大部分 - みる会図書館


検索対象: 現代世界ノンフィクション全集8
416件見つかりました。

1. 現代世界ノンフィクション全集8

この春の大雪の日ドイツ軍はポヘミアとモラヴィア た。だが彼らはヒットラーが。フラーハはまだ「ユダヤ 的でポルシエヴィズム的で民主的」すぎると見ているを占領した。そしてヒットラ 1 はプラーハの、モルダ ミュンヘンではそんな点につウ河を見おろすハラジン城から安つ。ほい芝居がかりの と言う。私の記憶では、 身振りで、この両地方がドイツ第三帝国に併合された いての保留などは全然なされなかったはずだ。 ことを宣言した。彼がまたしても厳粛な協定を破った などというのもほとんど野暮なことだろう。しかしあ 三月十四日、ジュネーヴ ラジオはスロヴァキアが「独立」を宣言したと報じのとき直接ミンヘンにいた以上、私はチェインパリ た。チェコスロヴァキアの残骸もこれでなくなってしンがこの協定は単に平和を救ったのみならず現実に まう。。フラー / 冫 、こ行かねばならぬところだが、私にはチェコスロヴァキアを救ったのだと言ったことを思い よき報道者たるべくはあまりにも心出さずにはいられないのだ。 その勇気がない。 今夜のパリではヒットラーの今度の早業について完 弱く、あまりにも感傷的になろうとしているのか ? フランスは指一本も動か 私は殺害だの流血だのはそう気にしない この十四全な無関心しか見られない。 年間にそうしたものを大分見て来たしくぐりぬけてもそうとしないのだ。事実ポネは今日議会の外務委員会 カ今の。フラー 私は正視で、ミュンヘンの保証は「まだ効力を発生していな 来たのだから することができない。 ラジオは〔チェコ大統領〕 、」、だからフランスは何かをおこなう義務はないと ド・マロウが電話で、ロンドンの反 記と〔外相〕チヴァルコフスキーが今夜ベルリンに着い言ったものだ。工 ンたと言っている。何とか事態を収拾しようとしてか ? 応も同じだと言って来る・ーー・チェインバリンは今日の ル 午後ド院で、ヒットラーの背信に対するいかなる非難 にも自分は加わりたくないとまで言ってのけたそうだ。 三月十五日、 295

2. 現代世界ノンフィクション全集8

日からの新しいレヴューを発表した。今日の夕刊は、軍の爆弾砲弾がヴァルシャヴァの女や子供の上に落ち 今日ドイツじゅうでフットボールの試合が二百おこなていることを忘れていたらしい。多少なりと恐ろしい 爆撃だの飢餓の歳月だのに類するものが襲って、この われたと言っている。 地の人々が戦争をひしひしと身近に感ずるようなこと 九月十一日、ベルリン があるだろうか ? 最高司令部はポーランド軍の全減を期す巨大な戦闘今夜のには「ポーランド軍、ヴァルシャヴァ が終結に近づいていると告げた。たたかいは今やヴァ を爆撃 ! 」という例の典型的な見出し。新聞はこれ以 ルシャヴァ南東のサン河畔でおこなわれている。今日上もなく荒唐無稽な虚言に満ちている。一番最近のは、 はじめて軍公報は西部戦線におけるフランスの砲撃に二人の英国秘密機関員が・フロンベルクでドイツ人の殺 触れた。プラー ( の保護領統監府は今日、敵と結んで戮の準備をしたというのである。私の担当の軍の検閲 たたかっているチェコ人はすべて捕えられたら叛逆者官ーー・これはまともな男たーーーをそのことでからかっ として銃殺すると布告した。 たら、彼は真赤になった。 しかし次の一事は問題であるーーもし英仏が長期消 後刻 ( 真夜中 ) 。今夜放送に行くとき地下鉄耗戦の決意を固めたら、ドイツ国民大衆は現政権に対 のなかで戦争について大分不平を聞いた。とりわけ女する彼らの感情を忘れ、祖国を防衛することを自分の 記たちは憂欝らしく見える。そして放送を終えて帰って義務とみなすということもあり得るのではないか ? ン来るときも、たくさんの人々ーー・大抵は女ーーーがドイ今日ドイツ人から聞いたいくつかのことが私にそう思 ・ハンハウス ッチェス・オー ルツ・オペラ劇場の下の駅で乗りこんで来た。彼らはオわせるのだ。 べラに行き、今戦争がおこなわれていること、ドイツ 335

