( ノーヴァーのちょうど東に、われわれが着く数時われわれは一日じゅう道を間違えてばかりいた。ひ 間前に英軍の夜間空襲があった。その土地の住民は、 どく間の抜けた運転手がわれわれの四台の自動車の列 一軒の家にいた二十人の民間人が殺されたとわれわれを先導して行くのだ。私たちの運転手は言った。「戦 に羸た。 ( ノーヴァーの東十五マイルのところでわ前はあいつはタクシーの運転手だったんですがね。 れわれは、自動車道路から二百ャードほど離れた畑のつも迷 0 てばかりいて、いつも一番廻り道していたも なかに大きなハンドリー 日ペイジ爆撃機がめちやめのですよ。」緑の畑の向うに大伽藍の塔を見出した後 ちゃにな 0 て横たわっているのを見つけた。憲兵は高われわれはすっかりケルンへの道からはぐれてしまい 射砲の砲撃で撃墜したのだと言った。五人の乗組員は フランクフウルトへの道の半ばまで来て引返したが、 パラシュート で脱出した。そのうち四人は近くの町のあたりはもう暗くなりはじめた。終りの頃はほとんど 町長のところへ自首して出た。一人はまだ逃走中で、 満月になって、樹木がアーチを作っている道をアーへ 農民と憲兵があたり一帯を捜索している。われわれは ンに乗り入れて行くのは非常にすばらしかった。道に その飛行機を視察した。後部銃手座は非常に小さく、 はずっとトラックに乗った、また徒歩の果しもない隊 防護は全然ない。前部のエンジンと操縦士室はひどく 列が、歌をうたい元気一杯に前線へ動いて行く。 破壊され、焼けている。妙なことに、後部座席のガラ ( ドイツ軍が細かいことにおそろしく気がつくことの スは割れていない。・ トイツ空軍の技術者たちは機械や一例ーーベルリンからケルンにいたる自動車道路に沿 貴重な金属を取りはずすのにいそがしい。ドイツ軍に う三百マイルのあいだ、こわれた農器具が高度を問わ ンは手に入るものは何でも必要なのだ。数百人の農民がず上空からは高射砲に見えるようにして二百ャード毎 そこに立 0 て残骸を眺めている。彼らは全然勇気を失に置かれている。大砲と見えるように心棒を空に向け 3 っているようには見えない。 た鋤。レーキ、 ( ロウ、手押一輪車、ミシンーー・およ アウト アウト・ハ
ポッダムからモスクワまで どうしてそうひんばんな逮捕がおこなわれるのか、誰ちのほとんどは、おおむねウル・フリヒトの側について いない共産党員である。国外で手から手へとわたされ にもはっきりとはいえないでいた。しかしついに、国 外にいるウル。フリヒトがすでに長らく、ドイツ国内でてゆくこのブラック・リストがいつの日かゲシ = タポ 活動する非合法共産党員の完全な名称とアドレスを記の手先の手に入り、それによって彼らが正確なアドレ 載した「フラック・リスト」を流させていることが突スを知るに至るであろうことを、ウル・フリヒトは正確 に計算していたのである。しかもドイツ国内へさえも、 きとめられた。彼は、それらのさなきだに辛い危険に さらされている同志たちに、「トロッキスト的秘密策表向きは党に忠実な同志たちを「裏切者」にたいして 謀」その他の反党的偏向をおかしている、という罪を守るためと称して、ウル・フリヒトはそうしたリストを なすりつけたのであった。奇妙なことに捕われた者た送りつけ、しばしば一つの非合法活動グルー。フ全体を 「トロッキスト」と告発した。このためその全メン・、 1 が名前からアドレス、その非合法活動の種類まで含 めてゲシュタボの手におちいり、自由にコロンビア・ ナチ強制収 ) に送りこまれることとなった。ウル ( ウス ( 容所の一「 ・フリヒトがそれらの名前をことさらにゲシュタボに教 えたと主張しても、必ずしも誇張とはいえないだろう。 ル ウ もし彼がそうしたのでないとするなら、多くのドイツ 人コミュニストのむごたらしい末路は、彼ら自身の想 像もできないような不注意とズサンさのためというこ幻 とになるのだが。
