小学校 - みる会図書館


検索対象: 病室から
37件見つかりました。

1. 病室から

題を論じた三年生たちでなく、一年生のばくが優勝した。一年生の友人たちが「よくやっ た」と言って、喜んでくれた。 小学校、中学校、高等学校のころをふり返ってみて、そんなことを思い出した。なっか しく思い出されるのはいったいなぜだろうか、と思ってみる。 君の学校 小学校から高校までの学校生活の思い出を書いたのは、君という患者さんが入院した からだった。ある日、「小学生のころからネフローゼ症候群で何度も入退院をくり返して とうせき いる患者さんなんだけど、腎機能が悪化して、そろそろ血液透析が必要と思うのでよろし く」と言われて、二十四歳の君を紹介された。 入院した翌日、君が便所のまえでうすくまり、冷や汗をかいているのを見つけた。あ わてて胸部レントゲン写真を撮ると、とうとう肺水腫をおこしていた。緊急透析のために、 太い静脈の確保が必要だったが、 e 君は長年にわたってステロイドを使用してきたので、 もろ 血管も探しにくかったし、見つけてもとても脆かった。・ とうにか太いカテーテルを静脈に 留置し、夜中の緊急透析となった。若い生命が危機を迎えると、こちらも緊張する。透析 が始まって三時間、君の息づかいが静かになる。看護婦さんもばくも「よかった」と安 心する。そして夜明けを迎える。「まえまえから、いずれは透析だぞって言われてきまし

2. 病室から

ラックを持っていたのと、そのころは電気釜が普及しはじめたころで、電気店があちこち の家に電気製品を配達するための荷台つきの車を持っていた。みんなの家にあったのは、 農家なら大八車かリャカー、そうでない家には自転車くらいだった。 自転車も大人用や子供用、男性用や女性用、サイクリング用などの区別があるわけでは なく、色も黒一色で頑丈な荷台のついた実用的な形のものだった。子供が自転車に乗るた めの練習をするのは、小学校は遠かったし、中学校は高い所にあったりして不便だったの で、線路のむこうにある道が一番よかった。この道はめったに車が通らなかった。「よっ しや」と言って、小学生の高学年生や中学生が押していた手を放すと、横乗りしかできな い低学年生が一生懸命こぐのだった。「ギィーツ、ギィーツ」と。フレーキをかけ、バラノ スを失い、自転車といっしょにころぶと、手や足に擦り傷がいくつもでき、皮膚についた 灰色の土の上を血が流れたりした。 「自転車道」のむこうに山という山があり、「自転車道」は山のふもとの集落へと続 いていた。点在する集落のひとつの村から、重い自転車をこいで小学校に通う先生があっ 日た。先生で、ばくの兄や姉の担任だった。兄や姉もかわいがってもらっていたし、先 の生は多くの生徒から慕われていた。「自転車道」ですれ違うことがあった。先生は日に焼 ニコッとした。そして、山のふもとのはう 病けた顔をしていた。「気をつけよ」と言い にむかって自転車をこいで行った。数年まえ、先生が病気で死んだと聞いた。

3. 病室から

しに行ったその山の一角に、貯水池からの水をひき、その落差を利用して市内の家々に配 水している水道山というところがある。ばくらはその水道山に登って、落胆しながらポソ ポソと話をした。 のうしゅよう 橋本君のおかあさんはそのころ、脳腫瘍で大きな手術をしたあとだった。彼のかかえる 困難のほうがはるかに大きいなと、そのとき思った。橋本君はいま産婦人科医だ。去年の 夏、ばくの病院を訪ねてくれた。十年ぶりだった。病院のとなりにあった小学校も引っ越 くすのき していて、広いグラウンドだけがあった。そのグラウンドの隅に数本の楠が残っていた。 ソフトボールをするとき、その楠の立っているところがホームペースだった。六病棟のべ ランダから橋本君と楠や水道山を見渡した。 担任は怖かったが、級友たちはいい人が多かった。いまはジャーナリストになっている 君は、どこに目があるのかわからないくらい細い目をしていたが、何か安心感を与える 存在だった。級友の人柄がお互いに大きな支えだったのだろう。 中学校のこと 中学校は小学校のとなりにいっしょに建っていた。門 ロ題をまちがえると、思わす頭を十 ペんたたきそうだったが、もう竹も「頭、十ペん ! 」もなかった。小学校に比べて違って いるのはクラブ活動だった。野球部は人気があり、野球部にはいった。夏休みのまえに鎖

