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検索対象: 現代世界ノンフィクション全集8
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1. 現代世界ノンフィクション全集8

わからない。かりに私がくどくたずねて話を引きだすネ」の編集部で働いていたーーそのための機会は十分 のに成功した場合でも、彼の話は、大方はその体験の にあった。そんな風に部屋を片づけているうち、私は こつけいな面にだけ限られていた。生死を賭けた状況さまざまの奇妙な発見をした。沢山のマルクス主義理 について述べる場合でさえも、彼はヒロイックな美化論書、ヘーゲルやその他の哲学書、レーニンの著作集 は一切行なわず、英雄であるどころかむしろ彼がびく などの間にはさまって、一冊のポルトガル語の詩集を びくしながら不ざまに振舞って面目をつぶしたような見つけたのである。それそれの詩に並んでドイツ語の 挿話を一つぐらいそれもできるだけ手早く話して切り翻訳がはりつけてあり、またそれから、自作の詩を書 あげてしまうのを常とした。うず高く本のつまれた彼きつけたノートが何冊も見つかった。多分十五、六歳 の部屋をすでに何度か訪ねて後、どうやればもっと場のころに作ったものなのだろう、筆跡がいかにも子供 所をあけられるかについて私が幾つかの提案をしたと っぽいものだったからである。それからその他に、さ き、私は断乎たる抵抗をうけた。すべてがこのままこまざまの国語の詩集もあった。次の発見は本棚にあっ れまでどおりの状態になっていなければ、彼は何一つた。広東蜂起についての沢山の記録文書、それから沢 見つけだせなくなってしまう、というのである。それ山の写真類で、それらの書類はどうやら蜂起敗北後に で ま ワ はたしかに一つの理屈であった。というのは、そこに まとめられたものらしかった。私は強い関心をそそら スはそれなりの組織的な無秩序が存在していたからであれた。というのは、広東蜂起は、内外の彼の敵 らる。そこで私は慎重に策をこらしながら、問題を片づ手たちの主たる攻撃材料の一つになっていたからであ ムけていった。なにしろ彼の仕事時間は朝の九時ごろかる。反対者の新聞論説などで、ノイマンを攻撃する場 ッら夜中の二時ごろまでつづくのでーー日中は党の指導合・「広東の虐殺者」という嘲笑の言葉をそえないもの 3 部で働き、夕方から夜中にかけては「ロ】テ・ファ 1 は稀れだった。それらの文書は、広東でおこった事態

2. 現代世界ノンフィクション全集8

ール。事務局は、 = リウス・アル。 ( リの意志に反して、下の階との行き来を楽にできたからである。この階段 8 は、このの砦内部における秘密通路やかくされ凅 党本部、ビューロー広場に面したカール・リー た部屋部屋の全体系の一部をなしているという、しば プクネヒト館に移転した。たしかに私たち編集部のメ 、よやされた風聞は、よく立ちいってみれば、 イハーは、この大きな建物の裏側にある独立した入口し・よ、 要するにの敵たちによってでっちあげられた伝 を利用してはいた。しかし、これで、「インプレコ ル」および「機関紙通信」は党としてのとは何の説にすぎないことがわかる。 よ、ワイマール共和国時代の通俗新 この種の怪談話を かかわりもなく、独立した機関であるという、素朴な 世論をそれ以上あざむきうる可能性は決定的になくな聞でも再三とりあげられ、さらに一九三三年初め、こ っこ 0 のカール・リープクネヒト館がナチの手で占拠された 私たちの下の一階の党セクションには「ローテ・後、『武装蜂起』と題するナチ党のパンフレット ( ア ドルフ・エールト 博士『武装蜂起ーー・国民革命前夜に ファーネ」の編集部があり、私たちの上の階には、 中央委員会やら、組織局、政治局、書記局、そのおける共産党の蜂起計画の暴露』、ドイツ反共統一連 他沢山の仕事部屋があった。「ロ 1 テ・ファーネ」の盟編纂、エッカルト書店刊、ベルリン・ライブツイヒ、 一九三二年 ) で、いわば公式に証明された形になって 階から中央委員会の階には特別な回り階段が通じてい いる。そのパンフレットの中には、「カール・リ 1 プ て、それは私たちの廊下の端にあるいつも閉じられた クネヒト館の秘密通路入口」という説明入りで、二枚 ガラス戸の向うにそなえられていた。 この設備はひじように実状に即していた。というのの写真が示されている。だが実際にはそこに示されて は、「ローテ・ファーネ」の編集員たちは同時に中央いるのは秘密の場所でも何でもなく、そこには一九三 委員でもあったので、彼らの活動の都合上、上の階と一年以降、党の自警団の警備員が寝泊りしていたにす