そ私が前にしているのは一体誰なのか、本当に った、「するとあなたは、ジオヴァンニ氏ではなく、 0 ジオヴァンニ氏であるのかどうか、を知りたいといっ コミンテルンのお若いノイマン氏であることを承認さ夘 たものであった。当然のこととして、ノイマンは、証れるわけですな : : : 」 明書記載の自分の名前を固執した。すると事は意外に も憂慮すべき事態となってきた。つまりザイツは、あ p•-q 党内での ( インツ・ノイマンの目ざましい昇 い変らず打ちとけた様子で、そうとあればウィーン警進は、一九二四ー二五年、ルート・フィッシャーやア 察は意外な大手柄をたてたことになりますな、という ルカデイイ・マスロフがドイツ国内でコミンテルン路 のである。「とすると、あなたは、何人もの人間を殺害線を推進しはじめた時期にはじまった。一九二九年私 して告発を受け長らく捜索されていた犯罪者ジオヴァ が ( インツと知りあった時にはすでに、彼はコミ ン = であるとおっしやるのですな ? 」 ( インツは最初スト職業革命家として数かずの輝かしい閲歴をもっと は巧妙な恫喝かもしれないと思ったのだが、いかにもともに、コミンテルン指導部にたいする彼の姿勢には 実意のあふれるザイツの顔をみているうち、その嫌疑ある矛盾と分裂があらわれはじめていた。つまり彼は、 がまんざら嘘ではないように思われてきた。たしかに世界の個々の共産党にたいするコミンテルンの独裁的 の証明書機関が手ぬかりをしたというのではない な干渉を、妨けないしは害を及・ほすものと考えながら、 だろう。彼らとしては、単に手に入るかぎりでの。 ( スその一方彼は、この独裁を必要悪としてそれに追随し ポートを手にいれたというだけにすぎないのだから、 たのである。一九二九年にはまだ彼はコミンテルンの ただし相当額を見返りに犯罪者の手からだが。しかし革命的目標には疑いをいだかず、コミンテルンもポル それでもなおも ( インツが答えをためらっていると、 シエヴィキ党の指導的幹部たち等しくインターナ ザイツは父親のような笑みをうかべていったものであショナリズムを堅持しているものと信じていた。スタ
り、軽薄さ、虚栄心、革命家気取り、等のあらわれて自分の文章に手が加えられたり、文章が削られたり、 くることが余りにもしばしばだった。とりわけインテあるいは、編集部のお気にいるように、言葉やら ・ポヘミアンたちの間では、コミュニスト気取りが文章やらをつけ加えられたりして、しかも発表前に承 流行になっていた。彼らは、最大限ラジカルにふるま諾を求められることさえもない、といった事態を甘受 うその限りでアヴァンガルドでありうると信じていたしなければならなかった。とはいえ、シンパ・インテ のであった。 リたちの奉仕は、それ自体としては党にとっては大へ 共産党周辺のシン。ハ・インテリたちは、そのことをん有益たった。ウィリー・ミュンツェンベルクの主た 重大視したが、党内の労働者たちは、そういうインテる役目の一つは、これらの人びとを党の周辺に引きっ リを見下すか、全面的な不信の目で見るのがふつうで、けておくことにあった。しかし、コミュニストたちが、 シン。ハ・インテリたちのことを実際にはどう思ってい せい。せい良くて大目に見るのが関の山だった。一方、 党内のインテリたちは、そういうシンパ・インテリに たか、また創造する芸術家たちのことを何と見なして 彼らの迷惑ぶりをはっきりと見せつけた、というのは、 したかについては、コミュニスト芸術家ジョン・ トフィールドの手になる、かなり以前の信じられない でそういうシンパ・インテリが大方はマルクス主義に無 ワ知だったからだ。彼ら党内インテリは、シンパ・イン ような論文の中にはっきりと示されている。「 : : : 自 己の自主性に関する芸術家の主観的確信にはさし当り ステリを、唯一可能な思考・弁証法的思惟のできない、 センチメンタルなユ ートビストと見なしていた。シンは手をふれない方が好ましい。 ・この確信を破壊し ないための ( さもなければ芸術家は反対派に押しやら 。 ( ・インテリが共産党系もしくは秘密共産党系の印刷 わ物に何かを発表した場合、たしかに一般には、党直系れ、ソヴ = トにとって有害となるだろう ) 重要な手段 のインテリよりは自由が多かった。けれども、彼は、 は、公然たる承認、印刷物等々における批判、また芸
