になりました」と言い、弟さん夫婦といっしょに頭を下げられた。酸素カテーテルを抜き、 酸素コルべンのコックを閉めると、ボコボコという酸素の音がやんで、静かだった夜中の 、っそう静かになった。心電図モニターの電極をはずして病室を出た。一日のう 病室が、し ) ちでもっとも人影の少ない時間帯だった。廊下にはだれの姿も見えなかった。 詰所でカルテに死亡されたことを記録していると、面会室の電話のまえで話している さんの奥さんの声が聞こえてきた。 「あんなあ、いま、おとうさんが、ようなかっただが : おそらく、東京にいる自」子さんに話していたのだろう。「ようなかった」という言い方 にやわらかな響きのする悲しさを感じた。 肺線維症 さんは終戦でポルネオから帰ってきたあと、地元の製紙会社で働いた。会社が火事で 焼けたあと、飲料水をビンに詰め込む機械を製作する会社にかわり、機械の修理を依頼さ 日れると修理道具のはいった重いカバンを持って全国を走り回った。しばらくしてその会社 のもつぶれ、あとは細々と飲料機の部品を注文に応じて修理し送って暮らしをたてていた。 じんばい 病だから塵肺や珪肺のように汚れた空気を吸って労働していたわけではなかった。 せき 咳がよく出て、ちょっと動いても息苦しいと いまから四年はどまえに、かぜをひいた。
と七〇。生命の維持が不可能になった証拠だった。国道二十九号線を走っている車もほと んどなかった。県庁前の信号も青だった。車を病院の玄関に横付けして、医局にかけ上が ジャンパーを脱ぎ、白衣をひっかけながら病室へ急いだ。 真夜中の死 病室のドアをあけた。ドアの近くに電話をかけた看護婦さんが立っていた。ただ、立っ ているだけだった。さんのべッドサイドには、奥さんとさんの弟さん夫婦がいてさ んを見つめている。病室の蛍光灯は消され、べッドランプだけがついていてさんを照ら していた。 カカく 呼吸数はみるみる減少した。下顎呼吸だった。元気だったときに聞かれた吸気時のザー ザーという異常な肺音さえ、もう聞かれなかった。 一分間に五回、そして二回と落ちてい った。頸動脈も触れなくなり、顔も手も冷たくなった。べッドランプを隅にやって、ペン ど、つ一 : っ ライトの光を瞳孔に当ててみた。瞳孔は散大し、対光反射はもうなくなっていた。もう一 度聴診器を胸に当てた。ひとつの呼吸音も、ひとつの心音も聞こえない。 心電図モニター の記録用紙を看護婦さんが持ってきた。もう基線だけになっている。 「〇〇〇〇さん、昭和六十三年一月二十二日、午前二時五十分に、亡くなられました。長 い間の闘病と看病、ごくろうさまでした」と一一 = ロい 一礼した。奥さんが「いろいろお世話
夜中の解剖 午前一一時半 枕元の電話が鳴った。「六病棟からです」。キョロキョロと部屋の時計を探す。二時半だ。 「さんの呼吸数が一分間に一八回です。プルスレイト ( 脈拍数 ) も七〇です」。いけない な、と思い、「わかった。行きます」とだけ言って電話を切る。ドアをふたつあけて台所 に行く。台所の椅子にシャッとズボンがひっかけてある。くっ下は椅子の下にころがって っ下は裏表、右左をか 、る。バジャマを脱ぎ捨て、急いでシャツを着、ズボンをはく。く まわすにはく。ドアをあけ玄関に出、そこのハンガーにつるしてあるジャンパーをひっか 日け、ネジ式の鍵をあける。車のドアをしめて病院に向かう。 の呼吸数は一八回、脈拍数七〇回、いすれも正常値だ。しかしさんにとってはそうでは なかった。元気なころのさんは、少し動いたあとだと、呼吸数は六〇、脈拍数は一三〇 になった。確かに苦しそうだったけど、それだけの数で命を支えていた。それがいま一
祐遠足や運動会は小学一年生のとき以来、久しぶりのことだった。 e 君にとって一番うれし かったことは、自分のほうからだけでなく、むこうから話しかけてくれることがスクーリ ングなどであるようになったことだという。「体が大切だから無理するなよって、友だち が励ましてくれましたもんね」と言う。「そんなことって、ほんと、おれの人生っていう おおげさ と大袈裟だけど、なかったんですよ。おれ、やつばり、学校って好きでしたね。知らなか ったことを教えてくれるでしよ。できなかったことができるでしよ。友だちもできるし。 病気だったからっていうこともあるけど、ほんと、学校に行きたかったですよ」と一 = ロう。 彼は病室から教室のほうをすうっと見ていたのだと思う。見続けてきたのだなと思う。 病室から見ると、教室はやはり輝いている。教室から見ていると、見えないものが、病室 からはきっと見えるのだろう。ばくもばくの学校生活を振り返ってみて、「友だち」がい つもいたこと、そのことが一番大切なことのように思えるし、君の思いを聞かせてもら っても、やつばりそうなんだな、と思う。 そしてもう一度、ジョン・ ーニンガムの簡単な絵本『がっこう』をめくってみる。