3. 現代世界ノンフィクション全集8

し、そのことはトランメールと若いシェフロとの協力 い関係を持ち続けた。私はまたストックホルムの作家 を少しもさまたげるものではなかった。一九四四年、 ネルマンや「ゲッテポルグ」新聞の編集長セゲルステ インゲはオスローへ帰った。そしてのちに議会社会党 ットを中心とする反ナチグルー。フとも密接に交わった。 の書記となった。 私はその他のグルー。フ、つまり「ノルデンス・フライ スウェーデンの首都の政治環境になれるには少々時ハイト」という雑誌の編集者や、そのスポンサーたち 間がかかった。スウェーデン人は、ノルウェーの兄弟のグルー。フとも接触していた。そのなかには、詩人の に同情を持っていたことは確かだが、かれらの大半は、 ョンソンや有名な国際問題評論家のエナンデルらがい ヒトラーのドイツとはなんのかかわりも持ちたくない と考えていた。政府は厳正中立政策を維持し、最初は スウェーデンでの私のジャーナリスト活動は、ノル 同国を戦争の局外におくため若干の譲歩をしようともウェ 1 の政治活動について一連の論文を書くことでは していた。この政策は、スウェーデン国民の一般感情じまった。これらの論文はその後、さらに三編を追加 とも十分一致していた。もっとも食料の配給制には不して、スイスでドイツ語で出版された本の基礎となっ 平の声もあったが、結局、人びとは政府のとったやり 方に全く満足した。 戦後まもなく、私は戦時ノルウェーの研究について 私はすぐ、ストックホルムのドイツ人亡命者のグル 二冊の本を出版したが、それは欠点だらけだったこと ープと接触をもった。かれらは心から私を歓迎してくを認めねばならない。私はゲリラ戦術についての研究 れた。 を書き、平和の目的に関するすでに上述した本の改訂 私は主として、ノルウェー人といっしょに暮らした版「アフター・ザ・ウォー ( 戦後 ) 」を準備し、第一一 が、ストックホルムの労働党や、その青年部とも親し次大戦の歴史に関する研究に貢献した何冊かの本を編 こ 0 こ 0 8 6

4. 現代世界ノンフィクション全集8

うに見えた。ヨーロッパの左派は社会主義の若返りと、命勢力に対するスペイン労働者の英雄的な抵抗の話を ナチズムの危険に対する世界的抵抗の強力な展開が、 聞き、胸をおどらせた。ひとりの反ファシストとして 新しく始まることを待ち望んでいた。ソ連が国際連盟私は、反革命軍やその首領のムソリーニやヒトラーの に加盟したのち、人民戦線は大きな可能性を持つよう敗北を望んでいた。またひとりの民主主義者として、 に思われた。だが、われわれの希望の美酒に多くの水私は大きな疑惑を押えることができなかった。私は革 が注ぎ込まれるまでには、大した時間はかからなかっ命が直面する大きな危険を認めた。これらの危険は、 た。三年後、スターリン・ヒトラー盟約が実現し、わフランコ将軍の側やそのドイツ・イタリアの同盟者の れわれの最悪の不安が現実となった。しかし、そのの側からだけでなく、王政派の側からも出ていたが、こ ち二、三カ月のあいだに、私はスターリンの外交政策れらの危険は人民の自由を脅かしていた。打ちのめさ の機構と意図とを十分知るようになった。この機会はれたドイツ労働運動の一員として、私はスペインの同 スペインに滞在していたとき、私に与えられたもので志に率直に語らねばならないこと、一方このス。〈イン ある。 の内乱から、われわれの将来の闘争のための教訓を引 きだすことが私の義務だと考えた。 4 「わがスペインの同志を助けねばならない。しかし、 そのためには、批判する勇気を持たねばならない」と 一九三七年一一月、私がスペインを訪れたとき、スペ私はオスロ 1 へ書いて送った。 インの内乱はすでに八カ月を経過していた。二、三カ 私はスカンジナビアの新聞の特派員として、また、 月後、その革命はスペイン人民に対する外国勢力の戦亡命中の同志の代表者としてスペインの土を踏んだの いに転した。私は、ひとりの社会主義者として、反革だが、ここで過ごした五カ月は、極度に矛盾した印象 2 6