3. 現代世界ノンフィクション全集8

まわった。党からそんな信頼をうけたことで、私はこ義とかファナティズムの影もなかったからである。む そばゆく感じたけれども、反面こんな風に自分の私生しろ、彼は肥りぎみのオペラ歌手のようにでもみえ、 活に強い干渉をうけることは必ずしも良い感じではな大きな頭のうえには、濃い巻毛が渦をまいていた。彼 かった。といってももちろん、規律正しい共産党員での声は高く柔らかく、ちょっとしたことにも大きく高 あれば、否応のあろうはずもない。しかも問題は、闘笑いをした。彼にまつわるすべてには輝くような生の 士であるがゆえに警察に迫害されている人びとなのだ。 喜びがあふれ、彼がその身の上を楽しむすべをわきま 同志は、住居の窓が全部庭に通じているので、万一 えていることがすぐに見てとれた。彼は、ドイツ流に の逃亡も容易であることを満足げに確認したあと、次よればいささか目につくほどに、大へん丹念に身づく の日にこの客たちを待つように、と伝えられた。 ろいしていた。もしその当時、誰かが私に、この人物 翌朝ベルがなって、私が緊張してドアをあけると、 こそは誰あろう、あの ( 西欧ビュ ーロー ) ・通称 そこには、ドアの枠いつばいの荷物の山の中にただ者 0 と結びついて西ヨーロツ。 ( におけるコミンテル ではないとみえる一人の男性と一人の女性とがたってンの非合法活動とスパイ活動のすべてを一手に掌握す いた。男の方は「〈ルムート」と自己紹介し、女の方るあの機関の長なのだ ( 数カ月もしてから、私はやっ で ま ワは「クララ」と名のった。男は、ウィーン風の、強いとそのことを知るのだが ) といったとしても、私は一 ス東欧なまりのあるドイツ語をしゃべった。二人を部屋笑に付したことだろう。 らに招しいれて、さてやっといささか落ちついてその姿「クララ」と名のる連れの女性は、すでに荷物をとき ムをみたとき、私はちょっとおどろかされた。彼は、私はじめていたが、四十代の中ごろの小柄な女性で、 が想像していたような「非合法の職業革命家」のようささか不健康な肥満ぶりをみせていた。彼女は部屋か には全く見えなかったからである。その顔には禁欲主ら部屋へとかけまわり、カーテンをためし、家具の位