4. 病室から

百屋にも同級生がいた 古谷散髪屋 少し行くと、中学校の入口があり、そのまえに本屋があった。あまり長い時間立ち読み していると、本屋のおやじさんのハタキが本に当たって立ち読み中止となった。斜めまえ が米屋、そこで店屋は途絶え、ポツンと写真館があり、それからまたしばらくしてから金 物雑貨屋があった。雑貨屋にはよく太った寺本のおばさんがいた。寺本のおばさんは早く ご主人を亡くしていて、店をひとりできりもりしていた。「ハエ取り紙ください」と言う と、「すすむちゃん、お使いか、かしこいかしこい。家の手伝いする子はおばちゃん大好 きだ」と言って、だちんにノートや鉛筆やお菓子をくれた。だちんが楽しみでその雑貨屋 にはよく一打った。 雑貨屋のまえが矢谷君の家で、電気屋だった。矢谷君の家で遊ぶのは楽しかった。矢谷 。しししよ」とおかあき、 君のおかあさんはいつもおやつを作ってくれるからだった。「ま、、 んが台所で言うと、二階にいる矢谷君がひもを引っ張り上げる。すると箱がついていて、 そのなかに焼きたてのホットケーキのようなものがはいっていたりするのだった。どの家 より豊かに見えた。矢谷君はばくが小学校三年で鳥取の町に転校したとき、珍しいシャー せんべっ プペンを餞別にくれた。

5. 病室から

町の小学校 「田舎の学校でようできても、町の学校でもようできるかどうかは、わからんそ」と言わ れて、頭を竹の棒でたたかれたとき、いままでと違う学校が始まると思い、緊張した。た だ忘れ物をしただけだった。忘れ物をした五人くらいの生徒が教室のうしろに並ばされ、 順番に竹の棒で頭をたたかれるのだった。この教室には不思議な作法があった。「この問 題が解けたのはたった三人か。よし、拍手」と一言うと、みんなが三人に向かって拍手をし た。「できなんだもんは、頭、十。へん ! 」と先生が言うと、生徒が自分で自分の頭をコン コンコンと教室に響くほどの音をたててたたくのだった。いい音がして痛くないたたき方 を、みんながそれそれ研究していた。 ぞうきん 「こわい学校だね」と、板の廊下を雑巾でふきながら、おなじときに編入してきた木村君 に舌した。木村君は市内のほかの小学校から転校してきていた。木村君は「うん」と言わ なかったが、一週間すると学校に来なくなった。そしてまた、転校していった。高校一年 生の夏、海で溺れて死んだ高校生の記事を新聞でみた。それが木村君だった。 。糸たったが、二組はなんとなく品があり、女子生徒も少しかわいいように思え た。二組の先生は竹でなく、下じきでたたくらしいと聞いた。 級友が持ってきた花の名がわからないと、「頭、十ペん」とか、「頭、二十ペん」だった。 おば

6. 病室から

、あレ、がキ、 病院のとなりに鳥取大学の付属小・中学校が建っていたころ、夕方の五時を過ぎると、ば くは息子に電話をかけた。そのころ、別の小学校の三年生だった息子は、グロープとポール とバットを持って、トボトボとグラウンドにやってきた。ばくは病室を出てグラウンドへお りて行った。そして白衣を草の上に置いてグロープをはめ、キャッチボールをした。自」子は フニャーとした球を投げた。ばくも息子がっかまえやすいようフニャーとした球を投げた。 大きなくすのきが五、六本並んでいた。ばくがこの小学校の生徒だったころ、ホームペ ースをくすのきの近くにして、ソフトボールの試合をよくした。三塁線がくすのきに並行 してあった。自 5 子はバットを持ち、くすのきの近くに立った。から振りを繰り返し、そし てたまに、ポールがバットに当たったりした。ポールはばくを越え、はるかかなたへ飛ん でいった。グラウンドは広びろとしていて、どんな遠くに飛んでいっても、端から端の五 分の一も飛ばなかったけれど、ばくは喜んでポールの後を追っかけた。病室にはない楽し とさだった。 あ 日が沈んでしばらくすると、西の空が急に明るくなった。「じゃあ」と言うと、息子は 「 , つん」と一言ってグロー。フとポールを持ち、バットをかついでトボトボと帰っていった。

7. 病室から

63 病室の一日 学校 田舎の小学校 がっこ一つ がっこ , っへ しノ、と よみかたをならって かきかたをならって うたをうたって きゅうしよくをたべて えをかいて あそんで ともだちができて ジョン ・バーニンガム作・谷川俊太郎訳