5. 現代世界ノンフィクション全集8

あちこちにカギ十字が再び現われたこと、ユダヤ教寺 るかに沈着に、来たるべき事件に対処しようとしてい る。 院の神聖が汚され、ユダヤ市民がいじめられ、あくど いパンフレットがばらまかれたことは亜〔いことだ。そ しかし、ベルリン市民は決して賭博師ではない。か れらは戦争を恐れ憎んだ。たたきのめされ、焼けださのことは過小評価されてはならない。たしかに恥ずべ れたベルリンの男女ほど、戦争が意味するもの、しかき理由は、われわれ全部にあるのだ。ドイツ人の半分、 も自由の喪失が意味するものをよりよく知っているもあるいはもっと多くのものが、十年以上ものあいだ屈 のがほかにいるだろうか。それにもかかわらず、ソ連してきたナチの狂気が、何の跡形もとどめず、短時日 首相がベルリンの四カ国協定の終結のために宣伝戦をのあいだに消え去ってしまうとは、だれが考えること 開始する直前になって、世界の新聞はドイツにおけるができよう。私自身は「過去の上に草を生やす」とい ナチズムと反ユダヤ主義の再生を報道した。外国人はう治療効果を決して信じなかった。 ヒトラーの同調者や、その仲間がドイツで再び影響力 しかし、世界の政治危機や冷戦の緊張は、一九四五 を取りもどすことができるのではないかと誤解した。年に残された遣産を除去するための最上の条件とはな トイツ民主主義 危機のまったたなかにおいて懐疑的で、ときにはひっていないことを、私は指摘したい。・ どく不公平な疑問が外国で起こされたことを意外としの力あるいは弱さをはかるものさしは、また新しいド たのは、ほんのわずかな人たちであった。ともかく、 ィッの信頼度をはかるものさしは、ナチの挑発の回数 これらの疑問には答えねばならない。私がただ一つのではない。それを恐れず発表して、度しがたい連中を 正直な答えだと考えるのは次のようなものだ。つまり、起訴し、処罰する政治家の決意にあるのだ。この点で ナチズムの現われは否定し得ない。それが孤立したも西ドイツの諸政党、連邦政府および新聞は称賛されて のであっても、その危険は過小視されてはならない。 よい。西ドイツの主な新聞で、反ユダヤ事件のどれを 2

6. 現代世界ノンフィクション全集8

同盟事務局ではごく副次的な仕事を受けもっていた たポストは、カムフラージュされた数多くのコミンテ ヨージェフ・レ 新聞の切り抜きをやっていた ルン組織をもっていた当時のドイツにあってさえも、 ンガイルは、異国での暮しに難渋している亡命者たち亡命者たちの大軍のために十分なほどには存在してい の仲間に属していた。彼はもの書きだったが、私たちょ、つこ。 オカナこうした仕事を求める故郷喪失者たちの過 との十年にの・ほる交わりによっても、ついに ( ンガリ剰供給が、どんな汚い仕事、どんな政治的屈従へと導 もちろん ー語以外の国語でごく簡単な論説を書くことさえも学 くか、容易に想像できるところだろう。 びえぬままにおわった。短命だったハンガリ ー・ソそうした亡命者たちのなかにも、滞在の国で共産党と ヴェト共和国時代に彼は若い青年で、一つのテロルのは何のかかわりもない普通の職業についている人びと 任務をさずけられた。その後十年たってもまだ彼はこも存在はした。ところが同じ亡命者仲間の多くは、そ の自らの行為のために悩まされていた。血をみると、 うした人びとをむしろそねみの目でみていた。という 気絶してしまうのである。 のはコミュニスト亡命者たちは、亡命した資本主義の 自らの信念に忠実であろうとするコミュニスト亡命国で、生活に適応するよりは、むしろ飢えることの方 者は根本的に同化することができない。その者は彼がを人が願っていたからである。 過客となっている国の共産党に所属することができな ヨージェフ・レンガイルを通じて、ハンガリ 1 の亡 、。安全の点からいって得策ではないからである。大命者たちと近しくなった。ほとんどすべての者がそれ 方の政治的亡命者はいわゆる職業的革命家になった。 なりに第二の人生を始めようとしているのは、感動的 飢えないためには、彼らには、コミンテルンの何らかな光景であった。「オラガ国デハ・ ・ : 」彼らが背後に ーになろ捨ててきたすべてが今や彼らの目にまばゆいばかりの の部署か、出版とか編集とかの部門のメイハ うと努める以外の道は残されていない。しかしそうし光に包まれてあらわれ、彼らはできるかぎり故郷の慣 150

