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検索対象: 現代世界ノンフィクション全集8
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1. 現代世界ノンフィクション全集8

明日の「フェルキッシャ・ベオ・ ( ( ター」は国民に気態の重大性をあらまし説明した」と言っているだけだ。 フューラー 長に待てと求めるだろう。「総統は諸君になお待っこ ドイツ国民がヒットラーの口から「事態は重大であ とを求めている。この危機の平和的解決の最後の可能る」と教えられたのはこれがはじめてなのだ。 性までも究めつくしたいと思っているからである。こ食糧配給は今日決定され、私は多くのドイツ人が れは絶対不変のドイツの要求を流血を見ることなしにその配給量についてぶつぶつ言っているのを聞いた。 実現することを意味する。」これは、もし戦争になっ いくつか例を挙げれば、肉ー週七百グラム、砂糖ー一一 ー百十グラム、コーヒー たとしてもフーラーはそれを避けるためにできるか百八十グラム、マーマレ 1 ド ぎりのことをしたのだと国民に納得させるための巧みもしくは代用品ー週八分の一ポンド。石鹸はどうかと フェルキッシャ ) よ最後に、ドイツはしか な宣伝た。 >n(. いえば、今後四週間分として百二十五グラムが各人に ベオバハター。 し自己の要求をあきらめはしないだろうと言っている。割当てられる。配給倒のニ = ーズは国民にとってずつ 「個人であれ国民であれ、死活にかかわるほどではなしりこたえる打撃となった。 い事柄しかあきらめることはできないものだ。」ここ 国会議員ハム・フィッシュはリッペントロツ。フに完 にドイツ人の性格が赤裸々にあらわれている。ドイツ全に丸めこまれているらしく見える男で、リッペント 人は死活にかかわる事柄をあきらめることはできない ロツ。フは彼に飛行機を与えて先日スカンディナヴィア 、刀 ほかの連中があきらめることを期待するのだ。 における列国議員会議に飛ばせ、集った民主主義者た 記ヒットラーはこの午後、これは正規の国会審議ではなちに情勢はいかに深刻であるかを説かせようとした。 ライヒスターク ンかったにもかかわらず、総統官邸に集った国会議員今日そのフィッシュが帰って来たが、今までのやり ルたちに演説した。この演説についての報告は全然手に かたをあくまでつづけようとしているのが強く印象づ〃 3 入らない。 Z のコミュニケが、フューラーは「事けられた。ジョ ーンズ〕と私は彼が昼飯のと

2. 現代世界ノンフィクション全集8

れを聞きのがした。十一時五分前まで「ヘラルド・トものは十二人を越えなかったろう。 ーンズ〕とだ 翌日 ( 八月二十二日、火曜日 ) のドイツの新聞はま リ・ヒューン」のオフィスでジョ べっていたのだ。夜おそく何か報告があるかもしれな ことに驚くべきものだった。そのなかでも最も激しく いと、ヴィルヘルムシュトラーセが漠然とほのめかし赤を攻撃していたゲッペルス博士の「アングリッフ」 ま たーーー後になって私はこれを思い出したのだが はこう書いていた。「世界は壮大な事実の前に立たさ かは、そのときは全然予感もしていなかった。ドイツれている。両国民は、長い友好関係のあいだに共通の カこれについて触れたように思理解の素地を生み出した共通の対外政策の上に立っこ の新聞記者フアティー : ( このエクスクラメーション・ ・マロウが真夜中に電話をかけてとになったのだ」 。実際私は、エド 来たときにロンドンからあのニューズを得たのだ。ポイントは私がつけたもので、「アングリッフ」にあ はあの夜私に放送させようとしなかった。あきらるのではない。 ) そして、嘗てはまじめな海外特派員 かに彼らは「論説」命令を待っていたのだ。その前日であり、今は「ドイッチェ・アルゲマイネ・ツアイ の日曜日、独ソ間の新通商協定の発表に関して何かのトウンク」の追従的な論説員であるカール・ジレック 指示があったのだ。それまでロシアとポルシエヴィズ ス博士は第一面の論説のなかで、新しい協定を「当然 ムを非難すること猛烈だったこちらの新聞がこの協定の協力関係」と呼んだ。何年ものあいだーーナチの奴 については友好的な言葉を使っていたことで、これは隷となって以来ーー彼はポルシエヴィズムとソヴェー ト・ロシアを猛烈に攻撃していたのに。 記怪しいそと思っていいはずだったのに、私はそう思わ どぎも ヒットラーのこの人の度肝を抜くような手が大衆の ンなかった。発表は大部分のナチのお偉方にとっても世 ル界の他のすべての人々にとってと同様に爆弾的なものあいだで好評を得ていることは疑いない。火曜日に私 0 だったのである。ヒットラーの秘密を知らされていた は地下鉄や高架鉄道や市電や・ハスに一わたり乗って歩

