「患者は、そんな説教垂れるとこは避けて、よその病院へ行って中絶してもらうだけね。そし て僕は、自分でこう一一一一口うのもおかしいんだけど、意外と手先が器用で手術がうまいんですよ。 だから、他の医者へ行くより、多分僕が手術をする方が患者のためなんだ」 「医学部へ行くのはわかりますけど、婦人科をやれば、当然、そういう手術をしなければなら ないこともわかっていたわけでしよう」 宗近神父が言った。 「それでなぜ、産婦人科をやったか、というご質問でしよう。それは僕がしよってたからなん ですよ。指先が器用で勘がいい」 貞春は顔をしかめながら言った。 「或る時、或る人物が言ったんですよ。普通の手術は目で見てやる。しかし中絶は手さぐりだ。 これは特別、勘がよくて、指がしなやかで、運動神経のある奴にしかできん。それなら僕に向 いてると田った」 ことも亜いことも、あまりしらじらしく、面と 貞春の会話はいつもこのタイプである。いい 向かって一言うものだから、徭子にせよ誰にせよ、そこにいる人物は半分くらいしか信じない ねら そこが貞春の狙いでもあった。 「それに、こういうことは一度、神父さんに伺ってみたかったけれど、かりに中絶が非常に悪 いことだとする。僕は患者に、できたら生め、と一応は言うんですよ。でも殆んどの人はやめ
「そっちの方はわからんのですよ。そういう場合の倫理は、多分、妊娠中期でも何でも中絶し てやることなんでしようけど、私はよくわからんのです。しかし、あまり独特の倫理観なんか が表沙汰になると、これまた同業者からはじき出されて、中絶する資格を奪われて、従って、 病院建設の費用の借金を返せなくなりますからね。私は表面だけは、ずっと世間の良識に従っ て医者の顔してるんです。本当の良識じゃありませんよ。しかし神父さんの世界じゃ、こうい う場合、どうなるんですか。中絶は殺人だから認めない 。しかし姉弟の間で子供は現に生まれ てしまった。こりや、どうされるんです」 「僕は教会法の専門家じゃないから、よくわからないけど、姉弟を夫婦として結婚させること はできんでしようね。しかし、父親を明かさないで育てればいい。或いは、そういう事情を知 った村の人たちの眼から逃れたかったら、子供を養子に出せよ、 「そうですね。僕もその時、思ったですよ。こういう家に育つより、養子に出された方がいい と思いましたよ。そんなこと一一 = ロうと、又、反対する人がいるから、何も言いませんがね。自分 を生んだ親や環境から切り離されたいと思っている子も、僅かながらこの世にいることは確実 でね。 しかし、今日は楽しかったな。筧さんの家で神父さんとこうして喋っていると、僕はまこと のに自由な気がするね。日本国憲法も、安つばい道徳観も、この特別な空間には及んで来ないと 背いう感じの爽快さですよ。又時々お会いしたいもんですな」 馬「僕もです。いい勉強になりました」 西風が又、窓の外で吠えた。
玖美子自身、これほど納得して、妊娠の継続の事実を受け入れているのだから、ことはやや ついこの間も、英国でまさに似たようなケースが裁判沙 こしくならないだろうと思うのだが、 汰になった。サリー州に住むフローレンス・シュリアガという二十九歳になる女が、ロンドン のマンストン病院で中絶手術を受けたが、それは失敗していて、七カ月後に男児を出産した。 その子は既に六歳になっているのだが、 この母親は、「あの手術が成功していたら、この子は この世に存在していなかったはずだ。手術が失敗したために職も失い、結婚の夢も破れた」と いうのが、その理由である。それに対してロンドンの高等裁判所は、「国家が中絶を認める法 律を制定した以上、この手術の失敗で、精神的、肉体的打撃をこうむった女性を保護しないと いう法はない」という理由で、中絶手術に失敗した医師に対して、この未婚の母に一万八千七 百ポンド ( 約八百四十五万円 ) の損害賠償金の支払いを命じたのである。 貞春が与えられているデーターはこれだけで、それでは何も言いようがないが、恐らく医師 側も黙っているとは思われない。子宮の奇形はよくあることだし、それを全部医師側の責任に されてはたまったものではない。 そうでなくても、最近の患者の横暴さは目にあまる時がある、と貞春は思っている。医者の 中にも、もちろん、技術、人格共にい、 し加減なのがいないわけではないだろうが、この頃では、 の 医者の中にも注射一本うつ度に患者に説明して、それで「納得してもらったら」うつ、という 地のがけっこういるのだ。それというのも、あとで患者に文句を言われるのが怖いのである。 選貞春は説明はするが、許可は求めない。 この未婚の母にしても、六歳になった息子を前に 「あの手術が成功していたら、この子はこの世にいないし、そうすれば、自分の運もひらけた
