私はちょうど自分のホテルの中庭で昼食をしていた。るのに役立つだろう。 0 ーのラウドス。ヒ 客の大部分はニューズを聞くためにバ 哀れなパリ ! 私はパリを思って泣く。あれほど長 ーカーのまわりに群がった。満面に笑みをうかべて彼い歳月パリは私のホームだったーー・そして私は人が女 らは自分らのテー・フルへもどったが、法外な昻奮は見を愛するようにパリを愛したのだ。今朝の「フェル られず、誰もがまた食事をつづけた。 キッシャ・ベオバハター」は「パリは軽薄と腐敗の、 実際ベルリンの人々にはパリ占領のニュ 1 ズを、こ民主主義と資本主義の町だった。そこではユダヤ人が の戦争の他のすべてのニューズを受取ったときと同じ宮廷に、ニグロがサロンに出入することができた。そ 冷静さで受取ったのだ。後刻私は、暑くなり少々気晴のようなパリはもはやふたたび出現しないであろう」 しがほしくなったので、ハレンゼ 1 に泳ぎに行った。 と言っていた。しかし最高司令部は、ドイツ兵は「ラ 人出は多かったが、誰かがニューズについて議論してインラントとルールにおけるフランス兵の行動にくら いるのは全然聞かれなかった。五百人ばかりの人々の べれば天と地ほど違っている」だろうーー違った振舞 うち、新聞売子がニューズを叫びながら飛びこんで来いをするだろうと約東している。 たとき号外を買ったのは三人だけだった。 最高司令部はまた今日こう言った。「作戦の第二段 それにしても、パリ奪取が大部分のドイツ人の胸奥階はパリ占領とともに終った。第三段階がはじまった。 の深いところにある何かをふるいたたせなかったと推それは敵の追跡、その最終的な壊減である。」 断するのは間違っているかもしれぬ。これはずっと、 多分明日パリへ出発する。私は行きたいとは思わな この地の数百万の人々の夢に描く願望だったのだ。そ 、。ドイツ兵の重い長靴が私の愛した街路をどたどた してこれは、あれほど長いあいだーー・二十二年間 と踏みつけるのを見たいと私は思わない。 ドイツ人の魂のなかにひそんでいた苦い記憶を拭い去
れと知ることができる。われわれは車から飛び出したもう一度開始されねばならぬということがわかる。も が、すぐに誰かがもどれと命じた。あまり敵に身をさとヴィルヘルムシュトラーセ幼めの素人将校は自分は田 らしすぎているからだと誰かが説明する。敵の飛行機歩兵の動きを追うことができると言い張る。私は眼鏡 や砲兵がこちらにいるわれわれを襲うかもしれない。 をひつつかむ。歩兵はやはり見えない。 それでわれわれは引返し、それから西へ方向を転じて これまでわれわれは、ドイツ軍の驚くべき前進の要 砲兵陣地の向うの丘に登る。これで砲兵はわれわれの因としての砲兵のことはあまり聞いていなかった。 うしろになり、われわれの頭上に砲弾を飛ばす。これシ、トウーカ爆撃機の働きがわれわれの注意の大部分 は頂上の森のなかにある砲兵の観測所だ。われわれはを占めていた。しかし時速四十マイルで前進する戦車 斜面に坐り、木々のあいだから前線のほうを眺める。 のすぐうしろに配置されたこの機械化されたドイツ砲 しかしそれは期待はずれだった。実際はほとんど何兵は大変大きな要困なのだ。連合軍は多分、砲兵がこ も見えない。歩兵を、あるいは歩兵のしていることをんな快速で移動できることは予想しなかったろう。わ 識別することはできないのだ。或る将校が歩兵はこのれわれのまわりで今ドイツ兵は六インチ砲と一〇五ミ 下の河沿いでたたかっていると教えてくれる。連合軍リ砲を射っている。音響は私が予期したほど耳を聾す はまだ西岸を保持しているが、シェルト河を越えて退るものではない。きっと人間の耳はそれに慣れるのだ 却しつつあるという。目に見える歩兵の戦闘の唯一のろう。 しるしは、ドイツ砲兵の弾幕が前進していることだ。 一人の若い兵士がやって来て、われわれに何か宣伝 それから停止する。次いでもっとわれわれのいる場所を押しつけようとする。昨夜英軍が反撃し、われわれ のそばでまた始まる。これから、相手側が反撃し、そが今いる森のところまで奪い返し、そしてすべての民 してドイツ軍の攻撃は味方の砲兵の弾幕のうしろから門 ロ人を連れ去ったと無造作に言う。われわれの大部分
