勿 / x へ、
ろうが、私はこのような目に、何度も会っている。蚤も一匹なら我慢出来るが、三匹五匹と増え ると夜も眠れなくなる。 ーティで知人と立ち話をしていた。その立ち話を盗み聞いて ( とここでもわざと大仰にいわ あたか ーティといえども、 せてもらう ) 恰も私のコメントであるかのように書いたタ刊新聞がある。。ハ うかうかしてられない。戦争中、 「あなたの隣にスパイがいる ! 」 という標語があった。私はまさにそういう心境に立ち到っている。 先日も同じ夕刊紙に私の言葉が出ていたという。さる八月、田辺聖子さんが阿波踊りに「かも か連」という連中を作って徳島へくり出した。私も誘われたが生来の我儘者、団体行動はニガテ である。それゆえお断わりした。するとその後、夕刊紙から電話で訊いて来た。 「佐藤さんは参加する予定だったのが、北海道へ行くことになったので、残念だけど行けないと 返事したそうですね ? 」 私はそんなことをいった覚えはありません、とハッキリ答えた。すると相手は、佐藤さんはこ ういうことをどう思いますか、好きですか、と質問した。そこで私はこれまでの例もあり、語気 も鋭く新聞のコメントには一切応じないと答えたのである。 にもかかわらずだ、夕刊 x x は私の談として書いているという。 「行くつもりでしたが、行けなくなって残念です」 のみ
つい、合いの手を人れてしまった。勿論、私は会話のつもりであって、コメントしているつも りはない。しばらく話し合って電話を切った。 数日後、私は雑誌社の人から、 「 x x 新聞にコメントを出しておられましたね」 といわれてびつくりした。コメントは一切しませんといい切っていた人間が、 x x 新聞には応 じている。 xx 新聞は大新聞であるから応じたのであろうと権威に屈したかの如くにいわれると 面白くない。 「話だけ聞いて下さい」といわれた時に話だけ聞いて、ただ「ふむ、ふむ、ふむ、ではさよな ら」とだけいっておくべきだったのだ。余計な感想を口走ったのがいけなかった。しゃべったか らにはコメントに応じたものと相手は見なしたのであろう。しかしそういう場合は最後に、 「では今の言葉を記事にしていいでしようか」 と念を押すべきではないだろうか。 「欺し討ちだ ! 」 学私はいきまいた。欺し討ちのつもりではなかったのであろうが、怒っていきまく時は人はすべ のてこのように ( わかっていて ) 大袈裟にいい立てるものである。 それくらいのこと、いちいち角目立っていい立てるほどのことじゃない、といわれるムキもあ つのめ
187 男の学校 一呶食んたと。 3 なイ。 【ラ豸宅
と妻のせいにしている。 妻は夫の権力の七合目まで征服し得たと喜んでいるけれど、男性の方は男性の方で、ああ、こ れで一フクになった、とひそかに喜んでヘソクリに精出しているのかもしれない。へソくる身は悲 しいと思っていたが、ヘソくられる身もまたいろいろとたいへんであることを、これから、女は 知って行かねばならないのかもしれない。
ろう。 ある男が金に困って、友達に助けを乞うた。その友達は何とかして助けたいと思ったが、妻の 同意がなくては助けることが出来ない。しかし妻を同意させることは不可能に決っている。そこ で彼はいった。 「悪いけど、ぼくはダメなんだ、 x x 君に頼んでみたら : : : 」 かねてから x x 君は気概のある頼もしい男だということになっている。困っている男は x x 君 に助けを求め、金を借りることが出来て、 xx 君の評判はいやが上にも高まったという。 しかしよく聞いてみると、頼もしく気概があるのは xx 君ではなく、 xx 君の奥さんだったと いうことだ。 妻が、家の経済を掌握するとこういうことになる。つまり、女にも人間としての器量が問われ る時代が来たのである。今までは何でもかでも夫のせいにしていればよかった。町内の寄付をケ チっても、親戚づき合いの不義理を重ねても、 「主人がそんな風にいうものですからねえ」 学 の本当はケチったのは自分なのだが、夫のせいにしてことがすんだ。だが今は弱き存在となった 男たちが、 「女房がねえ、どうも : : : 」