4. 現代世界ノンフィクション全集8

小柄なずんぐりとした男で、彼のドイツ語にははっきは、はっきりとソヴェトの利益を代表する役目を果た りとハンガリーなまりがききとれたが、どうやら彼自さなければならなかった。雑誌は、コミンテルン内の 身もそれをたのしんでいる気配だった。とりわけ、話全政党の活動について筋金入りの論説をかかげ、 の真最中に突然とびあがって、書き物机の方に走って ( コミンテルン執行委員会 ) の決議、決定をもれ いったかと思うと、ゲーテの一巻を手にもどってきて、なく掲載し、ソヴェト・ロシアにおける「社会主義建 彼のお気にいりの詩を朗読するときなどは、とくにそ設」の壮大な成果についてたえず報告した。われわれ うだった。そんな風に彼は、ドイツ抒情歌に惚れこんのベルリン・ビューローからは、毎日電話で、ウィー でいるもので、皆がすぐさまその熱中に唱和しないと ン、プラーグ、ロンドン、パリ、そしてモスクワと連 不機嫌になり、彼がハンガリー風ドイツ語で調子ばず絡をとった。 れに歌う「しげみと谷はみちわたり : : : 」がドイツ人 このベルリンのコミンテルン雑誌の協力者たちは、 の耳にはいかにも耳ざわりにきこえることなどは、とじつにとりどりの仲間からなっていた。これらの人び んと意に介さぬ風であった。同志ュリウス、この元ハ とはすべて、もつばら世界革命の勝利のために献身し ' ンガリー社会民主党員は、すぐれた教養をそなえてい あるいは少なくともそうであると信じきっていた。だ た。彼と、同じく「インプレコール」で働いていた彼から彼らは、資本主義の覆減にそなえ、プロレタリア の夫人工リーザベトとは、その振舞いがいかにも・フル ート独裁を弁じ、一つの新たな社会秩序が作られるこ ジョア的で人ざわりがよかったもので、アルバリがモとを求めていた。彼らは、共産主義的未来の理想を、 スクワのコミンテルンの直接の委任をうけて活動して労働過程における万人の平等を称揚し、生活の全領域 いるなどとは、とても信しかねるほどであった。彼の にわたる集団主義を高唱していた。彼らの未来の理想 雑誌「国際機関紙通信」と、毎日発行される印刷物と国家においては、人は集団で住み、子供たちを集団的 708

5. 現代世界ノンフィクション全集8

れた。ナチと手を組んで一つの政治的行動を行なえと脱れ出ていった。しかしそこも逃避の場所にはならな いうこの指令は、さすがに、服従することに慣らされかった。そこでも彼はまた、各種集会に出て、度を失 てきた政治局・中央委員会のメイ 、ハーたちにさえも寝なった党員同志たちに新しい路線の正しさを説明しな 耳に水だったので、彼らはコミンテルン宛ての回答のければならなかったからである。噂では、彼はこの屈 中で自分たちの危惧をのべた。つづいて、メイハ ーの辱のために腕すくで ( インツ・ノイマンに仕返しをし うちの三人、テールマンとレンメレとノイマンが、「発たといわれる。しかしこの噂は、モスクワの総会でな 言」のためにモスクワへ派遣された。しかしその地で、ぐり合いをしたという話と同様、ありそうにないこと ナチとの統一戦線にたいす「 3 政治的反論が押えこまれに思われる。つまりその総会の時、ノイマンは、テー るのに、大してカはいらなかった。共同住民投票の提 ルマンのために準備した報告書のページを出たらめに 唱者がスターリンその人であることが明らかとなったしておき、テールマンはまたそのバラ・ ( ラで脈絡のな からである。三人がまだモスクワにいたあいだに、ウ いテキストを悠々と読みあげたということだ。で、聴 ルプリヒトの手紙がとどいたが、その中で彼は、共同衆がそれに抗議すると、彼はノイマンに躍りかかった 住民投票というアイデアに強い賛意を示していたとい というお話なのだが。 で ま われる。というわけで、三人の代表者はベルリ の歴史におけるもっとも悲しむべき一章に属 スンへもどり、「赤色住民投票」のカン。 ( ニアを開始し、する「赤色住民投票」の選挙当日、投票所のまえには、 らいきりたっ党員たちにたいして心ならずもこのナチと鎚と鎌を組みあわせた赤旗が、赤い鈎十字と並んでひ ムの統一戦線の正しさを納得させることに力をつくしたるがえった。まさにスターリンの望んだとおりの情景 ツのであった。 = ルンスト・テールマンはこの事態からだ 0 た。だが素朴な一般党員たちは、これらの 2 脱れようと絶望的な努力を試み、何度か ( ン・フルクにすべてを彼らの反ファシスト的意志にたいする嘲笑と のが

