線における双方の 早期に戦争を終結しようと考えていた。それに対し、 士官の寿命は、一九一四年から一九一八年まで、平均 フランスの参謀本部も、ドイツ側がしかけてくる殲減五カ月であった。一九一八年には、毎月戦死する士官 作戦は恐らく二、三カ月しか続かぬであろうと予想しの数が三千六百八十名、兵員の死傷者は毎月七万五千 ていた。ところが、はじめて、マルヌの戦いにしオ 、こっ五百名に達した。第一次大戦についてはいろいろな統 112