142 六カ月児は無理だけど、七カ月児は、生まれたらちゃんと、フギャフギャ泣く児もいるんだよ。 たす 前はね、僕もそういう中絶をやったよ。それでもなお、生きて生まれて来たら救けますよ、と いう条件づきで、中絶を引き受けるんだよ。インキュペーターという哺育器あるでしよう。ち ゃんとあれを温めておくのよ」 「失礼だけど、あんたは、子供さん生まれたら、今、育てられないの ? 寮母さんしてるなら 会社に訳を話して勤めさせてもらったら : : : 」 「半年ほど前から、マーケットの中の、食料品屋の店を預かってるんです」 「ムフ日は ? 」 「ここのところ、マーケットを改装するんで二週間ほど休みになってるんです」 「じゃ、育てられないことないじゃないか。赤ん坊、店へ持ってって、隅っこの方へ置いとき ゃいいよ。それだって育つよ」 「でも、そんなことできないです」 「皆に言われて、評判になりますから」 「だったら、養子に出せばいし 。子供の欲しい人は今、いくらでもいるんだから。子供一人に、 親十人くらいの希望者がいるんだよ」 「先生のとこにも、欲しい人いますか ? 」 「さあ、別に、リスト作ってあるわけじゃないけど、あんたが希望なら、探してあげるよ」 あった
我々産婦人科医のおかげだって」 「誰が言ったの ? 」 筧徭子が尋ねた。 「いや、我々の世界のうんと偉い人が日母 ( 日本母性保護医協会 ) の大会でそういう意味のこ とを言ったと噂に聞いたんですがね」 って一一一一口ってるのよ」 「貞春さんには、私時々、堕胎はやめなさい、 筧徭子は言った。 「ありがたいご配慮で」 貞春は笑った。 ・も、つ 「だけど、中絶しなきや、儲からない」 「そんなに儲けなくていいでしよ。もう、病院建てる時の借金も返した、って言ったじゃない の。妻子を養えればそれでいいでしよう」 「それはそうだけど : ・・ : 」 貞春はソフアの上にあぐらをかきながら言った。 「だけど、僕が、かりにヤソになってですよ。この神父さんとこの教会から、いらなくなった の十字架一本、タダで貰って来て、うちの病院の屋根の上に、避雷針代りにおっ立ててですよ、 背患者が来たら、《あれをごらん、私は神を恐れているから、中絶は絶対にしない》と言ったっ 馬て、事は何も解決しないんだよ」 貞春は、ハイボールの最初の一ばいで、精神の動きがなめらかになったように感じながら言
うのは、僕は不気味だよ」 「婦人科のドクターでいられましたね」 宗近神父は、貞春に尋ねた。 「それで筧さんにいつもやられるんですよ。中絶もやりますしね。今日も二人やって来た」 「中絶というのは、今までに、日本でどれくらい行われて来たもんですか」 さわや 宗近神父は、今まで通りの、爽かな声で尋ねた。その間に、徭子が、二人にウイスキーを注 いだ。好みは知っているので、神父のグラスには水を割り、貞春のためにはソーダを注いだ。 「今、うろ覚えですけどね。昭和二十三年くらいに、優生保護法ができたと思うんです。それ から何年になります ? 」 「まあ三十年 : ・・ : 」 「年間、百万とすると三千万になるな」 貞春は計算した。 「統計上、もっと少ない年もありますけど、闇もないわけじゃないでしようからね。それと昭 和二十五年頃に堕胎された子がもしまともに生まれているとすると、もう生殖年齢に達してい る。だから多く見積ると四千万、いや三千五百万 : : : 」 「そうすると、大韓民国一国分くらいの人口を、抹殺して来たわけだ」 神父が言った。 「大変な数字ね」 「戦後最大の産業だったという人がいるくらいですよ。今日の日本の繁栄あるは、ひとえに
の 9 7 8 41 671 ろろ 1 7 7 れ た 手 膩Ⅱ IIII IIIIIIIIIIIIIIIIIIII 文ー 夜と風の結婚 午後の微笑 愛 虚構の家 人間の罠 ( - ( 中 ) ( 下 ) 春の飛行 奇蹟 残照に立っ 遠ざかる足音 青春の構図 不在の部屋 ( お ( 下 ) ボクは猫よ 神の汚れた和い ( 下 ) 隹のために愛するか ( 全 ) 「中絶手術は、戦後最大の産業て、 あり、今日の繁栄は、ひとえに産 婦人科医のおかげ」という説も生 まれる中絶天国・日査。その数は 三千五百万、大韓民国一国分くら いの人口を抹殺したことになる・・ 中絶は果して悪か ? 湘南の小さ な産婦人科医院を舞台に展開され るさまざまなドラマを通して真の 生命の尊厳を訴える衝撃の問題作 そ 1 17 著者紹介 曽野綾子 ( その・あやこ ) 昭和 6 ( 1931 ) 年、東京に生れる。聖 心女子大学英文科卒業。 26 年第 15 次『新思潮』同人となり、 28 年同人 の三浦朱門と結婚。 29 年「遠来の 客たち」カ堺川賞候補となり文壇 に登場。才女作家として知られた。 著書には「無名碑」「幸福という名 の不幸」「人間の「虚構の家」 「ある神話の背景」等多数ある。 曽里巖 - 子の本 神の汚れた手 曽野綾子 く上〉 I S B N 4 - 1 6 - 71 ろ 5 1 7 - 2 C 01 9 3 P 4 5 0 E 定価 450 円 ( 本体 437 円 ) 野 子 4 文春文庫 二ごロ 1 写真提供・ "The Medicine-Man" by Ainslie Roberts, from THE FIRST SUNRISE, PubIished by R igdy Publishers, Adel a ide through Orion Press, T0kyo. AD ・粟屋充 文春文庫 450