6. 現代世界ノンフィクション全集8

ターリン 関連して、再三テ 1 ルマンとの意見の不一致がおこっ ) の中で、スターリンは、ヒトラーの反コミン 時代』 テルン的態度にもかかわらずドイツとの接触を常時維た。そして指導部内での協力はしつくりといか 持するように、との命令を自分にあたえた、と書いてなくなった。コミンテルンにたいする ( インツの二重 いる。その時一九三九年になってやっと、スターリン芝居がテールマンには気にいらなかったのかどうか、 は待ちこがれたチャンスを手にした。彼はヒトラーと、対ナチ闘争における新路線の正しさをテールマンが確 悪名高い不可侵条約をむすび、ナチと組んでポーラン信していたのかどうか、また、ハインツ・ノイマンを ドを分割し、ドイツ国防軍にたいして、西欧諸国に襲すみやかに破減させるべく彼のまえに難題を山積させ るという、まさにそういう任務をテールマンがモスク いかかれるよう、背後を保証してやったのであった。 つまり彼は、その間の期間に、「心安らかに社会主義ワからうけていたのかどうか、もはやそれは確かめる すべもない。ただ一つ確かなのは、この一九三一年中 を建設」し、その後に、ほくそ笑んで第三者となり、 戦争で弱体化した西欧諸国を、赤軍の力をかりた革命に、テールマンが再三 ( ン・フルクへと姿を消し、そう によって、夢にみた大口シアの版図へと編入しうるだしたやり方で、党の政治局を決議不能の状態におとし ろう、と当てこんだわけなのである。 いれた ( たとえば同年七月十三日、銀行破産と、それ で ま 一九三一年中、テールマン、レンメレ、ノイマンのにつづくプロイセンの「赤色住民投票」の際 ) 、とい ス三人は、何度となくモスクワに呼びつけられて批判さうことである。そのたびに、ノイマンは彼のあとを追 って旅だち、またベルリンにもどって執務してくれる られ、忠実な協力を行なうようにと警告された。ノイマ ンはくり返し、「二枚舌ーであると非難された。彼がように、と彼を説きふせねばならなかった。そういう ッ表向きは新路線に従うふりをしながら、現実には従来時にはもちろん、激論になることもたびたびだった。 こうした状況のもとで、党指導部内には、テールマン からの対ナチ闘争を継続していたからである。それに

7. 現代世界ノンフィクション全集8

リンのドイツ政策もまた変化した。ドイツ革命に託しの政策に偽善的な衣をかぶせるべく努め、たとえば一 2 たレーニンの希望にかわって、この種の革命を阻もう九三二年一月には、こういっている。すなわち、ナチお とするスターリンの努力があらわれる。彼の帝国主義ス・国家社会主義は、 ( 社会民主党 ) と諸労働 的目的からすれば、ナチス・ドイツの方が、共産主義組合を壊減させるがゆえに、プロレタリア独裁の一種 ドイツよりも有利である。だから彼は、共産党と社会の先ぶれと見なさるべきである。その後になれば、労 民主党の統一的行動を不可能とするためにあらゆる手働者大衆は ( ドイツ共産党 ) 指導部に信頼をよ をつくし、それさえあるのに、あまっさえ、にせることになろう。またこの同じマヌイルスキーは、 ナチとは共同行動をとるように命じながら、同時にそすでに一九三一年四ー五月の ( コミンテルン れと並行してにたいするいよいよはげしくなり執行委員会 ) 第十一回総会で、明らさまにこうもいっ ている。「大衆を欺むく意図のもとに、社会民主党は まさる反対行動をすすめるように命じたのであった。 すなわち、スターリンは、社会主義・共産主義ドイツの意識的に、労働者階級の主要敵はファシズムである、 誕生を恐れていたのだ。やがてその暁には共産主義者などと主張している。だが、ヒトラーの刻印をおびる ファシズムが主要敵をあらわす、というのは正しくな が権力をにぎるにいたるとするならば、その時コミン い」一九三三年以後もまたスターリンはさらに、ナチ テルンのセクションはドイツの工業的強大さのゆえに ソヴェト・ロシアの万能独裁を脅やかすにいたるであス・ドイツとの同盟によって彼の膨張的意図を実現す ろうことを、スターリンは恐れたのだ。だから彼は一るという自らの計画を、目的意識的に遂行している。 九三一年以後、の闘争力を組織的に弱め、こう西ヨーロッパにおけるソヴェトの軍情報機関の指導者 して共産主義革命の到来を阻止するために全力をつくであったクリヴィッキーも、一九四〇年彼の離脱後に したのた。スターリンの伝声管ヌイルスキーは、こ書いたその著『私はスターリンのスパイだ 0 た』 (}