たけど、やつばりしないといけませんか」と君は不安そうに尋ねる。「決心してもらう よ」と答える。消化管出血や肺血症を克服して、おちついた透析が行なえるようになった ころ、君は自分にとっての学校について話してくれた。 君は七歳のときにネフローゼ症候群にかかり、入院生活を始めたらしい。病気が落ち 着かず、瀕死の状態になったこともあったそうだ。入院中、算数を教えてくれる看護婦さ んがいて、勉強がおもしろく思えだしたという。 「長いこと学校に行ってないでしよ。すると、勉強したいなあって思うんです、子供なり に。知らないこと知りたいなあ、もっと勉強したいって思いましたね。白い部屋で一日中、 天井見て過ごす日々って、ほんと退屈ですよ」 それから君は養護学校のある、遠くの病院へ転院する。おなじように慢性の病気をか ・ ) うげん かえる子供たちといっしょに勉強をする。「つぎはおれかな、と言いながら死んだ膠原病 の友だちがいました。何も言ってやれすに部屋を出て、それが最後になってね。ほかに何 人かの養護学校の友だちが死にましたね。つぎは自分かもしれないって、ばくだけじゃな 日しに、みんなが思ってたと思いますよ」と君は一一 = ロう。子供のころからいつも死がそばに のあったのだそうだ。 病 もっと勉強したいと思って、彼は通信教育を受ける。病気が悪化したりして中断しなが らも、スクーリングに参加する。友だちができ、人生のことなどを話し合えるようになる。 ひんし
題を論じた三年生たちでなく、一年生のばくが優勝した。一年生の友人たちが「よくやっ た」と言って、喜んでくれた。 小学校、中学校、高等学校のころをふり返ってみて、そんなことを思い出した。なっか しく思い出されるのはいったいなぜだろうか、と思ってみる。 君の学校 小学校から高校までの学校生活の思い出を書いたのは、君という患者さんが入院した からだった。ある日、「小学生のころからネフローゼ症候群で何度も入退院をくり返して とうせき いる患者さんなんだけど、腎機能が悪化して、そろそろ血液透析が必要と思うのでよろし く」と言われて、二十四歳の君を紹介された。 入院した翌日、君が便所のまえでうすくまり、冷や汗をかいているのを見つけた。あ わてて胸部レントゲン写真を撮ると、とうとう肺水腫をおこしていた。緊急透析のために、 太い静脈の確保が必要だったが、 e 君は長年にわたってステロイドを使用してきたので、 もろ 血管も探しにくかったし、見つけてもとても脆かった。・ とうにか太いカテーテルを静脈に 留置し、夜中の緊急透析となった。若い生命が危機を迎えると、こちらも緊張する。透析 が始まって三時間、君の息づかいが静かになる。看護婦さんもばくも「よかった」と安 心する。そして夜明けを迎える。「まえまえから、いずれは透析だぞって言われてきまし
え体力をつけるということは戦争で人を殺すことにつながり、悪いことなのかと思ってし まった。高校時代でもっとも後悔するのは、体力と戦争を結びつけて話したこの教師のこ とばを批判的に聞き、短絡的に片づけたことだった。もっと違った言い方で「体力」につ 、て語ってくれる教師がいてほしかった。「体力」はほんとに大切なことなのだから。 その教師もばくらの病院に入院されていた。末期のころにあいさつに行くと、「はい、 。し」ばかりだった。戦場のなかにおられるのかもしれ 。し」と、何を一言っても「ま、 ないと思った。亡くなられた。 高校時代で思い出すのは弁論大会のことだ。 高校一年生のとき、ばくは友人とポートの浮かぶ池がある公園に行った。夕暮れになり、 帰ろうとすると、市内の工業高校生四、五人に取り囲まれ、「ちょっと百円貸してくれよ な」と恐喝された。みるからに不良つばかった。恐る恐る百円を出し、「いっ返してくれ ますか」と聞いた。「来週の月曜日の五時、大丸 ( デパート ) の屋上に来い」と奴らは答え た。そのころ大丸は、月曜日が定休日だった。そう一一一一口うと、「やかしいつ」と言い捨てて、 日奴らは池のむこうへ逃げていった。百円をとられたのが腹だたしく、友人と公園の入口に のある大きな木に隠れるようにして奴らがおりてくるのを待ったけど、まっ暗になっても奴 病らはその道からはおりてこなかった。別の山道をおりていったのだろう。 まじめ その話を弁論大会でした。みんなが大笑いし、真面目な顔で聞いていた。政治や社会問