3. 現代世界ノンフィクション全集8

がいることを見せてやりたいということであった。か ていた。 しハーが将校や保守派の人れにとってはこれは一つの道徳的義務でもあった。人 私の同志のなかには、レ 物と手を組んでいるのを悪いことで、危険だと考えるびとが罪深い戦争の不幸と恐怖とを、これ以上甘受し 人たちもいた。かれらは反動勢力が「右派の社会民主なければならないというのは、なんとしても理由のな いことだった。たとえ無条件降伏しても、またそのた 主義者」を自分たちの通路に使おうとしているのかも 知れないと心配した。私はかれらに強く反論した。ヒめにドイツの独立が不可能になっても、何百万という トラーを前にしては、その当時のそんなきまり文句は、人命を救うためなら、そうした代価も決して高すぎる ーパーは考えていた。また、西欧諸 ーの判断ものではないとレ 私には時代遅れのように思えた。私はレー や、政治本能を十分信用していた。かれはこの政治本国とソ連との反ドイツ連合の仲を引き裂いて、互いに 能を、西欧諸国とその連合国のロシアとの関係を評価争わせ、その一方をたくみに応援して点をかせぐため のチャンスをねらおうという、夢のような考えは持っ する際にもはっきりと示した。 かれも戦争の初期には、同志のほとんどの者と同じていなか 0 た。ロンドンやワシントンで、ドイツの抵 ように、クーデターを成功させて、名誉の平和を得よ抗運動に対する評価と同情を得ようとする試みが、何 たうと望んでいた。しかし一九四三年以後は、無条件降度もくり返されたが、そのつど失敗した。トロツツは わ伏も止むなしと考えるようになった。同志の多くとは西欧諸国が強便な対独平和案を考えていることをよく 反対に、かれはヒトラーを打倒しても、直接的な政知っていた。 の治報酬が得られるとは考えていなかった。最大の意図連合軍がフランス上陸に成功した現在、シ = タオ イは、世界に対して、ドイツには依然として正義と自由フェンベルクは、西部戦線から自発的に軍を撤退させ、 民主国軍に協力することにより、東部戦線の崩壊を食 のためなら、どんな危険でもおかそうとする″人間 7 の

4. 現代世界ノンフィクション全集8

だし、お互いに友だちになれるかどうかを探ろうとしさせた。そしてドイツ国内のヒトラーの敵には、ナチ こ。私はノルウェー語には自信があったが、つぎつぎの発展にもはや抵抗できない、抵抗はたとえ意義なし と答えているうち、ついうつかり自分の正体を現わしとしないまでも、どう見ても、すべての希望を過去に てしまわないかと心配した。私の住所を教えてやらな押しやったという感じを持たせた。全般的、強制的兵 い限り、かれのそばから離れられるチャンスはなかっ役の再実施、非軍事地帯ラインラントの占領、国際協 た。二日後、かれは本当に私を訪ねてきた。そしてノ約の大胆な破棄ーーそのつどヒトラーの敵は ( このな かにはドイツ国防軍参謀本部の高級将校も含まれてい ルウェー学生のナチ・グループに参加すべきだといっ こ ) 西欧諸列強が独裁者の道をふさぎ、その退却を余 た。私は「そのうちにそうしよう。いまは忙しすぎるナ ので」と言いわけをした。毎朝、私は真面目な学生ら儀なくさせてくれるものと期待した。かれらはそうし た偶発事に備え、この厚かましい賭博師に全面的攻撃 しく大学の図書館へ出かけた。私は誇張した泥くさい ナチの文学を読みあさった。「わが闘争」も別に苦にをかけるため、その予期された危機を利用しようとし はならなかった。これまで、私はせいぜい数冊の抜萃ていた。ところがそれに反して西欧諸国は、ヒトラー しか読んでいなかった。いまや、消化できない料理もの脅かしを止めさせることをためらったため、たとえ、 全部のみこまねばならなかった。私はヒトラーの " 聖かれらがその手に切り札を全部集めていたにせよヒト 書 ~ を初めから終わりまで読んだ。ローゼンベルグやラトがすべてのゲームに勝ったことを悟らなければな とうしてわれわれは抵抗 その他のナチの「理論家 . の理屈の密林を通ってゆからなかった。こんな状態で、・ ねばならなかったことは、英雄的な、いやそれ以上の精神を燃やしつづけることができたろうか。われわれ の心を最もさいなんだ疑間はこれであった。大工場に 難事だった。 一九三六年の秋、ヒトラーの外交政策は世界を震憾はなおも信頼できる同志の組織があった。われわれは 6 5