これは彼の動きのきわめて陰惨な側面である。これご機嫌のままにさせ、依然彼 ( ピーク ) が決定権をも にくらべれば、彼がウイルヘルム・。ヒークとどんなエつ人間であると。ヒークに信じこませておく術をわきま 合に手をつなぎあったか、という話の方がもうちょっ えていた。この目的のためにウルプリヒトは、ドイツ とは愉快である。ピークはでも最年長の党員であ からパリに報告にやってくる非合法の同志を最初に迎 り、それなりの影響力があった。だからたとえば、報えてその報告を最初に聴取するのは、の活動の中 告のためにパリ へ派遣されてきた非合法の使者でももっとも興味深いものである、とピークに信じこ などが、。、 , リのカフェで、のこの頭株じきじきにませるのに成功した。というわけで、。ヒークは会見か 引見されたりすると、すっかりおどろいてしまったもら会見に追いまくられて時間をすごし、仕事が多すぎ のだった。そしてさらに、ビークが過重に仕事を負わると嘆くという次第だったのである。彼はおそらくは されすぎているといって嘆いたりするのをきけば、そまた、ウル・フリヒトのその他のたくらみについてもか の人物の感嘆の念はいや増してゆくことだろう。ビー なり正確に通じている唯一の人間でもあった。しかし、 クは自分のノートを手にとって、件の人物にそのことそれにたいして、。ヒ】クは一言の文句さえもつけはし を証明してみせる、もちろんそのノートは、無数のなかったのである。 「会見ーの日付けやら時間やらがなぐりがきされて一 つまりピークは、この関係で個人的利益をうけてい 杯になっている。さしあたりウル・フリヒトは、そんな たのである。すでにずっと以前からベルリンの幹部た ビークの手助けの役を演じ、当時六十歳たったビークちに「ドン百姓」とよばれてまともに相手にされなか からあれこれの仕事をくすね、やがて政治的組織活動ったこの人物は、どんな党内闘争も無傷で切りぬけて すべ 分野の指導権を。ヒークの手からうばいとってしまった。 くる術をわきまえていた。というのも、彼は、つねに そうしておきながらもなおウルブリヒトは、。ヒークを勝ち馬につくという、けっこうな直感力をそなえてい
存在するとか、抵抗勢力が組織されて満を持している、は、、 しつもの流儀で仕事にかかり、厚かましくも嘘を といった嘘に、最初の間は公然と歯向うような真似はっき、それまでコミンテルンに並べたててきた歯の浮 2 しなかった。彼は、自分にだけ心服している腹心の部くようなお伽話のかずかずをすべて全くの真実である 下を非合法活動のためにドイツへと送りこみ、その者といい張ったのである。これこそは、ウル・フリヒトが たちには、明らさまな真実を自分個人にだけ報告する待ちに待っていた瞬間であった。彼はおもむろに自分 ように、といい含めた。こうして彼は、真相をつかむの資料をポケットからとりだして、にそれを に十分なだけの資料を自分の手にあつめ、さて、敵手提示し、彼の敵手たちを意識的に偽造者として「仮面 たちを打倒するためにそれを利用できるような時期ををはいだ」のであった。彼の卑劣の成功は決定的であ 辛抱強くまった。 った。ウル・フリヒトの敵手のほとんど全員は出国ヴィ その瞬間は、ついに一九三五年にやってきた。そのザをもらえず、モスクワに足止めされ、これら大幹部 時期ともなると、コミンテルンも、自らの予言がいさたちの大方はいけにえとなったのであった。念入りに さか当っていなかった、ということをさすがに認めざ準備して狙い定めたこのたったの一撃で、ウル・フリヒ るをえないまでになっていた。コミンテルンは危険を トは全党機関を粉砕しつくしてしまったのであった。 感しはじめていた。石をころがすには、ウル・フリヒト ドイツ国内に潜伏する非合法で彼に服さない幹 側からにちょっと合図をおくるだけで十分だ部たちをも、彼は一掃してしまった。彼が決定的な不 った。ウルプリヒトはドイツにおける実状調査を提議意打ちを加えるよりも前すでに、の手でドイツに し、即座に全員がモスクワに呼びつけられた。他送りこまれた工作員が、謎のうちにゲシタボの手に のメン・ハーたちは別に悪い予感ももたず、包括的な報おちるという事態がひんばんにおこった。その時の状 告を行なうことになっていたヘルマン・シュ 況のすべてが裏切りと密告を暗示していたのであるが、
