のうばん せんか、なあ看護婦さん」と O さんは膿盆に血を吐きながらたすねる。おなじ信仰を持っ 看護婦さんが、まるで子供をあやすように、「死なれんで、大丈夫だけ。上手に手術して かあさるけえ。、い配せんでもええで」と言い、背を抱くようにしてさする。 午後の手術室である。すりガラス越しに光がはいる。照明が視野を照らす。廊下に、き れいな音楽が流れていて、緊張した心がリラックスする。ナースの動きはてきばきとして いる。 O さんの胃には三〇〇〇グラムの血液と凝血塊があった。手術は無事に進んだ。血 圧もうまくコントロールでき、尿量も十分だった。やれやれと思った。 O さんとおなじよ うな人がつぎにきたとき、 O さんの経過をスライドにして説明し、納得させるしかないと 思った。自己決定権ということばのむずかしい面を経験した気がした。それにしても、 わ 「死なれんで」と耳元でささやいた看護婦さんの力は、一体どこから湧くのだろうか、と 思った。 午後にもいろいろなことが起こっている。五月の午後のことを書いてみた。
い綿毛のような穂を出して群生するツバメという雑草もなっかしかった。なっかしさを覚 えながら、五月の午後を車で走った。 死なれんで 「先生、こらえてな。わがまま言って。ようわかりました、ほんと。手術してもらってく だき、い こらえて、こらえて。でもこの体で、手術に耐えられるでしようか」と一言いなが ら、何度も O さんは吐血する。血圧はさがり、脈も微弱になっている。麻酔医・外科医が 対診し、午後からの緊急手術の準備をすすめている。輸血は朝から十本を落としているの っこうに血圧もあがってこない。 力い・よっ すいぞうせんつう O さんは一か月まえに胃の巨大潰瘍で入院してきた。膵臟へ穿通しており手術をするし と言うと、「精神科に通院している息子がいるので、自分が手術を受けたりする 心の余裕がない。自分の信仰で治してみせる」といって手術を拒否したのだった。この状 態で手術を受けないというのは、医者としては考えられない選択だ、死につながる、もう 日手術をしないのなら退院してもらうしかないと脅迫すると、 O さんは「わかりました。明 の日、退院します」と言って退院していったのだった。 そして一か月たち、開業医さんからふたたび O さんが紹介されてきた。 O さんはしつこ 4 い腹痛を訴えていた。そして入院して三日目に大量の吐血が始まったのだった。「死なあ
五月の日曜日の午後、ばくは久しぶりに「自転車道」を走った。自転車でなく車で。も ちろんアスファルトで舗装されている。まわりの畑にはタバコやトウモロコシ、それにイ チゴが植えてあった。山のふもとの集落に行った。先生の住んでいた村のひとつむこ うの村だった。細い道を曲がりながらあがると、さんの家があった。「まあ、先生、わ ざわざ」と言ってさんの兄夫婦が出てきた。大きな仏壇があって線香をあげた。亡くな ってから一か月が経っていたので、家族の人たちの表情は落ち着いていた。 「先生もこのあたりで大きゅうなられたんでしよ。妹は山のふもとの小学校に通っとっ たんですが、病気が始まって、病院を転々としましたからねえ。勉強は好きだったし、わ しらあよりはようできたんですけどね。学校の友だちも、もうほとんどおらんし、妹が家 におるのは、ほんのちょっとの間だけでした」と兄さんは言う。 さんは四十四歳で亡くなった。「家に帰りたい」とよく言っていた。週刊誌のクイズ が好きで、ときどきいっしょに問題を考えさせられた。よく当たって、もらった賞金でお 菓子を買ってはみんなにプレゼントしたりした。病状が悪化し動けなくなると、ほとんど しゃべらなくなった。家族の人に励まされ、「がんばる」と言えたころもあったが、精根 つきはててふたたびしゃべれなくなった。そして聞こえないくらいの小さな声で、「先生、 もういい。死なせて」と言った。 さんの集落も山も「自転車道」も、そして、そこを横切る線路や、線路にそって白