7. 現代世界ノンフィクション全集8

んだとしたらわれわれを粉々にして吹き飛ばしたはず分のラジオを奪い去ったので、自分はフューラーの言 の、クルーマウのそばの小さな小川の橋にしかけた地葉を聞くことができなかった、これ以上ひどい犯罪は 雷、戦争がはじまり明け方には爆撃があることは確実あり得ない、と ! と思えたあの夜のプラーハのチェコ人たちの勇気、機 甲師団が行進するのを眺めて戦争はもはや避けられな十月八日、 いものと思ったあの夜のヴィルヘルムシュトラーセの 。ハリは何とも言えぬほどひどい所だ、フランスの上 ドイツ人市民たちの顔にあらわれた恐怖の色、そしてに起ったことなど全然知らぬ顔で、敗北主義に身をま 双 その後金曜日に、平和が保たれたのみならず勝利をか かせきっている。「フーケ」でも「マクシム」でも ( 方 ちえたと知ったときのミュンヘンのーー・そしてベルリ ともパリ豐 ) 銀行家や実業家どもはシャンパンをなみ ンのーー市民たちの熱狂的な喜び、チェコ軍によってなみとついで平和のために乾盃している。しかし平生 暴動を鎮圧された後のズデーテン・ドイツ人らの打ちは健全な精神を持っているポーイやタクシーの運転手 ライヒスヴェーア ひしがれた様子、そして二週間後国防軍が入って来すらも、戦争が避けられたことはどんなにすばらしい たときの彼らの表情の変化、そしてズデーテンの町ウ ことか、戦争を始めたとすれば犯罪だ、自分らはすでに とうとう ンターヴァルダウの市長へア・シュヴァルツ。ハウアー 一度戦争をしたのだ、もうそれで充分だなどと滔々と ( 黒百姓氏 ) のこと。彼は私をドイツ軍将校たちのそまくしたてる。同じくすでに一度戦争をしているドイ 記ばから離れさせて、「市長さん、チェコ側があなたが ツ人が同じように感じているならばそれも結構だろう ンたに対してした一番ひどいことは何ですか ? 」と私が が、ドイツ人はそう感じていないのだ。フランスの土 マルタとヴェルダンのフランスーーーはどこに 9 訊いたのに対して、彼はこう答えたのだ。これは恐る性骨 べきこと、信じられぬようなことだが、チェコ人は自行ったのか ? ビエール・コメールを除けば、現実の

8. 現代世界ノンフィクション全集8

揚げ、兵舎と一般住民の「隔離ーだ。これがヒットラ 1 の後押しによるものかどうかはわからない。ただし ヒットラーのニュールンベルク演説があった以上、後 ミュンヘン会談まで 押しがあったことはほとんど疑う余地がないように見 本文中の * 印は、末尾の事項、人 名索引にとりあげたものをさす えるが。それはともかく、チェコ政府はこれを拒絶し こ。ほかにどうしようもなかったのだ。チェコ政府は 断を下した。チェコ政府はたたかうだろう。今やわれ 一九三八年九月十三ー十四日 ( 午前三時 ) プラー 戦いは目睫の間に迫っている。深夜十二時以来ドイわれはヒットラーの出方を見守っている。 。サター・ホテ ツの爆撃機が今来るか今来るかと待っていたが、これ外交官や特派員の集っているアイハノ。 ルのロビーの今夜の緊張と混乱は名状しがたいものだ までのところその気配はない。ズデーテンラントのエ ースビ ーガー、エルポーゲン、ファルケナウ、 った。にわかに恐怖に捉えられた人々の反応を見てい ルクで大分射合いがあった。幾人かのズデ】テン人とると非常におもしろい。堪えられない人々もいる。彼 チェコ人が殺され、ドイツ人はチェコ人やユダヤ人のらはヒステリー状態にまでなってしまい、それからあ わてふためいて逃げ出す・ーー・どこへという当てもな 店を掠奪した。それ故当然ながらチェコは今朝ズデー テンの五つの地域に戒厳令を布いた。今タ七時ごろわ 。大抵のものは、その勇気や冷静さの程度はさま 記れわれは、ヘンラインが六時間の期限の最後通牒を政ざまだが、堪えている。今日のロビーの有様はこうだ 新聞記者たちは交換手が一人だけしかいない一 ン府につきつけたことを知った。最後通牒は午後六時に ル出され、夜十二時に期限切れになる。その要求は、戒話を争奪して拳骨をふりまわす。ユダヤ人たちは昻奮 厳令の撤回、ズデーテンラントからのチェコ警察の引して最後の飛行機あるいは汽車の座席を予約しようと