5. 現代世界ノンフィクション全集8

せられている同志に代わってしゃべることができたし、というのは、税関吏は正規の将校の制服に強い印象を またしゃべりもした。これは簡単なわれわれの義務で受け、それにふれて見ようともしなかった。 われわれがノルウェーで集めた金・・・・ーーそれは少なか あり、愛国的義務でもあった。 は、全部バリの委員会に送ら われわれは祖国との個人的な、また政治的なつながらざる額であったが りを失うまいと努力した。できる限りしばしばドイツれ、それはそっくりヒトラーの恐怖の犠牲者のために の同志と会合し、意見を交換し、互いに慰め合った。使われた。投獄された同志の家族の生活を援助するた ーベックやそのほか北。 コペンハーゲンは、リュ トイツめや、裁判の弁護費として、ときには犠牲者の葬式代 の各地からやってくる友人たちとの会合に絶好の場所に使われた。 であった。ヒトラー帝国のなかにいる友だちに届ける かってわれわれは、ノルウェーの友人たちの援助の ため、透明インキと秘密の暗号を使って手紙を書いた。おかげで、さらに大仕事もやった。たとえば、一九三 " 違法″の新聞やパンフレットを刷り、国境を越えて四年の末に行なわれた一つの裁判だ。その裁判では、 密輸した。しかし、二重底のあるカバンや、いつばい社会主義労働者の地下組織の指導者が被告だった。か 物をつめた本のとじこみなど、あらゆる手を使ったが、れらは重刑、おそらくは死刑の宣告を覚悟せねばなら こ目的地に届いたのは残念ながら、ごく一部の出版物になかった。われわれは、かれらを救うため、できる限 わすぎなかった。その他のトリックも使った。予備役将りのことをした。ベルリン当局には抗議文が殺到した。 ノルウェーで私は多くの高級判事や弁護士を動かした。 校だったノルウェーの一友人が、ドイツへ旅行したこ のとがあった。かれは、ス 1 ッケースのなかの一番上に抗議文は裁判中、法廷で読みあげられた。ドイツの判 フ イ制服を入れ、それにわれわれの同志へ送り届ける秘密事たちは、それをノルウェ 1 法曹協会の公的介入と誤 の品物をぬいこんでおいた。このトリックは成功した。解した。検事総長は怒ったが、効果はあがった。友人 4

6. 現代世界ノンフィクション全集8

レて私は、カ・ハン一つと百マルクを持って自由世界に ー陸した。 その日、コペンハーゲン行きの汽車に乗った。私は , ンマーク青年連合に報告し、その足ですぐ作家のオ オスローに着くと、さっそく私はフィン・モーを訪 ・ ( ンセンの家を訪れ、鄭重に迎えられた。二、ねた。かれはノルウ = ー労働党の機関紙である「アル 一日後、私はさらに船でオスローへの旅行をつづけた。 ・ ( イデルプラーデ」紙の外報部長で、経験豊かな政治 一ペン ( ーゲンでさえ、私は外国人に、ドイツに起こ家であった。かれは困っている同志を熱心に助けよう 一ている事態をはっきり知らせることがどんなにむずとした。 しいかを悟った。デンマークの友人たちは、ドイツ かれのあっせんのおかげで、私は少額ながら毎月手 ~ 残虐な話が誇張されたものだと思 0 ていたと話した。当をもらうことができるようにな 0 た。それはノル 一方、私の話にも不十分な点が多かった。ヒトラー ウェー労働組合が、自国人の困っている同僚を助ける 〔権力についたことに関する私の論理は、やや公式的目的で設立した特別基金から出された。私は自発的に 」 0 た。つまり、ヒトラーという男は金持ちの従僕で組合書記局の事務も少しばかり引き受けたので、二重 ~ り、国家社会主義は低い中産階級の抵抗だ、というの手当、つまり一週三十クローネと、住宅費として追 明は単純で余りにも原始的だ 0 た。労働運動に対す加手当も得た。一「三カ月後には、これ以上の財政援 3 批判も酷にすぎたし、しばしば自己満足的であった。 助を受けないでも結構やってゆけるようになった。 には正しい見通しが欠けていた。なんとい「ても私私はジャーナリストの仕事をした。二、三十種の新 二十歳にもなっていなかったのである。 聞や、労組の雑誌に論文や読み物を寄稿したが、これ が私の物質生活を十分支えるだけの収入となった。そ