二人の負修したベルギー人が出血のため死んだと説明あるが、ドイツ軍の名誉は守られねばならない、その を試みた。どの部屋にも壁にかかった大きなルネサン結果「英雄的な殉難者と野蛮なドイツ人」のことに触 ス式の絵の下に、英軍将校がその上で眠っていた乱れれている・フロンズ板の半分は取り去られたが、国土を たままのマットレス。その大部分は血がついている、守った一九一四年のベルギー人の英雄的行為を記念す 最後の数日はもはや眠るためにではなく、その上で死る他の半分はそのまま残された、ドイツ人はそれに対 どころかその反対だーーから して全然異議はない ぬために使われたかのように。 われわれが市役所を出るため広い応接室を列を作っだ、とまくしたてた。 て通り抜けようとしていたとき、私はうしろの壁に寄 ( 註 ) 一九四〇年には狙撃はおこなわれなかった。 せて立っている大きな・フロンズ板がいたずらされ、半 分引裂かれ取り去られているのに気がついた。 駅のそばの辻公園の残骸のなかに巨大な石の記念碑 「あれはどうしたのですか ? 」と私は一人の将校に訊があって、これをめぐって独軍と英軍は今度は三日間 たたかったのだが、この記念碑はまだ立っている。こ 彼はドイツ軍隊の名誉について一くさり弁じ、このれもまた一九一四年に射殺された善き市民たちを顕彰 ・フロンズ板はル 1 ヴァンの殉難者ーー一九一四年にドするものだ。これは彼らの名まで挙げている。今まで ィッ軍に人質として射殺された二百人の民間人ーー・をのところドイツ軍はこれを爆破してない。 顕彰するものであゑ全世界も知るようにこの二百人われわれは辻公園で一息ついた。避難者たちが顔に の指導的な市民はドイツ軍に対するべルギー人の狙まだ恐怖の、そしてショックの痕を残しながら、破片 撃 ( 註 ) の結果として射殺されたにすぎない、そしてこのあいだを縫ってすこしずつ帰って来はじめる。彼ら こん の・フロンズ板にはドイツ兵の蛮行について何か書いては黙々とし、苦渋に満ち、誇りを失っていない。
た。この夢想的表情をもった青年ぽい顔が脊髄炎のたそうした彼らにあってさえも、それを前にしてはいか めにしだいに歪んでゆく体のうえにのっていたというなる批判も沈黙せねばならぬというタ・フーがあった。 それは、ソヴェトとコミンテルンへの忠誠、に関して のは、何という運命の皮肉であろうか。 タイプライターには、フィテが坐 0 ていたが、これである。その代りに彼らは、指導部の欠陥をあ ーーーミュンヘン・ソヴェト共げつらうことで埋めあわせをした。その場合にも彼ら は、あの「お母さん」 和国の時代、私が「幼児救護」の仕事をやっていた時、はもちろん、全共産主義政党の政策の責任は、もちろ 私をコミ = = ズム運動へと走らせる最後のトドメを与んドイツのそれをも含めて、あげてモスクワにある、 えてくれた女性の娘さんだった。フィテの中には母親という周知の事実にはことさらに目をふさいでいた。 の貴族的な血が流れ、またその教育も彼女にある自己「イン。フレコール」の協力者スタッフの大部分は、宥 意識を作りだし、それはアナーキーな自由の衝動の中和主義者たちのフラクションに属していた。「宥和主 にもはっきりとあらわれていた。彼女は猜疑心が強く、義者」とは、ルシエヴィキの模範に照らした場合、 仲間たちの無条件的な信仰ぶりをあざけっていた。一共産党内でも「左派」と「右派」との中間にあって、 九三一年私がはじめてソ連へ旅した時、フィテが別れどちらかといえば「左派」よりは「右派」と結びつこ で まにいった言葉はこうだった。「あんたが行ってくるのうとする傾きのあるフラクをさしていた。私が「イン しいことだわ、そうすれば多分ソ連の本当の姿がはプレコ 1 ル」で働きだしてからすでに数カ月した一九 ス らっきり見きわめがつくから : : : 」だが残念ながら彼女二八年の秋、指導部内で、宥和派と左派との間 ムはこの時には、私に幻減を見出す羽目にあった。 に公然たる党内闘争がもちあがった。この対立のきっ かけとなったのは、いわゆるウイトルフ事件だった。 こうして入り乱れる人物たちのすべてが、無批判な イエス・マンへの傾きにつくはずはなかった。しかしエルンスト・テールマンの娘婿でハン・フルクの