8. 現代世界ノンフィクション全集8

は、ブツへンワルト強制収容所で、ナチの手によりひら締めだしたのと照応する事態であった。スターリン そかに殺害された。一方ウルプリヒトは、一九四五年、がソヴェト内の右派にこの打撃を加えたのは、彼の攻 赤軍勝利の後にくつついて、ベルリンに入った。そし撃的な国内政策、第一次五カ年計画と農業集団化に妨 て彼はドイツ共産党の指導者におさまった。彼の星は、害を加えられないためであった。当然、コミンテルン は、一九二八年のこの左翼旋回を理論的にも「足がた 一九五六年、「偉大なるスタ 1 リン」の記憶がゆるが される時に、かげりはじめるのである。 め」しなければならなかった。同年夏開かれたコミン テルン第六回世界大会では、資本主義が新たな尖鋭な 危機に突入しつつあり革命の強力な飛躍が全世界にわ 新路線 たって期待される、との主張にたつ一般政治分析がだ ハインツと共同生活をしてゆくなかではじめて、私された。コミンテルンの理論家たちはたしかに多少の は、二〇年代の終りごろ、ソヴェト・ロシアでの分派見こみちがいをしていたが ( その危機は一年おくれて 闘争によって広汎に、いわばそれの縮小版のような形一九二九年から三〇年にかけて爆発したからだが ) 、 で、内部にも党内闘争が誘発された、というこしかしそのことは予言者としての彼らの名声をいささ で ま とをはっきりと知るようになった。そして一九二八年かも傷つけるものではなかった。そして一方、・フル ジョア国民経済学者の大方と、そして大方の社会民主 ス秋、コミンテルンがテ 1 ルマンを復権し、「宥和派」 らをしりそけ、 ( インツ・ノイマンをテールマン支持の主義者とは、絶対に終ることない好況について見果て ムためドイツへ配備した時、それは一つの完結をみせた。ぬ夢を見つづけていたのである。他方、余りにも国民 この左翼傾斜は、スターリンがルイコフ、トムスキ 1 、経済に捉われた視野では、一九二八年の見せかけの繁 ・フ、 , 1 リンらの「右派」をポルシエヴィキ党指導部か栄の中にすでに来るべき危機の萌芽を見てとるなど、 24 ノ