夏が終わって、校内のマラソン大会があった。バスケット部、野球部、陸上部のみんな が校庭で練習していた。 走り始めてみると、けっこう楽に走れた。しばらく走っていくと、だいたい 知っている 顔ぶれになっていた。バスケット部の面々がかなりとばしていた。ひとり追い越し、もう ひとり追い越した。追い越すときに「ファイト ! 」とリポビタンの宣伝ではないが声を さんさろ 出すと、五、六歩、足が自然にまえにでた。三叉路を過ぎて一直線になったところで、二 年生のバスケット部員を追い越すと、もう、まえにはだれもいなかった。ばくはマラソン 大会で初めて優勝した。ゴールに立っていた先生たちも驚いていた。「よくやった」とほ めてくれるまえに、「大丈夫か、無理するなよ」と言われた。中学三年間のなかで、この ことが一番印象に残っている。 高等学校のこと いんろう 高校にはいると、大学受験が水戸黄門の「これが目にはいらぬか」という印籠のようだ った。新聞部にはいって、受験教育を批判する論調のものを書いてはにらまれた。 「勉強ばかりじゃいけんそ」と生徒をまえにして、ある教師が言ったことがあった。耳を 傾けると、「まず体を鍛えておかないといけない。中国と戦争をしたとき、この体力がい かに大切であったかとっくづく思った」と、その教師は言った。そのときばくは、体を鍛
こっ 骨を骨折した。体力もなかったし、卓球部にかわった。真夏でも暑い体育館で、一生懸命 ーの葉の上にねころんだ。 練習をした。練習がすぎたのか、よく鼻血がでた。外のクロー じんえん 中学二年の夏、腎炎で二回目の入院をした。病院の廊下のつきあたりのドアをあけると、 学校が見えた。体もだるかったし、そんな気分で病室の天井を見ていると、ひとり病院に とり残されるような気がした。友人たちは学校の帰りにプリントなどを持って、病室に寄 ってくれた。退院が近づいたころの土曜日の午後、中学校の体育館に顔を出してみた。卓 球の練習をしていたので、少しさせてもらった。フラフラッとして汗ばんだ。何かたより なかった。そのたよりない感じを、いまもときどき思い出す。病院を退院し秋を迎えると、 元気を取りもどした。 三年になって、野球部は市の大会で優勝した。ジャーナリストの君がキャプテンだっ た。ばくらの卓球部も北中学を破って優勝した。個人戦でも一位、二位、三位を独占した。 ばくは三位だった。野球部は県大会でも優勝した。ばくらの卓球部は三位にくい込んだ。 最近にない成績だと、顧問の先生も喜んだ。なんとなく活気があった。 夏の夜、ばくは兄と病院や県庁のまえを通ってぐるりと一周するコースを走った。はじ そのあとはばくのほうが勝つようになった。ちょうどエチオ のめの何回かは兄が勝ったが、 はだし 病 ビアのアベべ選手が裸足で走って、オリンピックで優勝したころだったので、ばくも裸足 で走った。ジャリ道は、手に用意していたワラ草履をはいて走った。
しに行ったその山の一角に、貯水池からの水をひき、その落差を利用して市内の家々に配 水している水道山というところがある。ばくらはその水道山に登って、落胆しながらポソ ポソと話をした。 のうしゅよう 橋本君のおかあさんはそのころ、脳腫瘍で大きな手術をしたあとだった。彼のかかえる 困難のほうがはるかに大きいなと、そのとき思った。橋本君はいま産婦人科医だ。去年の 夏、ばくの病院を訪ねてくれた。十年ぶりだった。病院のとなりにあった小学校も引っ越 くすのき していて、広いグラウンドだけがあった。そのグラウンドの隅に数本の楠が残っていた。 ソフトボールをするとき、その楠の立っているところがホームペースだった。六病棟のべ ランダから橋本君と楠や水道山を見渡した。 担任は怖かったが、級友たちはいい人が多かった。いまはジャーナリストになっている 君は、どこに目があるのかわからないくらい細い目をしていたが、何か安心感を与える 存在だった。級友の人柄がお互いに大きな支えだったのだろう。 中学校のこと 中学校は小学校のとなりにいっしょに建っていた。門 ロ題をまちがえると、思わす頭を十 ペんたたきそうだったが、もう竹も「頭、十ペん ! 」もなかった。小学校に比べて違って いるのはクラブ活動だった。野球部は人気があり、野球部にはいった。夏休みのまえに鎖