「市民病院では、何と言われました ? 」 「ええ、三カ月に入ってから行ったんですけど、どこも悪いところはない、順調だって言われ 士した」 「中絶の手術を受けたことは言わなかったんですか ? 」 「それは言いました。でもどこで受けたとは、訊かれもしなかったし、言いもしなかったんで す。そしたらお年寄りの先生が、とにかく、そこへ行ってもう一回診て貰えと言われたんです。 それで、私、行こうと思ったんですけど : : : その時、市民病院の先生に、もう一度中絶するの か、と訊かれたもんですから、私、やめることにしました、と答えておいたんです」 「今、ここですぐ、僕は結果の言い訳をしようとは思いませんけど」 貞春は、新庄玖美子に言った。 「市民病院で言われたことは、まことに正しいと思いますよ。どうしてもっと早く来なかった のかな」 「すみません。私、この近くでパーマネントのお店持ってるもんですから、つい忙しいのと、 それから、悪阻がなおったら、とても健康な気分になって来て、そのうちにお腹の赤ちゃんも 動くようになったでしよう。そうしたら一日延ばしになったんです」 「この間も、或る事情があって、お産の日まで医者にかからなかったという人が、立派に赤ち ゃんを生みましたけどね。それはやつばり無茶なんですよ。血液の検査をしたり、赤ちゃんの 位置も見なきゃならない。明日にでも早速来て下さい」 「明後日でもいいでしよう。火曜日がバーマネントはお休みなんです」
一一 = ロ葉の調子は少しも高圧的ではなかった。 「いいんですよ、僕は買おうと思って来たんじゃない。通りがかりに覗いていただけだから」 貞春はそう言いながら、露路を抜けて、再び漁船の並んでいる岸壁まで女と並んで歩いて来 「申し訳ないけど、僕は、患者さんの顔、覚えないようにしてるんですよ。カルテがあるとば っと思い出すんだけど、あなたが何で来られたか、記憶にないんだな」 貞春は正直に言った。 「よろしいんです。私、中絶して頂きに行ったんです」 「なるほど」 それで明白になったという気分は少しもしなかった。中絶の患者は処 貞春はそう言ったが、 置の後、必ず診察を受けるように言っている。ことに術後一カ月目くらいに生理が来なければ、 そこで、又検査が必要なのである。もちろん、当人が勝手にさばるのもいるが、予後がどんな 経過を辿ったかで、また記憶に残るケースもあるのだが、目の前の女に限り、貞春は手術その ものにも、その後の経過にも全く何の記憶もなかった。 工 「その後、どうですか。あなたは、後から診察を受けに来なかったでしよう。僕はまず一週間 の レ目に来て下さい、と一言うことにしてるんだけど、あなたには言わなかったかな」 ししえ、先生はそうおっしやったんです。でも、私、行かなかったんです」 「以」 , っーレて ? ・」
《努力して、規制を作ったから、今くらいで食いとめられたんだろ》 貞春は無責任に言い 《しかしなあ、僕は、ナチスの気持わかるよ》 と物騒なことを一言った。酒が入ると、こういうことが、うまく言えるようになるので便利な のであった。 《ど , つい , っふ , つにわかるの ? 》 《何でも、社会的な制度として認められれば、人間平気でできるってことさ。ユダヤ人殺すの が人類のため、と言われて、あの当時の連中、そうだ、そうだと思って一生懸命、善意をもっ てやったんだと思うよ。僕が今、日本の人口殖えすぎるとろくなことにならないから、中絶す るのも、社会的意義あり、と思ってやっているのと、同じでしよう。 筧さんに、貞春さんのやってることはいけないのよ、って言われたって、自信を持って平気 なのよ。僕が中絶やらなくたって、患者は僕より下手な医者の所へ行くだけ、だとか、既に生 まれて生存の既得権を持っている家族たちにとって、この赤ん坊が生まれることは、大きな不 都合をもたらすなら仕方ないとかね。理由はいくらでもあらあな。僕、そういう時だけヒュー マニストなのよ。誰に何て言われたって、儲けだけが目的じゃない、骨の髄からのヒューマニ のストだと思ってそうしてるのよ。恐ろしいでしょ》 の貞春は、筧徭子の手紙が、そのような過去の貞春との会話の記憶の上に書かれていることが 未 よくわかるのであった。