けみ なり、達人同士が相戦い、相練磨していやが上にも腕が上り、数十年を閲して互いに年老いた時 は、ヘソクリの額は結婚当初の額とたいして違いがなかったという、これもへソクリ哀話である。 いっからそうなって来たのかよくわからないが、この頃はほとんどの妻が夫の収人を掌握して いるという。そして全収人を妻に渡し、その中から小遣いを貰う夫たちは、いかにして収人の全 額を妻に渡さずごま化すかに腐心しているという。妻はもうへソくる必要がなくなったのだ。 昔の妻は夫のポケットから酒場のマッチが出て来たりすると、忽ち柳眉をさかだて、大ごとに なった。そんな妻を、男は単純に、 「うちの奴はヤキモチやきでねえ」 などといったものだが、本当はヤキモチなんぞではなく、 「私には決った金しか渡さないくせに、自分は高い酒を飲んで無駄遣いをしている ! 」 という憤りがヤキモチ以上にこもっていたことを男は知らない。しかし女が一家の経済を握 った今は、 ーのマッチの三つや四つ見つけたところで、 「外で飲んだところで、どうせビール一本か水ワリ一杯よ。それ以上は何も出来やしないわ、ホ 悠然たるものだ。まことに金の力は偉大なもので、ヘソクリに憂き身をやっしていた頃に較べ ると、主婦たちはみな元気横溢、自由闊達、生き生きしているのはめでたいことというべきであ いきどお
そんなことを考えながら電車に乗っていると、若い女性が二人で、頻りに職場の男性の品定め をしているのが耳に人った。 「うちの社じゃ、何といっても x >< 部長が一番イカスわね」 と一人がいっている。すると後の一人がいった。 「この間、偶然同じ電車に乗り合わせたのよ。そうしたら電車の中でタ・ハコを吸っている男がい たの、部長はつかっかと寄って行って、『君、タ・ハコはやめ給え』だって : : : 」 「へーえ」 これぞ稀少価値。 xx 部長さんがイカス男であるゆえんかと思いきや、 「いやアねえ。そんなこと聞くとシラけちゃうわ 「正義漢なのよ、彼は」 「正義漢 ! わア、古くさい。がっかりよ ! 稀少であれば何でも価値があるというわけではないことがわかったのである。
に重宝なのである。 ポンポン時計、定紋人り提灯、煙管、分銅、みな、馴染みのものばかりだ。その馴染みの物た ちが懐古趣味としてあっかわれているのを見ると、私自身もポンポン時計のように懐古の品にな ったような気分がして来るのである。 そういえばこの頃、都心の飲食店などでも、わざと汚ならしい水車を置いたり、臼や蓑、鋤な どを壁際に並べたりしている所がある。何もかもスマートに、小綺麗に機械で作られている今は、 武骨なもの、半壊れ ( つまりそれは古いということを意味する ) 、手作りの物に若い人は惹かれ るのだそうだ。 話は変るがある時、あるお母さんがこんなことをいった。 「うちの子供は近所のガキ大将でホントに困っていますの、同年の子供さんたちはみんな塾やお 稽古ごとで忙しいものですから、年下の子供を集めて大将になっているんです」 するとその場に居合わせた一人の人が、 いいじゃありませんか、子供はガキ大将が一番です」 学・「それは頼もしいー のといえば、その他の人たちも口々に、 男 「結構ですわねえ、元気があって」 「子供はそうでなくちゃあ : : : 」
「後ろに居合わせた人」もみな困るのである。 考えてみれば何年か前までの駅員は税務署員と共に横柄、不親切、不機嫌の見本みたいなもの 。こっこ 0 ハッキリいって下さいよツ、ハッキリ」 「えっ ? どこまで ? 「乗物に乗るときは細かい金を用意して下さいよツ、こ 0 ちも忙しいんだから」 「なに、子供一枚 ? それで子供かね、年は幾つ ? ふーん」 とおまわりさんみたいな人までいた。 今となってはこんなやられ方が懐かしい。