ふさわしいと目されたからである。そのことをきいた形で「パリの中央委員会」が強力に介入してくること コミンテルン総書記ビアトニッキーよ、。、 を / リの中央委はすべて断わった。彼の見解によれば、裁判なしでテ 員会にはしらせずに、「エルウイン」という名のコミ ールマンを釈放させることは完全に可能、ということ ンテルン密使をとおして、ベルリンの非合法機関にた だった。というのは、彼は、ナチ高官との良好な関係 いし、ラングべーン弁護士と連絡をつけるように、とを通じて、ナチ官辺では前々からこの共産党指導者の の命令を下した。当時ベルリン駐在のソヴェト大使ク無実は明らかとされ、彼を殉教の英雄に仕立てあげる レスティンスキーは、謝礼として六万マルクを寄託し必要は全くなしと判断されていることを、良く知って た。同時に強力なテールマン解放準備が計画され、密いたからである。もちろん、とこの弁護士はいった、 使「エルウイン」は、この目的のために、機関のテールマンは釈放後一切の政治活動から手をひくとの リ 1 ダーで当時パリに滞在していたアレクス・キッペ誓書に署名することを要求されるたろう。しかし、こ ンベルガーと連絡をとった。ウル・フリヒトはこの計画のきわめて理性的な弁護士は断言したものである。そ とは直接には何のかかわりもなかったにもかかわらず、んな誓書などは紙屑に等しく、その署名などは何らテ この作戦の経過と弁護士との交渉に関 ールマンを義務づけるものではない。彼がいずれ国外 でわずかの間に、 ワするドイツからの報告は、自分の手をとおしておこな に出てしまえば、一切は無効である、と。であるにも スうように、とキッペンベルガーに圧力をかけるまでにかかわらず、国外委員会、つまりウルプリヒトとその らなっていた。 共犯者どもの一党は、弁護士のこの計画をきくや、手 ム弁護士ラングべーン博士 ( 一九四四年、ナチにより荒く一蹴して、弁護士にたいし、党決定ーーっまり裁 死刑判決をうけて処刑された ) は、テールマン弁護の判を準備せよ、とのーーを尊重し、中央委員会の基本 9 用意があることを明らかにしたが、ただし、何らかの方針に従うべし、との訓令を伝えさせたのである。同
ることを知っていた。しかし、本当の不幸をまだ知ら 簡単に知ることができるようになっていた。 祖父がそのテープルに近づいたとき、かれは全く偶なかった。いまやとっぜん、飢餓が悪地主のように台 然のように、そのスープなべをひっくりかえした。投所に立っていた。 「ひもじいのかね、坊や」 票用紙が散らばった。親方は怒り、毒づいたものの、 どうにもならなかった。どの投票がだれのものかさっ ートはパン屋の店先に立ちどまり、食。 ( ンと ばり見わけることができなくなった。祖父は、まんまロール巻きをもの欲しそうに見つめていた。これまで、 とその男を機知でやりこめた。祖父は社会党の指導者こんなにおいしそうに見えたことはなかった。その香 アウグスト・ ーベルの信奉者の一人で、その村の最ばしいにおいに、かれは、めまいを感じた。頭がポ 初の党員の一人だった。のちに祖父は・町に移り、工場 1 ッとしてクルリと向きをかえたそのとき、急に一人 労働者となった。第一次大戦後、かれはリュ ーベックの紳士が話しかけてきた。その人はドレイガーエ場の のドレイガーエ場に職を見つけた。仕事はトラックの支配人の一人で「法務長官閣下」とあだ名された人だ 運転手だった。 った。かれはゴクリとツ・ハを飲みこみ、やがてうなず 二、三年後、ヘルバ ートはおそらく、幼少時代で最いた。支配人はかれの手をとって店にはいってゆき、 パンを二塊買ってくれた。 たも永久に記憶に残ると思われる経験をした。リ、 わックの労働者がストにはいった。そのストは全面的な 「さあ、おあがり」と、かれはいっこ。 工場閉鎖にまで発展した。苦しい日々がつづいた。へ 1 トはくびすを返すと一目散に走った。その 夜 パートは八つか九つだったが、金持ちと貧乏人の差紳士が気持ちをかえて、パンを取り上げないかしらと イがわかるには十分な歳ごろであった。かれは自分が貧心配したからだ。 乏人に属していて、手のとどかないものがたくさんあ ヘルく / ートは、息せききって家へたどりついた。そ べ 2