9. 現代世界ノンフィクション全集8

弁護士は、それをきくや、弁護を撤回した。かくてウきのなくなる、ある日曜日の夕刻が予定された。モー ル・フリヒトは、その狙いとするところを達成したとい リ ' ツがテール「ンを気づかれぬように建物の一階に うわけである。 みちびいて、出口のドアから二メートルほどのところ しかしその後も、テールマン解放の強力な準備は、 にある掃除道具室にかくす、ということが申しあわさ 時とともに長足の前進をみせていった。テールマンのれた。それからモーリツツが獄房司令室に入りこんで、 いれられているモアビット予審拘置所では、秘密機関看守長を職務上のことで長話しにひつばりこむ、その は、秘密党員である看守主任モ ーリツッと、多間に、機関員がテールマンを拘置所内から路上へそっ 年にわたって良好な関係を保っていた。すでに二十年とつれだし、用意の自動車につれこむ、という段取り もモアビットで働いていたモ ーリツツが、一九三四年だった。さらにモ ーリツッとその妻は、同じ夜、逃走 の準備万端をととのえておくことになっていた。 夏、休瑕をとった同僚の代理として、拘置所内のテー ルマンがいるのと同じ階に配置されるという、幸運な ところが、この作戦が行なわれる二十四時間前に、 偶然がおこった。早速、機関は獄内秘密通信によって パリのから、だからつまりウル・フリヒトと。ヒーク テ , ールマンと連絡をつけ、彼に救出計画を伝えた。テから、次のような命令がとどいたのである。すなわち、 ールマンが了解の旨を回答すると、同志モ ーリツツは、本救出計画を中止せよ。この指令にそむいて、あえて 短期間、二つの中間ドアとアルト・モアビット街へのそれを敢行した者は、挑発者とみなして、即時党から ーリッノ 出口の鍵を、機関員の手にゆだねた。同じく秘密連絡除名する、というのである。 : : : 石守主任モ を受けもっていた一人の鍵屋が、大急ぎでそれらの鍵にこの報せが伝えられたとき、彼は同夜勤務終了後、 の型をとり、さらにテストもしてみた。万事は順調に自ら命を絶った。 すすんでいった。逃亡の日時としては、拘置所内に動 一九四四年の八月か九月、エルンスト・テールマン

10. 現代世界ノンフィクション全集8

私の考えによれば ( というのは私はアンラウフ・レンても証明される。ともあれ、アンラウフ・レンク殺害 ク殺害事件を一党員の立場から襯察していたからであにノイマンが直接間接に関与したという主張は、その る ) 、ハインツ・ノイマンがこの凶行の準備に何らか後彼の生涯の中でもう一度決定的な役割りを演ずるこ ととなった。つまりナチスは、一九三四年、スイス政 の知識をもちえたとは絶対に信じかねるふしが多かっ た。彼が個人的テロルを否定していたことは全く度外府にたいしノイマンの引渡し要求をしたときにこの主 視するとしても、もしこうした殺人を犯せば、彼の対張を根拠としてむし返してきたのである。 この殺人はどういう点からしても、ウル・フリヒトが ナチ攻撃政策にたいしさらに批判を加える決定的な手 がかりを必ずやコミンテルンにあたえずにはいないこ主張しようとしているような「自然発生的大衆行動」 とを、彼はよくわきまえていたからである。 ではない。またこれは窮余の正当防衛でもない。あの この殺人のあった夜、ノイマンはひじように興奮し八月の日の午後ビ、 ーロー広場に結集されていた大衆 て家にもどってきた。この挑発によって彼をコミンテは、彼らの眼前で何が演じられることとなるかについ ルンの目にいちじるしく危険な存在と映じさせるようて、何らの予感ってはいなかった。殺害者は二人 で、その一人は前にも触れたエリーヒ・ミー に、誰かが仕組んだに相違ない、ということを彼は一 ルケ、現 で ま 瞬もうたがわなかった。彼はまた、この誰かが何者で在は ( ドイツ民主共和国 ) の国家保安機関でエ スあるか、をも知っていた。このノイマンの確信を、そルンスト・ウォルウェー ーの右腕となっているが、 ′ルダイ・ゼルプみトシュッツ らの後私は、事情に通じた人びととのさまざまの対話を当時は ( 党自衛団 ) に属し、カール・リー ムとおして、立証することができた。ウル。フリヒトがい 。フクネヒト館の警備に当っていた。二人の殺人者はウ ルプリヒトによって直接個人的に殺人の任務をさずけ 3 かに巧みにこの挑発の時点をえらんだかは、すでに、 「イン。フレコール」内部のわが同僚たちの反応からしられたのではないが、ウルブリヒトは、の責任