へナウは言う。最近の捕虜の公表数字は、降伏したオ 「現在までのドイツ軍の成功にもかかわらず、ライへ ナウはこれまでの戦闘は単に包囲作戦にすぎず、決定ランダ軍五十万を含めなければ、十一万だった。 連合軍が橋梁を大分破壊しているにもかかわらず、 的な会戦はまだおこなわれていないことを強調した。 『それはいつ、どこでおこなわれますか ? 』と私は訊ドイツ歩兵はどうしてあんなに速く河や運河を渡るの かと誰かが訊いた。 『どこかは』と彼は笑って言った。『或る程度まで敵『大抵はゴム・ポートで』と彼は言う。」 の出方にかかっている。いつ、そしてどれくらいの期私が概略書き留めておいたライへナウの言葉からさ 間ということは今後の成行にまかせる。短いかもしれらにいくつか引こう。 ないし長いかもしれない。思い出していただきたいが、「ヒットラーは実際に彼の本営からドイツ軍を指揮し ワテルロ 1 の前哨戦は数日つづいた。ワテルロ 1 の決ている。ベルギーにおける橋梁と道路の爆破は大部分 フランスの専門要員の手でおこなわれた : : : 。私は一 定的な会戦は八時間で決せられた』 日百五十マイルも戦線を駈けまわるが、まだ一度も空 ライへナウは『ウェイガンが大きな抵抗をおこなう ことに決すればわれわれの前進は速度を落すかもしれ中戦を見ていない。われわれは勿論、連合軍がせめて マース河とアルべール運河のわれわれの橋を爆撃しょ ない』ことを認めた。『われわれは完全な自信をもっ てこの戦いをはじめた。しかしわれわれは希望的な物うとしないのを見て驚いた。英軍は一度昼間に爆撃を の見方をしない。われわれの前にまだ大きな戦いがあ試みたが、わが方はそのうち十八機を撃墜した。しか しイギリスが空軍を前に出さぬようにしていることは るのを心得ています』 疑いないように思える。すくなくともそれが私の受け ドイツ軍の損害はこれまでのところ比較的小さく、 平均して敵から得た捕虜の数の十分の一前後だとライた印象だ。」 8 3
ということだ 0 呆れた話だ ! 6 この十年のうちにパリは何と安つ。ほくなってしまっ幻 かっ たことだろう ! 幾人かのフランス人が嘗ては美しか 三月ニ十ニ日、 ったシャン日ゼリゼに今のさばっているネオン・サイ 昨日誰かがーーーちょうどロンドンから帰って来たペ ンやけばけばしい大映画館や自動車販売店のウインド ルティナックスだったと思うがーーーチェインリンが ーを指さして、「これはアメリカがわ ーや安つ。ほ、く ーミンガム演説のなかでこれまでの この前の金曜のべ れわれにもたらしたものだ」と言う。フランスは私が すべての態度を俄に逆転したという奇妙な話をしてく れた。その二日前には彼は下院でヒットラーの背信を十四年前にこの地に着いたときには持っていた何かを ーミンガムでは失ってしまった。その真髄の一部であった趣味を、自 なじる気はないと言っていたのだ。、、ハ 己の歴史的使命の意識を。いたるところに腐敗、いた 彼はヒットラーの「協定破棄」を攻撃した。ベルティ ナックスの言うところでは、ゴーデスペルクとミ、ンるとこに階級的利己主義、そして完全な政治的混乱。 私の礼儀正しい友人たちはもういい加減諦めてしまっ ヘンの舞台裏に動いた陰気な小男サー・ホレス・ウィ ルスンが、実は首相の議会における発言にあらわれてている。 'Je m'en ま u を ( どうとでもなれ ! ) と彼ら リーヌのような ンガム演は言う。これは一種の敗北主義へ、セ いる宥和方針に沿って首相のかわりにパ 説の草稿を書いたのだが、閣僚の半数とロンドンの有作家がひろめている無政府主義的な・ m'en ・ fousisme カ新聞の論説記者の大部分はそれを聞くとものすごくへ通するものだ。 リンはこれまでの全政策を 反対したので、チェイン、、ハ 一変せざるを得ないと急に感じ、実際その新しい演説三月ニ十九日、ジュネーヴ ードは昨日、それ以外の共和派に属するスペ ーミンガムへの列車のなかで書いたのだ の大部分はパ