8. 病室から

あの子は迷惑ばっかりかけて、こんなこと言ったらそれでも親かと思われるかもしれませ んけど、いらん子です。いろいろしてやらんといけんとは思っても手がまわらんです」 そしてポシェットは作ってもらえなかった。 ところがある日、彼はポシェットにビニール袋を折りたたんで入れてるんですね。「ど うした ? 」とたすねると、あのラッキョ畑の看護婦さんが縫ってくれたんですね。すごい なって思いました。ばくは縫ってあげることはできなかった。ソフトクリームは持ってい ったけどね ( 笑い ) 。 医療の場の″やさしさ〃ってこと 「やさしゅうにしてあげてな」とラッキョ畑のお かあさんが言ったときに、それに弁解しないで、弁解のことばを飲みこんで、「うん、そ うだなあ」って思いなおしたこと、それがすごく大切な " やさしさ , だと思うんですね。 ばくの病院の横に小学校と中学校が建っていて、そのむこうに県庁や裁判所があって、 言ほかに生命保険会社や新聞社があって、どれもコンクリートの建てものなんです。でも二 の 十四時間あかりをつけているのは、病院だけなんですね。病院というコンクリートの建て 床ものは、「助けて ! 」という人の声に答えられるよう、 いつも起きて動いてるんですね。 臨 夜中でも灯がともっているということがあるんだけど、ばくは救急処置が終わって自転車 をこいで帰りながら、そんな病院を夜中にふりかえってみるときに、「コンクリートの

9. 病室から

「いくそー」と新品のバットでノックをする者があり、ふたつのグロープを交代で使いな がら球を追っかける者があった。風が邪魔して、ポールはあちこちに行った。風で落ちた 青い柿の実が校庭にもころがり、ポールのかわりに柿の実を使ったりした。ばくらは強く なる風のなかで、大きな声でののしり合いごっこをしたり、大きな声で笑ったりした。声 は風に吹き飛ばされ、お互いに聞こえなかった。ドラムカンをたたいたり、校庭に並べて 置いてあった円形の大きなコンクリートの筒のなかにはいったりして、汽車ごっこのよう なことをしていた。だれの束縛も受けず、近づく台風の風のなかで遊んでいたことが、自 由の原型のように思い出される。 一〇キロ離れたところにある鳥取市に引っ越した。 ばくは小学校四年になったときに、 そのころ鳥取へ通じる国道はジャリ道で、つつみの横を登ったり下ったり、曲がったりし てやっと着くという感じだった。小学生に一〇キロは遠く感じられた。転校するというこ とがクラスのみんなに発表になり、クラスでお別れ会をしたことや、荷物を積んだトラッ クが出ていったあと長屋の人たちがアイスモナカを持ってきてくれたこと、そして車が出 発するとき、牛で田をすいていた井上君が涙を流して見送ってくれたことは、暖かい思い の出としてある。 病

10. 病室から

五月の日曜日の午後、ばくは久しぶりに「自転車道」を走った。自転車でなく車で。も ちろんアスファルトで舗装されている。まわりの畑にはタバコやトウモロコシ、それにイ チゴが植えてあった。山のふもとの集落に行った。先生の住んでいた村のひとつむこ うの村だった。細い道を曲がりながらあがると、さんの家があった。「まあ、先生、わ ざわざ」と言ってさんの兄夫婦が出てきた。大きな仏壇があって線香をあげた。亡くな ってから一か月が経っていたので、家族の人たちの表情は落ち着いていた。 「先生もこのあたりで大きゅうなられたんでしよ。妹は山のふもとの小学校に通っとっ たんですが、病気が始まって、病院を転々としましたからねえ。勉強は好きだったし、わ しらあよりはようできたんですけどね。学校の友だちも、もうほとんどおらんし、妹が家 におるのは、ほんのちょっとの間だけでした」と兄さんは言う。 さんは四十四歳で亡くなった。「家に帰りたい」とよく言っていた。週刊誌のクイズ が好きで、ときどきいっしょに問題を考えさせられた。よく当たって、もらった賞金でお 菓子を買ってはみんなにプレゼントしたりした。病状が悪化し動けなくなると、ほとんど しゃべらなくなった。家族の人に励まされ、「がんばる」と言えたころもあったが、精根 つきはててふたたびしゃべれなくなった。そして聞こえないくらいの小さな声で、「先生、 もういい。死なせて」と言った。 さんの集落も山も「自転車道」も、そして、そこを横切る線路や、線路にそって白