7. 現代世界ノンフィクション全集8

に戦うならば、明日はどうなるかを尋ねるべきではな れでも共和派はこの重大性に気がついていなかった。 勝利に酔ったナチの暴力は、指導者が規律と自制を要い」 とっぜんすべての人が起ちあがった。男も女も、に 求したにもかかわらず、激しい抵抗を生んだ。あらゆ る公開の集会で、ありとあらゆる街路で、カと力とがぎりこぶしを高々とあげ、しやがれ声で叫んだ。私の 衝突した。議会のなかでも、左右両派の議員がこぶし心臓は止まり、それから狂気したように打ちはじめた。 とインクびんで乱闘した。そして社会主義労働者党の私はそれをノド元に感じた。私は壇上にかけあがり、 われわれは、そのような重大な時において、他のだれレー 1 の手をにぎりしめたいと思った。このとき、 よりもレ 1 パーが頼りにできることを知ったのである。ナチの突撃隊が場内になだれこんできた。かれらはコ 激しい乱闘のおこなわれた場所には、いつもレしハー ン棒ゃべルトで、男女の区別なくたたいた。しかし、 がきていた。われわれが開いた大衆の集会で、レー ーひとりだった。レー 突撃隊が求めていたのはレー 1 は叫んだ。「われわれはいま反革命の最中にある。 バーはすっくと立った。壇上にはだれ一人見守る者は しかし、われわれは宣言する。われわれの運動はさら いなかった。かれはイスをつかみ、それを打ち砕いて、 に強くなろう。歴史は自由の側にあり、自由は諸君が足の一つを武器にして戦った。その後、数週間このよ たそのために戦う限り諸君の側にあるだろう。今日「一うな流血の衝突は多かった。 わ部には、未来がいったい何をもたらすのかと尋ねる人 これらの共和派のエネルギーと決意に満ちたデモは、 終 がいるかも知れない。私は諸君にいう。最後の決断は去就をきめかねていた人びとに強烈な印象を与えたか の諸君にある。戦いを止めるか、続けるかを決定するのに見えた。十一月の選挙でナチは二百万の票を失った。 イは諸君だ。だが私はいおうわれわれは最後まで戦うマグデブルクでロイタ 1 市長は行動に移れと呼びかけ のだ。勝利かあるいは敗北か。われわれが自由のため こ 0 9 3

8. 現代世界ノンフィクション全集8

1 べックの街路のよく知られた風景さえ変わっていた。それは大衆活動とそのエネルギーをマヒさせる鎮静剤 だが、古くからの、経験豊かな党員のほとんどがそのだ。社会民主党の議員たちは装甲巡洋艦建設に賛成投 変化に気がっかなかった。まだ若いわれわれの方が、 票を行なった。敵はわれわれのなかにもいたのだ。 ずっとはっきりと見てとっていたのだ。われわれは公失業者の数は月ごとにふえた。そのうちの何百万人 私の集会で、ヒトラー青年団員と衝突し、言葉の弾丸は全く就職のあてもなかった。かれらは職を求めたが、 で、あるいはこぶしを振って闘った。しかし、これら政府は「生きるには少なすミ死ぬには多すぎた」補 の出来事は真剣に取りあげるべきものではないといわ助金でかれらを追い払った。危機は革命手段を必要と れた。ナチはまだ小勢力だったし、リュ ーベックではしていたが、社会民主党は決議以外には何一つ手を打 危険に感ずるほどのものでもなかった。これはある程とうとしなかった。 度事実であった。 丿ューベックには、ドイツじゅうで最強の社会民主 九月、ナチは帝国議会にはいった。それは百七人と党の組織の一つがあった。それは進歩勢力の一つのト いう強力なもので、第二の強力政党となった。前回の リデとなっていた。しかしここでも、青年と市民とを 選挙ではナチはたった十二議席しかとれなかったのだ 問わず、逆マンジ ( ( ーケンクロイツ ) のエリ章をつ が、こんどは六百四十万人がナチに投票した。予期もけた失業者の数がふえた。これまでは公衆便所のすみ しなかったナチの勝利は、左派政党の失敗についての っこにしか書かれていなかったナチのスローガンが、 失望をより深くした。社民党青年部のあいだでは党指いまや公然と多くのビルの壁に、大きなノボリに現わ 導部に対する反感が高まった。後退と妥協を批判するれてきた。「ドイツよ起て ! ユダヤ人に死を」。ナチ 声はますますきびしくなった。共和国 ? それは敵のの突撃隊は、ナチに反対する者を倒し、殺すことによ ためをはかり、仲間を処罰するものだ。社会改革 ? ってドイツの " 若返り″のために働いた。多くの街路