昼寝をしているのだろうか。廊下にも面会室にも人影がなかった。てるじいさんだけが 車椅子にポツンとすわり、面会室でタバコの煙をくゆらせていた。ばくの顔を見て言った。 「あんなせんせ。あのもんだが、なんとかなりませんか、なにが、あのう : : 」。言わない といけないことが核のようにしてありながら、じいさんはなかなかそのことにおよび届か ない。「あのもん、この足の痛み、胸の病気から来とるんでしよ。このけつばたの痛いの も。この痛み、なんとかならんか。なんそ治す方法ないか」。「むずかしいかもしれん。肺 の病気もややこしいし」と答えると、「いけんがな、それじゃあ。よっしやまかせとけ、 じきに治るけって言ってごされにや。そうでなけらにや、わしもたすねようがないが冫 るのを楽しみにしとるですけえな、よっしゃあって言ってごされにや。頼みますで」と言 って、目に涙を浮かべる。そしてまたタバコを一本取りだし、火をつける。五月の午後の ロビーに、てるじいさんのタバコの煙がゆっくりと流れている。 死なせて じゃり 子供のころ、道はコンクリートでもアスファルトでもなく、よくて砂利、ふつうはただ の土だった。ところどころにくばみができ、そこに雨水がよくたまった。その道を町へ行 くバスが通り、材木を積んだ荷馬車が通り、廃品回収業のリャカーが通った。自家用車を 持っ家は、ほとんどなかった。、 ノ百屋さんが町の市場から魚や野菜を仕入れてくる三輪ト
っさっと殺せ、殺せ、殺したらええがな」と大きな声をあげた。少しは効いてきたのか、 しやが 嗄れ声だった。「この検査はどうしても必要。検査が済んだら、タバコ一本吸っていいか ら」と一言うと、「タバコちゃなもん、何本でも吸ったる。退院したら、何本でも吸ったる けえ」と機嫌が悪い。プロンコファイバーを声帯のむこうに挿入すると、強い咳の発作が 生じた。「だめだめ、ファイバーを抜いちゃあ。もうちょっとだから」。てるじいさんはフ アイバーを引き抜きそうだった。急いで気管支を見ていく。腫瘤は見えないが、気管支が 圧迫され、細くなっている。「。フラッシング」と言うと、看護婦さんが小さなハケのつい た長い針金を渡してくれる。一か所をこすり、細胞を採取し、検査を終えた。じいさんは 怒っている。 こつばんようつい できあがった骨シンチフィルムをみると、骨盤や腰椎に広く転移している。左足が臀か ら足先まで痛むのもそのためだった。大量の塩酸モルヒネを処方して飲んでもらっている。 回診のとき、じいさんはべッドサイドをつたうように歩いていた。「きようはよう歩った け。そろそろタバコ ( 休憩 ) しようかと思っとるところだ」と一言う。「そのタバコなら何本 日でもええよ」と答えると、「先生、ほんとのタバコは一日に何本までだったらええな」と のたすねる。「 0 本。 0 本なら吸っても、 しい」と答えると、「そりゃあ無理だ。一本減らして 十九本はいけんか」と問いかえす。「ええい、あいだをとって十本 ! 」「よっしや、なら、 先生十本。でも、守れるかな」などとお互いに言って、遊んだ。
外科病棟から内科病棟に変わり、一階から六階まであがってきてもらったものの、結局 しゅん は何もしてあげられなかったという気がした。旬のアゴ竹輪を一本だけ差し入れしたこと を思い出した。「おいしゅうござんしたで」と一一一口ったのは Q じいさんではなく、じいさ んの妹さんだった。「何も食べれんで、アイスクリームだけ一口食べました」と、おばあ さんにかわって看病に来ていたその妹さんが言った。 「ほんとにお世話になりました」とトレーニング・ウェアの孫娘も頭をさげた。孫娘はこ の病院で働く看護婦さんだった。看病で疲れのでたおばあさんを看護婦寮の自分の部屋に ながいす 泊め、自分がおじいさんの病室の長椅子に寝てたりした。「あんまりしゃべらんけど、 いおじいさんでした」と一言う。酸素カテーテルをはすし、糸で固定していた点滴チュープ をハサミではすす。「あとで、いっしょに死後の処置を」と病棟の友だちの看護婦さんが うなず 声をかけると、孫娘は「了解」とばかり頷く。 カルテに記録をし、死亡診断書を書きながら思い出すことがあった。二週間くらいまえ のことだった。「はんとによくしてあげられますね」と連れ合いのおばあさんに声をかけ 日た。するとおばあさんは、「この人はほんとに苦労ばっかりしてきて、ええこたあひとっ のもなかったですけえなあ。せめて看病くらい一生懸命してあげようって思ってです。わし 病にできるのは、それくらいのことですけえ」と一言うのだった。そしておじいさんの苦労を 7 工自した。
五月の午後 よ , つも杁き、ず , に 日がのばり、日が沈む。日が沈み、夜が訪れ、夜が明け、そしてまた、日がのばる。病 室はその間のすべての時間を経験している。夜、夜中、夜明けの病室でのできごとは、た ーし しかに数も多いし、印象的に思える。闇のなかで記憶に深く刻まれるのかもしれない かしできごとは、ほば平等にあらゆる時間帯に生じる。午後という時間帯は夜明けの感動 からは遠く、また夜という闇の世界ともちがう。ある落ち着きをもって日没に向かってい あんど るという安堵の時のようにも思える。そんな安堵の午後にも、いろいろなことに出会う。 がん 五月のある日の午後、三年まえに胃癌の手術を受けていた八十歳のさんが亡くなった。 一週間まえに家族の人たちに、「もういけんだろうで」ともらしていた。「ありがとござん したなあ。いろいろとみなさんのお世話になりました」と連れ合いのおばあさんが頭をさ げた。おばあさんの目のまわりにくまができ、少し落ち込んでいた。 やみ
