彼女は水商売をやっていて、ひとりの子どもが生まれたあと離婚して、自分ひとりでそ の子を育ててきたんですね。その娘さんが大きくなって、 、い人に出会って結婚したんで す。結婚するときにね、彼女は心のなかで、自分が離婚していること、そして水商売だと いうことを、娘にも娘の夫になる人にもすまなく思ってたんです。でも、だれもそんなこ と言ってとがめる人はなかったんです。彼女はうれしかった。そして孫が生まれた。「よ し、私が子守りしよう。それが恩がえしだ」と彼女は思ったんだそうです。娘も共働きで したしね。でも、そのとき、病気が進行してたんです。肝癌だった。 娘さんは仕事の帰りに寄ってくれてたけど、とうとう休職しておかあさんの看病をして くれたんです。いままでは彼女ひとりつきりの病室だったのに、もうひとり、娘さんがっ きっきりでいて、ふたりで最後の日々を暮らしたんです。 入院されてしばらくしたときに、「あなたにとって、いちばんたいせつな人は ? 」って 聞いたら、「もちろん、あの娘です」って答えられたんですね。だからばくは、できれば 言いちばんたいせつな人と最後の日々は過ごして欲しいって思ってたんです。 の とうとう最後のときがきて、そのかたも下顎呼吸をなさり、そして息をひきとられたん ら 蹴です。彼女と唯一、血のつながりを持ってた娘さんが、ばつんと地上に残されたんですね。 臨 でもそのとき、娘さんは少ししか泣かなかったですね。歯をくいしばって、悲しみをこら えてましたからね。
「小児科の先生や麻酔科の先生がいろいろしてくださっているのですが、命が危ないって おっしやってます」と一一 = ロって涙を目に浮かべていた。救急室に行ってみると娘さんは挿管 され、人工呼吸器を取り付けられていた。顔色は悪かった。 みと ばくは一年まえ、この娘さんのお父さんの死を看取った。五十 , ハ歳、胃癌だった。奥さ んが「私たち夫婦はお互いに何の秘密ももたずに生きてきました。ですから」とおっしゃ り、癌ということを知りながら闘病された。亡くなるとき、病室にはカラオケが大好きだ ったこの一家の歌声がカセットテープから流れていた。死の直前に奥さんが「こんどは娘 ほお たちの子どもになって生まれてきてね ノノ」と一一 = ロって頬をくつつけた。、、 こ主人は下請け の電気部品工場で働き、奥さんは夜、町の料理屋に手伝いにでていた。子どもは四人いて、 四人姉妹だった。 学校の参観日で、ばくはこの家族によく会った。長女か次女が、母にかわって出席して いた。あるときはプールでの水泳の授業でいっしょになった。ばくの娘も水を恐がったが、 その娘さんはそれ以上に水を恐がっていた。少しだったけど、ばくはその娘さんの手をと って自 5 ごらえしながら水に顔をつける練習をしようとした。娘さんは恥すかしかったのか、 室お姉ちゃんを求めて去っていってしまった。娘さんが救急室に運ばれたのは、それから十 病 か月くらい ~ 後のことだった。 ト児科病棟の観察室に移り、この病院でできるあらゆる治療がなされたが、病態は悪化 いカん
した。母と三人の姉たちがいた。親類の人たちがかけつけた。そして、その娘さんの学級 の担任の先生もかけつけていた。この家族はある信仰をもっていた。観察室にみんなが座 り、手を合わせ、声を出し祈った。担任の先生も目を赤くしてみんなとおなじように手を 合わせ、声を出し祈っていた。終わろうとしている小さい生命に対して、みんなが心から 祈っていた。 ばくも小児科の先生と交代で、この娘さんの心臓マッサージを手伝った。二十分ごとに 何回か交代でした。呼吸がとまり、心臟もとまった。でも、祈りの声はやまなかった。そ の声を聞くと心臟マッサージをやめるわナこま、ゝ しし。し力なかった。なんどか交代したあと、主 治医がその娘さんの死を告げた。 するとおかあさんが「べッドにあがってこの娘を抱いてもいいですか」と言った。許可 されるとべッドにあがり、その娘を抱きしめ、「えらかったな。い くちゃん」と言い頬す りをした。そして「お父さん、どうしていくちゃんだけ連れていくの、どうして」と泣き 叫んだ。担任の先生もポロポロと泣いた。 死は悲しい。子供の死はいっそう悲しい。子供を亡くした親の心を思うと心痛む。生命 にあふれた子供にもその終わりがあるのを教えられると、子供という生命体を大切に守り たいという気持ちが自然と湧く。