9. 現代世界ノンフィクション全集8

にのっとって組織されている党の数万同志のまえにこる、ということである。彼とテールマンとの対立は、 いわゆる「徹底的究明」・容赦ない批判をすすめるに の政治的論争を公開し、同志大衆にその意見を問うて みようとは、誰一人思いっかなかった、という事実であたって、全く別の様相によそおいたてられ、ノイマ ある。 ンとレンメレが、本来二人には全く責任のない一切の 「ノイマン・グルー。フ」なるものについて、党員同志誤謬と政治的失敗のガラクタをしよいこまされている、 たちは、ノイマンがすでに指導部から遠ざけらというだけにとどまらない。単なる一つの「グル 1 プ れること半年の余にもなってから、はじめて知らされ闘争」も、組織者たちが時間をかけて分断され口を封 た。しかも一九三二年十月の党会議決定のこの最初のじられたあとでは、「分派闘争」の重大犯罪に仕立て 公表では、ノイマンの「社会民主党労働者にたいするあげられ、「左翼的ー偏向は「敗北主義的、日和見主義 セクト的態度」と「ポルシエヴィキ的自己批判の展開的、右翼的」誤謬といいかえられる。そして大分後、 ノイマンとレンメレがモスクワで逮捕される直前には、 にたいする抵抗ーが云々されているだけで、ファシズ ムにたいする闘争方法の決定的な相違については一言 コミンテルンの国際査問委員会議決書で、「ノイマン も触れられていない。またノイマンにつづく協力者レならびにレンメレは、反党的フラク活動により : で まンメレの名もあげられていない。 つまりコミンテルン ファシズムがドイツにおいて権力に達するのを助け は公然たる対立を恐れていたのであり、だからできるた」とうたいあげられる始末だった。 らだけ闇に隠ぺいしたのである。しかし一つのことだけ とはいえ、の頂点におけるこの闘争は、ノイ ム は、すでに一九三二年の党会議で、明らかになってい マンがすでにドイツでの活動から遠ざけられて数カ月、 ッる。すなわち、ノイマンに、不調の責任一切をコミンテルンの任務を果すためモスクワを経てスペイ 7 かぶせるための贖罪の羊の役割りが押しつけられてい ンに派遣されたときに、その本質的な絶頂にたっした

10. 現代世界ノンフィクション全集8

しても安全と十分に見きわめをつけるまで、かなり待時、その傍らで、二人の責任ある同志が鞄をあけて、 たねばならなかった。ジャンクの主に支払わねばならはこばれてきた金の勘定をしはじめた。ところが一回 なかった高い料金のために、彼らが個人用にあててい 目の計算が終るか終らないかのうちに、ハインツは、 た金も残り少なくなってきた。あと数日もたてば、二彼らが長たらしい計算をもう一度最初からやりはじめ 人は一文なしになってしまうところまで追いつめられるのに気がついた。それから、彼が私にいったところ た。二人はホテルの給仕のそばをとおる勇気さえなくでは、彼は何だかひどくいやな気分になってきた、先 なってしまった、いっ勘定書をつきつけられるかもしの同志たちが何やら興奮して互いに小声で話しはじめ、 れないのがこわかったからである。たしかにホテルの ロミナッゼと彼とを探るような不信の眼差しで見つめ 部屋の二人の側には、何万ドルもつまったトランクが たからである。そしてついに一同は二人だけを座らせ 鎮座してはいた。しかし、そこからたった一枚の紙幣た。何かおかしな空気だったが、やっと明らかになっ でもとりだそうという考えは彼らには思いうかばなか たところでは、期待されまた通報されていた金額より ったのである。そしてついに彼らの現金がわずか数セも約三千ドルも不足している、というのである。ノイ ントを余すのみとなったとき、一週間の余もたってかマンとロミナッゼは、内容物には全然手をふれたこと - ま らだが、やっと救い主がホテルの玄関にあらわれた、 もない、と強硬に主張した。では不足額はどうなった ス そこで最初の会談がおこなわれて、現金鞄が手渡されのか。今や二人の立場が危うくなってきた。鞄を船に らる手はずになっていたのである。 置き去りにしておいた間に盗まれでもしたのだろうか。 ム だがもう一度、この鞄はある役割りを演じる運命にしかしそれを口に出すわけこよ、、 冫。し力なかった。二人の よ 9 ッあった。つまり二人がその翌日所定の場所でコミンテ軽率な振舞いについては、誰にも話すわけこよ、 2 ルン広東支部のメイハ 1 と会って、報告をうけているかったからである。今や二人は恐るべき状態に追いこ