して言ってなあ。『なに、弱気なことを言っとる。はようすすむ先生のところに出て、ま た治してもらいんさい』って一一 = ロったけど、顔色もようなかったし、ほんとにいけんかもし れんなあってそのとき思ったなあ」と寺本のおばさんは、三か月まえのことを思い出す。 「二週間まえ、見舞いにいったとき、かん詰めの汁ならすえるかと思ってもって出たら、 とっても喜んで。ふたりで手を取りあって喜んで。でも、ほんにさみしいな。もう、こう してお茶いっしょに飲むちゅうことができんだけなあ」。寺本のおばさんは悲しそうに一一一口 時計が夜の十時を打ち、ばくは金物雑貨屋を辞した。街道筋にあった写真館や菓子屋や 豆腐屋はもうなくなっていた。かわりに駅前通りや国道バイバスに、スー ーや新しい店 が並んでいた。町もゆっくりと変わっていっていた。帰りの車のなかで、散髪屋のおばさ ん、ほんとによくがんばったな、立派だったなと思った。ぜんぜんカまず、自然なやりと りのなかで静かに死を迎えた。だれにでもできることではないのに。 ばくを医者として見るというより、散髪をしている子供として、またお使いをしている 子供として見ていたのではないかと思う。死を防げなかった医者を責めるのはよそうと思 のってくれたのではないかと思う。おなじ田舎の子供なのだから、と。 病 散髪屋さんの大きなだちんだと思った。
った。ネズミ取り器、ホウキ、ハタキが天井から。フラ下がっていた。カマドの金輪もプラ 下がっていた。七輪もあった。 「うちは昔と同じもんをいまも売っとる。わざわざ買いにくる人があるで。ひとり暮らし だけ、こうして品物並べて、ポツリポツリ来るお客さんと話しとるのが一番ええ」と寺本 のおばさん。「あんた覚えとりんさるかな。正月に、お姉ちゃんやお兄ちゃんはどこかに よばれとるのに、すすむちゃんだけがどこからもよばれとらんっておかあさんが言って来 んさって、それでおばちゃんのうちに正月ごっつおを食べに来たのを。ごっつおはなかっ たけどな」。思い出せなかったが、そういうことはあったかもしれないと思った。「それ、 食べて」と寺本のおばさんは言い、 ばくは羊かんをよばれる。おばさんは抹茶を立てる。 そういえばこの部屋に座って、聖書の読書会をやっていたのを思い出した。確か、ばくは おやつを握って退屈そうにし、終わるのを待っていた。 「まえの散髪屋のたみ江さん、ようここに来て、こうして二人でお茶飲んで、世間話して な。今年の六月の終わりに腹が張るって言って、わしもちょうど座骨神経痛で、ふたりと も入院することになって、お互いに元気でなって言いあって。このときはたみ江さんもわ しも治って退院して、よかったよかったってここでいっしょにお茶飲んでなあ。でも、 月の盆がすんでから、『おばちゃん、どうもまた腹が張るわいな』って言ってきてなあ。 『なんだあ、もうよう治らんような気がする、死ぬような気がする』ってさーみしげな顔
じさんはワイシャツを肘のところまでまくりあげていた。おじさんの手は太く、生き生き としたピンク色をしていた。静脈がたくましく怒張していた。おばさんの腕は細く、シワ がより黒褐色だった。血管は虚脱していて見えなかった。終わっていく手だった。二本の 腕はサイドレールのむこうで鮮やかで悲しい対照を見せていた。 下顎呼吸 夜の九時すぎ、ばくは病室にはいった。家族の人たちは体をさすり、「がんばんさいよ」 まくら と励ましつづけていた。ばくは枕元で「わかりますか」と少し大きな声をかけてみた。 まぶた おばさんは瞼をあけた。ばくは思わず、「よくがんばりんさりましたね」と言った。自然 にそう言ってしまった。一一 = ロったあと、こんなふうに一一一一口ってもよかったんだろうか、おばさ んはどう思っているだろうかと思った。わすかな沈黙があった。 一か月ほどまえのことを 思い出した。おばさんの病状は少し落ち着いていた。そのとき、「でも、ここまで、よう もったで」と笑いながら四人の大部屋で言った。「ようもったあ ? ようそんな冗談みた いなことを一言ってよう」とおばさんは一一 = ロって笑った。 目を閉じ、促迫した呼吸をしていたおばさんは、目をパチッとあけて、「先生や看護婦 さんのおかげです。ありがとうございました」と言ったのだった。なかなか言えないこと にいたべテランの看護 っしょに病室 ばをおばさんは言ったと思うと胸があっくなった。い