9. 現代世界ノンフィクション全集8

す必要はないと考えている。クレムリンの連中も、西をアメリカ人は理解するだろうか。 欧におとらす戦争を避けたがっている。なぜなら、ど ソ連は、西ベルリンに自由市の地位を認めようとし ちらも勝利の代償が自殺以外にないこと、戦いが終わていた。ソ連政府が望んでいたのは紛争の危険な根源 ったとき、生き残った者は死んだ者の幸運をうらやむを除くことだった。ベルリンは戦後の最も深刻な危機 ことになるだろうということを知っているからだ。本のみなもとの一つである。ベルリンは世界の平和を危 当の危険は、ソ連が、戦争の脅威をちょっとちらっか うくしている。だからベルリンの地位は変更されねば せただけで危機を頂点にまで押しあげ、ベルリンからならない。これは簡単きわまる常識ではないか。 西欧に手を引かせることができると考えないか、とい しかし、この共産主義者の議論は、両親を殺した少 うことである。共産主義者が戦争の犠牲をおかしてで年が、孤児になったからという理由で情状を酌量して も、その目標を達成しようとする決心を示せば示すだ ほしいと要求するのと同じ論理である。ベルリンは危 け、民主諸国家は平和を維持するために結東しようと機をもたらしはしなかった。が、ソ連は、政治攻勢の した。二百二十五万の西ベルリン市民の自由を、何千口実に使うために危機をつくりだしてきた。かれらは 万というアメリカ人を不具にし原爆死に追いやること共産圏の内部に自由なベルリンが存在することは邪魔 ととりかえさせうるものよ、、 をしったい何だろうか。べだと感していた。西ベルリンの復興、脈動するその経 ルリンは、遠いドイツのただ一つの町ではなくて、自済的、知的生活と、東ベルリンの灰色の廃墟との対照 由諸国家の前進のための橋頭堡であることをアメリカは余りにも大きすぎる。連日、西ベルリンへ逃亡して 人は理解するだろうか。たとえ、ニュ 1 ヨークやシカくる男女の数ーーーこの十年間にそれは二百万以上にも は、ソ連の楽園の完成をうたうすべての共 ゴのために死ぬことを欲しなくとも、ベルリンの自由なった のためには起ち上がる用意をしなければならないこと産主義者の統計よりも、はるかに明白に事実を物語っ 0

10. 現代世界ノンフィクション全集8

はまさに蜂起であって、一揆などではなかったのだと国民党であり、その創設者であり指導者でもある孫文 いうことを証明するために書かれたのだ、とハインツ は、後になってはじめて、労働者運動との、つまり新 は私にいった。私はそれらの記録をよんだ。しかし率たに生れた中国総工会との結びつきを求めた。土着 直にいって、当時私には中国における事態に関する知の軍閥諸勢力と外国支配にたいする闘いで、支えを必 識が全く欠け、かつまた、広東蜂起をもたらすにいた要としたからである。しかし、孫文も彼の参謀の賰介 った状況についての真の姿を認識するための政治的諸石も、コミ ュニズムは拒否していた。孫文は、長い交 前提もまた私には欠けていたことを告白しなければな渉の末に、それもかなり心ならずも、共産党との提携 らない。そのため、 ( インツ・ノイマンの記述が果しにやっとふみ切り、アメリカとイギリスが国民党支持 て正しいものであるかどうかを疑ってみるなどは、私を決定的に拒否した時になってやっと、ソヴェトの助 にはとても思いもっかぬことであった。その記述が実言者の接近をゆるした。一九二三年、コミンテルン代 相をへだたることいかに遠いものであったかを、私は表のポロディンは、政治・軍事のエキス。 ( 1 トの一群 その後二十年もたってからやっと確認することとなつを引きつれて中国にのりこんだ。彼ら共産主義者たち た。 ( インツはまさに、その時期、当時も今日も共産は、すでに早くも、中国における革命はブルジョア的 党員に典型的であるあの政治的な願望意志に支配されな国民党との統一戦線によらずしては成功しえない、 ていたのである。 との認識に到達した。コミンテルンはこの確信に賛成 一九一三年にはじまった中国の第二革命は、コミ = して、一九二四年から二五年にかけていちじるしい勢 ニストにとっても全労働者運動にとっても ( この両者力の増大をみた中国労働者連動を緊密に国民党に結び は当時の中国では同義のものであった ) 、潰減的な経つけるために、あらゆる手をつくした。だからこうし 過をたど 0 た。この革命の担い手はブルジョア政党のて、中国の労働者運動は、革命のーー・・国の南・広東か