には実行しつつある。一週間のあいだ英仏は形式的に わしく思う。 ゲーリンクが今日放送すやーー当地の或る弾薬工場はドイツと戦争している。だが一体それは戦争だった のカ ? と彼は問う。英国はいかにも二十四機の飛 から。彼はこの戦争は長くなるかもしれないと国民に 警告する。英仏がドイツを爆撃したら恐るべき報復を行機を送ってヴィルヘルムスハーフェンを爆撃しよう おこなうと威嚇する。ポーランドにいるドイツ軍七十とした。しかしもし戦争だというなら、どうしてわず 個師団は一週間以内に、「ほかのどこかに」充当されか二十四機なのか ? また、もし戦争だというなら、 るように引揚げられるだろうと彼は言う。あきらかにどうしてラインラントの上にわずかばかりのビラを撒 ドイツの工業上の心臓はフランス ポーランドにおける戦争はほとんど終ったのだ。特派いただけなのか ? 員の大部分は少々意気銷沈している。英仏はポーランに接してライン河に沿っている。ポーランドにあれほ ドへの恐るべき圧力を弛めさせるようなことを西部戦どの致命的な打撃を与えている弾薬の大部分はそこか 線で何一つしなかった。ヒットラーはヨーロッパを薙ら来ているのだ。それなのにまだ一発の爆弾もライン ぎ倒し征服する第二のナポレオンであるかのように見ラントの工場に落ちていない。一体これは戦争なの と彼らは問う。一週間前に私が見た陰欝な顔 えはじめる。 は、この日曜はそれほど陰気ではなくなっている。 当地の生活はまだまことに正常である。オペラ座、 九月十日、ベルリン 英仏の宣戦布告後一週間たって、普通のドイツ人は劇場、映画館、すべては開いており、満員だ。『タン 一体これが世界大戦というものなのかどうかとあやしホイザー』と『蝶々夫人』がオペラ座にかかっている。 みはじめている。彼はこのように考える。イギリスとゲーテの『イフィゲーニエ』は国立劇場に。ヒットラ フランスはいかにもポーランドに対する義務を形式的ーのお気に入りのショー劇場「メトロポール」は水曜
よく市のほとんどすべての広場にとりつけたラウドス 私は今日ドイツ軍と住民の公然たる交驩をいくつか 、、 0 9 ャ ビーカ 1 によって聞いた。ニューズがはじめて知らさ見た。兵隊の大部分はオース トリア人で、行儀もしし れたとき私はコンコルド広場でフランス人男女の群衆そしてフランス語をしゃべるのはごくわずかだ。ドイ のなかに立っていた。彼らはほとんど致命的な打撃をツ軍部隊の大部分は素朴なトウーリストのように振舞 受けた。ホテル・クリョンの前に自動車がフルス。ヒー そしてこれがパリの人々に喜ばしい驚きを与えて ドでやって来て、金の飾緒をつけた将校たちをおろす。いる。これは奇妙に見えるが、ドイツ兵は皆カメラを アルク・ド・ コンコルド広場の人々はクリョンのドイツ軍司令部前持っているのだ。私はノートル日ダム寺院を、凱 のざわめきなどには気がっかなかった。彼らは地面を旋門を、アンヴァリッドを写しているこの連中を何千 みつめ、それからたがい冫 こ目を見交わした。「ペタン人となく見かけた。数千のドイツ兵が一日じゅう無名 が降伏する ! これはどういうことだろう ? どうし戦士の墓に集っていた。門の下に火はまだ燃えている。 プウルコワ て ? なぜ ? 」そして誰一人これに答える元気はない彼らは脱帽して金髪の頭をあらわし、しっとみつめて ように見えた。 この夜のパリは無気味で、私にはいつものパリと見六月十九日、 えない。午後九ーー・暗くなる一時間前 から外出休戦協定はコン。ヒ工 ーニュで調印されることになっ 禁止だ。燈火管制はなおも強化される。今夜の街路はた ! フォッシ、元帥が一九一八年十一月十一日コン 暗く人気がない。華やかな光、笑い、音楽、街の女た ーニュの森でこの前の休戦協定の調印に立会った ワゴン・リ ちのパリ あれはいつのことだったか ? そして今ときと同じ寝台車で。フランス人はまだこのことを知 のこれは何なのか ? っていない。。 トイツ側はそれを秘密にしている。しか トリオノフ