タボのために働きつづけた ( 彼が一連の反ファシスト プ - リヒトは、こうした陰険なやり口で、テールマンを たちを裏切ったのち、一九三四年一月、ウェディンク政治的に傷つけようと望んだのである。そうなれば、幻 のある共産党員が、彼に復讐をした。その党員は彼をの新指導部が緊急の課題となり、自分の時代が ノウアーウェの彼の住居で殺害したのである。 くる、と彼は当てこんだわけである。 しかもウル・フリヒトがその手を突っこんできたよう ナチが、テールマシをモスクワに交換条件をつけて に見えたのは、テールマン逮捕の時ばかりではない。 送り返そうとの申入れをソヴェト政府にしているとの 彼は、テールマンがナチの手からひょっとして解放さ噂がしきりにあらわれた時、ウルプリヒトと。ヒークは れるやもしれぬ事態を防ぐために、あらゆる手をつく口をそろえて、パ リの亡命党指導部においてもモスク したのである。ウル・フリヒトは。 ( リにいて、長らく、 ワのコミンテルンにおいても、彼らの党首のこうした 逮捕されたテールマンに弁護士をつけることを組織的形での解放に反対の意見を表明し、こうしたやり方で に妨げ、その一方では、の非合法機関紙や外国テ 1 ルマンを救出することは逮捕された他の共産党員 の共産党機関紙を通じて、大々的なプレス・カンパニ たちの士気に悪影響をおよ・ほす、と理屈をつけたもの アをくり広げ、その中でテールマンは秘密裁判をうけだった。キスクワとしても、公的な立場ではこの意見 よ、つこ 0 冫 . ぐし、力平 / ・カ / るおそれがある、とくり返し長広舌をふるったのであに組しないわけこよ、 る。こうしたやり方で、彼は、ナチが国会炎上事件のすでに数カ月がすぎても、なおテールマンのために 場合のような公開裁判を開かざるをえぬように仕向けは一人の弁護士も見つけられなかった。やがてソヴェ ようと思ったのである。そうなれば、テールマンは官ト諜報機関は、在ベルリンの協力者の一人を通じて、 選弁護人の弁護しかうけられず、しかもはるかにみす弁護士ラングべーン博士に目をつけた。ナチ体制にた ・ほらしい役割りを演じることになるからである。ウル いするその批判的態度が、テ 1 ルマンの弁護士たるに
のである。指導部といかなる連絡を保つことも、手おくれとならぬうちに、ナチにたいする闘争を継続 彼にはきびしく禁じられた。だが彼はあえて党規をおするように、要求し、それを次のような言葉で結んで幻 かした。彼の全関心はドイツの政治状勢にそそがれて 1 。フクネヒト いたからである。「ハーゼではなく、リ いた。ファシズムの接近を彼は全く絶望にとざされるを ! 」この言葉には一九一四年の国会における国防予 思いで見てとり、ウィリ ! ミュンツェン・ヘルクと当時算票決への比喩がこめられている。すなわちこの投票 まだ中央委員だったヘルマン・レンメレにあてて、何で、カ 1 ル・リ ープクネヒトただ一人が戦争国債案に とか最悪の事態をくいとめようと工作の手紙をおくり反対投票をしたのにたいし、社会民主党左派のハーゼ つづけた 0 一九三二年から三三年にかけての冬レンメ は譲歩し、またの大多数も同じく賛成投票をし レにあてて送ったそれらの手紙の一つが、 Q の秘て、インターナショナリズムを裏切ったのであった 第一次大戦開戦にあたり、ドイツ社会民キ党は、従来の戦争反対と労 密機関の手におちた。一九三三年三月へルマン・レン 働者の国際的連帯の態度を一転して、電事予算案に賛成投票して、ウ イルヘルム二世の戦争計画に積極的に協力した。主流のこの裏切 メレは、ドイツを脱走するにあたって、その非合法ア りを怒ったカール・リー プクネヒトはローサ・ルクセンプルクと共に、 ジトにあった一切の文書類を抹殺したのであるが、そ 一九一六年非合法組織「スパルタクス団」を結成、積極的に反戦・革 ) 。 のノイマンの一通の手紙が机の抽出しと上板との間にしかし、コミンテルンの目には、この言葉は、全く別 はさまっていて、秘密機関員がすでに見すてられた彼の意味でうつった。つまりそれは、カール・リ 1 。フク の部屋を捜索した時に、それが彼らの手に入ったのでネヒトが「スパルタクス団」の結成によってを ある。この手紙が、動かぬ証拠物件となった。それは 割ったのと同じように、ノイマンがの分裂を意 ノイマンの「政治的に犯罪的」な意図の証拠となった。図しているもの、と受けとられたのである。 その手紙の中で彼は、レンメレにたいし、たとえ「コ その後、ノイマン・レンメレ・グループがコミンテ ミンテルン」の命令に抗してもあらゆる手段をあげて、ルンの要求により、叩きおとされ、主要罪責任に擬せ