216 薬が効いたのだろう、ある日、「今日は楽です。咳も少ないし」と子さんは言った。「そ りゃあよかった。めいい ( 名医 ) ですね」とばくがいうと、子さんは、「この子はめい ( 姪 ) じゃなくて、娘ですよ」とべッドサイドの椅子に座っていた娘さんを指して言う。 名医と姪が混線してしまった。説明を聞いて、馬喰も娘も、そして子さんも笑った。 だじゃれ ことばのとちりも駄洒落もただのジョーク一つも貴重品だと思う。笑って病気が治るわ けでも、うつ屈した心が永遠の央晴に変わるわけでももちろんない。ただの一瞬のことに しか過ぎない。そうであっても、そこで笑えることは、救いだという気がする。子さん の部屋には、ふたりの娘と夫がいっしょに泊まっている。最後の日々を、昔とおなじよう に、四人水入らずで過ごしている。 集中治療室での笑顔 さんの奥さんに廊下で会い、外科外来のまえの椅子に座って話す。—oo ( 集中治療 室 ) の世話になって一週間が過ぎた。パ ラコート ( 農薬 ) による薬物中毒で、可能な限りの じん 治療を受けたが、肺・腎・消化管への病気の進行を防ぐことができなかった。ばくはうつ 病のさんを三年間、外来で診ていた。 「近くにス ー。ハーができるまでは、商売のほうも調子がよかったんです。人も五人雇って ましたし。昭和五十八年にスー ハーができ、そのころからしだいに元気がなくなりました。
別が怒りの大きな原因だった。それを二人の娘が受け止め、支えた。お母さんが元気だった とき、思春期やせ症にかかった下の娘は、母が肺癌になったとわかったとき、その病気か ら立ち直っていた。仕事が終わると病室にかけつけていた。そして暮れの休みにはいると、 終日、病室にいて母の看病をした。夜中、二人の娘たちが折れ重なるようにして眠ってい るのを見た。 「家に帰ってもだれもいませんし、それに市営住宅の階段は狭くて、棺が通りにくいです ので」。二人の娘は、おかあさんが亡くなったときにそう言った。そしてこの霊安室で除 うなず 夜の鐘の音を聞いた。「いえ、眠れました、ねえ」と二人は頷き合い、 一月二日の朝、母 の遺体を霊柩車に乗せ、霊安室のドアを閉めて出て行った。あれから一年か、早い、と思 ま、ってきた。 っていると、霊安室の重いドアがあいて、さんを乗せたストレッチャーが。し 解剖室にストレッチャーを入れ、二人の看護婦さんと三人で、解剖台に Q さんを移した。 「終わったら連絡してください」と看護婦さんは言い、 出て行った。ばくはさんにむか ってお辞儀をし、反対側の壁にぶらさがっている時計を見た。九時四十三分。時計は完全 に止まっていた。一年以上、止まったままだっただろうと思いながら窓の外を見た。まっ 暗だ。おそらく四時ごろなのだろう。そう思いながら解剖を始めた。 「すみません。遅くなりました」 胸部の皮下組織を剥離し、肋骨を切断したところで、病理検査技師の e 君がはいってき
118 そして連絡を受けて、娘さんのご主人がやってきました。朝の七時すぎでした。ばくら は部屋を出ました。そのとき、他の部屋にも、いや病棟中にも響くような、病室が割れる くらいの大きな泣き声がその部屋からしたんです。彼女、ずっとがんばっていたんです。 しゅうとめ 自分の子どもは夫と姑さんにたくして、ずっと母の付き添いをしてきた。とうとう、そ の母が亡くなった。自分をこれから助けてくれるのは、きっと、もう母ではない。夫でし よう。それから自分たちの子どもでしよ。その夫が、母が他界した直後にやってきたとき に、力いつばい泣かれた : 泣かれる声を詰所で聞きながら、ばくはこんなことを感じましたね。娘さんがおなかの なかにいたとき、息をしてくれたのは、おかあさんですよね。生まれ落ちて、自分も息を するようになって、そして、そのおかあさんが最後の息をしたとき、娘さんは、自分の息 を、また別の意味で始めたと思うんですね。そのきっかけが、泣くっていうことです。泣 くっていうのは、普通の息とは違った大きな息で、違った形の呼吸だと思うんですね。 そのようにして、ひとりの息が終わり、ひとりの息がバトンタッチされるようにして始 まっていく。 そういうような感じを受けました。「ひとりの息」っていう話です。
「このおじいさんは戦争中、南方に行っとりましてな。インドの奥のほうだそうですわ。 みなが捕虜になったとき、隊から離れてひとりでジャングルのなかをさまよったらしいで す。どこかの村のはすれにほら穴を掘って生活しとったら、村の娘がかわいそうに思って か、食べ物を運んでくれたんだって。うちのじいさん、鼻がスウーと高くて男前だろ。そ れでインドの娘も惚れただないか、って自分で言っとったわ。 うちらはもう死んどると思った。捕虜になった兵隊が日本に帰ってきたのに、うちのじ いさんは帰ってこん。帰ってきたのはすっとあとでした。きれいな、ええ娘だったらしい 結婚しようかと思ったんだって。 日本に帰ってからは、とにかく仕事、仕事。百姓を朝はようから陽がとつぶり暮れるま で。米作りに野菜に果物、そして乳牛。働いて働いて、また働いて。ふたりで苦労して。 そろそろのんびりして温泉めぐりでもしようかっちゅうときにこの病気で手術。ひとつも ええときがなかったわ」 Q さんはロを半分あけ、深い眠りについていた。食べれない日が何か月も続き、顔もや せ、高い鼻はヒマラヤの山のようにいっそう高くなっていた。 「おじいさんなあ、日本が金持ちになって、いろんな機械や電気製品があふれとるのを見 てなあ、あまっとるのをインドのあれやあに送ってやりたいって、しよっちゅう一 = ロいより ました。わしもそうしたげたいと思ったけど、どうやって送るもんだか知らんし、あて名