なければならない。しかし他面、われわれドイツ労 私の考えでは、かれはノルウェーの利益や、また戦い に勝っことよりもはるかにドイツに関心があるように働者や民主主義の再起したカは、あらゆる進歩的グ ループや政党と連立することによって新秩序を打ち 思われた」 私は自分と信念を同じくする何人かの亡命ドイツ社たて、維持してゆくに十分強いものになりうると確 会民主党員とともに、一つのパンフレットを書き、そ信する。 ドイツの民主主義者や社会主義者は、戦争の の当時私が提唱していた政治見解を説明した。今日で も私は、そのパンフレットに述べた根本理念を変えて終結によって国際上のカの・ハランスが完全に変わっ いない。それでその重要部分を次に引用したい。 たという事実から出発しなければならない。ドイツ はヨーロッパで二流国としてその力を振うことにな ろう。国際機構のワク内でドイツ民族の自決権を守 古いドイツ労働運動は、建設的政策を欠いた り、ドイツ国民のための生存手段を獲得することが 点で、また、一九三三年には余り英雄的態度をとら その仕事となろう。大陸においてドイツの優位をと なかったために、非難されるかもしれない。しかし りもどすために戦うことは、その仕事ではない。 社会民主党は、他のすべてのプルジョア政党とは違 って、ヒトラーの甘言にだまされず、それに協力も ーー - ・国際事情は真の集団保障のために、国家主権 しなかったことは事実である。とくに若い社会主義の制限を要求しているとわれわれは考える。ヨー ロッパの共通の利益が優先しなければならない場合 者たちが、ヒトラー政権に対して地下抵抗活動で最 も活発な働きを示したこと、事実である。 もあることを認めるが、すべての国民のための自決 ヒトラーの敗北後、権力をとりうるほど強力権の原則を強固に支持する。が、同時にわれわれは、 で、また効果的な地下運動がないことは明らかにし ドイツをワイマ 1 ル共和国の国境よりも内側に押し
の非常にいい本がいくつかある。あきらかに彼は本に走砲がひしめいている。左側は暑熱と埃のなかを自分 らの破壊された町へ帰って行く疲れた避難民の引きも ついては優れた趣味を持っていたのだ。勿論政治学、 切らぬ行列だ。・フリュッセルに着いたらうまい潤沢な 経済学等の大学での彼の教科書もたくさんあったが。 われわれは三十分ほど部屋部屋をさがしまわった。午餐ができるという気持が私の心のなかにふくれてい 大部分はひどく貧弱な調度しかなかった。バスルーム た。この光景はそんな気持を除き去ってしまう。 はひどく原始的だった。私はハプス。フウルク家が長い 。・フリュッセルは破壊 あいだそこで統治したヴィーンのホーフプウルクで見午後二時、・フリュッセル たあの豪華さを思い出した。こことは雲泥の相違だ。 を免れた・・ーー全体として、もしくは部分的に損傷を受 われわれの仲間の幾人かは記念品や剣や古い。ヒストル けていないベルギーで唯一の都会だ。 町のなかを車で行くとあちこちで、ドイツ軍の逸れ ゃいろいろの装身具を持ち出している。私はオット 1 が最近のアメリカ訪問の前に英語に磨きをかけていた爆弾が落ちた ( 実は住民を怯えさせるためか ? ) 破壊 ときに書いたものにちがいない英作文の一ペ 1 ジを失された家が見える。そして市の中心の運河の橋ーーーし 敬した。泥棒になったような感じだ。或るドイツ軍将かも橋は十二ぐらいはあったろうーーはすべて英軍に ータの名刺を幾枚か見つけ、一枚を私に渡しよって爆破されている : 」、が . ツィ た。〈 L' lmpératrice d' Autriche et Reine de Hong ・ 温い晩春の一日で、街路には住民が溢れている。他 オ 7 ストリア皇詬 ) とな「ている。掠奪者らしく私はの町々で見たのと同じ苦渋に満ちた、しかし誇りを失 わぬ顔つきだ。われわれの四台の自動車を担当してい ンそれをポケットに入れた。 ステーノッケルゼールから・フリュッセルまでは、道るドイツ軍将校が一人の通行人を止めて、われわれが 路の右側には西方へ疾駆するドイツ軍のトラックと自予約しているレストランへの道を訊いた。その紳士は