とを一言わんと」と、おじいさんの手の甲をたたかんばかりに言う。「知らんっちゃ」と、 てるじいさんはロ答えをする。「朝からこれですから」といって娘さんは杯を口にする仕 草をしてみせた。。 ' とうりでじいさんの顔は赤い。「ええっちゃ、そんなこたあ言わあでも」 と三度目のロ答えをして、届かない手を娘さんのほうに振る。「やってるの、朝から」と 聞くと、「えへへ」と笑い、一本の歯しかない両方の歯肉をみせた。 シャーカステンにぶらさがった胸のレントゲン写真の右肺は明らかに異常だった。含気 しゆりゅう が減り、無気肺を生じ、よくみると肺門部には腫瘤がある。「入院しましよう。入院して 検査しましよう」と一言うと、てるじいさんは車椅子のうしろを振りかえって、「なんだっ て」と奥さんのほうを見あげる。娘さんが耳もとで大きな声で「入院してって」と言うと、 「えへへ」と照れ笑いをし、「は、は、、 わかりました」と言い、車椅子を引くように指図 し、診察室を出ていった。 五月の午後だった。レントゲン室にてるじいさんとばくはいた。「大きな息をゆっくり くり返して」とばくは言う。気管支ファイバースコープ検査の前処置に局所麻酔のキシロ のど カインを喉の奥に噴霧する。なかなかうまく息ができない。アルコールをたくさん飲んで おうと きた人は、たいてい嘔吐反射が強い。「ゲーゲー」と言ってツバを吐きだす。「まだせにや いけんかいや」とじいさんは怒ったような目をして言う。だんだんと不機嫌になり、「な んでこんなもんせにやいけん。こがなえらいことするなら、殺したらええがな。さあ、さ
もようわかりませんしな。おじいさんも、確かあのへんだちゅうけど、あのへんじや郵便 だって届きませんもんな」と笑う。 「おじいさんも、おじいさんの兄弟衆も、うちの村の者らあも一 = ロうです。 " もしインド人 が日本の村に戦争中に来とったら、日本人はたぶん、殺してしまっただろう , って。でも、 インド人は見知らん外国人であるうちのじいさんを、ようも殺さずにおいてくれたなあっ て。ありがたいって。あの者らあは偉いって。なんば感謝しても感謝しきれんって」 「お茶でーす」という声が午後の病棟の廊下に響く。死亡診断書を書き終え、封筒に入れ る。日本の村で四十年働いてきた Q さんは、自分が働いている村が日本だったりインドだ ったりする光景のなかであの世へと旅立ったのだろう。地下の霊安室から、おばあさんに 抱かれてさんは家へと帰っていった。 殺したらええがな てるじいさんも百姓だった。左官もしたし、製材所でも働いた。酒もタバコも大好きだ 日った。呼吸器外来に、娘さんの押す車椅子に乗せてもらってやってきた。うしろにいた奥 せき のさんが「冬からの咳がとまらんです。近くのお医者さんが一度病院に出て検査してもらえ 病って。昼も夜中もせいてこたえんです」と言うと、「そがあにゃあ、でらへん」とロ答え をしてむくれている。カーテンのむこうにいた娘さんが、「いけん、いけん、ほんとのこ
水が出てきた。おばさんは入院した。入院して、蛋白製剤を補給し、利尿剤を使うと腹水 もひき、足の腫れもひいた。腹水細胞診では悪生細胞は見られなかった。食欲も回復し、 よくなって退院していった。、い配したほどのことではなかった。 衰弱 散髪屋のおばさんは退院して四十日すると、ふたたび腹が張ると言って外来にやってき しゅよう た。前回よりおなかは大きくなっていた。 入院してもらった。今度は腹水細胞診で腫瘍細 はしゅ 胞が見えた。腹膜に播種状に転移しているようだった。胃ファイバースコープでは、胃の りゅう なかはきれいだったが、肝硬変のために食道静脈瘤が紫色をしてコ・フのように腫れてい た。そのことを散髪屋のおじさんに話した 「ええ、覚吾はしています。よう、ここまでもったと思っとりますので」とおじさんは言 蛋白製剤も利尿剤も効果がなかった。そのうち、おばさんの手がふるえだした。血中ア せんし 、 4 くく、つ 日ンモニアが高値になっていた。腹水穿刺をした。二六〇〇 8 抜き、そのあと抗癌剤を腹腔 の内に注入した。抗癌剤が効き、腹水はしばらく溜まらなかった。落ち着いた日がつづいた。 病 四人の大部屋も明るかった。「この娘が嫁に行くまでは、がんばらんといけんですけえ」 四とおばさんは言った。一・番下の独身の娘さんがおばさんの世話を一生懸命にしていた。 たんばく